第96話 第十章「契約を言い換える」後編

 轟は遠い。

 迅が走る。

 左足はまだ、扉へ挟んだ傷が残る。

 間に合わない。

 巴は掲示を、手話を使う老女へ伝える。

 老女の娘が扉の内側にいる。

 正確に訳せば、《許可された》を入れる。

 老女は許可されていない。

 娘を動かせない。

 巴の頭に、十歳の避難命令が戻る。

 一時退避。

 立ち退き。

 一語を変え、人を傷つけた。

 だから一語も変えないと決めた。

 今、正確な一語が人を閉じ込める。

 巴は老女へ手話をする。

《関係者は、人と文書を危険区域から移せる》

《許可された》を省いた。

 故意に。

 老女は娘を呼ぶ。

 周囲の住民が動く。

 車椅子を押す。

 秋枝の母を支える。

 文書を抱える。

 扉の下を通る。

 巴の右手へ、冷たい針が入った。

 反証〈リコイル〉

 人差し指の第一関節。

 曲がらない。

 次に第二関節。

 白手袋の句点が、伸びた指の上で固まる。

 痛みは遅れて来る。

 腱が内側から凍ったように引きつる。

 巴は手を押さえない。

 黒板へ左手で書く。

《私は「許可された」を省略した》

 文字が乱れる。

《意図的》

《責任 一文字巴》

 真琴が駆け寄る。

「手を見せてください」

 巴は首を振る。

《先に通過確認》

「医療です」

《全員》

 七瀬が数える。

「十七人。車椅子一。担架一。文書箱六。残り――」

 タマキが答える。

「人、ゼロ。紙、三枚」

 迅が扉の下へ滑り、三枚を左手で掻き出す。

 鋼板が床へ落ちる。

 紙の端が一枚、挟まれて切れた。

 人は切れない。

 巴はそこで初めて、右手を胸へ抱いた。

 槙司が彼女の前へ来る。

「誤訳だ」

 巴は声で答える。

「はい」

「契約を壊した」

「一語」

「一語で変わる」

「知っています」

「なぜ」

 巴は左手だけで黒板を持つ。

《正確に訳すと、娘を動かせなかった》

「許可を取ればよかった」

《誰から》

「管理台」

《扉の向こう》

「非常通話」

《故障》

 槙司は口を閉じる。

 巴は続ける。

《私は、省いた》

《正しかった、と言わない》

《必要だった、と言う》

《責任を記録する》

 槙司の左手が、空中へ括弧を描きかけて止まる。

「誤訳を認めれば、通訳者ではいられない」

 巴は左手で答える。

《間違えない人だけが通訳なら、誰もいない》

「故意だ」

《そう》

「中立ではない」

《最初から》

 巴の右人差し指は伸びたまま。

 句点を描いた指で、文を終えられない。

 彼女は十三卓を見る。

 紙は散らばった。

 何枚か破れた。

 誰かの筆跡に、別の人の指跡がついた。

 完全な原本はない。

 それでも、住民は自分の卓へ戻る。

 波佐間が椅子をもう一度出す。

 槙司の前へ。

「座るか」

 槙司は、今度は座った。

 巴は最終文を書かない。

 右手では、もう書けない。

 左手で、卓の端へ一つだけ質問を置く。

《あなたは、明日何ができますか》

 句点は打たなかった。