第94話 第九章「当事者の言葉」後編

 午後四時四十七分。

 波佐間の紙が掲示されると、契約継続派が管理台へ集まった。

「全部なくすんじゃないのか」

「警備だけ残せる?」

「保証料は上がるのか」

「住居を外したら、店が潰れた時に誰が払う」

 榊槙司も来た。

 紙を読む。

「住居担保を外せば、共同保証の原資が減る」

 波佐間が答える。

「店の保証料を上げろ」

「払えない店が出る」

「払えないなら保証を小さくする」

「共同性が失われる」

「俺の家まで入れないと共同にならないのか」

「全員が同じ担保を出すから、負担が安定する」

「家の値段は同じじゃない」

 真琴が顔を上げる。

 波佐間は続ける。

「一部屋の奴と、二階全部を持つ奴が、同じ住居資格を担保へ出す。数は一つでも重さは違う」

 槙司の左手が空中へ括弧を描く。

「住居資格であり、物件価値ではない」

「止められた時に寝る場所がなくなるのは同じだ」

「だから公平だ」

「同じ痛みを出せば公平か」

 槙司は答えない。

 波佐間は榊を敵として追い出さない。

「警備を作ったのは助かった。あんたの契約で、俺は店を続けられた」

「なら、なぜ壊す」

「壊さない。店の約束から、家を外す」

「外せば、全体の計算が変わる」

「計算し直せ」

「誰が負担する」

「店を守ってほしい奴」

「弱い店ほど払えない」

「そこは皆で考える。家を人質にしたまま楽な計算をするな」

 市場の空気が変わる。

 解約派と継続派ではない。

 残す約束が違う人々になる。

 榊の側にも、波佐間の側にも、完全な正解はない。

 警備費を上げれば、小さな店が外れる。

 住居を担保にすれば、店をやめられない。

 共同保証を小さくすれば、また窓を割られた人が一人で払う。

 七瀬は議論を撮影しない。

 全員の許可を取っていない。

 代わりに、公開黒板だけを撮る。

《店は続けたい》

《家は担保にしたくない》

《警備は残したい》

《負担は再計算が必要》

 四つは同時に存在する。

 どれか一つを削れば、映像は分かりやすくなる。

 分かりやすい映像は、また人を一つの答えへ並ばせる。

 市場の北口で、木版を叩く乾いた音がした。

 街路新聞の青年が、刷り上がったばかりの紙束を抱えて入ってくる。帽子には鉛の活字が三つ刺さっていた。落とさないためらしいが、転べば額へ刺さりそうだった。

「火群七瀬さん!」

 青年は七瀬を見つけ、勝手に声を大きくした。

「記事、二案あります。どちらが正しいですか」

 差し出した紙の上には、まだ本文がない。見出しだけが彫られている。

《無名の旗、契約都市を解放》

《黒板会の契約暴走、住民を監禁》

 迅が二枚を見比べる。

「両方、字がでかい」

「大きい字は売れます」

「小さい本当は?」

「売れてから書きます」

 七瀬は紙を返した。

「どちらも使えません」

「解放してない?」

「まだ契約は分かれていません」

「監禁は?」

「閉鎖扉の事故はありました。ただし、黒板会の全員が意図した監禁だと確認していません」

「映像を見せてください。扉へ飛び込むところ。あれがあれば一面です」

「救護対象と周囲の許可を取っていません」

「顔を隠します」

「身体の動き、店の位置、衣服で特定できます」

「では、迅さんが扉を蹴るところだけ」

「蹴ってない」

 迅が言う。

「押さえた」

「押さえただけだと弱いなあ」

「扉は強かった」

「そういう意味ではありません」

 青年は硝子屋の波佐間へ向きを変える。

「住民代表として一言。白布の英雄たちに救われた?」

「代表じゃない」

「継続派の代表」

「頼まれてない」

「では、一店主として」

「警備契約は残す。住居は外す。負担は増えるかもしれない」

「長いですね」

「短くしたら嘘になる」

 青年は困って、迅を見る。

「迅さんなら短く言えるでしょう」

「仕事をした」

「何の?」

「扉を押さえる仕事」

「誰と戦った?」

「扉」

「扉は悪役になりません」

「扉に聞け」

 青年は帽子を掻いた。活字が鳴る。

「読者は、誰が悪いか知りたいんです」

 七瀬が言った。

「読者に、誰が困っているかを聞いてもらってください」

「それは記事になりますか」

「あなたが記事にするんです」

「僕に責任が来る言い方だ」

「記事を書けば、来ます」

 青年はしばらく黙り、見出し二枚を裏返した。

「取材していい人は、誰です」

 七瀬は公開同意板を指した。

 撮影可。

 音声のみ可。

 筆記のみ可。

 匿名なら可。

 取材不可。

 住民自身が札を選び、いつでも裏返せる。

「この札、本当に途中で変えていい?」

 青年が訊く。

「変えた時点から止めます」

「書いた後なら」

「公開前に本人へ確認する約束をした記事なら直す。約束していないなら、最初にそう説明する」

「面倒ですね」

「面倒でなくする方法は、だいたい誰かを黙らせます」

 青年は最初に、筆記のみ可の札を出した三一へ話を聞いた。

「名札のない債務者、と書いていいですか」

「名前ある」

「では、お名前を」

「三一」

「番号ですよね」

「俺が使う時は名前」

「本名は」

「書かない」

「匿名なら可の札ではなく、筆記のみ可ですよ」

「三一と書け」

「読み手が番号だと思います」

「番号だと思ったら、記事の中で俺が名前だと言ったことも書け」

 青年は紙へ書いた。途中で何度も消した。

 次に波佐間へ聞く。

「契約を壊したい?」

「店の契約は残したい」

「では黒板会側?」

「側で分けるな」

「記事は段落で分けないと読みにくい」

「人間まで段落にするな」

 青年はまた消した。

 香辛料店の女主人には、取材不可の札を見て近づかなかった。代わりに、公開黒板の四行を写す。真琴へ保証費の再計算を尋ね、巴へ説明料金を誰が払うか尋ね、槙司へ契約維持の理由を尋ねた。

 槙司は十八分話した。

 青年は途中で二度、紙を足した。

「長いですね」

「短い契約が善とは限らない」

「短い記事も?」

「記事は契約ではない」

「逃げましたね」

「分類した」

 日が傾く頃、青年は市場の端に座り、木版の文字を削り直した。

 新しい見出しは小さかった。

《店・家・診療を、別々に選び直す市場》

 その下に、さらに小さな字が続く。

《警備費の不足、説明費用、継続希望者の保証は未解決》

《白布に議決権なし。住民三十二人の手続き続く》

「売れないな」

 青年が呟く。

「嘘より?」

 七瀬が訊く。

「嘘は売れます。訂正号も売れます。二度おいしい」

「では、なぜ直したんです」

「三一さんに、次から取材させてもらえなくなるから」

「立派な理由ですね」

「商売上の理由です」

「立派と善良は、同じ言葉ではありません」

 青年は最初の一枚を刷り、自分の硬貨で買った。

「売り手が買うの?」

 迅が訊く。

「最初の読者がいない記事は、誰にも読ませる資格がない気がする」

「名言みたいだ」

「記事に使わないでください。恥ずかしい」

 七瀬は刷り上がった紙を受け取らなかった。

 自分の記録へ取り込めば、街路新聞まで火群七瀬の証拠に見える。

 青年が自分で取材し、自分で削り、自分で最初の読者になった記事だ。

 別の記録は、別の手に残る方がいい。

 七瀬はただ、発行時刻と販売場所だけを自分の帳面へ書いた。

 同じ出来事を、同じ形で残さない。

 記録が複数あることは、真実が割れることではない。

 一つの記録が、真実の椅子を全部占めないための空席だ。

 午後六時十二分。

 撮影卓を片づけていると、香辛料店の女主人が来た。口元は布で覆われている。

「今日は撮らない」

「承知しました」

 七瀬は言い、すぐ階段の扉を見た。ここは定義域外だが、三語を避ける癖が残っている。

「撮らない選択を受けました」

「そこまで言い直す?」

「少し怖くなっています」

「言葉が?」

「簡単な返事が、別の意味へ使われることが」

 女は布の下で笑ったらしい。目尻だけが動く。

「私も。夫が『店をやめたら胡椒が三倍になる』って言ったでしょう」

「はい」

「本当かどうか、もう聞けない。でも、あの人は嘘をついて店へ縛ったのか、私を心配して間違えたのか、分からない」

「記録しますか」

「しない」

「分かりました」

「また言った」

「今のは、会話として」

「いいよ。扉、ないし」

 女は撮影卓へ小さな紙袋を置いた。

「胡椒?」

「空」

「何に使います」

「私の言葉を入れる」

 女は紙を一枚、自分で書いた。

《共同仕入れは残したい》

《店は続ける》

《住居は店と分ける》

《夫が言った理由は分からない》

《分からないまま残す》

 紙を袋へ入れ、口を折る。

「これは記録?」

「あなたが持つなら、私の記録ではありません」

「管理台へ出す時は」

「必要な三行だけ複写できます。夫のことは出さなくていい」

「でも、夫のことがなかったら、何で私が怖いか伝わらない」

「伝える相手を分けられます。契約の選択へ必要な情報。巴さんとの確認へ必要な情報。あなたが自分で持つ情報」

「紙も三つにする?」

「一つを封筒で分けてもいい」

 女は考え、袋の内側へもう一枚の薄紙を入れた。表には契約の三行。内側には夫のこと。開封できる人を、外へ書く。

《本人。一文字巴。本人が選んだ者》

「七瀬さんは?」

「入れますか」

「入れない」

「受けました」

「怒った?」

「少し寂しいです」

「正直だね」

「でも、入れてほしいとは言いません」

「それが仕事?」

「仕事です」

 女は袋を胸へ入れた。

「撮らない人のこと、本当に覚えない?」

「忘れる努力はしていません。使わない努力をします」

「人の頭は、鍵がないから困るね」

「鍵があったら、誰が持つかでもめます」

「じゃあ今のままがいい」

 女は帰る。

 七瀬は手帳を開いた。

 時刻だけを書くこともできる。

 書かない。

 その代わり、撮影卓の上に残った胡椒の粉を布で拭いた。粉の跡まで意味のある証拠に見えてしまう自分を、少し嫌う。

 記録者は、残す技術より先に、残さなかったものを物語へ利用しない技術が要る。

 日没後、七瀬はフィルム缶を六つ並べた。

《顔・音声》

《音声》

《手元》

《紙》

《立会い》

《撮影停止・撤回》

 七つ目は空だった。

 何も記録しない人の缶は作らない。

 空の場所だけが棚に残る。

 波佐間の紙は、フィルム缶ではなく本人別の封筒へ入っている。

 二枚。

《店》

《家》

 同じ署名を、二つへ分けた最初の記録だった。

 七瀬はカメラの取っ手を半回転させ、戻した。

 撮らなかった場面は、映像の外で続いている。