第6話 第一章「拳の翌朝」後編
文字は左手で歪み、最後の「迅」が鏡へ逃げかけた。
七瀬が覗き込む。
「字が負傷しています」
「読める」
「期限があるのは評価します」
「旗じゃない」
「記録上は?」
「荷札」
迅は白布を左上腕へ巻いた。右腕は吊られている。結び目を一つ作り、片手で締められず、タマキが反対側を引いた。
「料金」
タマキが言う。
「おまえもか」
「結索代。あとで塩パン」
「半分」
「一個」
「子どもは半分で足りる」
「子どもって誰」
「十四歳」
「年齢は名前じゃない」
そのとき、診療所の入口で歓声が上がった。
歓声は、病院に似合わない。似合わないものほど人を呼ぶ。
広場からついてきた見物人が、迅の腕の白布を見つけたのだ。十人ほどが同じ穴あき布を巻き、二人は撮影端末を高く掲げている。先頭の青年が、溶けかけた氷箱へ手を掛けた。
「俺たちも運ぶ! 空白の旗なら、誰でも入れるんだろ!」
「誰から聞いた」
迅が訊く。
「映像を見た。王がいない旗だ!」
「王がいないのと、説明がいらないのは別だ」
「薬を届けるんだろ。正しいことじゃないか」
青年は青い氷箱を持ち上げた。底から水が垂れる。中身は使用停止になった薬剤で、廃棄記録のため封がしてあった。
「下ろせ」
迅の声が低くなる。
「手伝うって言ってる」
「それは廃棄箱だ」
青年の腕が止まった。
「薬じゃ」
「薬だった。今は証拠だ。落とせば、何が何度まで上がったか分からなくなる」
七瀬が青年の端末と箱のラベルを同じ画角へ入れた。
「午前七時四十一分。箱番号四。持ち上げた人物は、内容を確認していません」
「撮るなよ!」
「患者を撮るより、持ち上げた本人を撮る方が公平です」
「善意だぞ」
「善意は温度を下げません」
青年は箱を戻そうとした。片手で端末を持ったままなので、底が傾く。濡れた布が滑った。
轟が立ち上がるより先に、迅が左足を箱の角へ差し込んだ。
靴の甲で一瞬受ける。冷たさと重さが脛へ走る。右腕を振れない身体は、均衡を取り戻す方法が一つ少ない。迅の上体が廊下側へ傾いた。
白い索が箱の取っ手を捕えた。
澪が左手で索を引き、右足を壁の基部へ当てる。箱は床から五センチの位置で止まった。
「四人。箱の周囲から二歩退く。復唱」
見物人は黙っていた。
澪は索を緩めない。
「聞こえた人だけでいい。二歩退く」
タマキが二歩下がった。七瀬も下がる。青年は顔を赤くしながら、端末を下ろして二歩退いた。周囲がそれを真似た。
轟が箱の下へ両手を差し入れ、水平に戻す。床へ置く直前、欠けた前歯へ舌を当てた。笑うときの癖だが、笑わなかった。
「重い物、善意で軽くならん」
「知らなかっただけだ」
青年が言う。
「なら、知ってから持て」
「俺たちにも何かできる」
「ある」
小さな声がした。
八番室の叔母が、半分閉じた扉の前に立っていた。痩せた手で、少年が折った紙の橋を持っている。顔色は眠っていない人の色だった。
「名前を広めないでください」
見物人の端末が一斉に少し下がる。
「薬を運ぶ子の名前を、ですか」
「うちの子の。病名も、部屋も、顔も。助けてもらうのに隠すのは卑怯だと言われました。でも、治ったあとも、あの子は病人の役を続けるわけじゃない」
七瀬が撮影機のクランクから手を離した。
「この発言は記録していません」
「今、言ったのに?」
「覚えてはいます。公開する記録には入れません」
「それで困らない?」
「困ります」
七瀬は正直に答えた。
「受取人を示せないと、偽物を見分けにくい。寄付も集まりにくい。映像の説得力も落ちます」
「じゃあ」
「困ることと、撮ってよいことは同じではありません」
迅は七瀬を見た。
昨夜の彼女なら、撮影を止めず、公開範囲だけあとで考えたかもしれない。いまはレンズの蓋を閉じ、閉じた時刻を帳面へ書いている。
閉じたことまで記録する。
面倒なやり方だ。だから信用できる。
凱が見物人へ向き直った。
背筋を伸ばすだけで、人の列が整いかける。彼は胸の割れ鐘へ触れ、その手を途中で下ろした。
「俺は――」
命令を出しかけた声だった。
凱は息を継いだ。
「俺から頼む。入口を空けてほしい。手伝う者は、診療所の指示へ名前を書いてくれ。断っても不利益はない」
最後の一文だけ、少し遅れた。
澪が訊く。
「断る場所は?」
凱は入口の外を見た。人垣が塞いでいる。
「……広場側へ戻れる通路を空ける」
「誰が空ける?」
「俺が」
凱は松葉杖を動かした。
「歩くな」
迅が言う。
「では、頼む」
「誰に」
タマキが訊く。
凱は見物人を一人ずつ見た。
「入口の左にいる三人。帰る人が通れる幅を一メートル作ってくれないか」
三人は顔を見合わせた。最初に動いたのは、廃棄箱を持ち上げた青年だった。端末をポケットへ入れ、他の二人と肩を寄せて人の列をずらす。
道が一本できた。
英雄の仕事としては、地味だった。
患者の仕事としては、必要だった。
空いた一メートルを、先ほどの少年が逆向きに走ってきた。朝に旗の名を書いてほしいと言った少年だ。白布はもう腕から外し、丸めてポケットへ突っ込んでいる。代わりに両手で、床を這う融け水へ古新聞を押し当てていた。
「これ、どこへ流せばいい」
「排水溝」
迅が答える。
「どれ」
診療所の入口には、割れた溝が三本あった。一つは下水へ、一つは旧線路へ、一つは八番室の壁際で詰まっている。何かを手伝えと言われたとき、人は仕事そのものより先に、正解が一つあると思いがちだ。
轟が床を二度叩いた。
「左。中央は逆流する」
「理由は?」
タマキが少年より先に訊いた。
「勾配。左が三度、中央が一度。右は死んでる」
「三度って、どうやって分かる」
「水」
轟が顎で示す。融け水へ木片を落とすと、左の溝だけがわずかに速く運んだ。
少年は新聞を丸めて左へ堤を作った。見物人のうち二人が手を貸す。別の一人は、氷箱の布へ札を結び始めた。
《魚市場・午前六時五分》
《酒場・午前六時二十二分》
《採取元不明》
看護師が赤鉛筆で時刻を足す。
善意は温度を下げない。
だが、温度を測る人の手は増やせる。
八番室の扉の下から、紙の橋が滑って出てきた。
叔母が振り返る。
「起きてたの」
返事の代わりに、室内から掠れた声がした。
「空の箱も、帰るの」
廊下の誰も、すぐには答えなかった。
子どもは大人が隠したい場所へ、短い言葉で足を掛ける。
迅はしゃがんだ。右腕を吊った身体では、床の紙を左手で拾うだけでも重心が前へ逃げる。轟が背中へ手を出しかけ、迅が睨んだので、手を壁へ変えた。
橋の「帰り」側の支柱が潰れていた。
迅は左の親指と人差し指で折り目を起こした。指先が思うように合わず、紙は一度さらに曲がる。
「帰す」
扉の向こうへ言った。
「薬を入れてきた箱を?」
「箱も。持った奴も。借りた物も」
「薬は?」
「置いてく」
「一個だけ帰らない」
「そうだ」
「ずるいね」
「薬に言え」
小さく笑う音のあと、咳が続いた。
看護師が扉へ入り、叔母も追う。廊下の人間は、笑ってよかったのか判断できない顔をした。
迅は紙の橋を扉の脇へ置いた。支柱はまっすぐではない。だが、立った。
「手伝うって、殴ることじゃないんだな」
廃棄箱を持ち上げた青年が呟く。
「殴る相手がいないと困る?」
七瀬が訊く。
「少し」
「では、氷の時刻を三十秒ごとに記録してください。敵は融解です」
「勝てる?」
「いずれ負けます」
青年は嫌そうな顔をした。
迅は立ち上がる。
「時間相手の仕事は、全部そうだ」
勝つのではなく、必要なところまで負けるのを遅らせる。
それは英雄の説明には向かなかったが、薬の説明には足りた。
看護師が迅へ用紙を差し出した。
「搬送協力者の登録です。氏名、連絡先、負傷歴、役割、辞退時の連絡方法」
「紙が多い」
「腕が一本しか使えない人ほど必要です」
「辞退欄も?」
「あります」
迅は左手でペンを持った。自分の名を書き、役割欄で止まる。
運搬者、と書けばいい。
戦闘、と書くのは馬鹿らしい。
責任者、と書くと、白布の文字と同じになる。
迅は《停止判断》と書いた。
七瀬が横から読む。
「進行判断は空欄です」
「進む奴が決める」
「止めた結果は?」
「俺が持つ」
「持つ、は記録用語ではありません」
「じゃあ書け」
「あなたの署名です」
迅はしばらく考え、《停止による遅延と損失の説明》と付け足した。左手の字はますます歪んだ。
澪はそれを読んでから、自分の帳面の帰還欄へ小さな丸を一つ書いた。
「出発前から帰還欄を書くのか」
「空欄だと、帰ることを忘れる」
「丸は何だ」
「帰る人の席」
「まだ誰も座ってない」
「だから残す」
迅は白布の結び目を見た。
旗ではない。
役職でもない。
期限が来れば外せる、ただの荷札だ。
そう思うと、少しだけ巻いていられた。
澪が靴先を三度鳴らした。
「七人。搬送準備、六日。帰還まで責任。復唱」
「俺は隊員じゃない」
迅が言う。
「復唱できない人は、数に入れない」
「それは脅しだ」
「確認」
凱が先に返した。
「七人。準備六日。帰還まで」
七瀬、轟、タマキ、看護師が続く。
最後に迅が言った。
「帰るまで」
澪はそれを訂正しなかった。
外の氷は、もう半分になっていた。
溶けた水が細い道を作り、診療所の坂を下っていく。