第565話 第五章「反対尋問」前編

六月二十一日 午前九時二十一分

 分からない、は答えではない。

 そう教える学校は多い。

 だから大人は、分からないまま署名できる。

 一文字巴は、証人席の前へ三枚の板を置いた。

 一枚目は《はい》

 二枚目は《いいえ》

 三枚目は《分からない/覚えていない/この聞き方では答えられない》

 文字だけではない。

 板の縁は、それぞれ円、三角、波形。

 触って選べる。

 足で押せる。

 視線でも選べる。

「三枚目だけ、答えが多すぎませんか」

 冬城側補佐官が言った。

「多いです」

「区別できない」

「区別が必要なら、質問を分けてください」

「証人が逃げる余地を与える」

「質問者が逃げる余地を減らします」

「どういう意味です」

《分からない》と答えられない質問は、質問者の欲しい二択へ証人を閉じ込めます」

「法廷は二択を求める場面があります」

「あります。今日の質問が、その場面かどうかを先に示してください」

 巴は右人差し指の固定帯を確認した。

 朝から二十四行を書いただけで、腱の奥が熱い。

 左手へ筆記を移す。左手の字は読めるが、速く書くと語尾が上がる。自分の身体が文章の意味を変えるなら、交代時刻を残すしかない。

《午前九時二十三分、筆記左手へ変更。理由、右人差し指腱痛》

 百舌忍が入廷した。

 黒い喉帯。

 左右で違う手袋。

 右手の薬指と小指には、減圧障害後の痺れが残っている。彼女は手話を使うが、今日選んだのは手話だけではない。

 手話通訳者。

 身振り記録者。

 短文入力板。

 足元の三枚板。

 四つを併用する。

「証言形式を確認します」

 巴が言う。

 忍は左手を胸へ、右手を机へ置き、次に両手を離した。

 通訳者が訳す。

「私は手話を主に使います。声は必要な場合だけ。通訳が違う時は、手を横へ切ります。二度違えば交代を求めます」

 忍が、すぐに右手を横へ切った。

 通訳者が止まる。

 忍は入力板へ打つ。

《違う。声は「必要な場合」ではなく、私が選んだ場合だけ》

 巴は、訂正を正式記録へ入れた。

「開始前ですが、一回目の解釈不一致として数えますか」

 審理官が問う。

 忍は円板を押す。

 はい。

 通訳者は少し顔を赤くした。

「申し訳ありません」

 忍は三角板を押した。

 いいえ。

 通訳者が戸惑う。

 忍が入力する。

《謝罪を拒んでいない。記録を謝罪で終わらせない》

 巴は平文へ直しかけ、止めた。

 《謝っても間違いは残す》と書けば、意味は分かりやすい。

 しかし、忍はそんな一般論を言っていない。今この通訳の、この間違いを、謝罪だけで閉じないと指定した。

 巴は原文を残す。

「第一の質問です」

 冬城側補佐官が立った。

「あなたは、水系七局で監督生として、被験者を同じ動作へ従わせましたね」

 忍が手話をする。

 通訳者が訳す。

「はい。危険時、同じ動作なら安全だと思いました」

 忍は横へ切らない。

「その行為は、中央の訓練規程に基づいていましたね」

 手話。

「一部は規程。一部は私が足しました」

「どの部分を」

 忍の手が止まる。

 右手の痺れた二指を左手で支える。

 長い間。

 補佐官が続けようとする。

「答えられないなら」

 忍が波形板を足で押した。

 分からない。

「覚えていないのですか」

 忍はもう一度、波形板。

 巴が口を挟む。

「三枚目には三つの回答があります。どれか確認してください」

「証人へ、覚えていないのか尋ねました」

 忍は入力する。

《どこからが規程で、どこからが私の追加か、当時の私には区別がなかった。今も全部は分けられない》

 補佐官が言う。

「では、中央の命令だった可能性がある」

 忍の左手が速く動く。

 通訳者が訳す。

「可能性はある。ただし、第二回の《無言同意》を使ったのは私が選んだ」

「命令されていない?」

「使用訓練は命令。あの場で使う決定は私」

「施設環境に強制されていたのでは」

 忍は、三枚のどれも押さない。

 黒い喉帯を一度触る。

 それから手話。

 通訳者が訳す。

「強制された被害者です」

 忍の手が横へ切った。

 二度目。

 通訳者の顔色が変わる。

 忍は入力板へ、一文字ずつ打つ。

《私は強制された。被害者という結論を、あなたが足した》

 法廷が静かになる。

 通訳者は立った。

「交代を」

 声が震えている。

 忍が円板を押す。

 交代要員は、最初の通訳より年長だった。

 入廷すると、忍の正面ではなく斜めへ座る。手を見やすくしつつ、視線を強制しない位置。

「私は、分からない時は分からないと伝えます」

 新しい通訳者が言う。

 忍は波形板を押した。

 巴が尋ねる。

「その押下は、《分からない》ですか、《覚えていない》ですか、《聞き方では答えられない》ですか」

 忍が手話する。

 新しい通訳者は、少し待ってから訳した。

《まだ信用するか決めていない》です。板にない回答です」

 巴は、四枚目を作ろうとした。

 忍が首を横へ振る。

 入力。

《私だけのために標準を増やさない。余白へ書く》

 巴は三枚目の下へ、空白の小札を差し込んだ。

《その他――本人記入》

 証言は続いた。

 忍は、施設内で統一動作が実際に役立った場面を三つ挙げた。

 圧力扉の閉鎖。

 水中での酸素受け渡し。

 暗闇での退避姿勢。

 同時に、統一動作が人を傷つけた場面を四つ挙げた。

 右手を上げられない被験者が、拒否者に分類された。

 声を出せない子が、沈黙を同意とされた。

 水恐怖の子へ、同じ潜水開始を強いた。

 忍自身が、違う動きをした年少者を二日間、監督対象として隔離した。

「その隔離命令書は、中央様式ですね」

「様式は中央」

「内容は」

「私が書いた」

「冬城評議官の署名はありませんね」

「ない」

「ならば、局地運用者の逸脱では」

 忍は波形板を押す。

「質問へ答えてください」

 忍が入力する。

《中央様式は、違う動きを危険と分類した。隔離対象を選んだのは私。二つある》

「どちらが原因です」

《原因を一つにする質問には答えない》

 補佐官が審理官へ向く。

「証人が責任分割を拒んでいます」

 巴が異議を出した。

「逆です。分割しすぎて一方を消すことを拒んでいます」

「あなたは証人の代弁者ですか」

「いいえ。平文担当です」

「いま、証人の意味を整えた」

 巴の右指が、固定帯の中で疼く。

 痛みより、その指摘が刺さった。

「訂正します」

 巴は言った。

「私の発言を証人回答から削除してください。証人の原文だけを残します」

 忍が、巴を見る。

 左手で一度、机を叩いた。

 感謝ではない。

 了解でもない。

 《訂正を確認》という合図だった。

 忍の証言の後、短い休止が入った。

 巴は、通訳記録の一行へ赤い訂正線を引いた。

《私は、中央の命令を恐れて従った》

 原文は違う。

《中央の人が来ると思った。来なかった。だから、私が同じことをした》

 恐れた、とは言っていない。

 従った、とも言っていない。

 意味を整えれば、読みやすい。

 読みやすくすると、忍が自分で選んだ部分と、中央が来ると期待した部分が一つになる。

 巴は赤線の横へ書く。

《平文担当による過剰整理。原文へ戻す》

「自分の間違いを、そんなに大きく書く必要がありますか」

 若い通訳補助が聞いた。

「小さく書くと、後で本文だけ読まれます」

「訂正欄を読まない人が悪いのでは」

「読まれない場所へ訂正を置いた人も関係します」

「全部を同じ大きさにすると、何が重要か分からない」

「重要さを決める人の名を残してください」

「あなたが決めない?」

「平文担当は、分かる言葉へ直します。重要さまで直すと、編集者になります」

 壁際で薄墨が紙板を上げた。

《編集者も必要》

 巴が見る。

「必要です。ただし、編集したことを隠す編集者は不要です」

 薄墨は、紙板を裏返す。

《耳が痛い》

「聞こえないでしょう」

《比喩》

「比喩を平文にすると、《不都合な指摘》です」

《台無し》

「平文は、ときどき詩を殺します」

「名言ですか」

 迅が警備線から言う。

「無許可発言です」

 真琴が先に答えた。

 休止後、証人二十七が入った。

 中央命令文を各地区へ読み上げていた元放送係。

 氏名は公開。

 顔も公開。

 彼は証人席へ座ると、三枚の板を見て言った。

「四枚目が欲しい」

「何と書きますか」

 巴が尋ねる。

《はいと言ったが、はいと思っていなかった》

 冬城側補佐官が眉を上げる。

「虚偽回答ですか」

「違う。会議で《了解しました》と言った。了解は、聞いたって意味だった」

「通常は同意です」

「俺の職場では、音声を受け取ったって意味だった」

「規程には」

《了解――受領および実行承認》

「なら、同意した」

「その規程を知ったのは、あと」

「署名していますね」

「署名欄は《受領者》だった」

 正式文を確認すると、欄名は《受領・実行責任者》

 平文版では《受け取った人》

 巴の右人差し指が、固定帯の中で熱くなる。

「この平文を、作った人は」

 真琴が尋ねる。

 証人二十七は、巴を見た。

「一文字さんの平文所」

 法廷の視線が巴へ集まる。

 巴は逃げない。

「作成記録を確認します」

 古い委託票。

 担当者欄。

 巴の名ではない。

 しかし、《平文所監修》の印は自分が押している。

「私が最終確認しました」

「意味を削った?」

 補佐官が問う。

「はい。《実行責任》《受け取った》へ含めたつもりでした」

「含まれていない」

「はい」

「中央命令を分かりやすくする活動が、責任を見えなくした」

「はい」

「あなたの《読めた者だけ》を使えば、理解していない者の署名を止められたのでは」

「使えた可能性はあります」

「なぜ使わなかった」

「依頼範囲が、文書の平文化だけだったからです」

「範囲へ逃げる」

 巴は、少し間を置いた。

「逃げた部分があります」

「認める?」

「依頼範囲外の理解確認を勝手に行えば、別の権限侵害になる。だからしなかった。その判断には理由があります。でも、《自分の仕事はここまで》と言って、平文がどう使われたか追わなかった責任もあります」

 証人二十七が言う。

「俺も、意味を聞かなかった」

「説明されなかった?」

「読み上げはあった。長くて、みんな疲れてた。俺が《了解》って言えば終わると思った」

「同意したのではなく、会議を終えたかった?」

「それもある」

「中央に強制された?」

「中央の人はいなかった」

「では、自分の判断」

「自分の判断。でも、先に帰ったら配属評価が下がるって上司が言った」

「上司の圧力」

「上司も、全員残ってると加点される規則だった」

「原因は何です」

 証人二十七は、波形板を押した。

「この聞き方じゃ答えられない」

 巴は、その言葉を整えない。

 四枚目は作らなかった。

 三枚目の下の余白へ、本人の文をそのまま付ける。

《了解と言った》

《実行へ同意したつもりはなかった》

《会議を終えたかった》

《評価低下を恐れた》

《規程を知らなかった》

《読み上げは聞いた》

 六つは、矛盾しているように見える。

 人が一つの言葉を言う時、理由が一つとは限らない。

 巴は、自分の監修印の横へ訂正を付けた。

《平文版の《受け取った人》は、正式文の《受領・実行責任者》を十分に示さない》

「この訂正で、過去の署名は無効になりますか」

 補佐官が問う。

「なりません」

「なら、何のために」

「無効か有効かを、別の手続きで判断する時、最初から《全員理解していた》とされないためです」

 証人二十七は席を降りる前に、三枚の板を見た。

《分からない》って、昔もあったらよかった」

 巴は答える。

「あっても、押せたかは分かりません」

「そうだな」

「いま押せたことを、昔も自由だった証拠にしないでください」

「面倒だな」

「私も、そう思います」

 証人二十七は、少し笑って退出した。

 巴は、自分の監修印が付いた平文を、申立側に不利な証拠として提出した。

 休止時間、巴は食事を取らず、平文所から運ばせた古い用紙箱を開いた。

 同じ様式が六十三枚。

《受け取った人》

 正式文の《受領・実行責任者》を、平文ではそう直していた。

 右上には巴の監修印。

 担当者は四人。退職二人、在職一人、所在確認中一人。

「全部、証拠に出すのですか」

 真琴が尋ねた。

「全部が同じ場面で使われたとは限りません」

「では」

「使用先を確認します」

「今日中に?」

「できるところまで」

「証言を続けながらは無理です」

「分かっています」

「分かっている人の顔ではない」

 巴は箱から一枚取り、裏返した。

 裏面に、鉛筆で小さく書かれている。

《保留したい》

 印刷欄には、保留がない。

 はい。

 いいえ。

 受領。

 書いた人は、欄外へ逃げるしかなかった。

「この一枚の提出者は」

「限定です」

「確認できますか」

「本人へ、公開範囲を聞きます」

「六十三人全員に?」

「同じ用紙を使った人が、六十三人とは限りません。複写された可能性もある」

 真琴は、箱の蓋を半分閉じた。

「巴。いま全部を直そうとすると、今日の証人の言葉を取り落とします」

「私が作った穴です」

「だから、あなた一人で埋める?」

「平文所の責任です」

「平文所と、あなたは同じですか」

 巴は答えなかった。

 自分が組織を個人へしないよう他人へ言い続けてきた。

 責任が自分へ戻った時だけ、全部を一人で持つのは、反省に見える独占だ。

「確認班を三つ」

 巴は言った。

「使用先の照合。本人への連絡。正式文との差分。私は今日の証言担当から外れない」

「班を選ぶのは」

「平文所だけではなく、使用者側と記録側から一人ずつ」

「期限」

「第一次確認、六月二十九日。全部は終わらない」

「終わらないことを、最初から書く?」

「終わると書く方が早いです」

 迅が廊下から紙皿を差し出した。

「食え」

「審理場への飲食物持込みは」

「休止室」

「何ですか」

「豆の焼いたやつ」

「名前を聞いています」

「小麦が、名前を付けると証言の邪魔になるから《昼食》で出した」

 巴は一つ食べた。

 冷めている。

 塩が強い。

「おいしい?」

「証言内容と無関係です」

「まずい?」

「費用欄へは適正価格と書きます」

「逃げたな」

「休止時間です」

 巴は食べながら、六十三枚の箱へ札を付けた。

《本審理で確認された平文上の欠落》

《本審理だけで全使用結果を確定しない》

《過去署名の一括無効・一括有効を宣言しない》

《使用者本人へ、保留を含む訂正機会を通知する》

 箱は、彼女の罪を証明する棺にも、改善を証明する賞状にもならない。

 午後の証言が始まる前に、巴は箱を自分の足元から、三者確認台へ移した。

 手放したのではない。

 自分だけで持たない場所へ置いた。

 三者確認台へ箱を置いた直後、連絡係が一本の紐を持ってきた。

 青、白、青。

 中央に結び目が二つ。

「用紙の使用者からです。文字では返したくないと」

 巴は紐へ触れない。

「意味の説明は」

「本人の指定で、青は《受け取った》。白は《決めていない》。二つの結び目は《二回聞かれた》」

「公開範囲」

「紐の形と意味。氏名、所属、命令内容は限定」

 冬城側補佐官が、休止室の入口から言った。

「新しい回答様式を、審理中に追加するのですか」

「この人の回答です」

 巴は答えた。

「標準にはしません」

「同じ紐を使う者が出れば」

「同じ意味とは限らない。本人へ聞きます」

「非効率だ」

「効率のために《了解》を一つへした結果が、この箱です」

 紐は、三枚の板の横へ置かれた。

 円でもない。

 三角でもない。

 波でもない。

 空白札へ、本人の説明だけを付ける。

《受領した》

《決定していない》

《二度質問された》

 巴は、二度質問した人間の名を推測しなかった。

 紐を見た別の証人が、自分も同じ色を使いたいと言った。

「同じ意味ですか」

 巴が聞く。

「違う。青は怖い、白は帰りたい」

「では、別の札を作ります」

 分かりやすい記号は、共有できる時だけ便利だ。

 共有していない意味を同じ色へ詰めると、また誰かの《了解》になる。

 昼の休止前、冬実が証人席へ座った。

 白い所長服を裏返し、灰色を表にしている。

 左小指は、拘置所崩落時の骨折で曲がったまま。机上の鍵を回す動作に、わずかな遅れがある。

「あなたは、中央抑制拘置所の運用によって、私刑、薬剤紛失、再抗争が減少したと証言していますね」

 冬城側補佐官が聞く。

「はい」

「数字を」

「私刑報告は、運用前六か月の三十一件から、運用後六か月の九件。薬剤紛失は十七件から二件。再抗争参加は、確認できた範囲で四十二人から十三人」

「中央抑制設備は保護に寄与した」

「一部は」

「あなたの施設に残留を選んだ十八人もいた」

 冬実は、半月眼鏡を外した。

「その数字を訂正します」

 真琴が顔を上げる。

「どの部分ですか」

「十八人のうち、二人は内側開錠具の用途を完全には理解していませんでした」

 傍聴席がざわめく。

「審理時には、本人確認を行ったはずです」

「行いました。しかし、私が《いつでも出られる》と説明しながら、外部危険一覧を先に読み上げました。二人は、出れば薬を失うと理解した可能性が高い」

「可能性ですか」

「再聴取で、一人は《鍵を使えば治療が切れると思った》、もう一人は《出ると言えば監視が増えると思った》と回答しました」

「では、残留十六人?」

「いいえ」

 冬実は、曲がった左小指を机へ置いた。

「当時の残留確認は十八。現在、理解確認に疑義がある二。数字を十六へ書き換えると、当時二人が残った事実が消えます。十八の横へ、疑義二を付けてください」

「中央抑制拘置所の先行審理は、不完全だったことになりますね」

 冬実は、申立人席を見ない。

「はい」

 傍聴席の一部から、失望の声。

「なぜ今、訂正を」

「再聴取が昨日終わったからです」

「あなたに不利です」

「私が有利になるための審理ではありません」

「あなたは被告人です」

「だから、自分に不利な事実を出さない理由にはならない」

「中央施設の保護実績を弱めます」

「弱まる部分は、弱めてください」

 冬実の声は低く、変わらない。