第92話 第八章「真琴の反論」後編

 槙司が紙片を見た。いつも即座に定義を返す男が、数秒遅れた。

「当時の書庫整理で、終了案件を付属資料へ移した」

「あなたが?」

 真琴の問いに、槙司は頷く。

「十三歳だった。黒板会の見習いとして、分類番号を書いた」

 赤い《終了》は、今の槙司の筆跡より丸い。だが、括弧の閉じ方は同じだった。

「あなたが否決したわけではありません」

「分類した」

「命じられて」

「命令は責任を消さない。だが、命令された十三歳へ現在の全責任を置くのも、正確ではない」

 槙司は自分を庇わず、自分を断罪もしない。

 真琴は、その態度が少し羨ましかった。

 白冠にいた頃の自分なら、過去の命令を盾にするか、過去まで全部自分の罪だと言って倒れるか、どちらかだった。

「今の責任は?」

「この紙が存在したと開示すること。採用案として使わせないこと。否決理由も同時に示すこと」

「五年ごとの再確認は、今でも不可能だと?」

「費用は消えていない」

「選ばないまま過ぎた五年の費用は、誰が計算しました」

 槙司の左手が止まる。

 真琴は紙片の三項目を見る。

 説明会には人手が要る。

 書換えには紙も金も要る。

 退出者が増えれば、共同保証の負担は上がる。

 全部、見える費用だ。

 見えない費用もある。

 店をやめたいのに、診療を失うから続けた時間。

 家を移りたいのに、共同債務があるから残った時間。

 「分かった」と言った一言で、扉の向こうへ閉じ込められた時間。

 時間には領収書がない。

 領収書がない損は、会計から消えやすい。

「見える費用だけで、制度を安定と呼んだ可能性があります」

 真琴が言う。

「可能性では改訂できない」

「だから聞き取る。今の住民へ」

「過去の廃案を見せれば、誘導になる」

「隠しても誘導です」

 槙司は反論しない。

 巴が紙片の文を、短い形へ書き直す。

《五年ごとに、四つを別々に続けるか聞く案があった》

《費用、不安定、退出増加を理由に採用されなかった》

《今の答えではない》

 最後の一行を、太く囲む。

《これを選べ、という紙ではない》

「公開します」

 真琴が言った。

「反対理由も、採用されなかったことも、あなたが分類したことも」

「私の年齢も?」

「必要ありません。分類者の個人史が制度論を飲み込みます」

「私に有利だから省くのか」

「あなたを裁く資料ではないから省きます。問われたら、答えてください」

「答える」

 槙司は紙片を保存布へ戻した。

「この提案者を探すか」

「探せるなら。ただし、提案者が正解を持っているとは限りません」

「七年前に見えた問題が、今も同じ形とは限らない」

「はい」

 古い敗北は、現在の勝利の設計図ではない。

 ただ、問題を見た人が以前にもいたという証拠にはなる。

 制度は、初めて間違いを見つけた英雄によってだけ変わるのではない。

 見つけたのに通らなかった人の言葉を、次の人が踏み台ではなく地面として扱う時にも変わる。

 巴が、旧冊子の空欄へ指を置いた。

 使える規定を見つけた。

 しかし、それを正解として住民へ渡す前に、何のために使うかを聞かなければならない。

 真琴は旧冊子を閉じた。

 窓の外へ出る。

 住民が待っている。

 期待。

 真琴が「使える」と言えば、皆が同じ言葉を言うかもしれない。

 店を終えたい。

 住居を残したい。

 診療を残したい。

 昨日までに聞いた言葉を、そのまま正解へできる。

 正解を先に置けば、違う人は間違いになる。

 真琴は旧規定を掲げず、机へ置いた。

「質問します」

 秋枝が訊く。

「何が見つかったの」

「先に、あなたがこの契約へ署名した時、翌日から何ができると思ったか教えてください」

「今さら?」

「今まで、条文の意味ばかり訊きました。あなたが何をするために署名したかを、私は聞いていません」

 秋枝は腕を組む。

「店を開ける。母と上に住む。具合が悪ければ東の診療所へ行く。夜、針仕事が長くなっても帰り道が明るい」

「店を閉めた翌日は」

「母と住む。病院へ行く。夜は早く寝る」

「警備は」

「部屋の廊下には要る。店の夜警はいらない」

 真琴は書く。

 法的用語へ直さない。

 槙司が窓の内側から聞いている。

 刃物研ぎの老人。

「署名した翌日、店を荒らされず、刃物を置いて便所へ行けると思った」

「店を閉める日は」

「最後の一本を客へ返すまで守ってほしい」

 波佐間。

「署名した翌日、三人組の値切り客へ一人で向き合わなくていいと思った。閉める予定はない」

 三一。

「俺は署名してない」

「承継札を受け取った翌日」

「母ちゃんの店を開けろって言われると思った」

「何ができると思った、ではなく?」

「何もしないと怒られると思った」

 真琴の筆が止まる。

 契約の目的が、権利ではなく恐怖の場合もある。

 手話の老女は、屋根の形を作る。

 娘と二人を、その下へ置く。

 店の絵は置かない。

 巴が訳す。

《娘と同じ家にいる》

 真琴は旧冊子を開く。

《言葉、印、絵または身振りで示し》

 条文が、住民のために初めて働く。

 抜け道としてではない。

 もともと、人の違う方法を契約へ入れるためにあった。

 槙司が資料室から出てきた。

「旧規定の効力は認めていない」

 住民の視線が集まる。

 槙司は続ける。

「ただし、廃止が明示されていないことは認める。審査中、目的別分離の申出を仮受理する」

「仮?」

 秋枝。

「相手方が同じ目的を指し返せるか確認する。運用条件を作る」

「また難しくする?」

「必要な条件は書く」

「誰が読む」

 槙司は答えようとする。

 巴が先に、黒板を出す。

《本人が、明日できると思ったことから始める》

 槙司はその文を読む。

「曖昧だ」

 真琴は言った。

「だから、次に条件を足します。最初から条件だけを置かない」

「順序で精度は変わらない」

「理解は変わる」

「証明できるか」

「今から確認します」

 真琴は白い手袋を外した。

 インクで汚れた左指が見える。

 旧冊子の最後には、大きな空欄があった。

《この約束で、あなたは明日――》

 続きは印刷されていない。

 契約者が、自分で書くための余白だった。