第4話 序章「王を殴れ」第4節

 拳は、当たる前がいちばん重い。

 骨を砕く力ではない。

 殴ると決めた人間が、それまで捨てずに持ってきた理由の重さだ。

 獅堂凱の右拳には、二年ぶんの道があった。

 配給所へ向かった道。

 抗争の夜に巡回した道。

 名前を呼ばれ、先頭を歩いた道。

 倒れた人間の横で立ち止まり、それでも次の場所へ進んだ道。

 白王、と唱える声が、すべての距離を一本へ束ねる。

 迅はそれを見た。

 拳だけを見れば、避けられない。

 肩だけを見れば、受けられない。

 だが人間は拳より先に、行き先を決める。

 凱の行き先は迅ではなかった。

 背後の鎧板を、閉じたままにすることだった。

 右拳が雨を割る。

 空気が一枚、白く剥がれた。

 迅は左足を軸にし、身体を横へ倒した。避けたのではない。拳の面へ肩を残し、当たった瞬間だけ重心を抜く。

 衝撃が右の鎖骨から背中へ抜けた。

 靴底が濡れた石を滑る。

 慰霊壇の最上段。鎧板に沿って、迅の身体がちょうど一身分、横へ運ばれた。

 七つ目の結び目が灯った。

 赤い光が手首を一周する。

 広場の雨音が、消えた。

 本当に消えたわけではない。

 迅の身体が七度、聞いた音だけが近くなりすぎた。

 一段目で頬をかすめた拳。

 二段目へ押し込んだ左肘。

 三段目で胸骨を打った肩。

 四段目へ回した投げ。

 五段目の掌底。

 六段目へ落とした腰。

 そして今、鎧板へ向かわせた右拳。

 七つの前進が、迅の骨の内側で同じ方向を向く。

 《七退一還〈セブン・リターン〉》。守るものを背にしたまま先に殴らず、一身分の退路を七度譲る。七つを満たしたときだけ、受け取った運動と意志を、暴力の源〈ソース〉へ返す。

 問題は、源がどこにあるかだった。

 凱の拳か。

 王と呼ぶ声か。

 閉鎖を命じた署名か。

 六センチの鋼板か。

 人は、原因を一人にすると安心する。

 一人なら殴れる。

 一人なら罰せる。

 一人を倒せば、残りは正しかったことにできる。

 迅は、その安心が嫌いだった。

 兄を奪ったものへ拳を返したいと思うたび、兄を奪ったものが一人であってほしいと願っている自分に気づく。

 願いは証拠ではない。

 迅は右拳を握った。

 凱ではなく、鎧板へ向ける。

「そっちか」

 凱が言った。

「全部じゃない」

 迅は答えた。

 拳を打った。

 音は、あとから来た。

 最初に鎧板の中央がへこんだ。次に、留め金が四つ同時に浮いた。鋼の裏を走る固定梁へ、七つの衝撃が時間差なく到達する。低い鐘のような振動が慰霊壁を伝い、刻まれた名前の一つ一つを震わせた。

 それから、地下リングの鉄板を豪が踏んだような轟音がした。

 鎧板が内側へ折れる。

 錆びた蝶番が二つ飛び、雨の中で黒い弧を描いた。奥から古い投影端子と、白いレンズが露出する。

 同時に、迅の右腕で乾いた音が二つ鳴った。

 前腕の中央。

 手首の付け根。

 正しい源へ返せなかった力が、行き場を失って戻った。

 右尺骨が折れ、手根の一部がずれた。

 痛みは鋭くなかった。最初は、手の中へ熱い水を注がれたようだった。次の瞬間、指先の感覚が遠のき、肘から下が自分の身体ではなくなる。

 迅は拳を引けなかった。

 鎧板のくぼみへ右手が残る。

 凱が左手で迅の上腕をつかみ、引き抜いた。

「違ったのか」

「半分」

「半分で鋼板を割るな」

「向こうも六センチで全部を隠すな」

 迅は右腕を胸へ抱えた。

 膝が一度、石へつく。

 観客席から、勝った、という声と、反則だ、という声が同時に上がる。どちらも早すぎる。人は結末を急ぐとき、だいたい途中で考えるのをやめている。

 七瀬が壇の最上段へ上がった。

 左肩を庇いながら、手回し撮影機を三脚へ固定する。工具ベルトから細い検査線を抜き、露出した端子へ差し込んだ。

「通電確認。十九時三十六分四秒。旧式投影端子、外装損壊。内部電圧、基準の七十一パーセント。映像出力は可能。音声は不安定」

 早口ではない。

 急いでいるときほど、七瀬は一語ずつ置く。

 豪が壇の下で保全班を見張っていた。四人とも立っている。椅子へ飛び込んだ一人は鼻血を拭き、豪を睨んでいた。

「その顔で近づくなよ」

 豪が言う。

「どの顔だ」

「正しいことをしてるつもりの顔だ。犬がいちばん噛む」

「おまえに言われたくない」

「俺は金のためって先に言う。親切だろ」

「何の金だ」

「使用料!」

 広場の笑いは小さかった。

 それでも、笑う余地が残っていた。

 七瀬は磁気証言テープ〈トゥルー・リール〉の缶を開けた。中のリールを、両手で持ち上げる。濡らせない。落とせない。左肩の筋が、雨合羽の下で細く震えている。

 施設管理者の老人が、息を切らして最上段へ来た。

「待て。照合鍵が要る」

「お願いします」

「投影するとは言っていない」

「公開誓戦の条件です」

「鋼板を壊したことは、鍵を開けたことにならん」

「はい」

 七瀬は否定しなかった。

「ですから、あなたが開けてください」

 老人は端子を見た。

 折れた鎧板を見た。

 迅の腕を見た。

 最後に、凱を見た。

 凱は投影端子の正面へ立ったままだった。

 白い外套の裾が、破れた鋼板へ触れている。彼がそこにいるだけで、老人は鍵を差せない。七瀬もリールを装着できない。

「陛下」

 通信係が、壇の下から呼んだ。

「勝利条件はまだ成立しておりません。請求者は負傷。ここで停止命令を出せば――」

「出さない」

 凱は言った。

「しかし、鎧板の破壊は」

「媒体を破壊していない。端子を露出させた。条件の文面に違反はない」

「想定外です」

「想定外を違反と呼ぶな」

 明確な声だった。

 だが、凱は動かない。

 動けば何が起きるか、自分がいちばん知っている。

 七瀬がレンズの高さを測った。

「投影距離、最低二・四メートル。獅堂さんが前へ三歩移動するか、右後ろの整備窪みへ半歩入れば、端子前を空けられます。後者が最短です」

 迅は左手で右腕を支えたまま、凱を見上げた。

「聞いたか。前へ行けばいい」

「おまえに言われると腹が立つな」

「便利だろ。誓いも守れる」

 凱は前方を見た。

 三歩先には迅がいる。

 その先には七段の下り階段。さらに広場。進めば投影端子は空く。白冠の大誓も傷つかない。王はまた、問題を前進で解決したことになる。

 誰も、退いたとは言わない。

 だからこそ、凱は胸の割れ鐘へ触れた。

「前へ避ければ、俺は場所を譲ったことにならない」

 通信係が息を呑む。

「陛下」

「これは俺が塞いだ場所だ」

 凱は言った。

「開くなら、俺が退く」

 白王、と誰かが叫んだ。

 止めるための声だった。

 白王は退かない。

 白王は膝をつかない。

 白王は背を向けない。

 信頼は、ときどき鎖より強い。

 鎖は切れば怒らないが、信頼は切れた側からこちらを責める。

 凱は右足を斜め後ろへ半歩置いた。

 破れた鎧板の右側、古い整備窪みへ身体が入る。七瀬が端子の正面へ立てる幅が、初めて空いた。

 たった半歩だった。

 その半歩へ、二年ぶんの前進が戻ってきた。

 白い道が、足元から逆向きに割れる。

 最初の反証〈リコイル〉は音だった。

 過去の足音が一度に鳴る。石畳。木橋。配給所の板床。血で濡れた路地。歓声の中の行進。誰かを背負って上った階段。

 数千歩が、凱の左膝を内側から踏み抜いた。

 膝が落ちる。

 凱は落とさなかった。

 右脚へ全体重を移し、歯を食いしばる。次に胸へ衝撃が返る。肋骨の隙間を冷たい杭が通り、割れ鐘がひびの奥まで鳴った。肩、腰、足首。前へ出るたび置き去りにした痛みが、順番を守らず帰ってくる。

 口の端から血が落ちた。

 白い外套の背で、銀の刺繍が一列ずつ暗くなる。

 白冠の旗が三本、下がった。

「裏切った」

 若い旗手が言った。

 隣の旗手が、その腕をつかむ。

「違う」

「退いたぞ!」

「見れば分かる!」

「じゃあ何が違う!」

 答えは出なかった。

 凱自身にも、まだない。

 信じていた者が去る足音がした。十人。二十人。白い雨具が広場の外へ流れていく。

 残る者もいた。

 残ったから理解したわけではない。動けなかった者、配給札を握っている者、怒りながらも続きを見たい者。信頼が壊れるとき、人は同じ方向へ倒れない。

 凱の身体が傾いた。

 迅は左手で白い外套の襟をつかんだ。

「触るな」

「倒れたら画面に入る」

「支えているように見える」

「嫌なら立て」

「立っている」

「半分な」

「おまえも右腕が半分だ」

「数え方が雑だぞ」

「今は余裕がない」

 凱は右足だけで立ち直った。

 迅の手を払いはしなかった。

 施設管理者が鍵を出した。

 古い真鍮の鍵だった。電子認証が死んだときのため、十二年前から同じ形で残されている。老人は端子の下へ膝をつき、鍵穴へ差し込んだ。

「施設鍵、開錠」

 七瀬が記録する。

 白冠通信係が自分の認証札を端子へ当てた。

「現行照合鍵、接続」

 七瀬はリールの封印糸を、全員へ見せた。

「媒体封印、ここで開きます。切断者、火群七瀬。証者、施設管理担当、白冠通信担当、公開誓戦参加者および広場来場者」

 爪の先で糸を切る。

 リールが端子へ入った。

 古い機械が、喉を鳴らすように回り始める。

 最初は砂嵐しか出なかった。

 次に時刻符号。

 十九時十二分四十一秒。

 慰霊壁へ、青い線で描かれた第七水門の地図が浮かぶ。東居住区、北排水路、南低地。映像の端は水に侵され、黒い染みになっていた。

 七瀬が画角を確認する。

 端子脇の小さな操作確認窓へ、次の映像が先に出た。

 担架に載せられた男の顔。目を開けたまま、何かを言っている。

 慰霊壁の大画面は、まだ経路図のまま止まっている。旧式端子には、切替前の数秒だけ操作者へ次画面を見せる確認窓があった。

 音声はまだ出ていない。

 七瀬の手が止まった。

 止めれば、記録を隠したと言われる。

 流せば、死ぬ直前の顔を八千人へ渡す。

 映像は事実だ。

 だからといって、事実が誰のものでもなくなるわけではない。

 七瀬は迅の腰を見た。

「その布、借ります」

「旗じゃないぞ」

「画面を隠します」

「もっと旗じゃないな」

 迅は左手で白布を抜き、投げた。

 右腕が動かないので、布は途中で広がらず、七瀬の頭へ落ちた。

「投擲精度、低下しています」

「腕が折れてる」

「言い訳としては強いですね」

 七瀬は白布を受け取り、施設管理者へ片端を渡した。もう片端を豪が持つ。

「俺?」

「身長が必要です」

「褒めてる?」

「寸法です」

 二人で投影壁の下四割へ布を張る。

 男の顔が白に隠れ、上部の時刻符号と経路図だけが見える。

 七瀬は撮影機へ向かい、はっきり言った。

「十九時四十二分九秒。これ以降、投影映像の下四割を物理的に遮蔽します。理由は、負傷者の顔、個人の最終発言、治療情報を、本人または遺族の同意なく広域公開しないためです。原本は切断しません。現在の撮影も停止しません。遮蔽範囲と解除時刻を記録します」

 広場がざわめいた。

「全部見せろ!」

 西側から声が飛ぶ。

「隠すな!」

 七瀬は公開切替レバーへ手を置き、レンズを見た。

「隠しています」

 ざわめきが止まる。

「私が判断しました。間違っている可能性があります。異議は、私の氏名へ向けてください。記録そのものへ責任を押しつけないでください」

 母なら、どうしただろう。

 七瀬は考えなかった。

 死者へ判断を借りると、生きている自分の責任が軽くなる。

 手回し撮影機のクランクを回しながら、公開切替レバーを倒す。

 経路図が次の記録へ移る。白布に覆われた下四割には、誰の顔も出ない。

 ぎ、ぎ、ぎ。

 古い端子の音声がつながった。

『第七水門、青灯〈ブルー・ランタン〉三班。東居住区の残留確認へ入る。帰還経路、北排水路。水門開放予定、十九時四十分まで』

 若い男の声だった。

 画面上部へ、七人分の出動札が並ぶ。

 水守佐和。

 北野梓。

 朴水蓮。

 梶原恭介。

 瀬尾千鶴。

 神谷澄。

 竜胆岳。

 最後の名が出ても、迅は動かなかった。

 名前は殴れない。

 名前に殴らせることもできない。

 音声が続く。

『東区残留、十二。歩行不能二。搬送開始』

 別の声が重なる。

『水位上昇。第七水門、閉鎖予定を十九時二十四分へ変更』

『確認。前命令は四十分だ』

『変更時刻、十九時十四分三十二秒。受領署名を要求する』

 画面上部に、命令変更票が映った。

 発令欄には水門管制の印。

 現地連絡欄に三つの署名。

 警備経路。

 避難班。

 門前調整。

 一つは水で滲み、姓の最初しか読めない。

 一つは竜胆岳。

 もう一つは、獅堂凱。

 白い雨具の群れが、同時に息を吸った。

「殺したのか!」

 誰かが叫んだ。

「白王が!」

 迅が振り返った。

「早い」

 大声ではない。

 だが、七段の上から落ちた言葉は、近くの数十人へ届いた。

「名前を一個見つけた途端、考えるのをやめるな」

「兄貴だろ!」

「だからだ」

 迅は答えた。

「俺がいちばん、勝手に結末を作るな」

 端子から、さらに音声が流れる。

『変更を受領した。獅堂凱。南低地の予測浸水人数を確認する』

 二年前の凱の声。

 今より少し高い。

『最大四百十二。閉鎖遅延一分につき、堤内逆流率三パーセント上昇』

『青灯三班は住民十二を搬送中だ。二十四分では戻れない』

『経路変更を指示。北排水路を放棄、東梯子口へ』

『東梯子口、歩行不能者は上げられない』

『なら搬送具を捨てろ』

『人間を荷物みたいに言うな』

 岳の声だった。

 迅は初めて目を閉じた。

 ほんの一秒。

 七瀬のクランク音は続く。

『十九時二十一分。青灯三班、北排水路へ復帰を申請。十二名を先行させる。班員七名は最後尾』

『水門閉鎖まで三分』

『三分あれば、十二人は通せる』

『七人は』

『あとで考える』

『あとで考えられない』

『じゃあ今、十二人を置いていけって言え』

 沈黙。

 二年前の凱は、すぐに答えなかった。

 今の凱は、その沈黙を見ている。

『……十二人を先行。閉鎖を二分遅延する。俺が現地責任を取る』

『二分で人間を数えるな、凱』

『二分で門は閉まる、岳』

 音声が途切れた。

 経路図の青い点が、北排水路を進む。

 最初の七つが水門線を越えた。

 残る五つは、歩行不能者を乗せた搬送具とともに速度を落とす。青灯三班の七つが、その後ろへ回る。

 閉鎖時刻、十九時二十六分十九秒。

 五つと七つ、合わせて十二の点が、閉じた線の内側に残った。

 公開記録は命令変更を十九時十七分としていた。だが原記録の変更符号は、十九時十四分三十二秒。初期の開放予定は十九時四十分だった。

 公開されていた要約には、住民五名を「浸水による死亡」、帰還班七名を「現場班の帰還判断遅延」と分け、その判断責任者として竜胆岳の名だけを記してあった。

 画面には、その前に命令が変更され、変更後も二分の遅延が承認され、複数の署名と応答が存在したことが残っている。

 誰か一人の命令ではない。

 だから誰も責任を取らなくていい、という意味でもない。

 映像の上端で、最後の通信記録が点滅した。

『閉鎖後、北排水路通信途絶。青灯三班七名、未帰還』

 その下には、個別の音声索引が並んでいた。

 遺言。

 家族宛て。

 現場報告。

 未送信。

 七瀬は再生針へ手を置いた。

 広場の一部が、続きを求めている。

 迅も見ている。

 凱も見ている。

「ここで止めます」

 七瀬は言った。

「勝手に決めるな!」

 また声が飛んだ。

「はい。勝手に決めました」

 七瀬は再生を停止した。

「公開誓戦の請求対象は、避難命令の変更時刻、経路、署名、未帰還者の氏名です。個人の最終通信は含まれません。原本は封印し直し、遺族と施設管理者の同意手続きを経るまで公開しません」

「証拠を隠すのか!」

「証拠と、見世物を分けます」

 七瀬の左肩が落ちた。

 痛みで撮影機が傾く。

 それでも画面から顔を外さない。

「分け方を誤った場合、責任は私にあります」

 迅が言った。

「一人で持つな」

「今、私が決めました」

「じゃあ、あとで間違ってたら一緒に怒られる」

「なぜです」

「布を貸した」

「貸借契約の責任範囲が広すぎます」

「この街の契約はだいたい雑だ」

 凱が息を吐いた。

 笑ったのではない。

 だが口元から落ちた血が、少しだけ横へ流れた。

 審判団が壇の下で協議を始める。

 凱は片手を上げた。

「協議は不要だ」

 司会の少年が戸惑う。

「しかし、勝利条件の成立範囲を――」

「記録は広場へ投影された。変更時刻と七名の氏名、署名欄が、原本照合の手続きとともに示された。請求者の条件は成立している」

「被請求者ご本人の認定でよろしいですか」

「獅堂凱が認定する」

 主語を置いた。

 司会が鐘を一度鳴らす。

「十九時五十一分二十七秒。公開誓戦、請求者・竜胆迅の勝利」

 歓声は起きなかった。

 勝敗より大きいものを見たとき、人は拍手の使い方を忘れる。

 凱は投影壁を見上げた。

 白布に隠された下四割。

 その上に残る、自分の署名。

「俺が命令変更を発したわけではない」

 誰に向けるでもなく、しかし全員へ届く声で言った。

「変更を受領した。南低地の浸水予測を確認し、閉鎖を二分遅らせる判断をした。青灯七名と、搬送中の住民が戻れない可能性を知っていた」

 白冠の列から、泣く声がした。

「公式要約が、変更前の開放予定と現場班の遅延だけを記したことも知っていた。俺は訂正を要求しなかった」

「なぜだ!」

 遺族席の男が叫んだ。

 凱はすぐに答えなかった。

 三つ数えた。

「当時、訂正すれば水門を巡る報復が起きると判断した。七人が救出された事実と、南低地が沈まなかった事実を先に守った」

「十二人を捨てたのか!」

「結果として、戻る道を閉じた」

「おまえが殺した!」

「俺の判断は、十二人の死から外れない」

 凱は言った。

「だが、俺一人を犯人にして終わるな。発令の根拠、水位予測、伝達の欠落、帰還経路の変更。まだ記録にない部分がある。俺を守るためではない。次に同じ門を閉じる者が、俺を殴れば済むと思わないためだ」

 迅は凱を見た。

 言い訳ではない。

 告白でもない。

 自分の責任を、全体の責任へ薄めず、全体の責任を、自分一人へ集めもしない言葉だった。

 難しい言葉だ。

 難しいままで持つしかないものもある。

「岳の署名は」

 迅が訊いた。

「命令変更への賛成か」

 七瀬が端子の静止画を拡大した。

「署名欄の見出しが水損しています。受領、異議、現地確認のどれかは断定できません」

「声では反対してる」

「はい。ただし、どの時点で何を受領した署名かは、これだけでは確定しません」

「分かった」

 迅は言った。

 分かっていない顔だった。

 分かっていないと分かることは、答えを作るより難しい。

 施設管理者が、リールを停止位置へ戻した。

「原本は保管庫へ返す」

「私が同行します」

 七瀬が言う。

「おまえに所有権はない」

「ありません。だから返却まで記録します」

 老人は凱を見る。

「白冠の封印も要る」

 凱は胸の割れ鐘から、小さな認証片を外した。

 通信係へ渡さず、自分で端子の封印欄へ差す。

「原本を、俺の保管所へ入れるな」

「施設保管庫は中立だと思っているのか」

「思っていない。だから三つ鍵を置く。施設、遺族代表、記録保持者。俺の鍵は不要だ」

「それでは白冠が確認できない」

「複製を受け取る。原本を持つことと、確認する権利は別だ」

 老人はしばらく凱を見た。

「退いたから賢くなったか」

「痛くて余計なことを言えないだけだ」

「それなら、たまには痛め」

「勧めるな」

 壇の下で、救護員が叫んだ。

「負傷者を診せろ! 決闘は終わった!」

「誰に言ってる」

 豪が訊く。

「全員だ!」

「主語がでかい!」

「おまえも右膝を診せろ!」

「聞こえねえ!」

「返事してるだろ!」

 救護員が壇を上がってくる。

 迅の右腕を見るなり、顔をしかめた。

「動かすな」

「動かない」

「自慢するところじゃない。指は」

「二本、感覚が薄い」

「前腕骨折。手首もやってる。すぐ固定する」

 救護員が副木を当てようとすると、迅は左手を上げた。

「一つ残ってる」

「残ってない。終わった」

「俺もそう思う」

 凱が言った。

 右脚だけで、迅の前へ立つ。

 左膝は腫れ始め、外套の下で輪郭が変わっていた。救護員が止めようとする。

「獅堂、おまえは座れ」

「あと一分」

「一分で膝は治らない」

「知っている」

 凱は黒手袋を拾い、胸元へしまった。

 割れ鐘を外す。

 白い外套の留め金も一つ外した。

 王の印を減らしても、体格は小さくならない。ただ、十九歳の少年の顔が少し見える。

「竜胆迅」

「何だ」

「条件はおまえの勝ちだ」

「聞いた」

「だが今日、鎧板を閉じ、保全班を配置し、記録の前へ立ったのは俺だ」

「それも聞いた」

「一発、残っている」

 迅は右腕を見た。

「返品できるか」

「左がある」

「王様が怪我人に殴れって命令するのか」

「命令ではない」

「おまえの頼みは、周りが勝手に命令へする」

 凱は白冠の列を見た。

「従うな」

 残った旗手たちへ言う。

「今から俺が頼むことを、白冠の命令にするな。記録にも、処分理由にも使うな」

 それから迅へ向き直る。

「獅堂凱として頼む」

「何の分だ」

「今日、閉じた板の分だ」

「岳の分じゃないのか」

「それを俺が決めるな」

 迅はしばらく黙った。

 救護員が、早くしろという顔をしている。

 豪は白布を持ったまま、壇の下から言った。

「殴らねえなら俺が――」

「おまえは使用料を請求しろ」

 七瀬が遮る。

「両方やれる!」

「経理が混乱します」

「拳に領収書つけりゃいいだろ!」

 迅は左拳を握った。

 誓痕の光はない。

 七つの前進も、王の道もない。

 ただの拳だった。

「凱」

「何だ」

「歯、食いしばるな。舌を噛む」

「親切だな」

「犬に教わった」

「人に教われ」

 迅は一歩踏み込んだ。

 左の直拳が、凱の頬へ入った。

 派手な音はしない。

 人間一人ぶんの重さが、人間一人へ届く音だった。

 凱の顔が横を向く。

 退かなかった。

 倒れもしない。

 口の内側が切れ、血が一本、顎へ流れた。

「弱いな」

 凱が言った。

「右利きだ」

「言い訳としては弱い」

「じゃあ次は右で」

「治してからにしろ」

「次がある前提か」

「今日の責任は、一発で終わらない」

 迅は拳を開いた。

「そこは分かってる」

 救護員が二人の間へ割って入った。

「はい終わり! 今度こそ終わり! 殴り足りない奴は問診票を殴れ!」

「紙がかわいそうだ」

 豪が言う。

「おまえは黙って座れ!」

 夜が深くなるころ、広場の熱はようやく下がった。

 救護所では、迅の右腕が肘から手首まで固定された。前腕の骨折と、手根部の損傷。今夜中に整復し、手根部は腫れが落ち着き次第、手術する。

「指を動かせ」

 医師が言う。

 迅は小指を少し曲げた。

「全部」

「注文が多い」

「腕は七本ないんだぞ」

「一本でも多い」

「哲学は治療後にしろ」

 隣の寝台では、凱の左膝が厚い固定具に包まれていた。古傷の靱帯を再損傷し、関節内に出血。明朝の検査で手術範囲を決め、数週間は歩行を制限するよう言われている。

「数週間は無理だ」

 凱が言った。

「膝に交渉しろ」

 医師は冷たかった。

「配給所が七つある」

「部下がいる」

「最終確認は俺が」

「今夜、部下へ仕事を渡す練習をしただろ」

 凱は黙った。

 迅が寝台から言う。

「医者、強いな」

「おまえも黙れ」

「二人倒した」

「治療費が高いわけだ」

 救護所の入口で、豪が二度、床を叩いた。

 座る前の癖だった。

 彼の右膝にも新しい固定帯が巻かれている。左肩には冷却布。首の鑑札だけは外していない。

「使用料の話なんだけどよ」

 凱が目を閉じた。

「明日にしろ」

「今日の利息がつく」

「何を要求する」

「まず、地下リング名義の支持表明を取り消せ」

「取り消す」

「訂正文は同じ大きさで貼れ。隅っこに小さく出すな」

「分かった」

「あと壊れた椅子三脚」

「おまえが壊した」

「政治利用の現場で壊れた。経費だ」

「用途は」

「犬舎の棚」

「椅子を棚にするのか」

「犬は会議しねえからな」

 七瀬が救護所へ入ってきた。

 左肩に簡易吊り帯。撮影機は右手で抱えている。原本のリールはもうない。施設管理者と遺族代表の立ち会いで保管庫へ戻し、三つの封印を付けたあとだった。

「犬飼さん。椅子は施設備品です。譲渡には廃棄手続きが必要です」

「じゃあ壊れた板だけ」

「申請書を書いてください」

「犬は字を書かねえ」

「あなたは犬ではありません」

「そこから話がややこしいんだよ」

 七瀬は迅の寝台へ来た。

「右腕、撮影しても?」

「もう回してるだろ」

「今の記録は終了しました。二十三時十八分五秒。公開誓戦および原本返却、撮影終了」

 彼女は自分の声で、きちんと終わらせた。

 レンズの銀文字が消える。

 七瀬は息を吐き、初めて背中を丸めた。

「新しい記録を始めるなら、許可を取ります」

「断る」

「理由は」

「折れた腕は、俺の顔より話がうまい」

「顔も、それほど話しません」

「褒めてるか」

「寸法です」

 朝と同じ答えだった。

 七瀬は工具ベルトから、畳まれた白布を出した。

 投影の光と雨を受け、縁に錆の色がついている。中央には、迅の右拳から落ちた血が、小さく一滴だけ染みていた。

「返します」

「洗ってない」

「記録物なので」

「布まで記録にするな」

「旗にしないなら、布です」

 迅は左手で受け取った。

 一人ではうまく畳めない。端を合わせようとすると、右の副木が邪魔になる。

 七瀬が反対側を持った。

 二人で一度、半分にする。

 もう一度。

 白い面の内側へ、錆と血が隠れる。

「私、映さない部分を選びました」

 七瀬が言った。

「見てた」

《無編集》なのに」

「記録は切ってない」

「公開は切りました」

「人間と記録を同じものだと思ってた?」

 七瀬は答えなかった。

 答えない時間を、指で一つ数える。

「母は、全部を残そうとしました」

「残すのと、ばら撒くのは違う」

「分かっていたつもりでした」

「つもりは便利だ。失敗するまで傷がない」

「名言みたいに言わないでください」

「今のは兄貴の受け売りだ」

「記録上、出典を明示してください」

「もう死んでる」

「死者にも著作権はあります」

「面倒だな」

「記録はだいたい面倒です」

 七瀬は畳んだ布を迅の腹へ置いた。

「空白は逃げ道じゃない」

 迅は白い四角を見た。

「知ってる」

「では、何ですか」

「まだ誰の命令も書いてない場所」

「それだけ?」

「書く前に、読める余白」

 七瀬は少し考えた。

「それも、あなたのお兄さんの言葉ですか」

「今のは俺」

「記録しました」

「撮ってないだろ」

「覚えました」

「それがいちばん編集される」

「だから、あとで確認します」

 午前四時過ぎ。

 雨が止んだ。

 広場には、記念日の片づけをする人々が残っていた。

 白冠の旗は半分ほど撤去され、残りは濡れたまま地面へ寝かされている。去った者も、残った者もいる。凱を王と呼び続ける者も、もう呼ばない者もいる。

 配給所は翌朝も開く。

 凱が退いたからといって、鍋の火まで消えるわけではない。消さないために、通信係と配給担当が夜通しで引き継ぎ表を書いている。

 王が一歩退いたあと、最初に必要になるのは演説ではなく、鍵の受け渡しだった。

 迅は右腕を吊り、救護所の外へ出た。

 医師には寝ていろと言われた。

 寝台の天井には出口がなかった。

 七瀬が隣を歩く。左肩の吊り帯と、右手の撮影機。今は回していない。

「逃げましたね」

「退院だ」

「許可は」

「出口が開いてた」

「倫理が地下リングです」

「床は正直だぞ」

 慰霊壇の前で、豪が壊れた椅子を三脚、きれいに重ねていた。

「持って帰る気か」

 迅が訊く。

「申請中だ」

「書いたのか」

「七瀬が」

「代筆しました。犬飼さんは親指で署名」

「犬みたいだろ」

「犬は備品を横領しません」

「賢いからな」

 豪は椅子の脚を縄で縛った。

「おまえ、腕どうだ」

「右が休暇」

「長え休暇になりそうだな」

「犬の包帯、足りたか」

「足りた。あいつ、おまえより包帯を噛まねえ」

「俺も噛んでない」

「医者が噛みそうな顔してた」

 豪は椅子を背負い、二度、地面を踏んだ。

「じゃあな。次に地下へ来るときは、政治持ち込み料を払え」

「俺、政治だったのか」

「王様を殴ったら、だいたい政治だ」

「犬を殴ったら?」

「俺が殴る」

「分かりやすい」

「世界はそのくらいでいい」

 豪は去った。

 椅子の脚が、背中で三本ずつ鳴る。

 七段の慰霊壇では、凱が箒を持っていた。

 左膝を固定し、片方の松葉杖へ体重を預けている。医師が見れば怒る。実際、すぐそばで救護員が怒っていた。

「掃くなと言ってる!」

「立つなとは言われた」

「同じだ!」

「違う。片足で立っている」

「屁理屈で靱帯はつながらない!」

 凱は割れた鎧板の破片を、一つずつ端へ寄せていた。

 王座代わりの白い椅子は、壇の最上段に残っている。

 凱はそこへ座らない。

 座れば膝は楽になる。

 だが今夜、あの椅子へ戻ることを自分で決めたくなかった。支持者が運んだ椅子へ座ることと、王であり続けることは、同じではない。違うと分かるまで、立っていたかった。

「掃除係はいるだろ」

 迅が言った。

 凱が振り返る。

 今度は、背後に王と呼ぶ声がない。

「いる」

「仕事を取るな」

「俺が壊した」

「板は俺だ」

「俺の命令で閉じた」

「じゃあ半分ずつか」

「おまえは腕を治せ」

「おまえは膝」

「先に言った方が正しいわけではない」

「王様の言葉よりは軽い」

 凱は箒を止めた。

「もう王と呼ばない者がいる」

「耳は動いてるな」

「配給線が崩れる可能性もある」

「朝になれば分かる」

「崩れたら」

「直す」

「誰が」

「困る奴ら」

「責任者が要る」

「一人じゃなくていい」

「決まらなければ」

「鍋は腹が減るまで待ってくれない。誰かが火をつける」

 凱は広場の配給所を見た。

 通信係が鍵束を、三人の担当へ分けている。朝の女児の母親もそこにいた。帳面を開き、昨日の不足分を赤字で書き直している。

 女児が凱に気づいた。

 駆け寄ろうとして、母親に止められる。

 それから、自分でゆっくり歩いてきた。

「白王」

 呼んだあと、少女は迷った。

 凱の指が動く。

 握手の前に、無意識に数えようとする。

 だが片手には松葉杖、もう片手には箒がある。

 少女は言い直した。

「獅堂さん」

「何だ」

「おかゆ、今日は足りるって」

「そうか」

「昨日のぶんも?」

「帳面に残る。今日すべて返せない場合は、三日で補填する」

「三日って長い」

「長いな」

「じゃあ、忘れないで」

「忘れない」

「王様じゃなくても?」

 凱は三つ数えなかった。

「俺の名前で約束する」

 少女は納得したのか、しなかったのか分からない顔で、箒の柄へ小指を掛けた。

 凱も小指を掛ける。

 一本。

 数えたのは、それだけだった。

 東の空が明るくなる。

 黒雨記念広場の石は濡れ、七段の縁に細い光を溜めている。

 投影端子は停止し、白布も旗も掲げられていない。

 死者の名前は、夜より薄く見えた。

 薄くなったのではない。

 朝の光が、石の黒さだけに頼らず読めるようにしたのだ。

 迅は畳んだ白布を、左脇へ挟んだ。

 凱は箒を持ち、最上段から一段下りた。

 松葉杖を先に置き、右足を運び、傷めた左脚を引き寄せる。

 一段。

 また一段。

 退いているようにも、下りているようにも見える。

 見る者が一人ずつ決めればいい。

 朝は、勝った旗の側から来るわけではない。

 東から来る。

 白でも黒でもない光が、七段の慰霊壇へ等しく落ちた。