第95話 第十章「契約を言い換える」前編
九月二十二日 午前七時零分
大勢の意見を一つにする最も簡単な方法は、意見を聞かないことである。
一文字巴は、市場の中央へ大きな机を置かなかった。
代わりに、小さな卓を十三。
縫い直し屋の前。
硝子屋の前。
共同診療所の待合。
住居階の踊り場。
青果台の横。
刃物研ぎの仕事椅子。
管理台の正面。
同じ時刻に、別々の場所で始める。
《店舗》
《住居》
《診療》
《警備》
《破損保証》
《仕入れ》
《清掃》
《通路》
《共同設備》
《債務》
《名札》
《記録》
《まだ分けられないこと》
十三枚の札。
人は、自分に必要な卓へ行く。
全部へ行ってもいい。
一つにも行かなくていい。
途中で移っていい。
同じ卓で意見を変えていい。
巴は、その条件を音声、手話、筆談、絵で示した。
最後に、黒板へ書く。
《私は最終文を書きません》
「では誰が書く」
管理台の主任が訊く。
《各卓》
「法律文として成立しない」
《真琴が後で照合》
「真琴が書くなら同じだ」
《真琴も最終ではない》
「最終は誰だ」
巴は十三の卓を示した。
《使う人》
「全員の文が違ったら」
《違う契約》
「市場を運営できない」
《共通が必要な部分だけ、共通卓》
「誰が共通を決める」
《影響を受ける人》
「何人」
《先に決めない》
主任は頭を抱えた。
「質問すると、質問が増える」
《成功》
「仕事が終わらない」
《終わる条件も卓で書く》
巴は、今日の手袋を見た。
右人差し指に句点。
終わる条件を、通訳者だけが打たないための印だった。
店舗卓では、最初の一時間で文章が三度壊れた。
一案目。
《店を使いたい人は、場所代を払って使える》
真琴が訊く。
「誰に払うのですか」
書き直す。
《市場管理へ場所代を払う》
波佐間が訊く。
「管理は何をする」
書き直す。
《市場管理は、通路、屋根、共用灯を維持する》
陶器屋が訊く。
「夜警は」
「別卓」
乾物屋が訊く。
「清掃は」
「別卓」
三一が訊く。
「店をやめた人が、台へ座るのは」
全員が止まる。
店舗卓の文では、場所代を払わない者は店の場所を使えない。
三一は青果台で売らない。
座りたい。
「休憩場所は通路卓か」
真琴。
「母ちゃんの台は通路じゃない」
「私有物なら、住居へ移す」
「市場に置く」
「場所代」
「売らないのに?」
波佐間が言う。
「台一つ許したら、皆が置く」
三一は睨む。
「皆が座れる」
「店の前が塞がる」
「おまえの前には置かない」
「誰の前ならいい」
巴は答えを書かない。
卓の中央へ、小さな模型を置く。
市場通路。
店台。
椅子。
車椅子。
荷車。
物を動かして、必要な幅を確かめる。
轟が右手で寸法を測る。
「通路、最低百二十。車椅子の回転、百四十。台は壁から六十まで。青果台、奥行き八十」
「二十切る?」
三一。
「切れば戻らん」
「母ちゃんの傷がある」
「脚を畳む」
「できる?」
「金具を替える。右手だけだと二時間」
「左は」
「上げるなって医者と真琴がうるさい」
「俺も言う」
「三人になった」
台を折り畳めるようにし、使わない時は壁へ寄せる。
店舗契約ではなく、共用休憩物の個別許可。
所有者、三一。
利用者、誰でも。
販売禁止。
通路幅を塞いだら移動。
移動する人は、元の傷を隠さないよう写真を残す。
「写真は嫌」
三一。
「台だけ」
七瀬。
「傷だけなら」
「誰の台か分かる印は」
「三本線」
「名前なし」
「うん」
小さな生活が、一枚の例外を作る。
例外は、規則を弱くするだけではない。
規則が守る人を具体的にする。
診療卓では、医師が最初に反対した。
「店舗と住居から負担金を集めなければ、診療所は維持できない」
秋枝が答える。
「店をやめても、診療だけ払う」
「個人負担では高い」
「いくら」
「患者数で変わる」
「今の契約は、店を続ける人が病院へ行かなくても払ってる」
「共同負担だからです」
「共同は残す。店と結ばない」
真琴が数字を出す。
住居単位。
店舗単位。
診療加入単位。
重複している負担。
店を持たない住民も、住居費の中で一部払っている。店を持つ者は店舗費と住居費の両方から負担している。説明資料には総額だけで、二重部分が見えない。
「返金?」
乾物屋。
「過去分は監査が必要です」
真琴。
「今日決めるのは、明日以後」
巴が書く。
「過去を捨てるのか」
陶器屋。
《別卓》
「また増える」
《増やす。混ぜない》
診療卓は、加入を店舗とも住居とも分ける案を作った。
払えない者の減免。
緊急診療は加入状態に関係なく先行。
減免の申請は診療所でもできる。
本人が行けない場合、代理だけでなく巡回確認。
「巡回する人は」
医師。
「今はいない」
秋枝。
「書けない」
《未確保、と書く》
「制度として不完全です」
《完全なふりをしない》
医師は不満そうに、《巡回担当未確保。開始まで現行の緊急対応を継続》と書いた。
空欄を埋めない文が、初めて正式案へ残る。
警備卓と破損保証卓は、最初から隣り合わせだった。
波佐間が、二つの卓の間へ亀裂の入った硝子片を置いたからだ。
「夜警が間に合わず割られたら、どっちの話だ」
夜警の女が答える。
「侵入を止めるのは警備。止められず壊れた物を補うのは保証」
「同じ人が払う?」
「今までは、複合費の中です」
「分けたら」
真琴が試算表を出した。
夜警を現行人数で維持する費用。
巡回を半分へ減らす費用。
深夜だけにする費用。
店舗ごとに個別契約する費用。
保証は、上限七割、五割、三割。
免責額。
加入店舗数。
数字の列が、卓の端まで続く。
「小さい店ほど、七割保証へ入れない」
陶器屋が言った。
「家を担保に戻せば、保険料を下げられる」
管理側の会計係。
全員の顔が硬くなる。
「戻すために分けたんじゃない」
秋枝。
「では、保証上限を下げるか、負担を上げる」
「どっちも困る」
「困らない案はありません」
会計係は冷たいのではない。計算がそう言っている。
波佐間は硝子片を指で弾いた。
「俺は七割が要る。割られたら仕入れ直せない」
乾物屋は首を振る。
「うちは三割でいい。商品は窓より安い」
「店ごとに上限を変えると、共同じゃない」
会計係。
「全員同じにして、全員違う物を守る方が共同か?」
波佐間。
巴は卓へ三枚の札を置いた。
《同じ負担》
《同じ補償率》
《同じ手続き》
《同じ》を分ける。
全員が同額を払う必要はない。
全員が同じ割合を受ける必要もない。
ただし、事故報告、査定、異議の手続きは同じにできる。
「金のある店だけ高い保証を買える」
秋枝が言う。
「それでは、弱い店を守る共同性がなくなる」
真琴は新しい列を作る。
《基礎保証》
《追加保証》
全店舗が小さな基礎額を出し、最低三割を共通で保障する。七割を望む店は追加負担を払う。払えない店には、売上だけでなく、再開に必要な最低額を基準に減免を設ける。
「減免を誰が決める」
乾物屋。
「会計係だけでは駄目です」
真琴。
「店主二名、会計一名、外部確認一名。申請者と競合する店は外す」
「売上を見せる?」
「必要な範囲だけ」
「必要を誰が決める」
質問がまた増える。
巴は黒板へ書いた。
《今日決める最小》
基礎保証を止めない。
新しい追加保証は、金額説明が終わった店から開始。
減免審査ができるまで、現行負担より上げない。
住居は担保へ戻さない。
明日の営業を止めない。
完全な制度ではない。
完全になるまで古い拘束を残す案でもない。
波佐間が言った。
「俺の窓は、基礎三割と追加四割。家は入れない。追加分は月いくらだ」
会計係が計算する。
「現行より十四円高い」
「払う」
「値上げを理解していますか」
「一月十四円。年百六十八円。店を閉めたら追加は終える。基礎も店舗終了と同時に終える。家と病院は止まらない」
波佐間は自分で言い返した。
巴は句点を打たない。
「後で変える方法」
波佐間が先に訊く。
会計係が答える。
「次月開始の五日前まで。緊急減額は、事故、病気、売上急減の申請」
「申請したら、保証はすぐ下がる?」
「審査中は今の額と保証を維持」
「払えなかったら」
「未払三十日で追加分だけ停止。基礎保証は別に審査」
「それを書け」
波佐間は初めて、保証の紙へ署名した。
隣の名札卓では、三一が自分の真鍮札を工具で磨いていた。
「字、消すの?」
タマキ。
「消さない。母ちゃんが触った跡も残す」
「契約番号は」
「裏へ別札」
表は《青果31》のまま。
裏に、住居資格の新しい番号。
店舗契約とは切り離す。
管理員が言う。
「紛失時、表だけでは住居札と分からない」
「分からなくていい」
三一。
「拾った人が部屋を知る方が危ない」
「返却先は」
「市場の落とし物箱。俺へ渡す」
「本人確認」
「質問二つ」
「答えを忘れたら」
「質問を変える」
「本人が答えられない状態なら」
三一は黙る。
凱が答えを置かずに訊く。
「誰に、代わりに確認してほしい」
三一は市場を見回した。
秋枝。
青果の隣の魚屋。
小麦。
「一人じゃなく、二人」
「その二人が違うと言ったら」
「三人目」
「誰」
「その時、俺が決める」
「決められない時の話だ」
三一は苛立ち、真鍮札を卓へ置いた。
「何で、倒れた後のことまで今決めるんだ」
「決めなくてもいい」
巴が書く。
《今は、本人確認不能時の代理を定めない》
《その場合、住居を即時停止しない》
《安全確認後、本人が戻るまで保留》
「保留なら、部屋へ入れる?」
「緊急時は管理員と立会人。普段は、鍵を持つ本人が入れる」
三一は考え、頷いた。
決めないことにも、決めない間の扱いが要る。
《まだ分けられないこと》の卓には、その一文が置かれた。
十三の卓は、同じ答えへ近づいていない。
ただ、明日止めてはいけない物と、今日決め切れない物を、以前より正確に分けていた。
午前十一時三十七分。
黒板会から閉鎖予告が届いた。
《現行複合契約と異なる利用が十三箇所で同時進行し、安全責任の帰属が不明》
《正午をもって市場の新規営業、通行変更、契約書作成を一時停止する》
榊槙司の署名。
巴は紙を読み、時刻を見る。
二十三分。
十三卓を止めれば、今日までに分離案を作れない。
明日は八旗協議への提出期限。
急ぐ。
急ぐ時、通訳者は相手の言葉を短くする。
短くした場所へ、権力が入る。
巴は各卓へ閉鎖予告をそのまま見せた。
要約を先に言わない。
読めない人には方法を変える。
時間が減る。
乾物屋が怒る。
「止めるってことだろ」
《一時停止。再開条件が書かれていない》
「同じだ」
《違う。再開条件を求める》
「二十分しかない」
《だから、違いを残す》
巴は槙司へ連絡板を送る。
《閉鎖範囲》
《停止する行為》
《継続できる救護・生活行為》
《再開条件》
《異議方法》
返答は十一時四十七分。
《閉鎖範囲 市場全域》
《停止 営業、契約変更、文書移動》
《継続 食事、医療、住居帰還》
《再開 責任者を一名定め、十三案を一文へ統合》
《異議 管理台》
「一人に戻した」
迅。
巴は頷く。
《受けない》
「どうする」
《十三卓で異議》
「管理台、一つ」
《十三回行く》
「間に合わない」
《間に合わないと記録》
迅の顔が険しくなる。
「記録して閉じられるのか」
《閉じられたら、記録が理由》
「人は出られる?」
《帰還は継続》
「契約の紙は」
《移動禁止》
「ここに置けば」
《閉鎖後、黒板会が保全》
「取られる」
《保全》
「同じだ」
今度は巴も否定しなかった。
正午。
市場中の鐘が一度鳴った。
榊槙司が管理台の前へ立つ。
右手に白チョーク。
左手に青。
執行員は二十四人。
短杖ではなく、文書箱と封印紐を持っている。
殴りに来たのではない。
紙を持っていくために来た。
「閉鎖を開始する」
槙司の声が市場へ通る。
「ここでいう保全は、文書の改変、散逸、破損を防ぐため、黒板会が原状のまま封緘管理することを指す」
白チョークで《保全》と書く。
青い範囲線が十三卓を囲む。
誓痕が浮かぶ。
紙の束が、一斉に重くなった。
机へ貼りつく。
住民が持ち上げようとしても動かない。
執行員の封印箱だけが、範囲内で軽くなる。
「保全対象を引き渡せ」
最初の執行員が店舗卓へ進む。
迅が間へ入る。
「まだ書いてる」
「停止時刻を過ぎた」
「異議は」
「管理台で受ける」
「ここも当事者の卓だ」
「指定窓口ではない」
執行員が迅の左肩へ手を伸ばす。
迅は触れさせない。
半歩引く。
一歩。
二歩。
後退は能力のためではない。
狭い通路で、相手を紙から離すための距離。
執行員が追う。
短杖を持っていないぶん、手が速い。
右手が迅の襟。
迅は左前腕で外へ払う。右腕は身体へつけたまま、腰を落とす。相手の肘の内側へ左掌を入れ、肩を回さず手首だけで方向を変える。
執行員の身体が机と反対へ流れる。
倒さない。
壁へ当てない。
紙から三メートル離す。
「紙に触るな」
「保全だ」
「書き途中だ」
「停止後の追記は改変になる」
「本人の言葉だ」
「今は効力がない」
「効力がない言葉を、何で取りに来る」
執行員が答えに詰まる。
二人目が横から文書箱を伸ばす。
タマキが箱の前へ自分の配達箱を置いた。
「受取人」
「黒板会保管室」
「送り主」
「市場管理」
「本人じゃない」
「管理権限がある」
「目的」
「保全」
「返す日」
「未定」
「受けない」
タマキは動かない。
執行員は十四歳の少年を押しのけられない。
押せば、保全の名で人を傷つける。
別の通路では、轟が二本の柱の間へ立った。
床に境界線を二本。
一人門〈ワン・ゲート〉。
彼が門と決めた幅へ、同時に敵として入れるのは一人だけ。
「紙を取りに来る人、一人ずつ」
轟の低い声。
「全員、職務だ」
「二人まとめて敵にしない」
一人目が入る。
轟は左腕を上げない。
右前腕で相手の文書箱を下から支え、身体ごと横へ向ける。力で投げず、箱の行き先だけを変える。
二人目は境界で足が止まる。
一人目が出るまで入れない。
轟の額に汗が浮く。
左肩は使っていない。
右腕だけで二十四人を止めることはできない。
「五分」
轟が言う。
「それ以上は持たん」
凱は各卓を回る。
「閉鎖へ異議を出すか」
「出す」
「理由を一文」
「まだ終わってない」
「保全先を選びたい」
「榊に取られたくない」
「黒板会でもいい。返す日を書け」
「紙じゃなく写しを渡す」
異議は同じではない。
凱は一つへまとめない。
読み上げる。
槙司へ届くように。
榊は管理台から動かない。
「異議は指定窓口へ」
「今、聞こえている」
「手続きが違う」
「内容は同じだ」
「記録形式がない」
七瀬が三脚を立てる。
「形式を作ります。顔を出さない人は卓札だけ。音声を出さない人は紙。記録拒否は、異議を出せない理由にしない」
「黒板会の様式ではない」
「黒板会へ提出するためでなく、当事者が言ったことを残すためです」
「それでは効力がない」
「効力は後で争います。今、消さない」
槙司の左チョークが動く。
「保全対象を定義更新する。市場内で作成された契約案、異議、記録及びその複製――」
巴は走った。
十三卓の中央。
白と青の線が交わる場所へ、色の違うチョーク糸を張る。
円。
全員を入れるには小さい。
管理台、三卓、槙司、執行員六人、迅、凱、七瀬、タマキ、住民十人。
巴は円へ入った者へ視線を求める。
手話。
黒板。
声。
「今、効いている保全条項を、自分の言葉で説明してください」
読めた者だけ〈リード・イン〉。
彼女の誓痕が、手袋の下から指へ黒く浮かぶ。
円内の契約は、説明できた者にだけ効く。
ただし、理解を試験にする力でもある。
説明できない人を、契約の外へ落とせる。
巴は最初に槙司を見る。
「あなたから」
槙司は答える。
「市場内で作られた文書を、停止時点の状態で黒板会が預かり、改変と散逸を防ぐ。原本は封緘し、閲覧申請を受ける」
巴は頷く。
次、執行員。
「紙を集める」
「何のため」
「変えられないように」
「誰が見られる」
「許可された者」
「誰が許可」
「主幹」
次の執行員。
「閉鎖後の違法な契約変更を止める」
「違法は誰が決める」
「黒板会」
住民。
「紙を取られる」
「戻る?」
「知らない」
別の住民。
「今書いたことを、榊が読んで決める」
別。
「火事になっても紙が燃えないよう、箱へ入れる」
別。
「署名してない案を、証拠にされる」
説明はばらばら。
巴は全員へ、原文を繰り返させない。
何が起きると思うかを聞く。
円内二十一人。
保全の目的、返却、閲覧、異議を説明できた者は七人。
過半数に届かない。
巴は一度だけ使える条項停止を選ぶ。
「この円で、保全条項を止めます」
反証の冷たさが、指の骨へ走る。
紙の重みが消えた。
机から浮く。
同時に、黒板会の封印箱も軽さを失い、床へ落ちる。
条項は双方に止まる。
迅たちだけが有利になるわけではない。
保全が消えた紙は、誰でも動かせる。
風が通路を抜けた。
十三卓の紙が舞う。
「押さえろ!」
迅が叫ぶ。
住民も執行員も同時に動いた。
敵味方なく、紙を追う。
巴の能力は、紙を守らない。
守る権限を止めただけだ。
一枚が階段へ飛ぶ。
タマキが滑り込んで踏まずに掌で止める。
一枚が水桶へ向かう。
執行員が自分の長衣で受ける。
七瀬はカメラを置き、右手で二枚を掴む。左肩を動かした痛みで顔を歪める。
轟は門を解き、右腕で卓ごと壁へ寄せる。
槙司は青いチョークで、新しい範囲を書こうとする。
迅が前へ出る。
執行員の一人が止める。
迅は一歩下がる。
二歩。
三歩。
七つ数えない。
相手の重心が前へ来た瞬間、左足を外へ置く。腕を取らず、肩を押さず、相手の文書箱の角だけを掌で横へ送る。
箱を守ろうとした身体が半回転する。
迅はその脇を通る。
槙司まで二メートル。
「線を引くな」
「定義がなければ、紙が失われる」
「今、皆で拾ってる」
「誰の原本か分からなくなる」
「名前がある」
「名前を出さない者もいる」
「印がある」
「複製と区別できない」
「今、決めろ」
「定義なしでは――」
「人へ訊け」
店舗卓から飛んだ一枚が、執行員の靴の下へ入った。
《基礎保証》の署名票。
踏めば破れる。拾おうと屈めば、後ろの紙を逃す。
執行員は足を上げたまま止まった。
「誰の原本だ」
七瀬が訊く。
「共同署名。複写二。原本は波佐間の印が青」
真琴。
「これは黒」
「複写です」
執行員は足を下ろさず、片脚で紙を拾う。転びかける。迅が反射で肩へ手を出し、直前で止めた。
「触るぞ」
「頼む」
迅は左肩だけを支える。
敵だった相手の重心を、紙一枚のために戻す。
別の一枚は、診療所の排水溝へ向かう。
三一が青果台を倒し、脚で紙を止めた。母親の傷がついた台の端へ紙が挟まる。
「台、傷つく」
轟。
「もう傷ある」
「増えたら分からん」
「今の傷へ白墨」
七瀬が台の新しい擦り跡へ小さな印を置く。撮影はしない。三一が台だけなら撮ってよいと言っていたが、今は紙を守る方が先だ。
住居卓の紙は、上階から吹き込む風で二枚が同じ形へ重なった。
一枚は秋枝。
一枚は、名前を出さない男。
どちらも《住居を店舗債務から外す》。
文面が似ている。署名欄は一方が空白。
「混ざった」
凱が言う。
「紙質」
秋枝が触る。
「私のは縫い糸の穴がある」
一枚の角に赤糸の小穴。
もう一枚は、左親指の曲がらない男が自分で折った折り目がある。
記録番号だけではなく、本人が付けた痕が原本を戻す。
タマキは紙の帰り先を叫ぶ。
「青い点、保証卓。赤い穴、秋枝。三本線、三一。名前なし二本折り、住居卓」
住民と執行員が復唱する。
「復唱したら扉閉まる?」
乾物屋。
「ここは違う」
「もう何を言っていいか分からん」
「紙の特徴だけ言え」
迅。
「青い点!」
「赤い糸!」
「波形の端!」
市場が、契約内容ではなく紙の身体を呼ぶ。
槙司が新しい範囲を引けば、再び全紙を固定できる。
しかし、その前に戻せる物を戻す。
轟は右腕で倒れた卓を起こす。左肩を庇ったため、脚が床を引きずり、木が鳴る。
「壊した?」
三一。
「脚の釘が一本浮いた」
「誰の」
「市場の」
「修理」
「俺。明日」
「時間」
「正午まで」
タマキが騒ぎの最中に記録する。
七瀬は撮影を再開しない。今、カメラを回せば、紙を拾う手が撮られる。許可のない人の手。誤って別の契約へ触れた人の顔。
代わりに、回収箱の番号だけを声で残す。
「回収、四十七。未確認、六。破損、一。水濡れ、ゼロ」
「四十八」
執行員が一枚を上げる。
「これは署名なし」
巴が見る。
《まだ分けられないこと》卓の紙。
《本人確認不能時の代理を、今は定めない》
三一の紙だ。
「俺の」
「名前がない」
「決めないって書いた」
「本人確認は」
三一は紙の端を指す。
三本の包丁傷を写した印。
「台と同じ」
執行員は三一へ返す。
記録の完全性を守る側が、黒板会だけではなくなる。
紙を奪われまいとする側も、住民だけではなくなる。
巴が止めた《保全》の代わりを、人の確認が少しずつ担っていた。
槙司はそれを見ている。
それでも、右手の白チョークを床へ下ろす。
人の手より、定義の方が間違いを減らせると、まだ信じている。
槙司の右手が止まらない。
白チョークが床へ触れる。
巴は彼の正面へ入った。
「榊槙司」
声の音量が揺れる。
槙司は手を止める。
巴は黒板へ書いた。
《あなたの契約で、明日何ができると思った?》
「今は戦闘中だ」
《答えて》
「保全を再定義する」
《質問と違う》
「文書を守る」
《何のため》
「合意を守る」
《誰の》
「契約者の」
《名前》
槙司の唇が動く。
言葉が出ない。
巴は待つ。
迅も、すぐ横で待つ。
市場の紙がまだ舞っている。
待つ時間は、危険だ。
それでも、答えを巴が作れば、彼女が榊の契約者になる。
「父が」
槙司の声が途切れる。
「ここでいう父は、私の父親を指す」
誰も笑わない。
「父は、昔の市場移転契約を説明した。住民へ『一時的に場所を移すだけだ』と。原文には、復帰時期を管理側が決める、とあった。父は、怖がらせないために短くした」
槙司は眼鏡の左端を押す。
「戻れなかった店がある。父は、原文を読めば分かった、と言った。住民は、説明を信じた、と言った。どちらも記録がなかった」
巴は書く。
《あなたは、何を守りたかった》
「短い説明で、約束が別物になることを止める」
《今の契約で、明日何ができると思った》
槙司は市場を見る。
答えは、目的ではなく生活でなければならない。
「店主が、夜に一人で窓を守らなくていい」
波佐間が顔を上げる。
槙司は続ける。
「家賃を払った住民が、朝に鍵を使える。診療所が、費用不足で突然閉じない。管理員が、誰を通すか気分で決めない」
《店をやめたい人は》
「再審査を受ける」
《明日何ができる》
「……分からない」
初めて、槙司がその言葉を言った。
黒板会主幹。
契約を作った者。
自分の契約で、店をやめたい人が明日何をできるか説明できない。
迅が拳を握らない。
波佐間が槙司へ言う。
「じゃあ、こっちへ座れ」
店舗卓の空いた椅子を蹴って出す。
「排除しないのか」
槙司。
「警備を作った奴が要る。計算も知ってる。だが、最後に決める席じゃない」
「私が作成者だ」
「今日は当事者だ」
「どの契約の」
「市場を守るって約束した側」
槙司は椅子を見る。
定義する者の席ではない。
自分の言葉を言い直す側の席。
彼は座らない。
まだ。
騒ぎは終わっていなかった。
東通路で、閉鎖扉が下り始める。
保全条項は止まったが、市場安全条項は残っている。紙が散逸したことで、管理台が「文書混乱」を危険状態と判定した。
診療卓には、車椅子の帳場係と、秋枝の母がいる。
扉の掲示。
《許可された関係者のみ、危険区域から文書及び人員を移動できる》
巴は読み上げる。
許可された関係者。
黒板会と管理員だけ。
迅たちは許可を受けていない。
管理員は反対側。
扉が半分まで下りる。