第407話 第十章「行き先を選ぶ指」前編

十月二十日 午後三時三十二分

 最後の五人がいる空気溜まりは、教室ではなかった。

 教室だった場所の、天井裏だった。

 床が沈み、机が浮き、天井板が剥がれた結果、人が呼吸できる空間が一つ残った。

 高さ五十五センチ。

 幅四メートル。

 長さ六メートル。

 五人が横になれば、肩が触れる。

 立てない。

 膝を伸ばせない。

 大きく息を吸えば、誰かの頬へ吐く。

 時雨ミソラは、そこへ入った時、最初に「大丈夫」と言わなかった。

「呼吸が悪い人、一人」

 赤い手袋で指す。

「意識が曖昧、一人」

 青い手袋で指す。

「手の感覚が低下、一人」

 百舌忍。

「残り二人、会話可能」

 症状。

 残り時間。

 必要物資。

 いつもの順番。

 安心は、必要物資に入っていない。

 だから不要なのではない。

 今、持っていない物を持っているふりをしないだけだ。

 ミソラは天井板へ三枚の絵札を貼った。

 十字。

 屋根。

 円。

 その下へ、小さな札。

《本人による搬送先選択〈デスティネーション・イン〉》

 難しい名称は、施設側が後から付けた。

 ミソラは声に出さない。

 水と呼吸音の中で、人は長い言葉を受け取れない。

「東」

 十字を指す。

「治療、多い。名前の確認、限定できる。でも、確認はある」

「西」

 屋根。

「家族、共同宿舎。会わないも選べる。治療、少ない」

「中央」

 円。

「名前、保留。二十四時間、選び直す。治療、最低限」

 多く説明しすぎない。

 全部の危険を言えば、誰も選べなくなる。

 少なく言いすぎれば、選んだことにならない。

 ミソラは、今この場所で違いを生む三つだけを示す。

 呼吸の悪い一人は、意識がない。

 事前記録なし。

 家族代理なし。

 本人が選んだ呼称も不明。

 ミソラは東札を取る。

「医療代行」

 百舌の打鍵器へも見せる。

「本人選択とは書かない」

 百舌が頷く。

 右手で打とうとして、指が止まる。

 親指。

 人差し指。

 中指。

 曲がる。

 薬指と小指が、遅れる。

 百舌は左手へ打鍵器を持ち替えた。

《冷え》

「感覚」

 ミソラ。

《ある》

「同じ?」

 百舌は右手を開く。

 目で見る。

《遅い》

「いつから」

《二便前》

「潜水中止」

 百舌が首を横へ振る。

「拒否?」

 もう一度、横。

「説明が足りない?」

 百舌が頷く。

 ミソラは症状を増やす。

「右手指の感覚遅延。長時間潜水。圧力変化を三回。減圧障害の可能性。続けると悪化」

 百舌が打つ。

《五人》

「あなたを入れて五人」

《監督》

「搬送対象」

《まだ》

「今」

 百舌の眉が寄る。

 ミソラは譲らない。

「指揮を続けるかは別。潜水は中止」

 百舌が喉帯を押さえる。

 息声。

 言葉にならない。

 打鍵器を右手へ戻そうとする。

 薬指が落ちる。

 器具が水面へ当たる。

 ミソラが拾う。

「落としたことを、同意に使わない」

 百舌は睨む。

「怒ってる?」

 頷く。

「治療拒否?」

 首を横。

「潜水だけ続けたい?」

 頷く。

「拒否します。医療判断」

 百舌が左手で打つ。

《権限》

「救助班の医療責任者。名前、時雨ミソラ。理由、減圧障害疑い。潜水継続で恒久障害の危険」

《異議》

「記録する」

《命令》

「命令した」

《責任》

「私」

 百舌は打鍵器を下ろす。

 納得ではない。

 責任主体を確認した。

 自分が従う理由を、善意へ溶かさない。

 意識のある二人は、選べた。

 一人目。

 施設作業服の青年。

 右腕に番号札が縫い付けられている。

 番号を呼称にしない。

 巴が用意した空欄へ、自分で二本の横線を引く。

 それを今の印にする。

 屋根札。

 西。

 目的を訊く。

 青年は手話で、食事、眠る、知らない人。

 家族には会わない。

 共同宿舎で食事と睡眠。

 本人確認は今の二本線だけ。

 ミソラは医療上の推奨を示す。

 右肩脱臼の疑い。

 西口にも整復できる医療者がいる。

 悪化時は東へ二次搬送。

 青年は西を変えない。

 ミソラは赤手袋で西札へ《医療推奨と一致》と書かない。

 推奨と本人選択は、たまたま同じ方向を向いただけだ。

 二人目。

 年少者。

 年齢不明。

 髪を短く切り、首へ三つの小さな金属環。

 円札を取る。

 中央。

 百舌が、その手を見た。

 表情が変わる。

 知っている。

 施設で自分が監督していた年少者。

 百舌は左手を伸ばしかける。

 途中で止める。

 相手の動作を先回りしない。

 年少者は円札の裏へ、指で三回叩く。

 目的。

 百舌と一緒。

 巴が施設手話を読む。

「中央へ。百舌と同じ場所。話は後」

 百舌の顔に、怒りとも安堵とも違うものが浮かぶ。

 自分が行先を決められたのではない。

 自分が来ることを、相手が条件にした。

 百舌は監督生として必要とされているのか。

 被験者仲間として待たれているのか。

 問いただす時間はない。

 年少者は、話は後と選んだ。

 後があることを、今の条件にした。

 三人目。

 意識が曖昧な成人。

 手を動かせる。

 視線は合わない。

 東札へ触れる。

 次に中央札へ触れる。

 また東。

 選択か。

 混乱か。

 ミソラは一回の接触を同意にしない。

「呼吸、苦しい?」

 頷き。

「今、治療?」

 頷き。

「東?」

 頷き。

「中央?」

 頷き。

「全部に頷く」

 ミソラは言う。

「選択不能。救命代行で東。安定後に再確認」

 七瀬が地上側で記録する。

《東を選んだ》ではない。

《全選択へ頷いたため、ミソラが医療代行》

 人間の曖昧さを、都合のよい一票へしない。

 意識のない一人には、胸ポケットが三つあった。

 上。

 施設番号の金属片。

 左。

 乾いた花弁を樹脂で固めた小さな札。

 右。

 薬包紙。

 施設職員は金属片を取ろうとする。

「本人確認」

 ミソラが止める。

「救命に番号が要る?」

「薬歴へ接続できる」

「番号が本人のものと確認できる?」

「服へ縫い付けてある」

「服を交換した可能性」

「低い」

「ゼロではない」

「照会しなければ、薬剤禁忌を見落とす」

 ミソラは薬包紙を先に開く。

 水で文字が半分消えている。

《青――朝》

《白――発作時》

 薬の名前はない。

 施設番号を照会すれば分かる可能性がある。

 本人は選べない。

「救命範囲で照会」

 ミソラが決める。

「番号を呼称にはしない。東の薬剤担当だけ。照会結果は投薬記録へ。家族、能力履歴、懲戒歴は開かない」

「端末は全員を一行で表示します」

「見る人を一人にする。画面の不要欄へ布を掛ける。記録者は薬剤名と禁忌だけ写す」

「原始的」

「端末の設計より、今の人間の方が古いから使える」

 七瀬が地上の薬剤担当へ、撮影機ではなく音声も使わず、項目だけを送る。

《救命範囲照会》

《薬剤・禁忌のみ》

《他欄を閲覧しない》

《閲覧者名と時刻を記録》

 返答。

《白包 気管支拡張》

《青包 循環調整》

《ペニシリン系禁忌》

 金属片の番号は、本人の名前へ変わらない。

 東札には、呼称欄を空欄のまま残す。

《医療代行》

《照会範囲限定》

《覚醒後、呼称・行先再確認》

 花弁の札は、開かない。

 家族の印かもしれない。

 墓の印かもしれない。

 本人だけの記念かもしれない。

 救命に要らない物を、本人確認の手掛かりという名で読む必要はなかった。

 二本線の青年は、西札を取った後、右肩を動かそうとして顔を歪めた。

 ミソラが触れる前に訊く。

「肩、見る?」

 青年は頷く。

「服、切る?」

 首を横。

「上から触る?」

 頷く。

 赤い手袋ではなく、青い手袋。

 緊急処置ではない。

 診察。

 肩峰。

 鎖骨。

 上腕骨頭。

「脱臼ではない。打撲と筋損傷。西で冷却と固定。痛みが増えたら東」

 青年は二本線の印を、自分の肩へ指で描く。

「その印を呼称にする?」

 頷く。

 タマキは札へ、文字ではなく二本線を刻む。

「西の受取人が、これを読める?」

 受入れ側へ送る。

《呼称 二本線》

《家族名照会なし》

《共同宿舎・食事・睡眠》

《右肩の固定》

 西から返答。

《二本線で受領》

《家族窓口と別導線》

《医療担当待機》

 青年は、受入れの返答を自分で読む。

 屋根札の封を閉じる。

 家族へ会わないことは、家族を憎んでいる証明ではない。

 今、会わない。

 その一日の選択へ、過去全部の説明を求めない。

 中央を選んだ年少者は、百舌と同じ場所へ行きたいと示した後、もう一枚の札を求めた。

 白紙。

 巴が手渡す。

 年少者は、円を二つ描いた。

 一つ目。

 自分。

 二つ目。

 百舌。

 二つの円を、線でつながない。

「同じ場所、別室?」

 年少者が頷く。

「会話は」

 両手で止める。

「今はしない」

 頷く。

「百舌が来なかった場合」

 年少者は、自分の円だけを指す。

 自分は中央へ行く。

 百舌の選択で、自分の行先を変えない。

 条件に百舌を入れたが、依存はさせない。

 タマキは中央札へ書く。

《同じ施設を希望》

《同室・面会は希望しない》

《百舌の不在でも受入れ継続》

 百舌が読む。

 左手が一度、空中で止まる。

 監督生だった自分を待っている。

 けれど、会うことは拒まれている。

 必要とされることと、近づいてよいことは同じではない。

 百舌は年少者へ、掌を上へ向ける。

 施設では《同意》に使われる手。

 すぐ、掌を下へ返す。

 不明。

 自分の感情を、年少者の選択への返事にしない。

 年少者は、その手を見て円札を封じた。

 意識が曖昧な成人へは、質問を減らした。

「息、苦しい」

 頷く。

「ここを出たい」

 頷く。

「治療」

 頷く。

「家族」

 頷く。

「家族に会わない」

 頷く。

「名前を言う」

 頷く。

「名前を言わない」

 頷く。

 反対の言葉すべてへ、同じ動作。

 施設職員が言う。

「頷きは、質問を理解している合図では」

「合図かもしれない」

 ミソラ。

「なら、本人確認は成立」

「何を確認した?」

「質問を聞いている」

「答えを選べるとは確認していない」

 成人は、まだ頷いている。

 水滴が額から落ちるたび、首が小さく動く。

 頷きではなく、震えかもしれない。

 百舌が左手で、成人の後頭部へ折った布を置く。

 首の揺れが減る。

 ミソラが同じ質問をする。

「息、苦しい」

 首は動かない。

 呼吸は浅い。

 目だけが十字札へ動く。

「治療」

 目が十字。

「東」

 目は十字。

「中央」

 目が少し動き、戻る。

 選べるか。

 まだ不確か。

 ミソラは東を医療代行する。

「視線は記録する。本人選択とは書かない。覚醒後に、東へ来たことも含めて説明」

 成人の服の裾から、小さな円札が出てきた。

 以前に中央を選んだ札かもしれない。

 施設職員が取る。

「事前選択」

 ミソラは札の裏を見る。

 封がない。

 受取人欄も空。

「選択の途中」

「中央希望では」

「そうかもしれない。今の呼吸は東推奨。本人が判断できない。医療代行で東。円札は一緒に運ぶ」

「矛盾」

「両方残す」

 東の担架へ、十字札と封じられていない円札を別々に付ける。

 東へ運ぶ身体。

 まだ消えていない中央の可能性。

 救命代行は、過去の選択を破棄する権利ではない。

 成人が覚醒した時、円札を見て何を言うか。

 今は決めない。

 四人の札がそろった。

 東、医療代行二。

 西、一。

 中央、一。

 百舌だけが残る。

 彼女は四人の札を確認する。

 右手ではなく左手で。

 誤りを探す監督者の目。

 自分も運ばれる人間の呼吸。

 四人の選択を確認し終えてから、百舌は自分の札へ目を移した。

 残る一人。

 百舌。

 百舌の選択前に、圧力扉が故障した。

 旧講堂と中央経路を隔てる第二扉。

 開けば、五人を三系統へ出せる。

 閉じなければ、上流の濁流が空気溜まりを埋める。

 自動機構は水没。

 手動輪は地上側と水底側へ一つずつ。

 二人で同じ速度に回し、四十三秒後に停止。

 早く止めれば開口が足りない。

 遅ければ爪が外れ、全開になる。

 地上側に水科イオ。

 水底側に水門係。

 秒を数える音は、水中へ届かない。

 振動灯。

 一秒ごとに一回。

 十秒で長く一回。

 イオは左前腕の真鍮装具へ手を置く。

「開始、午後三時四十一分十七秒」

 凱が確認する。

「終了、三時四十二分零秒」

「四十三秒」

「そう」

「失敗時」

「三十七秒以前なら再閉鎖。三十八秒以後は、最後まで四十三秒へ持っていく。途中停止が一番壊れる」

「能力」

「使う」

「範囲」

「私の動作開始と停止。扉自体は強化しない。水門係の動きも強化しない」

「終了後」

「膝が固まる可能性。交代者を後ろへ」

 轟がイオの後ろへ入る。

「持ち上げん。倒れたら腰を受ける」

「左肩」

「使わん」

「大きい人は、使わない話が多い」

「使える物を全部使う奴は、道具箱を床へぶちまける子どもだ」

「私は二十」

「年齢の話はしてない」

 イオは少し笑う。

 笑いが終わる前に、能力を始めた。

 終業刻〈ラスト・シフト〉

 左前腕の刻印が、一つずつ白くなる。

 十七秒。

 手動輪へ両手。

 回す。

 一秒目。

 重い。

 二秒。

 軸が動く。

 三秒。

 水底側の水門係も回す。

 振動灯が合う。

 四秒。

 イオの右腕は、昔のように強化されない。

 筋肉は普通の二十歳のもの。

 五秒。

 轟が輪の外枠を支える。

 力を足さない。

 軸がぶれないようにする。

 六。

 七。

 八。

 扉の開口、五センチ。

 九。

 濁水が噴く。

 十。

 長い振動。

 イオは速度を変えない。

 能力は動作を速くするのではない。

 開始と停止を、終了時刻へ合わせる。

 十一。

 十二。

 右手が滑る。

 イオは握り直さない。

 握り直す動作を入れれば、終了までの配分が変わる。

 左手の位置を半周ずらす。

 十三。

 水底側の回転が遅れる。

 振動灯の位相が半拍ずれる。

「水門係、遅い」

 声は届かない。

 タマキは地上で、振動表を見る。

 二回短く。

 遅延。

 低音槌を一回長く返す。

 地上継続。

 水底側には、百舌がいる。

 潜水中止を命じられ、空気溜まりから輪へ手を伸ばせない。

 年少者が水面へ腕を出す。

 同じ動作を三人で揃えれば、百舌の能力で補えるかもしれない。

 百舌は手を背中へ回した。

 二度使った。

 もう使わない。

 能力の限界だけではない。

 本人が選ばない動作を、また同じにしない。

 代わりに、左足で床板を三回叩く。

 水門係へ速度を伝える。

 右手ではない。

 痺れた手を正確さの証明へ使わない。

 十四。

 十五。

 位相が戻る。

 二十秒。

 長い振動二回。

 扉の開口、十八センチ。

 最初の担架が通るには足りない。

 二十一。

 二十二。

 イオの呼吸が浅くなる。

 不整脈ではない。

 脈を数える余裕がないだけだ。

 二十三。

 二十四。

 二十五。

 輪の抵抗が急に軽くなる。

 爪が外れかけた。

 軽い時ほど危険。

 イオは速度を上げない。

「軽くなった」

「分かる」

 轟。

「軽い」

「止めるな」

「終業まで」

「そうだ」

 二十六。

 二十七。

 開口三十センチ。

 担架を横にすれば通る。

 二十八。

 二十九。

 三十。

 長い振動三回。

 水底側で最初の東搬送者が扉へ入る。

 三十一。

 担架の角が枠へ当たる。

 水門係の回転が止まりかける。

 百舌が左手で担架角を押す。

 右手は使わない。

 三十二。

 角が抜ける。

 三十三。

 西の青年が続く。

 三十四。

 中央の年少者。

 三十五。

 意識の曖昧な成人。

 四人が扉を越える。

 百舌は最後。

 三十六。

 扉の開口三十七センチ。

 三十七。

 ここから途中停止禁止。

 三十八。

 百舌が輪を離す。

 自分の身体を通す。

 三十九。

 透明防水服の腰鈴が枠へ当たる。

 音は出ない。

 四十。

 右手が枠に触れる。

 指が遅れる。

 百舌の身体が止まる。

 年少者が戻ろうとする。

 百舌は首を横へ振る。

 左手で、自分の腰布を外す。

 鈴が一つ、水へ落ちる。

 四十一。

 身体が抜ける。

 四十二。

 イオの膝が震える。

 四十三。

 三時四十二分零秒。

 イオの両手が、同時に輪を止めた。

 水底側の水門係も止める。

 扉は三十七センチで固定。

 五人全員が、分岐側へ出た。

 能力の白い刻印が消える。

 イオの膝が伸びたまま固まった。

 身体が後ろへ倒れる。

 轟が腰を受ける。

 左肩は使わない。

 イオは床へ座らされる。