第5話 第一章「拳の翌朝」前編

七月八日 午前七時十六分

 英雄は、朝の七時を過ぎると粗大ごみになる。

 竜胆迅がそう結論したのは、黒雨記念広場の隅で、自分の顔が印刷された紙を四枚拾ったときだった。

 一枚目には《王を殴った少年》とある。

 二枚目には《新王》とある。

 三枚目には《逃げ足の救世主》とある。

 四枚目は顔だけで、文字を書く場所を空けてあった。たぶん握手会か葬式に使うのだろう。人間は用途の分からない余白を見ると、だいたい商売を始める。

 迅は四枚を重ね、左手で二つに折った。

「その腕で紙を破くのは、医学への挑発だと思います」

 火群七瀬が言った。

「左は無罪だ」

「右腕をかばって肩を捻っています。共犯です」

 迅の右腕は、肘から手首まで白い固定材に包まれ、胸の前で吊られていた。夜明け前、救護所から逃げたあと、七瀬と救護員二人と、なぜか犬飼豪にまで追い回され、診療所へ戻された。骨片を戻し、ずれた手根部を細い固定針で留める処置は終わっている。麻酔の残りが指先を遠い他人のものにしていた。

 医師は三週間、殴るなと言った。

 迅は「右で」と確認し、医師は包帯用の鋏を握った。

 交渉は成立しなかった。

 七瀬も左肩へ新しい吊り帯を巻いている。銅色の短い髪はまだ湿り、左の細い編み込みには黄色いフィルム片が結ばれていた。右手の撮影機は腰の位置に下げられ、レンズは蓋をされたままだ。

「撮らないのか」

「午前七時十二分から十七分まで、広場の片づけを記録中です」

「蓋が閉まってる」

「音声です。あなたが自分の顔を破いた音も入りました」

「編集しろ」

「依頼理由を」

「顔が悪い」

「原資料と一致しています」

 七瀬は右中指でクランクを半回転だけ戻した。笑う前の癖だが、口元は水平のままだった。

 昨夜、王環駅の決闘台で獅堂凱が退いた。

 白冠連〈ホワイト・クラウン〉の大誓は崩れ、広場からは王座が運び出され、凱の命令で動いていた配給、警備、発電、診療の担当者たちは、朝になってから自分の判断で鍵を持つことになった。

 王がいなくなれば自由になる。

 自由になった人間が最初にすることは、鍵束の持ち主を探すことだった。

 広場の東では、白い外套の若者三人が倉庫の鍵を誰へ渡すかで言い争っている。西では、配給所の女たちが米袋を数えていた。中央では、昨夜の映像を見た見物人が、中央に穴を開けた白布を真似して腕へ巻き、迅の方へ押し寄せてくる。

「迅さん、これに名前を」

 十歳くらいの少年が、白い布切れと黒いペンを差し出した。

「名前はもうあるだろ」

「旗の名前」

「旗じゃない」

「でも、みんな《空白の旗〈ブランク〉》って」

 呼び名は、持ち主より足が速い。

 呼び名に追いつくように、広場の東から鍵束を持った女が走ってきた。

「新王、倉庫の鍵を決めて」

「その呼び方をやめろ」

「じゃあ、迅。米倉庫の東鍵を誰へ渡す。前の電力係は持ったまま消えた。配給係は二人とも、自分が正しいって」

 女の後ろでは、白い外套の若者二人が鍵の輪を引っ張り合っている。ひとつの金属へ、三人分の正義がぶら下がっていた。

「俺に訊くな」

 迅は言った。

「昨夜、王を降ろした」

「降ろしただけだ」

「なら、降ろした後を決めて」

 断れば自由になると思っていた。

 実際には、決めない人間の前へ、決めてほしい人間が列を作る。

 迅は鍵束を見た。

「倉庫の在庫は」

「米三十二袋、粉乳二箱、乾燥豆――」

「誰が数えた」

「私と配給係」

「二人で開けろ。鍵は一人へ渡すな。今日の正午まで。出した物と時刻を紙へ書け」

「それ、命令?」

 女が訊く。

 迅は舌打ちした。

「案だ。嫌なら別を出せ」

 配給係の一人が言う。

「正午の後は」

「正午に残った人間が決める。俺の名を札へ書くな」

「責任は?」

「この案を出した欄だけ、竜胆迅。開けた欄は、開けた人間」

 女は鍵束を二つへ分けた。一本ずつでは足りないため、東鍵は女、西鍵は配給係、外側の閂は広場の見張りが持つことになった。

「面倒」

 タマキが横から言う。

「王なら一人で済むのに」

「一人が寝たら、全員が腹を減らす」

 迅は答えた。

 白布の少年が、まだペンを持っている。

「今の言葉、旗に書く?」

「書くな」

「長いしね」

「そこじゃない」

 少年は代わりに、自分の布へ《正午まで》と書いた。

 旗より先に、期限ができた。

 昨夜、七瀬が中央を丸く切り抜いた白布を掲げた。王を置かないための空席。誰の命令もまだ書かれていない余白。説明したのはそれだけだ。それが夜明けまでに旗団の名前になり、朝には迅の顔が印刷され、昼にはたぶん入団料が発生する。

「みんなって誰」

 少年の背後から、環玉樹が顔を出した。

 緑のニット帽。胸より大きな配達用鉄箱。左右で色の違う靴紐。十四歳の小さな身体で人垣の隙間を抜け、少年の白布をつまむ。

「その布、どこで買った」

「駅前。二百円」

「原価二十円。穴を開けて百八十円。英雄って便利」

「タマキ、おまえの料金表にも英雄割増があるだろ」

「危険割増。似てるけど、危険は本当にある」

 タマキは少年へ布を返し、迅へ向き直った。

「診療所から呼び出し。急ぎ」

「すぐって何分」

「それ、僕が聞く方」

「おまえなら答えを持ってくる」

「七分。七瀬さんは三脚なし。迅は走らない。医者の指示」

「誰の指示だ」

「医者。名前も聞いた。診療所の台帳にある」

 迅は折った紙を近くの分別箱へ入れた。

 七瀬が撮影機の蓋を開ける。

「公開しますか」

「何を」

「英雄が医師の指示に従う珍しい映像を」

「まだ従ってない」

「では、証拠を作りましょう」

 零番街〈ノー・アドレス〉の診療所は、廃線車両を二両つなぎ、上へコンテナを三段積んだ建物だった。受付は元車掌室、診察室は座席を外した客室、手術室だけは隣の倉庫へ増築されている。

 正式な住所はない。

 救急搬送票には、王環駅東高架下、旧貨物線の三本目、赤い給水塔の裏、と書く。それでも初めて来る救急車は、だいたい四本目へ入る。

 迅たちが着くと、入口の前に氷が並べられていた。

 魚市場から借りた青い箱。酒場の丸い氷。子どもがかき集めた霜。どれも布で包まれ、診療所の壁沿いへ積まれている。夏の朝日を受け、布の下から細い水が流れていた。

 伏見轟が冷蔵室の扉を外していた。

 身長百九十八センチの身体が、狭い通路を半分塞ぐ。剃った頭、橙色の工事ベスト、鉄線を巻いた拳。壁を二度叩き、返った音へ耳を寄せた。

「断熱材、濡れてる」

「冷蔵庫が壊れたのか」

 迅が訊く。

「冷蔵庫は働きたがってる。電気が来ない」

「人間みたいに言うな」

「機械の方が理由は素直だ。分電盤の鍵が三つに分かれた。白冠の電力係、診療所、行政。昨夜から一つ足りん」

「どれだ」

「電力係。担当が王政復古派と改革派に割れた」

「鍵一本で病人を人質にした?」

 七瀬の声が少し硬くなる。

「鍵は人質を取らん。持ってる奴が取る」

 轟は冷蔵室の床へ膝をつき、濡れた断熱材を指で押した。

「この床、今日中に剥がす。中の薬は?」

 診療所の看護師が、冷蔵記録紙を持ってきた。寝不足で目が赤い。白衣の袖へ赤鉛筆が一本差してある。

「昨夜二時十三分に八度を越えました。使用できないものを隔離しています。通常薬は近隣から融通できます。ただ、八番室の患者へ使う免疫製剤がありません」

「患者は」

「十二歳。高熱が四日。今は点滴と冷却で安定させていますが、検査値が上がっています。中央保冷庫に一箱ある。搬出は七月十五日の朝、検査印が揃い次第です」

「一週間?」

 タマキが鉄箱の留め具を鳴らした。

「今すぐ出せないの」

「試験中の製剤です。市の医療管理印が必要で、保冷庫側は無印の零番街へ直接渡せないと言っています。診療所の登録更新は、昨夜の統旗式で止まりました」

 七瀬が時刻を書き留める。

「薬はある。患者もいる。間に印鑑が三つ」

「道も三つです」

 背後から、低い腹声がした。

 迅が振り向く。

 少女が入口に立っていた。

 十六歳。灰緑色の短髪。右袖だけ切れた紺の救難上着の内側に橙色の布が見える。肩から白い救助索を掛け、胸には三本の真鍮笛。重要な器具は左側へ寄せられ、左右対称ではない。

 靴先が、床を三度鳴らした。

「七人。患者を除く。入口一、窓二、上部脱出口一。復唱」

「誰に言ってる」

 迅が訊いた。

「聞こえた人」

「七人。入口一、窓二、上に一」

 タマキが即座に返す。

 少女は一度うなずいた。

「風祭澪。白冠救難笛隊。今朝までは隊長。昼からは不明」

「役職が半日で腐る街だな」

「人が腐るよりまし」

 澪は迅の右腕を見た。哀れむでもなく、使える時間を計るような目だった。

「竜胆迅。患者まで薬を運べる?」

「薬だけなら、誰かが運ぶ」

「誰」

 タマキが言う。

 迅はタマキを見た。

「言うと思った」

「聞くと思ってた」

 澪は腰の帳面を開いた。頁の左半分に《到達》、右半分に《帰還》と印字されている。到達欄には日付、人数、対象。帰還欄には戻った人数、時刻、負傷、行方不明。

 迅は右側の空白が、左側より多いことに気づいた。

「中央保冷庫から八番室まで、最短二・六キロ。高低差百十二メートル。地上路は白冠残党の検問が四つ。屋根路は帰りに吊り橋を上げられる。旧配管路は九時に放水弁が開く」

「なら九時前に通る」

「搬出印が下りるのが八時十五分。箱の安全域は四十七分。着くだけなら足りる」

 澪は頁の右側を指で叩いた。

「帰れない」

「薬を置いて身軽になれば」

「置いたあと、検問を閉じられる。患者側へ治安隊が入る。運んだ者を拘束する。道を使った住民が報復される。救助は到着で終わらない」

「患者は帰らない」

「救助者は帰る」

「帰らなくてもいい奴を選ぶ」

 言ってから、迅は自分の声が思ったより低いと気づいた。

 澪の指が、三本の笛のうち一番小さいものへ触れた。吹かない。

「それを選ぶのは、誰」

「本人」

「帰れない理由まで説明してから?」

「……そうだ」

「なら、説明できる道が必要」

 迅は返事をしなかった。

 診療所の奥から、乾いた咳が二つ聞こえた。

 八番室の少年は顔を見せなかった。開いた扉の隙間に、薄い腕と、ベッド脇へ吊った紙の橋だけが見えた。新聞紙を細く折り、支柱を四本立てた橋。片側には「行き」、反対側には「帰り」と鉛筆で書かれている。

 迅が見ていると、少年の叔母が扉を半分閉めた。

 七瀬はレンズを下げた。

「撮影許可は取っていません」

 誰に言ったのかは分からない。自分へか、迅へか、廊下に集まった見物人へか。

 凱が来たのは、その直後だった。

 白い長外套の裾は自分で短く切られ、左膝には黒い固定具。松葉杖を右手に持ち、割れた青銅鐘を胸へ下げている。広場から診療所まで歩いてきたらしく、銀白に染めた髪の根元から黒が濡れていた。

「歩くなと言われただろ」

 迅が言う。

「おまえにだけは言われたくない」

「俺は走ってない」

「だから歩いたのか」

「出口があった」

「同じ言い訳を二度使うな」

 凱は看護師へ頭を下げた。王だった頃の癖で、周囲が一歩下がる。本人もそれに気づき、松葉杖の位置をずらして通路を空けた。

「電力鍵の所在を確認している。白冠の名で命じれば、一時間以内に戻せる」

「白冠の名で?」

 七瀬が訊く。

「元白冠の連絡網で、だ」

「命令ですか」

 凱は一拍置いた。

「依頼する」

 澪が凱を見る。

「依頼は、断られたら次を用意する。ありますか」

「ない」

「では命令と同じです」

 凱の眉がわずかに動いた。

 迅は、面白くなりそうだと思った。面白いことは、たいてい患者にとって迷惑だ。

「鍵を戻せば、今ある薬は助かる」

 凱が言う。

「八番室の薬は別だ」

「中央保冷庫から運ぶ。俺が旧部下へ通行を命じる」

「命令が効くか?」

 迅が訊いた。

 凱の視線が止まる。

 昨夜までなら、質問ではなかった。

 白王の命令は、返事より先に人を動かした。今朝は違う。白冠は分裂し、凱に従う者、憎む者、王へ戻したい者、自分の街区を守る者が、同じ白い外套を着ている。

「確認する」

「何日で」

「今日中」

「薬は十五日」

「それまでに道を開く」

 凱は断定した。

 澪が帳面を閉じる。

「開くだけでは不足。帰路を記録する。区間ごとの責任者を決める。変更時刻を残す。薬の受取人は公開しない」

「なぜ公開しない」

「病人は旗の証人ではない」

 七瀬が答えた。

「公開しなければ、偽搬送を止められない」

「公開すれば、八番室へ人が集まる」

「なら、公開範囲を決める」

 凱は七瀬を見た。

「誰が」

「撮る私、治療する診療所、運ばれる本人。最低三者」

「迅は」

「運ぶと決めたら加わります」

「まだ決めてない」

 迅が言う。

 全員の視線が集まった。

 それが嫌で、迅は八番室の紙の橋を見た。

 行きと帰り。

 十二歳の患者でも、二つ必要だと知っている。

「俺は右が使えない。凱は歩けない。七瀬は肩が上がらない。轟は扉を外してる。タマキは学校」

「今日は夏休み前の補習」

 タマキが訂正した。

「学校じゃないか」

「欠席届を運べば仕事になる」

「なら行け」

「誰が薬を運ぶの」

「誰か」

「誰」

 タマキは同じ言葉を、声量も変えずに繰り返した。

 迅は答えを持っていなかった。

 答えを持たない人間ほど、「誰か」という便利な名前を使う。

 診療所の外で、氷が崩れる音がした。

 布に包まれた角氷の山から、一つが滑り落ち、舗装の割れ目へ転がる。朝日を受けて透明になりながら、細くなっていく。

 迅は左足で止めた。

 冷たい水が、靴底の外側へ染みた。

「七月十五日、八時十五分」

 迅は言った。

 澪が帳面を開く。

「責任範囲」

「保冷庫から八番室。薬と、運んだ奴が戻るまで」

「指揮者」

「決めない」

「それでは受けない」

「区間ごとに決める」

「全体が崩れたとき」

「俺が止める」

 凱が口を開きかけた。

 迅は先に続ける。

「止めるだけだ。進める命令は出さない」

「なぜ」

 澪が問う。

「俺が進めと言ったら、帰れない奴が出ても進む」

「止める判断でも、患者は危険になる」

「分かってる」

「分かった証拠は」

「ない」

 迅は右親指を動かそうとした。固定材の中で、赤い七結びへ触れない。

 代わりに左手で、脇へ挟んでいた白布を取り出した。

 昨夜、中央に穴を開けた布。濡れ、泥が付き、端が裂けている。旗にするには汚れすぎ、包帯にするには大きすぎる。

 迅は端から細い一片を裂こうとした。

 片手ではうまくいかない。

 轟が無言で布を受け取り、指二本で真っ直ぐ裂いた。幅五センチ、長さ四十センチ。切断面が毛羽立つ。

「工賃」

 轟が言った。

「高いか」

「飯一回」

「借りだ」

「借りは柱になる。忘れるな」

 迅は布へ黒いペンで書いた。

《薬品搬送/七月十五日正午まで/責任者・竜胆迅》