第406話 第九章「水底の格闘」後編

 百舌の誓痕が切れた。

 二度目の無言同意。

 三人の施設潜水員の腕から、紫の線が消える。

 次の一動作は終わった。

 東へ一列にする動作。

 結果として、西索は外され、中央索は半分巻かれた。

 けれど、完全には失われていない。

 タマキの投げた予備索。

 迅が固定した短棒。

 《ヒダリ》が握り続けた輪。

 普通の物が、能力の後へ残っている。

 西口から、復旧の振動が来る。

 二回。

 間。

 一回。

 受領可能。

 中央からも来る。

 三回。

 間。

 一回長く。

 受領可能。

 東は既に開いている。

 三つとも、今は受け取れる。

 百舌は表示を読む。

 東だけが正しい時間は終わった。

 彼女は東索を離さない。

 同時に、西索を切らない。

 中央索を完全には巻き取らない。

 迅は百舌を見る。

 百舌は左手を出す。

 掌を上。

 何の意味か。

 施設手話では、待機。

 一般救助手話では、渡す。

 百舌個人の癖では、不満。

 迅は勝手に決めない。

 首を傾ける。

 百舌は打鍵器を取る。

《三経路》

 百舌は、三本の索を元へ戻す命令を出さなかった。

 戻すという言葉は、能力使用前の状態が正しかったように聞こえる。

 西索は切り離されている。

 中央索は半分巻かれている。

 東索には三人分の腰環が掛かっている。

 今ある状態から、一人ずつ作り直す。

 最初に熱傷者。

 東札。

 両腕は使えない。

 足で封を閉じた。

 東索へ残す。

 百舌が腰環の位置を確認する。

 締めすぎている。

 誓痕で三人が同時に掛け替えた時、熱傷者の身体の厚みを見ていなかった。

 百舌は留め具を一穴緩める。

 本人の呼吸が少し深くなる。

 能力で揃った動作は、速い。

 速い動作は、個体差を後へ回す。

 百舌は自分の誓痕の結果を、自分で直す。

 次に《ヒダリ》

 中央索の輪を左手で握っている。

 施設潜水員の一人が、誓痕の余韻で東へ引き続けている。

 紫線は消えた。

 筋肉は、次の動作を終えても勢いを残す。

 迅が潜水員の前腕を支える。

 止める。

 潜水員は自分で東索を離す。

 百舌が《ヒダリ》へ円札を見せる。

 中央。

 《ヒダリ》は頷く。

 百舌は、絡んだ断熱材を左手で一つずつ外す。

 短刀は使わない。

 時間がかかる。

 施設潜水員も手伝う。

 今度は同じ動作を強制されていない。

 一人は上から。

 一人は下から。

 一人は流れてくる繊維を網へ取る。

 違う動作で、同じ目的へ進む。

 三人の方が、誓痕使用時より遅い。

 けれど、誰か一人が止まっても、残り二人は続けられる。

 最後に《ナシ》

 西の封は切れている。

 胸の札は、内側だけが裂け、外側は残る。

 破封の跡。

 《ナシ》は中央札を指す。

 中央の受取条件を見せる。

《呼称のみ》

《二十四時間保留》

《家族照会なし》

 《ナシ》は、家族照会なしの行へ二度触れる。

 受取人へ確認。

 中央から、三回、間、一回長く。

 受入れ。

 新しい封緘札を作る時間はない。

「封なし」

 タマキは水中で指す。

 能力は使えない。

 《ナシ》は首を横へ振る。

 能力がなくても中央へ行ける。

 円札を胸へ固定。

 輪索へ腰環。

 破封した西札は捨てない。

 本人の腰袋へ戻す。

 西を選んだことも、条件が変わって撤回したことも、中央へ変更したことも残す。

 百舌の右手が、打鍵器の縁で一度滑った。

 迅が見る。

 百舌は左手へ持ち替える。

 迅が右手を指す。

 百舌は《冷え》と表示する。

 迅は首を横へ振る。

 冷えだけか。

 百舌は右手を開く。

 五本。

 親指から順に曲げる。

 一。

 二。

 三。

 薬指が遅れる。

 小指がさらに遅れる。

 百舌は自分で見る。

 潜水中止の合図。

 迅が三回、索を引こうとする。

 百舌が止める。

 残る三人を分岐へ入れた後に戻る。

 迅は首を横へ振る。

 百舌が表示する。

《交代なし》

 追加潜水員は、東側の圧力変動でまだ到着していない。

《三人》

「おまえも一人」

 声は泡になる。

 百舌は口元を読む。

《動ける》

「動けないまで待つな」

 百舌の瞳が怒る。

 迅は低音器へ三回を送る。

 帰還要請。

 理由。

 右手感覚遅延。

 百舌は地上からの返答を待つ。

 ミソラ。

《三人を分岐へ入れた後、百舌帰還》

《施設潜水員が継続》

 百舌は一度頷く。

 納得ではない。

 医療責任者の判断と、その責任者名を確認した。

 東の熱傷者を送る。

 西の一人を送る。

 中央の二人を送る。

 百舌は分岐へ残らない。

 自分がいなくても、三本の索と受取人と潜水員がある。

 誓痕を使った本人が退いても、救助手順は続く。

 百舌は地上へ戻る索へ入る。

 その途中で、タマキの身体が回った。

 迅が頷く。

「最初からそうしろ」とは言わない。

 三経路が通れる時刻が、今だった。

 その前に百舌の一本化で救われた人もいる。

 拒否を罰された人もいる。

 両方、あとで書く。

 今は運ぶ。

 東の熱傷者。

 西の《ヒダリ》ではない。

 《ヒダリ》は中央。

 西へ行くのは、家族口から共同宿舎を選んだ別の一人。

 中央へ《ナシ》

 三人。

 東一。

 西一。

 中央一。

 累計。

 東十六。

 西十三。

 中央九。

 三十八人。

 残り五人。

 タマキは人数を聞いていない。

 方向を失っている。

 迅の腰索へつながれ、壁を右手でなぞりながら圧力筒へ戻る。

 左耳の痛みは、心臓の鼓動と同じ間隔で強くなる。

 圧力筒の内扉。

 迅が手を置く。

 タマキは、扉が床に見える。

 足を出せない。

 迅は引っ張らない。

 タマキの掌へ、順番を書く。

 一。

 右手を壁。

 二。

 左足を枠。

 三。

 身体を回す。

 タマキは従う。

 内扉へ入る。

 水位が下がる。

 床へ足が着く。

 それでも床が傾いている。

 タマキは膝をついた。

 ミソラが駆け寄る。

 症状。

 残り時間。

 必要物資。

「左耳痛。回転性めまい。吐き気。意識清明。潜水中止」

「まだ五人」

「あなたは六人目にならない」

「方向が」

「今は訊かない」

「三十八分」

 イオが言った。

 装具の振動を測っている。

「発症、午後三時二十二分。現在三時二十四分。反証が一定なら、三時五十九分前後まで」

「一定って」

「初回だから分からない」

「札を破った人」

「悪くない」

 タマキは先に言う。

「誰も、あの人に言わないで」

「何を」

「僕が迷ったって」

「次に使う人には説明が必要」

 巴。

「次は言う。最初の人へ、後から罪を届けない」

「記録から消す?」

 七瀬。

「消さない。公開範囲を分ける」

「本人には」

「本人が訊いたら答える。僕が困ったから、撤回しないでとは言わない」

 タマキは目を閉じた。

 閉じても回る。

 イオが左側へ座る。

「私の声は、どこから聞こえる」

「右」

「私は左にいる」

「嘘」

「確認」

「嫌な確認」

「症状の確認は、好かれる仕事じゃない」

「能力が出た時、止めたね」

「拍手を」

「うん」

「今、止めなければよかったと思っている」

「なんで」

「一回くらい喜べば、私がまともに見えた」

「見えない」

「正確」

「喜んでない?」

 イオは答えるまで、七秒かかった。

「分からない」

 タマキと同じ答えだった。

 圧力筒の向こうで、百舌が最後の五人へ戻る。

 右手の指を、一度開き直している。

 まだ痺れではない。

 疲労か。

 誓痕の反証か。

 水中では、症状も同じ動きに見える。

 だから次は、本人へ訊く必要がある。