第2話 序章「王の旗」第2節
火群七瀬は、空の場所を十秒だけ撮る。
誰もいなかったことは、誰かがいたことより簡単に消されるからだ。
午前九時二分。黒雨記念広場へ続く北東大路。七瀬は手回し撮影機を胸の高さに構え、まだ行列の来ていない路面を十秒、回した。
白線は雨に濡れ、ところどころで途切れている。沿道の店は半分が閉まり、開いている店は白い紙花を軒へ吊していた。記念日の紙花は、水に濡れると透明になる。十二年前の死者へ捧げるものだったはずが、今では白冠連の色と区別がつかない。
「撮影終了。九時二分十秒。通行人なし」
七瀬は声に出してから、カメラを下ろした。
工具ベルトの右端に、磁気テープの缶がある。左肩には三脚。重量は合わせて九・四キロ。右鎖骨の古傷は雨の日だけ鈍く重い。痛みを機材のせいにすると少し楽だが、機材は抗議できないので、あまり公平ではない。
硬いレモン飴を一つ、奥歯で割った。
遠くで鐘が鳴った。
白冠の行列が角を曲がる。
先頭は救護員。次に配給係。路面の穴へ白い砂を入れる修繕班。旗を持つ少年たちはその後ろだった。武力を最初に見せない並びは、獅堂凱がよく分かっている証拠だ。人は守られた記憶のあとでなら、命令を親切と呼びやすい。
最後に、凱が歩いてきた。
白い長外套は、濡れた大路の上で遠近感を狂わせる。幅広い肩、長い腕、胸の割れ鐘。銀白に染めた髪は雨を含み、根元だけ黒かった。
彼自身が周囲より大きいのではない。
周囲が先に道を空けるから、大きく見える。
権威は体格ではなく、他人の一歩からできている。
「白王!」
誰かが呼んだ。
沿道の声が重なった。
「白王!」
凱の足元に、白い線が一瞬だけ走る。
誓痕の発光は短い。だが七瀬の目は、光より前に右足の踏み込みが深くなったことを捉えた。王と呼ばれるほど前進が強くなる。彼の能力について、街には多くの噂がある。
退かない。
膝をつかない。
背を向けない。
それを守った歩数が、打撃と耐久へ変わる。
七瀬はまだ記録を開始しなかった。
母なら、最初の歓声から回しただろう。
だから七瀬は、回さない十秒を自分で選んだ。
行列へ入るには、白冠の記録腕章が必要だった。七瀬の腕にあるのは黄色い修理工房の腕章だけだ。二つは色が違い、役割も違う。色を見ない警備員は役に立たないし、色しか見ない警備員はもっと役に立たない。
七瀬は行列脇の機材車へ近づいた。
「投影卓の右音声が歪んでいます」
若い通信係が振り返る。
「報告はない」
「九時三分十二秒、試験放送の四百ヘルツが右だけ八パーセント低下」
「聞いていたのか」
「聞けば分かります」
「許可証は」
「工房印」
七瀬は黄色い腕章を見せた。嘘は言っていない。工房印は本物だ。投影卓の右音声が歪んでいるのも本当だ。修理を依頼されたとは言っていない。
通信係は迷い、機材車の後部を指した。
「三分で見ろ。列を遅らせるな」
「二分四十秒で済みます」
七瀬は車へ乗り、歪みの原因だった緩んだ接点を締めた。嘘の入口から入って、本当に修理をする。道徳的に帳尻が合うとは思わないが、接点だけは正しくつながる。
車から降りると、行列の内部にいた。
撮影機を肩へ載せる。
「撮影開始。九時六分三十一秒。黒雨記念行列、北東大路。撮影者、火群七瀬。許可範囲は機材記録。撮影対象の個別許可は未取得」
レンズの縁に、細い銀文字が走った。
七瀬の誓痕、《無編集〈ワン・テイク〉》。
開始から終了宣言まで、意図的に切らない。見た事実を盛らない。知っていることへ嘘を言わない。守られた映像は、再生数ではなく証言効力を持つ。
だからこそ、撮り始める前の選択は映らない。
それを忘れた記録者は、切らないことを正義と勘違いする。
七瀬は凱の斜め後ろ、三メートルを保った。
王の背中だけを撮れば宣伝になる。正面から寄れば敵意の映像になる。斜め後ろなら、彼が何を見るかと、何を見落とすかを一つの画面へ入れられる。
沿道から、小さな女児が飛び出した。
警備の腕が伸びるより、凱が早く止まった。
止まっただけで、後ろの行列も止まる。笛も命令もない。前の人間が立ち止まった事実が、数十人へ伝わった。
「白王!」
女児は濡れた配給札を握っていた。
「お母さんの粥が、三日分足りない」
警備員が女児を下げようとする。
凱は右手を上げた。
「名を」
「名を言ったら、怒られる」
「誰に」
「配給所の人」
「では言わなくていい。札を見せてくれ」
凱は左膝をゆっくり曲げた。
七瀬はファインダー越しに、外套の下で膝が一度震えたのを見た。古傷がある。王は膝をつかないという噂と、子どもへ視線を合わせる行為が、同じ身体の中で衝突している。
凱は片膝を完全には地面へ置かず、低い姿勢で札を受け取った。
女児の手へ触れたとき、彼の親指が指を順に押した。
一、二、三、四、五。
握手のたびに数えている。
失礼な癖ではない。そこに五本あることを確かめるような、神経質な動作だった。
「北東第三配給所。世帯人数が二から一へ誤登録されている」
凱は札の穴を見て言った。
「今、俺が訂正票へ署名する。今日の昼までに三日分を受け取れる。受け取れなければ、この札を記念広場の受付へ持って来い。俺の名を出していい」
「白王の名前?」
「獅堂凱の名だ」
女児はしばらく考えた。
「長い」
「二文字だ」
「しどうがい、五文字」
「あなたが正しい」
沿道に小さな笑いが広がった。
凱は女児へ札を返し、立った。左膝を伸ばす瞬間だけ、割れ鐘へ触れた。
七瀬は撮り続ける。
今の場面だけを抜けば、よい王の映像になる。
それが事実でもあるから厄介だ。
嘘より危険なのは、正しい一部だ。正しい一部は、自分で歩けるぶん遠くまで行く。
凱は行列を動かさなかった。
「北東第三配給所の原簿を、ここへ」
副官が時計を見る。
「式次第が七分遅れます」
「訂正票だけ出せば、同じ誤登録が明日も出る」
「後ほど調査を」
「後ほど食べる子どもはいない」
凱の命令で、機材車の小型通信機が鳴った。三分後、配給所の若い係員が、濡らさないよう帳簿を胸へ入れて走ってきた。
顔が青い。
「申し訳ありません!」
「謝罪はあとだ。誤登録の理由を」
「母親が臨時診療所へ移された際、世帯票と入所票を分けました。配給数を二重計上しないため、一時的に世帯を一名へ――」
「一時的、は何日だ」
「三日です」
「解除条件は」
係員の口が止まる。
凱は怒鳴らない。
怒鳴らないぶん、答えがない形だけがよく見えた。
「ありません」
「同じ処理をした世帯数」
「確認します」
「今ここで」
係員は帳簿を開いた。雨に濡れた指が紙をめくる。七瀬は女児の顔から画角を外し、札と帳簿と、凱の右手だけを入れた。
二十三世帯。
診療所へ一人移るたび、残った家族が一人減ったことにされていた。食料を二重に取られないための規則が、食べる口を一つ消している。
「在庫は」
「今日分の予備が百四十食。式典警備へ五十、救護へ三十を確保しています」
「誤登録二十三世帯へ、欠けた日数を返すと」
「最大六十九食」
「残り二十一」
「はい」
「警備の五十から十五を移す。警備員は交代で共同鍋を使え。救護の三十は触るな。明日以降は診療所側で食事を受け取る者の氏名だけを照合し、世帯人数を減らすな」
副官が言う。
「警備員から不満が出ます」
「俺の名で説明する」
「また、陛下が」
「誰の名なら実行される」
「現状では、陛下です」
「なら今日は俺だ」
凱は二十三件すべてへ署名しようとした。
七瀬が訊く。
「一件ずつ、あなたが?」
「責任者だ」
「あなたが不在なら、二十三世帯はまた待つ」
「代理署名者を二名置く」
「今決めた?」
「今、欠陥が見えた」
「欠陥を見るまで、王が必要だった」
「見たあとも王が必要だと思っている顔だな」
「あなたの顔を撮っています」
「答えになっていない」
「画角は答えではありません」
凱は係員へペンを渡した。
「あなたが訂正する。副官と診療所担当が照合する。俺は最初の一枚へ、手続き変更の責任者として署名する」
係員は震える手で受け取った。
「処分は」
「故意に抜いた証拠がなければ、先に手順を直す。罰を急ぐと、次の者は失敗を隠す」
女児が凱の外套を引いた。
「おかゆ、冷めるよ」
凱は帳簿から顔を上げた。
「あなたが正しい」
列が再び動き出した。
「凱」
白冠の副官らしい少年が、小声で近づいた。
「広場の北側に抗議者が集まっています。七段壇の進入路を西へ変更すべきです」
「理由は」
「安全です」
「何が、誰に対して」
「陛下に対して」
「俺の安全で式次第を変えれば、抗議者が危険側へ押し出される。進入路は変えない」
「しかし、記録屋が未公開媒体を持ち込むという情報も」
副官の目が七瀬へ向いた。
凱は振り返らなかった。
「持ち込ませろ」
「奪取の恐れがあります」
「なら奪われない警備を置け。記録があるという理由で、記録者を遠ざけるな」
「投影は許可なさらないのですか」
「真正性を確認してからだ」
「確認するまで封鎖を」
「最初の命令を繰り返させるな」
声量は変わらない。
副官は一歩下がった。
凱は下がらない。
子どもの前では膝を曲げられる。部下の提案には、道を譲れない。
優しさと頑固さは反対ではない。同じ人間の中では、よく同じ根から生える。
行列が記念通りへ入ったところで、凱が突然言った。
「火群七瀬」
七瀬はクランクを回したまま答えた。
「撮影中です」
「知っている」
「許可は取っていません」
「それも知っている」
「止めますか」
「止めれば、止めた映像だけが残る。撮らせれば、撮らせた王の映像になる。どちらもあなたに有利だ」
「記録者が常に有利なら、もっと裕福です」
「貧しいことは中立の証明にならない」
「白い外套も清潔の証明にはなりません」
凱は初めて横目でレンズを見た。
濃い青灰色の瞳。怒りより先に、相手の立ち位置を測る目だ。
「母親に似たな」
七瀬の右手が、ほんのわずかにクランクを速めた。
誓痕の銀文字が脈打つ。感情で速度を変えれば、映像の時間が歪む。七瀬は呼吸を一つ数え、回転を戻した。
「母を知っているんですか」
「第七水門で、撮影機を下ろさなかった人間を忘れるほど、俺は記憶がよくないわけではない」
「下ろさなかったことを責めますか」
「今ここで答えれば、あなたは母親の話を撮る娘になる。俺はその構図を選ばない」
「構図を選ばないのも、構図です」
「だから撮影は面倒だ」
「命令よりは軽いです」
「命令は、聞いた人間の足に重さが出る」
「映像は、映った人間のあとに重さが出ます」
二人は数歩、無言で進んだ。
凱が胸の鐘へ触れる。
「持っているのか」
「何を」
「第七水門の記録」
七瀬は嘘を言えない。撮影中でなくても、嘘は嫌いだ。撮影中なら、嫌い以上の理由がある。
「一部を」
「見せろ」
「広場の全員と同時なら」
「真正性がないものを群衆へ投げれば、記録ではなく火種だ」
「真正性を確認できる端子を、あなたが鎧板で塞いでいる」
「二年前からだ。破壊と改変を防ぐため」
「金庫は中身を守ります。でも鍵を持つ人も守る」
「あなたは、鍵を持てば自分だけは変わらないと思っているのか」
「思っていません。だから、あなたにも鍵を渡したくない」
凱の口元が、笑いかけてやめた。
「よく似ている」
「誰に」
「自分が正しいときほど、他人へ説明しなくなる人間に」
「それはあなたですか」
「質問へ質問で返すな」
「命令ですか」
「忠告だ」
「記録しておきます」
「もうしている」
記念広場が見えてきた。
王環駅の南側に開けた円形広場。十二年前の黒雨で亡くなった者の名を刻む黒石の壁が半円を描き、その中央に七段の慰霊壇がある。
二年前の第七水門事故で、公式に死者とされたのは十二人だった。五人には「浸水による死亡」、七人には「命令違反による帰還遅延」と、違う説明が付いている。石へ刻めば同じ白い文字になるのに、報告書の中では死者にも所属がある。
七段は、雨が続いた七日を示す。同時に、二年前に帰れなかった帰還班の七人を数える場所だと、零番街では言われている。公式案内板には後者を書いていない。
慰霊壇の最上段には、旧式の投影端子が埋め込まれていた。
黒雨当時の防災時計、手動発電機、磁気読み取り機。停電しても、中央網が遮断されても、広場の壁面へ記録を映せる。災害時に誰が何を命じたかを残すための装置だった。
現在は、灰色の鎧板で覆われている。
板は厚さ六センチ。蝶番は内側。留め具は八本。正面から外すには専用工具と二十分、あるいは工具を使わない別の何かが必要だ。
七瀬は撮影機を少し上げた。
「鎧板を撮っています」
「見れば分かる」
凱が言った。
「後で『壁を撮っていた』と言われないためです」
「親切な字幕だ」
「字幕は親切すぎると、映像より先に答えを決めます」
「では黙れ」
「撮影中です」
凱は小さく息を吐いた。
広場の準備は正確だった。白冠の旗が八方向へ立ち、観客用の柵が円を作る。慰霊壇までの進路だけが、まっすぐに空いている。
退路はない。
七瀬は初めて、迅が床と出口を見る理由を少し理解した。
撮影を終えたのは、凱が式典控えへ入ったあとだった。
「撮影終了。十時十一分二秒」
クランクを止める。左肩の筋が熱を持っていた。七瀬は三脚を下ろし、端子の裏手へ回った。
慰霊壇の管理係は、白髪の男性だった。固有名を訊く前に、彼は身分証を見せた。記念施設管理、二十七年。自分の権限を話す人間は、名前より先に役割を差し出すことがある。
「端子の試験をしたい」
七瀬が言うと、管理係は首を振った。
「白冠の許可が要る」
「施設管理者はあなたです」
「鍵は向こうだ」
「権限と鍵が別々なら、事故のときは誰が開けますか」
「事故が起きないよう閉めてる」
「閉まっていることが事故だったら」
「若い人は、言葉を丸く投げるのが好きだな。どこへ当たっても自分のせいじゃない」
七瀬は缶を見せた。
「二年前の水門記録です。回転誤差を照合したい」
管理係の目が細くなる。
「誰から」
「零番街の修理工房に、未整理の機材と一緒に保管されていました。封印番号は黒雨映像局旧式。撮影者欄は火群灯里」
「あなたの母親か」
「はい」
「なら、なおさらあなた一人で開けるな」
七瀬は反論を飲み込んだ。
「家族だから信用できない?」
「家族だから、信用されないと言ってる」
「違いは」
「前者は私があなたを疑う。後者は、広場の連中があなたを疑う。記録は、正しいだけじゃ足りない。疑われたときの帰り道が要る」
帰り道。
迅が好みそうな言葉だった。
管理係は鎧板を見上げた。
「公開するなら、原本を誰が保管する。映っている死者の顔をどこまで出す。家族が後で止めたいと言ったらどうする。あなたの誓痕は、映像が嘘でないことを強くする。公開が正しいことまでは強くしない」
「全部見せれば、見る側が判断できます」
「見る側は責任を持たずに判断できる」
「隠した側は、責任を持ったんですか」
「持たなかった。だから同じ失敗を、反対向きにするな」
七瀬の口元が水平になる。
恐怖が強いときの癖だと、自分でも知っている。
「原本は、公開後にここへ返します。封印はあなたと、遺族代表と、公開責任者の三者で」
「公開責任者は誰だ」
「私です」
「十七歳が一人で?」
「年齢で記録の重さは変わりません」
「持てる腕の重さは変わる」
七瀬は左肩を無意識に引いた。
管理係は見逃さなかったが、指摘もしなかった。
「鍵を開けるのは、私じゃない」
「誰です」
「今日、この広場で責任者を名乗る人間だ」
獅堂凱。
七瀬は缶をベルトへ戻した。
慰霊壇の一段目に、誰かの靴が止まった。
色褪せた紺の学ラン。外側だけ減った靴底。
「遅い」
七瀬が言った。
「時間は言ってない」
迅は鎧板を見上げた。
「六センチ。留め具八。蝶番は内側」
「見れば分かる」
「言ってみたかった」
「似合わない」
「凱は」
「控え。十一時から公開受付」
「歩き方は見た」
「どうだった」
「左膝を庇う。でも子どもの前では曲げた。部下の前では曲げない」
「人間の話をしてるのに、関節から入るのね」
「関節は言い訳しない」
「床の次は関節が友達」
「おまえより返事が短い」
七瀬は少し笑い、クランクを半回転戻した。撮影していないのに癖が出た。
「決闘を申し込む?」
「条件を変える」
「何から」
「おまえの案は、俺が凱を倒して、その隙に記録を映す」
「そうは言ってない」
「顔が言ってた」
「信用できない媒体」
「同感だ」
迅は学ランの内側から、地下で借りた白布を出した。洗われていない。ただの無地。端に小さな血染みがある。
「倒す必要はない」
「何が必要」
「場所」
十一時の鐘が鳴った。
公開受付が始まる。
広場の一角へ、異議を持つ者が並んだ。配給の争い、境界線、学校の夜間使用、路地の通行料。旗団が生活を支える街では、王へ持ち込まれる問題は王らしくない。粥の量、屋根の穴、誰が鍵を持つか。人を支配するのは、大きな理念より小さな受付であることが多い。
凱は慰霊壇の下へ立った。
白い外套の後ろに、白冠の旗。胸の割れ鐘。右手には黒手袋をせず、署名用のペンを持つ。
「次」
凱が言う。
迅は列へ並ばなかった。
脇から進み、白布を受付台へ置いた。
ざわめきが起きる。
「旗名を」
受付係が言った。
「ない」
「公開誓戦の請求には、旗団名または三名以上の共同署名が必要だ」
「異議を持つ者は、証拠と証者を連れて来い。さっき凱が言ってた」
「旗団名が先だ」
「王の言葉より受付用紙が強いのか」
受付係が詰まった。
凱は台の向こうから、迅を見た。
「証拠は」
「七瀬が持ってる」
「証者は」
迅は周囲を見た。
受付に並んだ住民。白冠の警備。記念施設の管理係。行列を追ってきた子ども。撮影機を持つ七瀬。
「ここにいる」
「観客は自動的に証者ではない」
凱の声は深く、明瞭だった。
「何を見届けるか、本人が知っている必要がある」
「じゃあ説明する」
迅は受付台へ片手を置いた。
「今夜の公開誓戦が終わるまでに、第七水門の避難記録を、広場にいる全員へ見える形で投影する。できたら俺の勝ち。できなければ凱の勝ち」
一拍、広場が静まった。
そのあと笑いが起きた。
「何だそれ!」
「殴り合いじゃないのか!」
「投影機の修理を王に頼め!」
迅は笑っている者を見なかった。
凱も笑わない。
「俺を倒す、ではないのか」
「おまえを倒すと、端子が開くのか」
「開けさせることはできる」
「倒れた人間の許可は信用が低い」
「では何のために俺と戦う」
「おまえが場所を塞いでる」
凱の目が、わずかに細くなった。
「俺が鎧板を設置したわけではない」
「今日、鍵を持ってる」
「施設を守るためだ」
「守るって言葉は、鍵を閉めた側に便利だな」
「開ける側にも便利だ。何を壊しても救出と呼べる」
七瀬は二人を撮り始めた。
「撮影開始。十一時九分五十七秒。公開誓戦請求。請求者、竜胆迅。被請求者、獅堂凱。勝利条件は、第七水門避難記録の広場投影」
レンズの銀文字が灯る。
凱は七瀬へ視線を向けた。
「原本か」
「原本と推定される媒体です。真正性は未確認」
「推定を映すのか」
「端子で確認しながら映します」
「偽造なら」
「私が公開責任を負います」
「一人で負える言葉ではない」
「一人で王を名乗る人に言われたくありません」
白冠の警備が動きかけた。
凱は右手を上げ、止める。
「条件を追加する」
「どうぞ」
七瀬が言う。
「媒体は戦闘終了まで火群七瀬本人が保持する。複製とのすり替えを防ぐため、広場外へ出さない。投影前に現在の封印状態を全員へ示す。端子の照合結果が不成立なら、未確認記録として公開を止める」
「最後の条件は受けません」
「なぜ」
「照合不成立にも、端子故障、妨害、時刻系統の欠損があります。不成立を偽造と同じにしない」
凱は一秒考えた。
「では、照合できた範囲だけを事実として示す。推測を字幕へ入れない」
「受けます」
七瀬は即答した。
迅が横目で見る。
「俺の決闘だぞ」
「記録の条件は私が決める」
「じゃあ殴る条件は俺が決める」
「好きにして」
「仲がいいな」
凱が言った。
「悪口ですか」
「観察だ」
凱は受付台の用紙へ署名した。
獅堂凱。
右手で書き終えたあと、迅へ手を差し出す。公開誓戦の成立を、双方の接触で示す古い作法だった。
迅は握った。
凱の親指が、迅の指を順に押した。
一、二、三、四、五。
迅が眉を上げる。
「何を数えてる」
「欠けていないか」
「夜には減るかもな」
「減らすつもりで来い。減った分は俺が負う」
「そういう言い方が王様なんだよ」
「おまえは、負わせないと言って自分だけ黙って折る」
二人の手が離れた。
白布が受付台の上で風を受けた。旗には見えない。包帯にも、降参の印にも、何も書かれていない請求書にも見えた。
受付係が困った顔で訊いた。
「この布は、どの旗として登録しますか」
迅は答える前に七瀬を見た。
七瀬はファインダー越しに、白布の向こうへ凱の顔と迅の横顔を入れた。
「旗じゃない」
迅が言った。
「まだ、誰の命令にも使ってない布だ」
凱は白布の端を、署名済みの用紙で押さえた。
「では、今夜まで空けておけ」
七瀬は署名、白布、二人の手が離れた場所を順に十秒ずつ撮った。
「撮影終了。十二時零分三十一秒。公開誓戦、受付成立」
レンズの銀文字が消える。
正午の鐘が鳴った。
七瀬の映像の最後で、白い布だけが、どちらの側にもなびかなかった。