第1話 序章「七歩の地下」第1節

 黒い雨は、十二年前に止んだ。

 ただし天環市では、止んだことと終わったことを、同じ意味では使わない。

 七月七日。黒雨〈セブン・ブラック〉記念日の夜明け前。鉛市〈ナイト・レッド〉の廃商業区には、空からではなく天井から雨が降っていた。

 閉店して久しい大型スーパーの搬入口。ひび割れた配管から落ちる水滴が、地下格闘場の鉄板床を一定の間隔で叩く。三滴、間を置いて二滴。そこへ観客の靴音と、賭け札を破る音と、誰かが朝から飲んでいる安酒の瓶が重なっていた。

 この街の時計は壊れている、と竜胆迅は思う。

 夜明け前に人が殴り合い、負けた方が朝食代を手に入れる。正常な時計なら、どこかで針を止めるはずだ。

「逃げ足のジン、倍率三・二!」

 リング脇の胴元が、ペンキの剥げた値札板を叩いた。

「野犬の豪、一・四! 今から賭ける馬鹿は、負けても泣くな! 泣くなら先に金を置け!」

「どっちに賭けても泣くんじゃねえか」

 迅が言うと、向かいに立つ犬飼豪が八重歯を見せた。

「泣き声は客が出す。俺らは血を出す。商売ってのは役割分担だ」

「役割の給料差がひどいな」

「勝った方は二万八千。犬一匹ぶんの検査代だ。おまえには十分だろ」

「犬の方が高い」

「人間より話が通じるからな」

 迅は百七十四センチ、六十二キロ。格闘家というより、濡れた路地に立てかけられた細い標識に見える。黒髪の前だけに灰色の一房があり、黄褐色の目は相手の顔より肩と靴を見ていた。色褪せた紺の学ランは一番下の釦だけを留め、右手首には赤い組紐を巻いている。

 豪は百九十一センチ、百キロを越える身体を、窮屈そうに左右へ揺らした。袖を切った作業着。縄のベルト。首には犬の鑑札が十数枚、重なっている。赤茶の短髪は雨漏りで濡れ、左眉の二本傷が濃く見えた。

 右膝には使い込んだ装具。左肩は上げ切らない。

 それでも、弱っているようには見えない。大きな犬が伏せているとき、たいていの人間は安心する。犬を知る者だけが、伏せた姿勢は跳びかかる準備にもなると知っている。

 迅はリングへ入る前、踵で床を一度擦った。

 鉄板の傾きは排水溝へ向かって一・八度。北側の照明は四秒に一度だけ暗くなる。南西の金網は留め具が一本浮いている。豪の呼吸は鼻から二回、口から一回。右膝へ体重を載せる直前だけ、首の鑑札が鳴らない。

 浮いた金網の外では、胴元の手伝いらしい小さな少年が、靴の間へ潜って落ちた賭け札を拾っていた。試合が始まれば下がるはずだが、地下の「はず」は、地上の約束よりさらに軽い。

 迅は開始位置を半歩ずらした。

 少年と金網を、自分の背後へ置く。

 豪はその動きを見て、首を傾げた。

「また誰か背負ってる顔だな」

「おまえの顔が広いだけだ」

「意味分かんねえぞ」

「分からない方が安全だ」

「また床と喋ってるのか」

 豪が訊いた。

「床は嘘をつかない」

「人間に友達ができねえ言い草だ」

「おまえは犬に嫌われる日がある」

「今日はまだない」

「朝の四時だぞ」

「だから可能性がある」

 鐘代わりの鍋蓋が鳴った。

 豪は一歩で間合いを消した。

 最初に来たのは拳ではなく、掌だった。迅の視界を塞ぎ、そのまま後頭部を抱えて首相撲へ持ち込む。大きな手だ。爪が短く丸く切られている。犬を押さえる手で、人間の頸椎を折らないよう力を逃がしている。

 優しい手だ、と考えた直後、膝が腹へめり込んだ。

 肺の空気が一度に出る。

 迅は一身分、後ろへ滑った。

 観客が喜んだ。

「一つ!」

 誰かが数えた。

 迅の右手首には、赤い組紐が巻かれている。七つの結び目。その一つ目が、火の消えかけた炭のように淡く灯った。

 黒雨の後、当時幼かった世代の一部は、言葉で自分を縛るようになった。

 三人以上の証者〈スタンド〉の前で、本気の誓いを口にする。守れば身体や知覚が人の限界を越え、破れば力は本人へ戻る。皮膚や所持品へ浮かぶ傷を、研究者は誓痕〈ヴァウ・スカー〉と呼び、地下の客はもっと短く、スカーと呼んだ。

 豪には誓痕がない。

 それを知らない客はいないし、豪自身が忘れさせることもなかった。

「数えろ!」

 豪が吠えた。

「能力持ちの計算が、骨より正しいか試してやる!」

 左右の拳が飛ぶ。右は見せ、左は身体を押すための短い鉤。迅は左肩で受け、二度目の距離を譲った。結び目が灯る。

 二つ。

 豪は追いすぎない。迅の噂を知っている。

 七度下がったあと、一度だけ返す。

 地下では《七退一還〈セブン・リターン〉》と呼ばれていたが、正確な条件を知る者はいない。足跡を七つつける。七発受ける。七秒耐える。噂は賭け率の数だけあり、どれも半分くらいは間違っている。

 間違った噂は便利だ。正しい説明よりよく広がり、敵が勝手に対策してくれる。

 豪は右足を出した。

 踏み込む、と見せて止まる。

 迅は動かなかった。

 観客の何人かが「三つ」と叫んだが、赤い結び目は二つのままだ。

 豪は口の端を上げる。

「自分で下がっても駄目か」

「何の話だ」

「犬は尻尾で嘘をつく。おまえは紐でつく」

「おまえの犬、器用だな」

 豪はもう一度、肩を入れた。

 今度も途中で止める。

 迅は前へ出た。

 下がらないだけではない。豪の胸へ額が触れる距離まで、自分から間合いを潰す。大男の腕が最も力を出しにくい場所だった。

 観客が戸惑う。

 逃げ足と呼ばれる少年が、自分から百五キロの内側へ入った。

 豪の左拳が、迅の脇腹へ短く入る。

 拳を振る空間はない。だから肘を畳み、身体の回転だけで打つ。重い。迅の肋骨が、湿った木材のように軋んだ。

 それでも迅は退かない。

 豪の作業着をつかまず、胸へ左掌を置く。押せば自分から攻撃したことになる。触れたまま、呼吸だけを数える。

 鼻から二回。

 口から一回。

「近いぞ」

 豪が言った。

「見れば分かる」

「俺は男にも犬にも、顔が近い奴は警戒する」

「分類が雑だな」

「嗅げば分かる」

「やめろ」

 豪は本当に鼻を寄せるような動きをした。

 迅が一瞬だけ顎を引く。

 その反応を待っていた。

 豪の右足が、迅の左踵の外へ入る。上体を押さず、足だけを刈る。迅は転ばないため前へ踏んだ。赤い結び目は灯らない。

「前へ逃がした」

 豪が笑う。

「逃げ道ってのは、後ろだけじゃねえだろ」

 力だけの相手ではない。

 契約書を読むのが遅くても、身体で交わした約束はよく覚えている。

 迅は少しだけ目を細めた。

「犬に習ったか」

「人間が教えられると思うな」

 豪は左手で迅の後頭部を押さえたまま、右拳を腹へ二度入れた。迅は二発目に合わせて腰を前へ運び、衝撃を背中へ通さない。痛みは残る。距離は渡さない。

 能力の条件を守るために、殴られればいいわけではない。

 退くべき力と、退かず受けるべき力を分ける。

 判断を一つ誤れば、七つ目へ届く前に身体が先に終わる。

 豪はそれを理解した顔で、三発目を打たなかった。

 代わりに、組みついた。

 腰へ両腕を回し、迅を持ち上げる。退くための床そのものを奪うつもりだ。

「歩けねえなら、七歩も糞もねえ!」

「犬には敬語なのに、人間には雑だな」

「犬は契約を読まずに噛まねえ!」

 迅は宙で身体を丸めた。豪の耳の後ろへ左肘を置き、右手で縄ベルトをつかむ。殴らない。首も締めない。豪が投げる方向へ、重心だけを半拍早く渡す。

 豪の腰が予定より回りすぎた。

 二人は鉄板へ落ちる。迅が下、豪が上。普通ならそこで肺が潰れる。だが床は排水溝へ傾いていた。濡れた鉄板が迅の背を滑らせ、豪の胸が一身分だけ先へ進む。

 迅はその距離を譲った。

 三つ目の結び目が灯る。

「足、動いてねえぞ!」

 観客席から抗議が飛ぶ。

「歩数じゃない」

 細い声が、最後列から返した。

 迅はそちらを見なかった。

 手回し撮影機〈クランク・アイ〉の音がする。

 ぎ、ぎ、ぎ。

 一定の速さで回るクランク音は、地下の歓声より信用できた。回す人間が疲れれば遅くなり、怖がれば軸がぶれる。機械は正直というより、嘘をつくにも体力が要る。

 豪の肘が落ちてきた。

 迅は頭をずらす。肘が床を打ち、金属音が腹へ響く。迅は豪の左脇へ潜り、立ち上がりながら背中で押された。

 四つ目。

 豪はすぐに気づいた。

「おまえ、俺の怪我を避けてやがるな」

「右膝は犬に使え」

「情けを売るな。高くつく」

「買う金がない」

「だったら殴れ!」

 豪の額が迅の右眉へ当たった。

 古傷が開く。温かい血が目尻を走る。

 豪は拳を引く。その肩が沈む前に、迅は半歩だけ左へずれた。後ろではない。

 豪の右拳は空を切り、北側の照明がちょうど暗くなる。

 四秒に一度。

 暗転は一瞬だった。その一瞬で、迅は金網際へ立ち位置を変えた。観客からは逃げたように見える。豪からは、追い込んだように見える。

 人間は見たいものを見たあと、それを観察と呼ぶ。

「五つ目だ!」

 観客が誤って数えた。

 赤い結び目は四つしか灯っていない。

 豪だけがそれを見た。

「客を騙してるのか」

「客が勝手に急いでる」

「俺は?」

「まだ迷ってる」

「腹立つな、おまえ!」

 豪は低く入った。頭を迅の胸へつけ、両脚をまとめて刈る。迅は金網へ背を預けた。留め具の浮いた箇所が、体重で外へたわむ。

 豪は押し切ろうとする。

 迅は踏ん張らない。

 金網が十五センチたわみ、そのぶんだけ身体を譲る。

 五つ目が灯った。

 続けて豪は右肩を押し込み、金網ごと迅を外へ出そうとした。

 迅は肩を引いた。豪の前進へ、また一身分を渡す。

 六つ。

 観客の声が一度小さくなった。

 目で数えた歩数と、赤い灯りが一致しない。賭け事でいちばん人を不安にさせるのは、負けではなく、自分が何に賭けたのか分からなくなることだ。

「あと一つで返るぞ!」

「豪、止まれ!」

「逃げ足の腕を先に折れ!」

 勝手な助言が降る。

 豪は聞かなかった。

 聞けないのではなく、聞かないと決めた顔をしていた。

「俺はな、ジン」

 豪が縄ベルトを緩めた。怒るときの癖らしい。

「七つ数えたら強くなる奴より、七つ数えられても前へ来る奴の方が、客は好きなんだよ」

「客の好き嫌いで犬の薬は安くならない」

「分かってる!」

 低い姿勢から、豪が突進した。

 拳でも投げでもない。百五キロの身体をそのままぶつける。床が震え、鑑札が一斉に鳴った。右膝の装具が軋む。それでも速度は落ちない。

 迅は金網を背にしたまま、相手の顔ではなく足を見る。

 豪の右足が濡れた値札を踏む。

 北側照明が暗くなる。

 排水溝へ向かう傾き。

 鼻から二回、口から一回。

 六つの距離で集めたのは、力ではない。

 どの瞬間に豪が止まれなくなるか、その答えだった。

 迅は左足を引いた。

 逃げるためではない。

 豪が選んだ突進へ、一身分の道を開けるために。

 七つ目の結び目が燃えた。

 音が消えた。

 正確には、消えたように感じただけだ。七度ぶんの衝突音が、身体の奥で同時に鳴ったからだ。

 迅は右手を豪の胸へ、左手を肘へ添えた。

 押さない。引かない。

 豪の肩が進みたがる方向と、右足が滑る方向のあいだへ、ほんのわずかな角度を置く。

 それだけで、百五キロの前進は自分自身を追い越した。

 豪の巨体が横へ回る。

 迅は七度譲った距離を、一度に返した。

 豪は金網へ背中から突っ込む寸前、両腕を広げた。金網を叩き、衝撃を逃がす。留め具が外れ、網が大きく膨らむ。犬の鑑札が金属の雨のように鳴った。

 網の外で、賭け札を拾っていた少年が両腕を顔へ上げる。膨らんだ金網は、その鼻先から掌一枚ぶん手前で止まった。

 迅が七度かけて守った距離だった。

 それでも豪は倒れなかった。

「立つのか」

 迅が言った。

「犬の前で、腹は見せねえ」

「ここに犬はいない」

「俺が見てる」

「面倒な客だな」

 豪が一歩出た。

 右膝が抜けた。

 巨体が前へ傾く。迅は左肩を入れ、床へ叩きつけずに受け止めた。二人でゆっくり沈む。

 鍋蓋が三度鳴った。

 勝者の名前を胴元が叫ぶより早く、迅は豪の右膝へ手を当てた。

「触るな。負けた奴に優しくすると、客が次も期待する」

「装具がずれてる」

「骨が嫌がってるだけだ」

「骨は契約を読まない」

「それ、今度使う」

「使用料を払え」

「二万八千から引いとけ」

「勝ったのは俺だ」

「じゃあ俺が使う。負けた奴の言葉は安い」

 迅は豪の膝装具を締め直した。観客は勝敗に飽き、もう次の賭け札へ群がっている。地下の熱狂は忠実だ。終わったものから順に忘れる。

 クランク音だけが止まらなかった。

「撮影終了。五時十二分四十一秒」

 最後列にいた少女が、初めてカメラを下ろした。

 銅色の短い髪。左側だけ細い編み込み。そこへ黄色いフィルム片を結んでいる。黒い短丈の雨合羽の下には工具ベルトと膝当て。灰色の目は迅の顔より、豪の膝と外れた金網と、床の七つの擦過痕を順に見た。

「二歩目は上体だけ。三つ目は投げられて滑った距離。五つ目は金網のたわみ。足跡じゃない」

 少女は言った。

「攻撃によって、自分一人ぶんの間合いを譲る。七回。そのあいだに相手の動きと、暴力の向きを測る。返せるのは一回」

 迅は眉の血を袖で拭いた。

「実況の仕事でも探してるのか」

「実況は分かったふりをする仕事。私は分からないところを残す」

「じゃあ今の説明を消せ」

「始めてから終わるまで切ってない。消さない」

 少女は撮影機の側面を三度、乾いた布で拭いた。右中指にクランクだこがある。

「火群七瀬。零番街の記録係」

「頼んでない」

「頼まれた記録は、頼んだ人に都合がいい」

「頼まれてない記録は、撮る人に都合がいい」

 七瀬の口元が一瞬だけ動いた。笑う前に、クランクを半回転だけ逆へ戻す。

「それは記録しておく」

「もう終わったんだろ」

「撮影後の記憶に」

「信用できない媒体だな」

 胴元が賞金の封筒を持ってきた。薄い。紙の厚さだけで金額が分かる程度に薄い。

「二万八千。場所代と治療積立と記念日特別税を引いて、一万九千六百」

「地下試合に税があるのか」

「税と呼べば盗む方も胸を張れる」

「便利な言葉だ」

 迅が封筒を受け取ろうとしたとき、豪の作業袋から白い巻物が落ちた。

 包帯だった。人間用より幅が狭く、袋には犬の脚の絵がある。雨漏りの水を吸い、端が泥で黒くなっている。

 豪が拾おうとするより先に、迅が持ち上げた。

「何匹分だ」

「返せ」

「何匹分」

「三匹。脚を切ったのが一。皮膚病が二。あと屋根が落ちかけてる」

「包帯で屋根は直らない」

「屋根に巻く気はねえよ」

「おまえならやりそうだ」

「犬舎の借金が十七万。今月中に払えなきゃ、保護した犬を別の施設へ出す。別の施設ってのは、だいたい言葉だけきれいだ」

 豪は座る前に、床を二度叩いた。それから痛む膝を伸ばした。

「だからリングに上がる。客は俺が殴られると金を出す。犬は俺が殴られても知らん顔だ。公平だろ」

「公平は、全員が同じだけ困ることじゃない」

「難しい話をするな。頭の傷に響く」

 迅は賞金袋から紙幣を三枚抜き、胴元へ戻した。

「新しい包帯。いちばん幅の狭いやつを三つ」

「ここは薬局じゃねえ」

「隣が闇医者だ」

「闇医者は犬を診ねえ」

「包帯は診察しない」

 胴元は露骨に嫌な顔をしたが、迅が賞金袋ごと引っ込める素振りを見せると、奥へ消えた。

 七瀬のカメラが、また少し持ち上がった。

「撮るな」

 迅と豪が同時に言った。

 七瀬は下ろした。

「理由は?」

「犬の顔が映ってないから、話として弱い」

 豪が言った。

「そういう理由で止めたんじゃない」

「同じ結果なら、理由はあとで喧嘩しろ」

 迅は封筒の残りを学ランの内側へ入れた。自分の朝飯を削ったことは、口にしない。口にすれば善意は勘定へ変わり、相手が返さなければならなくなる。

 搬入口の奥で、爪が床を引っかく音がした。

 錆びた防火扉の隙間から、片耳の垂れた黒い犬が鼻先を出す。後ろ脚には、使い回した包帯。濡れたゴム球を口にくわえ、リングの血の匂いを嗅いでも怯えなかった。

 豪の声が、ひとつ高くなる。

「おい、出てくんな。床が汚い」

「今さら床を心配するのか」

「こいつの脚は洗うのが面倒なんだよ」

 豪は痛む右膝を引きずって立ち、犬の前へしゃがんだ。いきなり頭を撫でず、まず掌を見せる。犬が匂いを嗅いでから、顎の下へ手を入れた。

 リングでは人間の首を抱えた手が、今は爪一本ぶんの圧力で包帯を確かめている。

「またほどいたな。おまえ、俺より医者の言うこと聞かねえな」

 犬はゴム球を豪の足元へ落とした。

「投げろって」

「膝が悪い」

「口で投げろ」

「おまえ、犬への要求が高いな」

 迅が左足で球を軽く転がすと、犬は三歩だけ追い、包帯の脚を浮かせて止まった。それ以上は行かない。自分の痛みを知っている退き方だった。

 七瀬が撮影機へ手をかけた。

「この犬は撮っても?」

 豪はすぐに首を振った。

「駄目だ」

「さっきは、犬の顔が映っていないから弱いと」

「冗談と許可を同じ棚に置くな。病気の顔で寄付を集めると、治ったあとに客が減る。こいつらは可哀想なまま飯を食うわけじゃねえ」

 七瀬は撮影機を上げなかった。

「分かりました」

「理由は記録しねえのか」

「撮らない理由まで公開するとは言っていません」

「面倒な商売だな」

「格闘よりは怪我が少ないです」

 豪は自分の膝を見た。

「それは羨ましい」

 黒犬は球を拾わず、迅の靴へ鼻を押しつけた。外側だけ減った靴底と、鉄と血の匂いを嗅ぐ。

「勝った奴へ乗り換えやがった」

 豪が言う。

「犬は契約を読むんだろ」

「読む。おまえの契約は餌が出ねえって顔してる」

「正しいな」

 迅は犬の鼻先を避けず、ただ手は出さなかった。触れば懐かれると思ったわけではない。触れた方が守る側になる、という自分の勘違いを知っていたからだ。

 犬の方から、迅の左手へ額を当てた。

 選んだのは犬だった。

 地下の壁面にある旧式表示板が、突然白く光った。

 次の試合の案内ではない。

 鐘の低い音が、場内放送から一度だけ響く。

 画面に現れたのは、白い長外套の少年だった。銀白の髪。胸に割れた青銅鐘。背後には、黒雨で亡くなった者の名を刻む記念広場の慰霊壇が映っている。

『本日十九時、黒雨記念広場にて、白冠連〈ホワイト・クラウン〉による公開誓戦〈オープン・ヴァーディクト〉を執り行う』

 深い声が地下の壁を震わせた。

『争いは、見えない場所で続けるほど腐る。異議を持つ者は、証拠と証者を連れて来い。俺、獅堂凱が、公の場で裁定する』

 表示板には《白王》の二字が重なった。

 観客が沸いた。

「凱だ!」

「今夜で天環の揉め事は片づく!」

「白王ならやる!」

 豪が鼻を鳴らした。

「他人の揉め事を一晩で片づける奴は、だいたいゴミを床下へ押し込んでる」

「犬舎の屋根を直してから政治を語れ」

「屋根が落ちると、政治家も濡れる」

「入れるな」

 七瀬だけは表示板を見ず、迅を見ていた。

「獅堂凱を知ってる」

「天環で知らない方が難しい」

「そういう意味じゃない。竜胆岳さんと、青灯〈ブルー・ランタン〉を作った人」

 迅の右親指が、赤い紐を押さえた。

 七瀬はそれを見たが、指摘しなかった。代わりに工具ベルトから、黒い金属の缶を取り出した。掌二つぶんほどの丸い缶。側面に古い磁気封印が巻かれている。

「二年前、第七水門で避難命令が変更された」

「公式記録なら読んだ」

「公式記録は十九時十七分に変更。これは十九時十四分三十二秒」

「何が違う」

「三分」

「見れば分かる」

「三分で、帰れる人が帰れなくなる」

 七瀬は缶を開けなかった。封印の上へ、折り畳まれた紙片を置く。古い避難名簿の複写だった。水染みで半分が読めない。

 上部には《青線帰還班 七名》

 その下に、七つの氏名が並んでいる。

 水守佐和。

 北野梓。

 朴水蓮。

 梶原恭介。

 瀬尾千鶴。

 神谷澄。

 最後の一行だけ、迅は読む必要がなかった。

 字の形より先に、胸の奥が知っていた。

 竜胆岳。

「この七人は、命令に逆らって戻らなかったことになってる。公開要約では、班の判断責任を竜胆岳一人へ置いている」

 七瀬の声は一定だった。時刻と人数を言うとき、彼女の速度は変わらない。

「でも記録には、七人が出たあとで帰還路を閉じる命令が入ってる。変更に使われた端末、時刻、署名欄。全部の断片がある」

「断片」

「そう。完全じゃない。だから広場の旧い投影端子で読ませる。あれなら磁気証言テープ〈トゥルー・リール〉の回転誤差と、当時の防災時計を照合できる」

「勝手に映せばいい」

「端子は慰霊壇の裏。今日は白冠が封鎖する」

「凱に許可を取れ」

「取る。あなたが決闘を申し込んで」

 迅は紙片から手を離した。

「他を当たれ」

「七人のうち、一人はあなたの兄」

「だから何だ」

「家族なら正しいって話じゃない。記録の真正性を争われたとき、現在の利害を持つ証者として名乗れる」

「便利な弟だな」

「便利だとは言ってない。必要だと言った」

「同じだ」

「違う。便利なものは壊れたら替える。必要な人は、断る権利まで含めて必要」

「じゃあ断る」

「分かった」

 七瀬はすぐに言った。

 迅は少しだけ拍子を外された。

「説得しないのか」

「断る権利まで含めたから」

「性格が悪いな」

「五時二十八分。竜胆迅、協力を拒否」

「もう撮ってない」

「記憶に残した」

「信用できない媒体だ」

 七瀬は紙片を畳み、缶の上へ戻した。

「ただ、七人の名前を見てから断るまで、あなたは十二秒かかった。犬の包帯を買う判断は三秒」

「時刻で人間が分かると思うな」

「分からない。だから測る」

 豪が新しい犬用包帯の袋を受け取りながら、低く笑った。

「行けよ、ジン」

「おまえに関係ない」

「そうだ。俺の犬でも借金でもない七人だ。だから、おまえが関係ないって言う顔くらい、外から見える」

「どんな顔だ」

「腹が嘘ついて、口だけ先に帰ろうとしてる」

「人の匂いを言い当てるな」

「犬ほど当たらん」

 迅は出口を見た。

 階段は一つ。地下へ来るときに確認した非常口は、荷物で塞がれている。外は雨。記念広場までは歩いて五十分。寄り道をすれば、もっとかかる。

 兄の名が書かれた紙は、七瀬の手の下にある。

 迅はそれを取り上げなかった。

 代わりに、胴元の台へ置かれていた白い布を一枚つかんだ。選手の傷を拭くための、何の印もない布だった。

「借りる」

「血がついたら買い取りだぞ」

「さっきの税から出せ」

「どこへ行く」

 七瀬が訊いた。

 迅は白布を折り、学ランの内側へ入れた。

「凱の歩き方を見に行く」

「決闘は」

「まだ申し込まない」

「どうして」

「殴る相手を決める前に、出口を数える」

 迅は地下の階段を上がった。

 七段目に足を置いたとき、背後で犬の鑑札が一度だけ鳴った。