第37話 第五章「定足数」前編
七月二十七日 午前八時二分
百人を集める仕事で、最初に数えるべきは百人ではない。
帰り道である。
風祭澪は旧第二体育館の西側階段で、右耳の補助具を外した。
朝から三度、雑音が入っている。正面玄関の怒号、鉄扉を外す金属音、用具庫の反響。高い音は右側で割れ、低い音は身体の内側へ二重に響いた。
聞こえないより、間違って聞こえる方が命令には危険だ。
澪は補助具を胸ポケットへ入れ、三本の真鍮笛を左側へ寄せた。左手を壁へつき、体育館の床から伝わる足音を取る。
九十六。
議場の席が埋まった数ではない。
百の議席について、本人、遠隔先、委任先のいずれかを確認できた数だ。
九十七番の席札がまだ伏せられている。
七十一番、四十四番、十八番も同じだった。
開会準備の元体育教員が赤鉛筆で数字を囲む。
「午前八時。所在確認九十六。規則上、開会できません」
議場にざわめきが広がった。
「四人くらい後でいいだろ」
「投票までに来れば」
「百人全員の所在確認が先です」
真琴が答える。
「なぜ百なんだ」
「この規則を作った時、地区ごとの二十人を一人でも無視したという疑いを避けるためです」
「今の百人と同じじゃない」
「では規則を変える会議を開く必要があります。その会議にも定足数が要ります」
「紙に殺されるぞ」
「紙が殺すのではありません。紙を変える権限を、誰も決めていないのです」
「同じだろ!」
「同じでは——」
真琴の文が長くなる前に、澪は議場へ入った。
靴先を三度鳴らす。
一度目で近くの者が止まり、二度目で救難経験者がこちらを向き、三度目で凱が手を上げた。
静寂は命令ではない。
静かになった者が、次の声を聞く準備をしただけだ。
「未確認四名。番号十八、四十四、七十一、九十七」
澪は低い腹声で言った。
「最後の連絡時刻。十八番、昨日二十時、西橋東詰め。四十四番、今朝五時四十分、東排水路北。七十一番、昨日十六時、南仮設二区。九十七番、今朝六時十分、北医療団地」
「来る予定だったのか」
凱が訊いた。
「全員、本人出席を希望。三人は帰宅路の安全確認待ち。九十七番は体調変化」
「迎えを出す」
「誰を」
「俺の旧救護班を」
「命令系統」
「俺が——」
凱の言葉が止まった。
中央の高い椅子はまだ空いている。
「俺が依頼する。拒否可能とする」
「帰還先は」
「本人住所」
「日没後の封鎖は」
「解除を要求する」
「誰へ」
「西橋管理、南仮設警備、東排水管理」
「三系統。応答期限」
「九時」
「九時まで本人を会場へ留める?」
「来てから帰路を作る」
澪は凱の目を見た。
「順番が逆」
議場の空気が固くなる。
凱は命令を受けて育った者の顔を知っている。反対されても動揺せず、反対者を一人にしない顔だ。
「会議を成立させなければ、帰路の制度も決められない」
「制度のために今の帰路を担保にするな」
「担保ではない。優先順位だ」
「閉じ込めて集めた百人は、百人ではない」
澪は言い切った。
右耳では、自分の声が遠かった。
左側から小麦が息を呑む音がした。右側で誰かが何か言ったが、言葉にならなかった。
澪はその人へ三歩以内に近づく。
「もう一度。左側から」
中年の男が言い直した。
「来なかった人のせいで、ここに九十六人待たせるのか」
「来ない理由を確認する」
「怖いからだろ」
「何が」
「帰れないのが」
「なら、その恐怖は会議条件」
「臆病まで票に入れるのか」
「臆病と呼んだ人の名も記録する?」
男は目を逸らした。
澪は踵を三度鳴らした。
「議場警備へ六名要求されている。私は受けない。西橋二、東排水二、南二区一、医療団地一へ回す」
「今、正面で衝突があった」
迅が用具口から入ってきた。左腿の制服に短棒の擦れ跡がある。右腕は吊ったまま、左手首の包帯が汗で濃くなっていた。
「秩序班がまだ十九人。議場へ入ったら轟一人では足りない」
「あなたがいる」
「負傷してる」
「私も」
「耳と腕は違う」
「どちらも人数表へ一と書かれる」
「澪」
迅の声量が下がった。
「入口を空けた。中を取られたら、四人を探しても会議がない」
「四人を探さなければ、会議は最初からない」
「分かってる」
「分かっていて、私を残す?」
「議場の連絡が要る」
「連絡役を置く。私は行く」
「誰を置く」
「私が決める」
「また一人で決める」
「あなたに言われたくない」
二人の間へ、床の線が一本あった。
バスケットボールのサイドライン。黒雨前には、線の内と外で試合が分かれた。
今はどちらも議場だった。
「帰路が三方向。おまえ一人で行けない」
「行かない。命令を分ける」
「最初からそうしろ」
「最初から人を出していれば」
「入口が——」
「入口は外したでしょう」
澪の右側で、タマキが手を振った。
澪は左へ回ってもらう。
「何」
「喧嘩、あと何分?」
「喧嘩ではない」
「じゃあ会議?」
「作戦変更」
「変更理由は」
澪は口を閉じた。
タマキは鉄箱から小さな板を出した。《変更記録》と書いてある。冷蔵薬の搬送後、澪が作らせた様式だった。
命令変更は裏切りではない。
理由を隠すことが裏切りになる。
「当初計画。議場常駐十二。帰路誘導十二」
澪は言った。
「現在。入口開通で受付警備必要数が四減。所在不明四のため帰路確認が優先。議場常駐六、帰路誘導十八へ変更」
「決定者」
「風祭澪」
「反対」
「竜胆迅」
「反対理由」
迅はタマキの板を見た。
「議場内の突入予測。投票箱、出席簿、固定機の三点を守る人数不足」
「代案」
「澪は西橋だけ。東と南は別責任者」
「誰」
「……決める」
「すぐって何分」
「二分」
タマキが砂時計を置いた。
「喧嘩より早い」
迅は議場を見渡した。
元白冠の救難員が三人いる。零番街の屋根修理班が二人。冷蔵薬の搬送で区間交代をした市場の女が一人。全員、迅の命令を待ってはいない。
それが迅には苦手だった。
「東排水。市場の佐伯、屋根班の一人。排水蓋と帰還灯。判断は現地」
迅が言う。
「南二区。元救難員二人。滞在者名簿を持って、宿泊継続か会場参加か本人へ聞く」
「医療団地」
「凱の旧救護班じゃなく、七瀬の音声係一人。体調だけ聞く。迎えは医療側が決める」
「西橋」
「おまえ」
「議場連絡」
「タマキ」
「僕は受付番号やってる」
「兼務できるか」
「一往復二十二分。会議が動いたら遅い」
「固定伝令を一人」
迅は白布の帯を巻いた若い荷役員を見た。
「頼めるか」
「命令じゃないんですか」
「西橋と議場の伝令。断れる。帰路を先に使う」
「……やる。戻れなくなったら?」
「澪が戻す」
「私へ委任した?」
澪が言う。
「仕事を頼んだ」
「範囲」
「西橋から体育館まで。日没前。危険なら中止」
「復唱。西橋から体育館。日没前。危険時中止。決定者、現地の私」
荷役員も復唱した。
砂時計の砂が落ち切る。
「一分四十七秒」
タマキが言った。
「余った十三秒、返す?」
「持ってろ」
「時間は持てない」
「なら走れ」
「命令?」
「依頼」
「料金」
「あとで」
「曖昧」
「会議経費」
「それならやる」
タマキは鉄箱を背負い直した。
迅と澪は同時に別方向を向いた。
仲直りではない。
作業が分かれただけだった。
午前八時二十四分。
澪は西橋へ向かっていた。
旧第二体育館から西へ七百メートル。黒雨で地盤が沈み、橋の中央だけ一段低い。一週間前の補修で歩行板は交換されたが、欄干の外側には未固定の資材が残る。
会議の日に限って、橋の東詰めへ《午後五時以降通行制限》の札が立った。
札の下には、小さく《混雑時は前倒しあり》とある。
「前倒しを決める者は」
澪が管理員へ訊いた。
「現場判断」
「氏名」
「俺」
「基準」
「危ないと思ったら」
「何人」
「混んだら」
「何人」
「数で決められない」
「なら参加者は、帰れる時刻を決められない」
「会議へ行かなきゃいい」
管理員は悪意の顔をしていなかった。
欄干のボルトを一本ずつ点検している。工具帯は使い込まれ、爪には鉄粉が入っていた。
「橋が壊れたら、あんたが責任取るのか」
「帰路を閉じて会議へ来られない人へ、あなたが責任を取る?」
「橋と票を一緒にするな」
「同じ床を通る」
管理員はレンチを置いた。
「最大何人ならいい」
「同時十二。間隔二メートル。逆行なし。中央で停止なし」
「だったら札に書け」
「書いたら十二まで来る」
「書かなくても来る。知らないまま」
管理員は黙った。
澪は彼を責めたいのではなかった。
責めると、人は自分が正しかった証拠を探し始める。必要なのは橋を渡す人数だった。
「東詰めに点呼一、西詰め一。十二人ごと。帰還予定を先に取る。雨量が増えたら六へ変更。変更者名と時刻を札へ追記」
「人がいない」
「こちらから二人出す」
「会議の人間?」
「帰路の人間」
「同じだろ」
「今は違う」
澪は最初の笛を吹いた。
短く一声。
東詰めの荷役員が振り返る。
二声。
西側の屋根修理班が白布の帯を高く上げる。
三声目は吹かなかった。
三声帰路〈スリー・コールズ〉を成立させれば、呼びかけへ応答した者の位置と帰還方向が、澪の身体へ音の線として返る。
だが今は右耳が不安定だった。
能力が人数を数えても、橋の荷重は軽くならない。
「二声で運用する」
「三つ笛なのに?」
荷役員が訊いた。
「今日は二つで足りる」
「足りなかったら」
「変える」
澪は札へ書いた。
《同時十二名。東西点呼。停止禁止。五時で自動閉鎖しない。閉鎖時は理由と代替路を記載》
管理員にも署名を求めた。
「俺が閉じる責任だけ負うのか」
「開ける責任も」
「面倒な橋だな」
「橋は前から面倒。札が短かっただけ」
管理員は署名した。
十八番の住民は、西橋東詰めの薬局裏にいた。
四十代の女性。右脚に装具。会議用の番号札を鞄へ入れ、朝六時から二度、橋まで来て戻っていた。
「帰りに閉まるかもしれないって言われて」
「今、条件を固定した」
「絶対?」
「絶対ではない。十二人、二メートル、雨量で六。閉鎖なら代替路を先に作る」
「それ、安心って言う?」
「安心とは言わない」
澪は地図を見せた。
「選べる。今、会場へ行く。西詰め待機所から音声参加。今日は参加しない」
「参加しないと、白戸って子に委任したままになる?」
「委任している?」
「食券の時に。紙は読んだ。でも、橋が閉まるなら誰かに任せるしかないと思った」
「撤回したい?」
「会議を聞いてから決めたい」
「なら、まず所在確認。参加方法は議場の手続き待ち」
「私が迷ってる間、会議が止まる?」
「止まる」
「九十六人に悪い」
「あなたを急がせるために九十六を使わない」
女性は橋を見た。
「西詰め待機所。そこで聞けるなら」
「音声条項を確認する」
「なかったら」
「今日参加しない選択が残る」
「それで会議は?」
「開かない可能性」
「責任、重いね」
「重さを隠すよりいい」
女性は杖の先を歩行板へ置いた。
「じゃあ行く。会場じゃなく、西詰めまで」
澪は彼女を先頭にしなかった。
橋を選んだ本人の速度を、後ろの十一人が待つ形にした。
午前九時十二分。
東排水路から連絡が来た。
四十四番は会場へ向かわず、排水管理小屋からの参加を希望。理由は、午後の降雨で北側水門を開ける担当が一人しかいないため。
南仮設二区の七十一番は、幼児二人を預かっており移動不可。音声なら参加する。ただし子どもの声を記録しないこと。
北医療団地の九十七番は、発熱と脱水で診察中。意識清明。会場への搬送は医師が拒否。本人は「聞くだけでも参加したい」と述べた。
四人とも、来なかったのではない。
来るために捨てるものが多すぎただけだった。
澪は西詰め待機所の古い公衆電話へ耳を寄せた。左耳で受話器を取り、議場へ報告する。
「所在、百。会場七十三。委任二十三。遠隔希望四」
『遠隔はまだ無効です』
真琴の声が受話器で少し割れた。
「条文」
『探しています。旧避難所運営規則の継続審議条項に、病床、育児、炊事、防災当番のため会場を離れられない者は、音声確認と二名の証者で在席とみなす、とあります』
「使える」
『現在の会議規則へ引き継がれたか不明です』
「廃止記録」
『ありません』
「なら使う」
『それは法的推論ではありません』
「使わない理由は」
『証者二名。うち一名は議場内、一名は遠隔先で本人の同一性を確認。さらに全音声を記録し、本人がいつでも切断できる設備が必要です』
「遠隔側証者は現地誘導員」
『利害関係があると異議が出ます』
「利害のない人間はいない」
『程度の問題です』
「議場側」
『七瀬の固定撮影なら、声と時刻と議場反応を一続きで残せる。ただし四地点の音声確認へ行くには、正面固定機を動かすか、別の記録者が必要です』
澪は体育館の方向を見た。
七瀬の固定機は、入口の乱闘と受付変更を切れ目なく撮っている。議場へ移せば入口記録が終わる。置けば、遠隔本人確認の証者が足りない。
「予備機」
『一台。タマキが番号札の記録に使っています』
「人で証言」
『条文は音声記録を要求しています』
「機械一台で、四人を外す?」
『機械が外すのではありません』
「その文、あなた好き」
『嫌いです。正しいから使います』
受話器の向こうで紙をめくる音がした。
『七瀬本人へ聞いてください。撮影判断は彼女です』
「今、議場?」
『入口固定機の横です』
「つないで」
少し待つ。
七瀬の低いアルトが入った。
『午前九時十六分。風祭澪から遠隔出席の記録要請』
「会話まで記録する?」
『必要なら』
「固定機を動かして」
『理由を』
「遠隔四人の同一性確認。議場側証者」
『固定機を動かすと、入口受付と秩序班の接触記録が切れます』
「会議が開けない」
『入口の記録がなければ、開いた後に受付全体が無効と争われます』
「四人を数えなければ、開く前に終わる」
『分かっています』
「なら」
『撮るものを私へ命令しないでください』
澪は息を止めた。
一週間前の冷蔵薬搬送で、七瀬は澪の命令に従って撮影位置を変え、薬品搬送の一部を記録から落とした。それが間違いだったとは限らない。だが、七瀬の判断を澪が奪った事実は残った。
「命令を撤回」
澪は言った。
「要請。遠隔四人の音声記録。固定機を動かすか、別手段はあなたが決める。回答期限、九時二十五分」
『期限の根拠は』
「待機所の女性の脚装具。二十分以上座ると再歩行に時間がかかる。東排水は雨雲到達まで四十分。南二区の子どもは昼寝が九時半。医療団地は点滴開始前に本人確認が必要」
『了解。判断します』
「復唱」
『遠隔四人の音声記録。手段は私が決定。九時二十五分まで。理由は身体・防災・育児・治療の時間制限』
通話が切れた。
十八番の女性が待機所のベンチで脚を伸ばしている。
「カメラの人、来る?」
「決めている」
「来ないかもしれない?」
「ある」
「あなたが決めれば早いのに」
澪は答えなかった。
早く決める人を尊敬してきた。
早く決めたせいで、返事をした一人を数え落とした。
だから今度は遅くする、ではない。
誰が決めるべきかを間違えないため、必要な時間を使う。
それは待たされる側にとって、やはり遅い。
「ごめんなさい」
「謝るなら、変えることも言って」
女性は澪の口癖を知っていた。
「次から、遠隔機器を先に各帰路へ置く。今回は間に合っていない」
「それなら待つ」
澪は帰路帳へ書いた。
《遠隔設備、事前配置なし。判断者、風祭澪。変更案、四経路常備》
午前九時二十三分。
西橋東詰めへ、タマキが現れた。
背中の鉄箱には、鏡ではなく細い銅線、受話器、手回し発電機、四つの木札が括りつけられている。
「七瀬は」
「来ない」
十八番の女性の顔が曇る。