第3話 序章「退路」第3節
獅堂凱は、決断の前に三つ数える。
一つ目は、今すぐ失うもの。
二つ目は、待てば失うもの。
三つ目は、自分の判断では数えられないもの。
三つ目があるとき、人は専門家を呼ぶか、神に祈るか、見なかったことにする。
凱は、決める。
それが正しいからではない。誰も決めなかった三秒のあいだに、弱い者から死ぬ場面を知っているからだ。
十八時四十七分。黒雨記念広場。
雨は夕方から強くなり、七段の慰霊壇を薄い滝へ変えていた。観客は傘を畳み、白冠が配った透明な雨具を着ている。傘は視界を奪う。視界が奪われれば、証者は何を見届けたか分からなくなる。
広場には八千三百人。
白冠の構成員が千二百二十四人。
黒雨遺族席が二百十一。
報道用の高台が六。
退路は、南北に二本。
凱はすべて報告を受けた。
竜胆迅が見れば、出口が足りないと言うだろう。
実際、足りない。
だが出口を増やせば警備線が薄くなり、偽造媒体の持ち込みと、慰霊碑への破壊行為を止められない。何かを守る計画は、別の何かを狭くする。広い善意というものを、凱は信用していない。広い善意は、狭い路地へ入った途端、責任者を探して振り返る。
「北側、遺族席の通路が三十センチ狭い」
凱が言う。
部下が図面を見る。
「規定幅です」
「車椅子の回転に足りない」
「退場時は係員が補助します」
「係員が倒れた場合は」
「予備を」
「人を幅の代わりに使うな。柵を下げろ」
「決闘線に近づきます」
「俺が近づかない」
部下は復唱し、走った。
凱は胸の割れ鐘へ触れた。
自分が近づかない。
それは可能だ。退かないことと、最初から距離を置くことは違う。誓いは言葉の隙間を許す。しかし隙間を使うたびに、言葉の内側が少し腐る。
彼の誓いは、《王路不退〈キングス・ロード〉》。
自分を王と呼ぶ者の前で、退かない。膝をつかない。背を向けない。
公の場で進んだ距離は、次の踏み込みへ重なる。一歩目より二歩目、二歩目より三歩目。群衆が彼を王として信じるほど、道は太くなる。
代わりに、一度でも自分から退けば、それまで進んだ全行程が身体へ返る。
白王という名は称号ではない。
他人の期待で作った、後ろのない道だ。
「陛下」
通信係が近づいた。
「火群七瀬の媒体、封印確認が終わりました。外観上、切断と再接着はありません」
「外観上、を記録へ残せ」
「はい。投影端子の鎧板は予定どおり閉鎖。鍵は私と施設管理者の二名保管です」
「戦闘中の開放は」
「陛下の命令、または公開誓戦の勝利条件達成時」
「後者は誰が判定する」
「審判団が」
「審判団は白冠が選んだ。異議側の判定者は」
通信係が黙った。
凱は息を吐いた。
「施設管理者を入れろ。火群七瀬本人も、照合成立範囲について異議を言える。俺の発言も同じ記録へ入れる」
「敵方へ判定権を」
「敵方ではない。媒体の保持者だ」
「しかし――」
「俺が決めた」
凱は言った。
主語を省かない。
命令が失敗したとき、誰も文法の陰へ逃げられないように。
それでも、人は命令の余白へ自分の欲望を入れる。凱は知っている。知っていて、すべての余白を塞ぐことはできない。
十九時。
鐘が七度鳴った。
広場の照明が落ち、慰霊壁に刻まれた名前だけが下から照らされる。黒い石へ白い文字が浮かぶ。十二年前の死者。二年前の水門事故の死者。名前のない欄。
司会の少年が、公開誓戦の条件を読み上げた。
「請求者、竜胆迅。被請求者、獅堂凱。請求者の勝利条件は、第七水門避難記録を、原本照合の成立範囲とともに広場の全証者へ投影すること。被請求者の勝利条件は、二十二時まで投影を成立させないこと。媒体は火群七瀬が保持し、広場外へ持ち出さない。双方、媒体の破壊を禁ずる」
最後の一文に、凱は自分で追加署名した。
迅が媒体を壊して勝敗を曖昧にするとは思わない。
問題は、自分の側だ。
善意で証拠を守り、守るために誰にも見せなくする人間は多い。彼らは破壊している自覚を持たないぶん、止めにくい。
慰霊壇の最下段に、迅が立った。
色褪せた紺の学ラン。右眉の傷には新しい絆創膏。右手首の赤い組紐は結び直され、七つの結び目が暗い。
彼は白布を腰へ挟んでいた。
旗竿はない。
旗にしないためだろう。
火群七瀬は壇の東側。黒い雨合羽、撮影機、展開式三脚。工具ベルトの缶を全員へ見せている。
「撮影開始。十九時三分十四秒。媒体封印、外観上の切断なし。確認者、施設管理担当、白冠通信担当、火群七瀬」
クランク音が広場の手動放送へ乗る。
ぎ、ぎ、ぎ。
群衆が静まった。
一定の機械音は、命令より人を黙らせることがある。命令には逆らえるが、刻まれる時間には口を挟めないからだ。
凱は黒手袋を外した。
右手は命令に使う。拳に使うときも、隠さない。
「竜胆迅」
名を一度だけ呼ぶ。
「条件の変更はないな」
「ない」
「俺を倒しても、投影しなければおまえの負けだ」
「倒れたら端子の前からどけ」
「倒れない」
「それも条件か」
「事実だ」
「事実は、終わってから言え」
観客席に笑いが起きた。
凱は笑わなかった。
迅は他人の抽象語を、床へ落とす。岳もそうだった。ただし岳は落とした言葉を自分で拾い、背負ってしまった。迅は拾う前に、誰の荷物かを見る。
「開始」
鐘が鳴った。
「白王!」
最初の声は、白冠の旗手から上がった。
「白王!」
千、二千、さらに広場の外縁まで唱和が広がる。
凱の足元から白い道が伸びた。
一歩。
濡れた石へ足裏が吸いつく。ふくらはぎ、大腿、腰、背中へ、前進の力が一本の柱として通る。
凱は右の直拳を打った。
迅は顔を外へずらす。
拳は頬をかすめた。だが凱の左肩が続いている。迅は受ける腕を作るより早く、胸を押され、慰霊壇の一段目へ上がった。
後ろへ一身分。
赤い結び目が一つ灯る。
歓声が上がった。
「逃げた!」
「一つだ!」
凱は追った。
迅の能力の条件は、単なる七歩ではない。
岳が一度だけ、弟について言ったことがある。
――あいつは逃げてるんじゃない。相手がどこまで追う馬鹿か、道に訊いてる。
当時、凱は笑った。
今は笑えない。
凱は二歩目を踏んだ。右拳を見せ、左肘を迅の脇へ差し込む。回転を許さず、正面へ押す。迅は足を交差させない。後ろ足から先に段差へ置き、重心を崩さず二段目へ下がった。
二つ目が灯る。
「王様、階段の使い方が逆だぞ」
迅が言う。
「おまえが上がっている」
「前へ出てるのはおまえだ」
「言葉遊びで距離は変わらない」
「王様の言葉は距離を変える。柵が近い」
迅の視線が、壇の左右に立つ白冠旗へ動いた。
旗は退路を狭めるよう配置してある。凱が命じた。観客へ流れ弾を出さず、戦闘を直線へ限定するためだ。
迅にとっては、七つの距離を取る場所を奪う配置でもある。
「俺のために狭くしたのか」
「観客のためだ」
「便利な主語だ」
凱は三歩目を踏み込んだ。
蹴りではない。左足で床を押し、右肩から体当たりする。迅は横へ逃がそうとしたが、白い旗竿が背を塞いだ。
肩が胸骨へ入る。
空気が潰れる音。
迅の身体が三段目へ弾かれた。
三つ。
凱の胸の鐘が、低く鳴る。
前進は重なる。
拳の速さより、止められない重量が増す。凱の格闘は技を隠さない。正面から来る。正面から来ると分かっていて、受ければ骨が負ける。
迅は右手をほとんど使わなかった。
触れるだけ。凱の手首へ添え、肩の向きを数度変える。自分から打たない。床と旗と段差に、凱の力を分ける。
そして、背中を完全には正面へ向けない。
半身の角度を変えるたび、壇の東側にいる七瀬と、彼女の工具ベルトのテープ缶が、必ず迅の後方百八十度へ残る。
凱はそこで、迅が守る対象を理解した。
兄の名ではない。
七瀬本人だけでもない。
彼女が持つ、まだ誰の答えにもなっていない記録だ。
記録は動く。
七瀬が端子へ近づけば、迅も退路の角度を変えなければならない。守る対象を固定できない戦いは、《七退一還》にとって悪い地形だ。
凱は右肩を沈めた。
迅が受ける準備をする。
凱は打たない。
肩を戻し、左足だけ半歩進める。
迅は下がらなかった。
白冠の観客がどよめく。
「四つ目だ!」
誰かが叫んだ。
赤い結び目は三つのまま。
凱はもう一度、拳を見せて止めた。迅の足は動かない。
「自分で退けば数えない」
「実況が好きになったか」
「条件を知れば、止められる」
「人間も?」
「能力の話だ」
「能力だけ止めれば、俺が帰ると思ってる?」
「帰る道は、俺が決める」
「悪い癖だ」
凱は突然、右足の甲で水を蹴り上げた。
濡れた石の水膜が、迅の目へ飛ぶ。
目隠しは一瞬。
その一瞬に、凱は前ではなく斜めへ入った。左肩を迅の右脇へ差し込み、右腕で腰を抱える。投げると見せて、足は刈らない。迅が受け身のため自分から下がれば、それは数に入らない。
迅は前へ出た。
額を凱の胸へつけ、投げの回転軸そのものへ身体を入れる。白い外套の内側で、割れ鐘が頬へ当たった。
ごん、と間の抜けた音がした。
「高そうな防具だな」
「鐘だ」
「鳴り方が安い」
「割れている」
「直せ」
「戒めだ」
「壊れた物を難しい言葉で飾るな」
迅の左肘が凱の腰へ触れる。
打てる位置だった。
打たない。
凱はその肘を押さえ、右膝を迅の腿へ短く入れた。筋肉が痺れる。迅は歯を食いしばり、前へ半歩踏んで耐えた。
そのとき観客席の西側で、柵が大きく軋んだ。
三つ目の光を見ようと後列が押し、前列の透明雨具が柵へ重なる。留め金が一つ外れた。小柄な少年が、柵の下から決闘線へ転がり込む。
白冠の旗手が旗竿を横へ出した。
少年を止めるには遅い。
迅が先に動いた。
凱へ背を向けず、左足で少年の雨具の裾を引っかける。蹴るのではない。石を滑る身体の向きだけ変え、壇の脇にある排水溝の手前で止めた。
少年は迅の背後へ入った。
守る対象が、一つ増える。
凱は拳を引いたまま止まった。
今打てば、迅は少年を背にして一身分を譲る。四つ目を与えられる。同時に、拳の軌道が少し狂えば少年へ届く。
勝つためには合理的だった。
だから打たなかった。
「西側柵、二列下げろ」
凱が命じる。
「後列は北通路へ分散。旗を上げるな、視界が塞がる。少年を決闘線から出せ」
旗手が少年を抱えようとする。
少年は怯え、迅の学ランをつかんだ。
「触る前に名を言え」
迅が旗手へ言う。
「白冠警備だ」
「組織じゃなくて、おまえの名」
旗手は一瞬詰まり、自分の名を言った。
少年の手から力が少し抜ける。
旗手は掌を見せてから、少年を抱き上げた。
凱はその一連を待った。
群衆の前で止まっている。
退いてはいない。それでも、王の前進が数秒途切れたことで、白い道の光がわずかに細くなる。
「待てるじゃないか」
迅が言った。
「必要な時間は待つ」
「誰が必要って決める」
「今は俺だ」
「そこが悪い癖だ」
少年が柵の外へ戻った。
凱は再び迅へ向いた。
「先に殴らない誓いか」
凱が訊いた。
「今さら実況か」
「確認だ」
「確認は、答える方に得があるときだけ質問になる」
「答えないなら、俺が決める」
「それが悪い癖だ」
凱は右拳を引いた。
打つ直前、広場東側で金属音がした。
火群七瀬の三脚が、誰かの棒を受けている。
灰色の腕章をつけた四人が、彼女を囲んでいた。記録保全班。白冠直属ではなく、記念施設の臨時警備として集めた若者たちだ。
「媒体を確認庫へ移します」
一人が言う。
「公開誓戦中は私が保持する条件です」
七瀬は撮影機を肩から外さない。
「混乱が発生しました。保全規定を優先します」
「誰が混乱と判定しました」
「現場責任者」
「氏名を」
「記録保全班です」
「組織名は氏名ではありません」
凱の拳が止まった。
止めても、退いてはいない。
だが迅はその一瞬を見逃さず、凱の脇を抜けようとする。凱は左腕で進路を塞いだ。迅の肩をつかみ、四段目へ投げる。
迅は受け身を取りながら、さらに一身分を譲った。
四つ。
「よそ見する王は減点か」
「俺が命じた範囲を越えている」
「越える余白を作ったのもおまえだ」
凱は東側へ声を飛ばした。
「媒体へ触れるな。条件を守れ」
保全班の一人が答えた。
「陛下、破損を防ぐためです!」
「俺は触れるなと言った」
「保管するだけです!」
命令の言葉が、現場の善意へぶつかる。
彼らは破壊しようとしているのではない。本当に守ろうとしている。守る場所を、自分たちだけが開けられる庫へ変えようとしている。
凱は舌打ちをしなかった。
王が苛立ちを見せれば、部下は相手を敵と定義する。
「記録保全班。現在の指揮者名を言え」
返事がない。
その沈黙の間に、一人が七瀬のベルトへ手を伸ばした。
七瀬は三脚の一本を短く畳み、相手の手首へ沿わせた。力で打たず、親指を上へ向けさせ、肘を伸ばす。関節が止まる位置で一歩踏み込む。
「触れないでください」
怒るほど敬語が増える。
二人目が背後からカメラのベルトをつかんだ。
七瀬は身体を回せない。撮影を切らず、画角を失わず、媒体も守る。三つの目的は一つの肩へ重すぎる。
その手がカメラへ届く前に、大きな掌が横から手首を包んだ。
「お客さん」
太い低音が、妙に早口で言った。
「犬に触るときも、先に掌を見せるもんですよ」
犬飼豪がいた。
袖を切った作業着。首の鑑札。右膝には朝より新しい包帯を巻いている。広場の雨具を着ていないので、赤茶の髪から水が落ちていた。
保全班の手首を握ったまま、豪は七瀬へ訊いた。
「撮ってるか」
「撮影中」
「俺の顔、入ってる?」
「半分」
「犬は?」
「いない」
「じゃあいい」
豪は相手の腕を引いた。
乱暴に見えるが、肩が外れない角度を選んでいる。自分の腰へ相手の重心を載せ、床へ投げず、観客柵へ座らせた。
「犬飼豪」
凱が名を呼んだ。
地下試合の出場者名簿で見たことがある。無能力。前科あり。保護犬舎の借金。白冠の広報班が、今夜の催しへ「地下格闘界も公開裁定を支持」として写真を使っていた。
本人の許可欄は、空白だった。
「迅に雇われたか」
「違う!」
豪は三人目の棒を前腕で受け、縄ベルトを外した。棒へ縄を巻き、引く。相手が手放す前に距離を詰め、胸と肩で柵へ押さえる。
「俺はこいつに負けた。負けた相手の手伝いは、値段が高い!」
「では何のためだ」
「うちの地下リングの名前を、勝手に支持者名簿へ入れた!」
「広報の記載か」
「政治の喧嘩に使うなら使用料を払え! それと、地下の客は記録を奪うほど上品じゃねえ。気に入らなきゃ、その場で金網を叩く!」
「上品の基準が低い」
七瀬が言った。
「床が低いからな!」
豪は四人目の突進を受けた。右膝を使わず、左足を軸に回る。相手を投げる代わりに進行方向へ一歩余分に走らせ、空いた椅子の列へ飛び込ませる。椅子が三つ倒れた。
豪は倒れた椅子を見て顔をしかめた。
「あとで直す」
「今言うこと?」
「約束は、忘れる前に言う」
凱は一瞬、胸の鐘へ触れた。
自分の広報が、本人の同意なしに名前を使った。
今、止めるべき問題だ。
しかし決闘中にすべてを止めれば、公開誓戦そのものが崩れる。崩れれば記録は投影されない。続ければ、豪と保全班が負傷する。
一つ目。今すぐ失うもの。
二つ目。待てば失うもの。
三つ目。数えられないもの。
凱は決めた。
「保全班は下がれ。広報使用について、公開誓戦終了後に俺が審理する。犬飼豪、七瀬の護衛を命じない。媒体が投影端子へ着くまで、あなた自身の判断で動け」
「命じないって言いながら、やること並べるな!」
「拒否していい」
「やるよ!」
「では、それはあなたが決めた」
「王様、面倒くせえな!」
「よく言われる」
迅が凱の胸へ掌を置いた。
殴らない。
押すでもない。
「会議は終わったか」
凱の意識が戻る。
迅の右足は、四段目の端にある。
凱は五歩目を踏み込んだ。
拳ではなく、掌底を胸へ。迅が腕で受ける。骨と骨の間で空気が破裂したような音がした。迅の足が水を散らし、五段目へ滑る。
五つ目が灯った。
赤い光が手首から前腕へ細く伸びる。
観客の声が熱を増す。
「あと二つ!」
「白王、踏ませるな!」
「逃げ足を落とせ!」
証者は、誓いを信じる者だ。
今、広場の多くは迅の七つを信じ始めている。彼を応援しているわけではない。条件が存在すると認め、成立する瞬間を待っている。
敵意も証者になり得る。
人の信用は、好意ほど親切ではない。
凱は進路を変えた。
直線のまま、迅を壇の西側へ押し出す。投影端子は最上段中央。そこへ近づけなければ、七つを完成させても意味がない。
迅は下がらない。
横へ回る。
凱の右拳を左手で逸らし、外套の脇を抜けようとする。凱は肘を畳み、迅の肩を挟んだ。腰を切る。迅は投げに抵抗せず、凱の足元を軸に半円を描いた。
そのまま六段目へ落ちる。
六つ目が灯った。
位置が中央へ戻っている。
凱はそこで理解した。
迅は押されているのではない。
七度の距離を得ながら、自分を投影端子へ誘導している。
地下リングから広場まで、彼が見ていたのは凱の拳ではなく歩き方だった。
左膝を庇う。
直線で進む。
観客を背にしない。
倒れた者を踏まない。
そして、王と呼ばれる場所では退かない。
「おまえの勝利条件は、俺じゃない」
凱が言った。
「受付で聞いた」
「そういう意味ではない。最初から、俺を端子の前へ運ぶつもりだった」
「自分で歩いてきた」
「俺の力を、扉を開けるために使う」
「鍵を持ってるって言っただろ」
「なら、なぜ七つ必要だ」
迅は右親指で赤い紐を押さえた。
迷っている。
「鍵が開くとは限らない」
凱は背後を見なかった。
見れば、背を向けることになる。
だが位置は分かる。
踵の後ろ、二メートル。最上段の鎧板。六センチの鋼。内側に投影端子。
火群七瀬は東側から壇を上がっている。犬飼豪が保全班と警備のあいだへ立ち、彼女の道を開けている。
凱が前へ出続ければ、迅は七段目へ押し込まれる。
その先には鎧板がある。
最後の一撃で迅を倒せる。
同時に、七瀬が端子へ近づく場所を塞げる。
勝利条件を守るためには正しい。
記録を公開させないためにも正しい。
白冠の秩序を守るためにも正しい。
正しい理由が三つ並んだとき、凱は警戒する。
人間は間違うとき、一つの理由では不安になる。だから正しさを束にする。
「凱」
迅が、初めて名だけを呼んだ。
兄の声に似ていない。
似ていないことに、凱は少し救われた。
「第七水門の命令変更。おまえは知ってるな」
「知っている」
「誰が変えた」
「公開前の記録について、俺は答えない」
「答えられない、じゃなくて?」
「答えない」
主語も選択も隠さない。
迅の目が、凱の肩越しへ動く。
「じゃあ、そこを空けろ」
「真正性が確認されるまで空けない」
「確認する端子を塞いでる」
「俺が保護している」
「同じ言葉を何回使えば、鍵が正しくなる」
「おまえは、開けることだけを正義にするな」
「してない。だから七瀬が持ってる」
「彼女が正しい保証はない」
「おまえにもない」
「なら誰が決める」
「見た奴が、一人ずつ」
「群衆は責任を取らない」
「王なら取るのか」
凱は答えなかった。
答えない一秒を、広場の八千人が見ている。
白王。
白王。
唱和が続く。
彼らは凱へ迷わないことを求めている。
配給を止めないこと。
夜道を安全にすること。
抗争を終わらせること。
間違いがあっても、翌朝には粥が出ること。
王の誓いは傲慢だけでできていない。
他人が預けた眠りでできている。
「俺が退けば」
凱は言った。
「白冠の大誓〈バナー・コード〉は傷つく。配給所の優先権、夜間警備の共同線、救護班の通行保証。今日だけで八千人が影響を受ける」
「おまえの配給線、踵につながってるのか」
「そういう街を、二年で作った」
「悪い設計だ」
「その設計で生きた人間がいる」
「だから直せない?」
「壊すなら、代わりを先に出せ」
迅はしばらく黙った。
彼の視線が、観客席を巡る。白い雨具。遺族席。配給札を握る朝の女児。東側で肩を押さえながら撮影を続ける七瀬。豪の右膝。
答えを探す顔ではない。
何を壊せば、誰が困るかを数える顔だ。
「代わりは、今はない」
迅が言った。
広場がざわめいた。
凱は驚かなかった。
この少年は、あるふりをしない。
「なら退け」
「それと、記録を閉じるのは別だ」
「両方を守れない」
「だから、おまえが選ぶ」
「俺へ預けるのか」
「違う。返す」
迅は構えた。
右腕を下げ、左足を前へ置く。
六つの赤い結び目が雨の中で灯っている。
凱は右足を上げた。
七歩目。
この一撃で、迅を鎧板へ叩きつける。
凱の前進は、白い道となって全身へ集まった。地面の反発、千二百人の唱和、二年間の公式行進。王と呼ばれて進んだ距離が、右肩から拳へ重なる。
迅は逃げない。
鎧板の前で待つ。
凱の拳が動く直前、背後で小さな金属音がした。
火群七瀬のテープ缶が、鎧板へ触れた音だった。
凱は振り返らない。
振り返れない。
前には迅。
後ろには記録。
そして初めて、自分が守っているのがどちらなのか、数えられなくなった。