第93話 第九章「当事者の言葉」前編
九月二十一日 午前九時十二分
カメラは、嘘をつかない。
人が嘘をつく場所を、四角く切り取るだけだ。
「私は、店舗利用、共同警備、破損保証の継続を希望します。住居及び診療については――」
「待ってください」
火群七瀬は手回し機の取っ手から手を離した。
市場の共同食堂。
壁際に白布。
中央に撮影卓。
その前に、契約者が一人ずつ座る。
朝から七人目。
陶器屋の主人は、暗記した文を途中で止められ、口を開いたまま七瀬を見た。
「何か間違った?」
「間違いかどうかを確認します。今の言葉は、どこで作りましたか」
「昨日の説明会」
「誰が書きました」
「皆で」
「あなたが書いた部分は」
「皆でだよ」
「紙を見せてください」
主人は内袋から折り畳んだ紙を出した。
同じ文が、きれいな筆字で書かれている。
七瀬は朝から三度見た。
《私は、店舗利用、共同警備、破損保証の継続を希望します。住居及び診療については別個の契約として選択する権利を求めます》
意味は悪くない。
真琴が作れば、たぶん近い文になる。
問題は、三人とも同じ場所で息を吸い、同じ助詞で詰まり、同じ語尾を少し上げたことだった。
「この文章を使うと、何が起きると思いますか」
「店は続く。家と病院は別になる」
「共同警備をやめたい時は」
「え」
「この文では継続を希望しています」
「今は続ける」
「いつまで」
「必要な間」
「やめる方法は」
主人は紙を見る。
そこにはない。
「あとで聞く」
「誰に」
「巴さんか、真琴さん」
七瀬はカメラの蓋を閉じた。
「今の撮影は使いません」
「なぜだ」
「あなたが悪いのではありません。撮る前の説明が足りませんでした」
「ちゃんと言った」
「言えました。でも、言えたことを契約へ使うと、やめ方を知らないまま新しい同意になります」
「じゃあ何て言えばいい」
「正解は教えません」
「撮るんだろ」
「撮らない方法もあります」
「証拠がなくなる」
「あなたの言葉が、私のカメラに入らないと存在しないわけではありません」
「八旗は見るのか」
「許可した範囲だけ」
「見せないと、空白の旗が困る?」
七瀬は答える前に、自分の胸元を見る。
黒い短い雨衣。
肩にカメラを掛けていない。左肩の炎症で、三脚を使う時間が増えた。それでも、人は彼女を見ると記録者だと思う。
撮ってもらえば、意見が強くなると思う。
空白の旗が八旗協議へ参加資格を得るには、成果の提出が必要だ。
多くの証言映像があれば有利だ。
七瀬が「撮らなくていい」と言う時、その不利を誰が負うのか。
「困る可能性はあります」
主人の顔が曇る。
「なら撮れよ」
「だから撮る、だと、あなたは空白の旗のために同意します」
「助けてもらってる」
「助けと交換に言葉をもらう契約はしていません」
「面倒だな」
「はい」
「何なら面倒じゃない」
「黙って帰ること」
「それでいい?」
「あなたが選ぶなら」
陶器屋の主人は紙を見た。
カメラを見た。
壁際の白布を見た。
「今日は帰る」
「記録は」
「断ったって人数だけ」
「分かりました」
扉は閉じない。
七瀬は撮影票の《拒否》へ一つ印を足した。
氏名欄は空白。
断った人を数える。
誰が断ったかは残さない。
記録の穴を、失敗として塗りつぶさない。
記録方法は、六つに分かれた。
一、顔と音声。
二、顔なし、音声。
三、手元と筆談。
四、本人の紙だけ。
五、立会人二名の確認だけ。
六、記録しない。
七瀬は、各方式の札を別の色で作った。
巴が色だけでは識別できない人のため、形も変えた。
丸。
三角。
四角。
波。
二本線。
空白。
「空白も札?」
三一が訊く。
「撮らない人が、撮影卓へ来なくていいように」
「来ないなら札いらない」
「来なかった人数が分からない」
「数えなくていいって人は」
七瀬は止まる。
「いる?」
「俺」
「記録を拒むことも、記録しない?」
「うん」
「では、あなたを拒否人数へ入れない」
「入れなかったって書く?」
「書かない」
「本当に?」
「今、私の手帳にも書きません」
三一は七瀬の手帳を覗き込む。
七瀬は頁を閉じた。
「見せない」
「疑ってる」
「疑っていい」
「怒らない?」
「怒ります。でも、疑うなとは言いません」
「面倒」
「よく言われます」
三一は青果台へ戻る。
七瀬は、彼が記録を拒んだことを頭の中で数えそうになった。
数えないと決めた人を、記憶の中だけで数えるのは違う。
別のことを考える。
カメラの歯車。
右手で半回転。
止める。
左肩を上げない。
痛みは数えていい。
自分の身体の情報だからだ。
午前十一時四十三分。
八旗協議の傍聴担当が二人来た。
名前は告げず、灰色の帯だけを腕へ巻いている。
「提出資料の中間確認です」
一人が言う。
「証言数、撮影数、契約分離案の一致率を見たい」
「一致率は出していません」
七瀬。
「なぜ」
「同じ文へ揃える作業ではないからです」
「では、成果をどう測る」
「残すものと終えるものを、本人が別々に示せた件数。保留、拒否、方法未確保も含めます」
「拒否は成果ではない」
「作業状態です」
「提出評価では、解決した件数が必要だ」
「解決を、署名数で数えますか」
「少なくとも比較できる数字が要る」
「同じ署名を集めた結果が、今の契約です」
担当者は顔を硬くする。
「八旗協議を批判しているのか」
「質問しています」
「立場を明確に」
「記録者です」
「空白の旗の一員では」
「仕事ごとの記録担当です」
「責任を避ける言い方に聞こえる」
七瀬は反論しかけた。
正しい。
所属を曖昧にして、自分の言葉の責任から逃げる危険がある。
「この仕事の記録方法は、私が責任を負います。八旗へ見せない選択を認めた結果、参加審査に不利が出るなら、その判断も記録します」
「住民より、空白の旗の利益を下げると?」
「住民の発言を、参加資格の代金にしません」
担当者は撮影卓を見る。
「少なくとも、同意した者の映像を集めてください」
「撮られることへ同意した者だけです」
「契約分離へ同意した者ではなく?」
「別です」
「細かいな」
「混ぜると、また一枚になります」
担当者は不満そうに、中間票だけ受け取った。
数字はある。
聞き取り対象、四十八。
確認済み、二十九。
保留、八。
質問あり、六。
通訳方法未確保、一。
記録拒否、三。
人数集計も拒否、一――この一だけは数えないため、票には書かれていない。
合計は、住民数と合わない。
七瀬は合わないまま提出した。
午後零時三十八分。
陶器屋の裏口で、皿の割れる音がした。
七瀬は反射で手回し機へ手を掛ける。
回さない。
まず音の方へ走る。左肩を揺らさず、右手で三脚を畳む。
裏路地に、男が二人いた。灰色の運搬服。陶器の木箱を台車へ積んでいる。店主が一人の腕を掴み、振り払われたところだった。
「代金の相殺だ」
運搬服の男が紙を見せる。
《搬入費未払につき、保管物を留置する》
「その皿は客へ渡す分だ」
店主が叫ぶ。
「搬入した物だ。費用が払われるまで持つ」
「昨日、請求額を争うって出した」
「争っても未払は未払だ」
夜警が二人、路地の両側から来る。
槙司の契約で置かれた共同警備だ。
「台車を止めてください」
夜警の女が言う。
「契約上の留置だ」
「留置通知は管理台へ事前提出が必要です」
「今出す」
「持ち出し後では認めません」
男が台車を引く。
夜警は殴らない。車輪止めを前へ蹴り入れ、台車だけを止める。もう一人が店主と男の間へ身体を置く。
「暴力があれば共同警備規約で拘束します」
「俺たちを泥棒扱いするのか」
「契約手続きが未完了の搬出として止めています」
言葉が正確だ。
男の怒りは、向ける先を失う。
七瀬は撮影許可を訊くべきか迷った。
今、カメラを回せば、搬出の証拠になる。夜警の適正手続きも残せる。男たちは拒むかもしれない。店主は撮ってほしいと言うだろう。
同じ場面に、四人の選択がある。
「記録が必要ですか」
七瀬は夜警へ訊く。
「管理台の定点記録があります」
「路地は死角」
「立会い記録で足ります。急いで撮る必要はありません」
夜警の女は七瀬のカメラへ頼らない。
「当事者へ確認してからにしてください」
七瀬は少し驚いた。
共同警備の仕事は、人を止めるだけではない。記録者が権利を越えそうな時にも止める。
巴が到着し、四者へ別々に確認する。
陶器屋は、手元と台車だけの撮影を希望。
運搬人二人は拒否。
夜警は職務記録として腕章と車輪止めだけなら可。
七瀬は画角を床へ下げる。
顔は映らない。声も切る。
割れた皿。
止まった車輪。
未提出の通知書。
店主の指が紙の《事前》を指す。
四十秒。
それだけ撮る。
真琴が請求書を照合し、搬入費のうち三割は未確認、七割は支払期限前だと分かる。留置条件は成立していない。
運搬人は木箱を戻す。
「この警備を外すのか」
陶器屋が、七瀬へ訊いた。
「私は決めません」
「昨日、警備を別にするって」
「別に選べるようにする案です」
「皆が外したら、次は誰が止める」
「残したい人が負担する形を考えています」
「払えない店は」
答えはまだない。
夜警の女が言った。
「私たちも、無料では立てません」
その声に責める色はない。
守られる側の選択には、守る側の賃金がつながっている。
契約を分ければ、自由になる。
同時に、今まで見えなかった値段が一つずつ現れる。
男たちが去った後、陶器屋は朝に暗記した紙を取り出した。
《共同警備の継続を希望します》
「これは、自分で言える」
七瀬。
「今はな」
「今でいいです。変える方法も一緒に」
「警備をやめたら、今みたいな時に誰も来ない?」
「共同警備は来ません。別の警備を頼む、店同士で当番を組む、何もしない。それぞれの費用と危険を確認します」
「面倒だ」
「今日、来てくれた人の仕事を、面倒の中へ入れないといけません」
陶器屋は夜警へ頭を下げた。
「助かった」
「料金に含まれます」
女は笑わない。
「でも、言われるのは悪くありません」
七瀬はその会話を撮らなかった。
撮らなくても、店主の選択は朝と違う重さを持った。
午後二時二分。
硝子屋の波佐間啓吾は、顔と音声の撮影を選んだ。
「店の前で撮ってくれ」
「理由は」
「硝子が映る」
「商品宣伝には使いません」
「違う。割れた窓も映る」
店の左側には、継ぎ目の入った大窓がある。
五年前に割れた。
今は透明樹脂でつながれているが、亀裂は稲妻のように残る。
「三人の客が来た」
波佐間は窓の前へ椅子を置く。
「値札の半額にしろと言った。断ったら、硝子を二枚持っていった。追ったら窓へ投げられた」
「契約前ですか」
「共同警備へ入る前だ」
「その後は」
「夜警が来る。値切りは客の権利だが、持ち逃げは止める。割れた分は共同保証から七割出た」
「残り三割は」
「俺」
「不満は」
「ある。だがゼロよりいい」
七瀬は撮影票を確認する。
「今日、何を残しますか」
「店舗利用。共同警備。破損保証。共同仕入れは使っていない。清掃は残す」
「何を終えますか」
「何も」
「住居と診療も?」
「今のままでいい」
「店を閉める時は」
「閉めない」
「病気で続けられなくなったら」
「その時考える」
「その時、家まで再審査になります」
「知ってる」
「説明できますか」
「店をやめると、上の部屋へ住めるか黒板会が見直す。診療費も上がるかもしれない」
「それでも残す?」
「残す」
七瀬はカメラを回す。
波佐間は、暗記した文ではなく、自分の言葉で話す。
「俺は、契約に守られた。縛られてる人がいるのも分かった。だから、縛られた人の紐だけ切れ。俺の窓まで外すな」
撮影を止める。
「今の言葉を、契約文へ使っていいですか」
「そのまま?」
「いいえ。真琴さんと巴さんが、条件へ直す案を作ります。あなたが確認し、違えば直せます」
「ならいい」
「撤回期限は明日正午」
「撮影の?」
「はい。契約分離の意思は、別の票でいつでも変更方法を確認します」
波佐間が眉を寄せる。
「今、分けたな」
「何を」
「撮る約束と、店の約束」
「別です」
波佐間は亀裂の入った窓を見る。
「じゃあ、店の約束も分けられるか」
「何を」
「店は続ける。警備も残す。だが、上の部屋を担保にするのはやめる」
七瀬はカメラへ手を掛けない。
「今の発言を撮りますか」
「いや」
「音声だけ」
「紙」
「自分で書きますか」
「字が汚い」
「汚くていい」
波佐間は撮影卓の紙へ書く。
《店は続ける》
《警備を残す》
《窓の保証を残す》
《家を店の借金に入れない》
《病院は別に選ぶ》
最後の一行で、筆が止まる。
《これを後で変える方法を先に知る》
七瀬は紙を撮らない。
紙だけの記録を選んだからだ。
「あなたは榊さんの案を支持していました」
「今も、警備をなくす案には反対だ」
「複合契約には」
「反対する」
「いつ変わりました」
波佐間は亀裂へ触れる。
「変わってない。守ってほしい物と、渡したくない物が最初から二つあった。言う欄がなかった」
その言葉は、撮影されていない。
七瀬の手帳にも、本人の許可なしでは書けない。
「今の一文は、記録しますか」
波佐間は考える。
「紙へ。名前は出していい。映像はいらない」
七瀬は彼が言った通りに書き、読み返す。
波佐間が二か所直す。
《渡したくない》を、《担保にしたくない》へ。
軽妙な言葉より、本人が選んだ固い言葉が残る。