第36話 第四章「入口の乱闘」後編
棒が左腿を掠める。
痛みより先に、白戸の左肩が見えた。
次の動作は右からの袈裟打ち。しかし右手は、借りた警棒士の動きへ移る途中で一瞬開く。
左右が喧嘩している。
迅は白戸の懐へ入った。
頭突きなら一撃。
膝なら二撃。
肩で胸骨を押せば、白戸は用具箱へ倒れる。
迅は何もしなかった。
白戸の短棒だけを、左脇と固定材の外側で挟んだ。
「離してください」
「誰の動きだ」
「委任された人の」
「名前」
「保護します」
「じゃあ返せない」
「返す必要はありません」
「借りたものは返す」
「本人がくれた」
「期限は」
白戸の目が一瞬揺れた。
迅は棒を捻らず、ただ止めた。
力で奪えば、白戸は被害者になる。止め続ければ、借りた手の方が先に限界へ来る。
白戸の右薬指が震えた。
薄い文字列が手首から指先へ集まり、爪の下で白く瞬く。
反証〈リコイル〉。
短棒が落ちた。
右手が一瞬、紙のように開いたまま動かない。
白戸は左手でそれを支えた。
「他人の手を使いすぎると、自分の手が空く」
迅が言った。
「名言みたいに言わないでください」
「悪かった」
「謝るんですか」
「出来が悪い」
白戸は初めて、迅に似ていない顔で睨んだ。
その間に、轟が上の蝶番軸を抜いた。
一本。
二本。
三本。
金属棒がコンクリートへ転がる音が、秩序班の怒号よりはっきり響く。
「離れる。扉、倒れる」
轟の危険指示は完全な文だった。
迅は白戸の短棒を床へ置き、二歩下がった。タマキと真琴が鏡を壁側へ退かせる。七瀬が固定機の画角を確認し、委員四人は白線の外から見届けた。
轟がジャッキを一段上げる。
右扉が蝶番から外れた。
百三十キロ近い鉄板がゆっくり傾く。
轟は掌で受けず、肩も入れない。二本の木材へ荷重を流し、滑らせ、床へ寝かせた。
轟音はしなかった。
大きな物を正しく降ろす音は、驚くほど小さい。
扉の向こうに、体育館の薄暗い用具庫が開いた。
埃、古いボール、破れた跳び箱、巻かれたマット。奥には議場へ通じる二重扉がある。
「避難経路として開通」
真琴が時刻を書く。
「午前七時二十八分。暫定受付への用途追加、委員三名賛成、一名保留」
保留していた元体育教員が、寝かされた扉を見た。
「床を傷つけたね」
「下に材、入れた」
轟が言う。
「戻せる?」
「戻す」
「誰が払う」
迅が左手を上げた。
「見積もり後、俺」
「金ないでしょ」
タマキが言った。
「働く」
「何時間」
「見積もり後」
「それ、曖昧」
「受付にするか決めてくれ」
元体育教員は、正面玄関の列を見た。
老人が日陰へ運ばれている。仕立屋の女はまだ一番机で裁ち鋏の説明をしていた。六番だけが流れている。
「同じ本人確認をする。番号は共通。入口情報は投票用紙へ付けない。撮影は審査時限定。十時まで。異議は全文残す」
真琴が一つずつ読み上げた。
「反対は」
白戸が手を上げた。
右薬指だけ、半分曲がったままだった。
「理由は先ほどの六点。加えて、既存受付の混乱を助長する可能性」
「賛成三、反対一」
「保留を反対へ変えます」
元体育教員が言った。
迅は彼を見た。
「なぜ」
「床を勝手に外したから」
「扉だ」
「そういう訂正をするから」
元体育教員は赤鉛筆を上げた。
「でも委員は四人。二対二になる」
「先ほど三人賛成でした」
真琴が言う。
「私は保留。今、反対」
「残り三人は」
「二人賛成、一人賛成だったが、本人確認の二重化を見てから最終承認すると」
「つまり、暫定受付は開始できない」
白戸の声が、真琴の接続詞を借りた。
迅は舌打ちしそうになった。
外す許可と受付の許可を分けた。分けた結果、入口は開いたが、人を通す決定が止まった。
正しい手続きは、正しい結果を約束しない。
ただ、間違えた人を隠しにくくする。
「試験受付を一人」
七瀬が言った。
「投票参加者ではなく、会場職員。既存番号簿と照合し、二重化の有無を全員が確認する。結果後に再採決」
「誰を」
白戸が訊く。
「私が通ります」
小麦だった。
山吹色の前掛けの上から防刃ベストを着け、右手にへこんだ鍋蓋、左手に長い木べらを持っている。背後には食材を積んだ台車が二台。正面入口からは危険物扱いされ、台所へ入れずにいた。
「会議参加者ですか」
「炊事責任者。議席番号もある。でも今は職員として通る。投票受付は後」
「鍋蓋と木べらは危険物です」
「鍋が危険なら、今日の昼は水」
「預かれという意味です」
「誰が返す。何時に。返却中に昼が遅れたら、誰が空腹の時間を払う」
白戸は黙った。
小麦は東用具口の前へ立った。
真琴が試験用の受付表を置く。タマキが得点板の《〇一》を渡す。七瀬の鏡が、用具口の内側と正面固定機をつないだ。
「氏名」
「土門小麦」
「役割」
「炊事責任者。議席は五十四。今は職員入場」
「持ち物」
「鍋蓋一、木べら二、包丁は封印箱。米二十五キロ、乾燥豆九、塩一・八、梅干し百二十個、燃料——」
「食材は別紙で」
「別紙を誰が数えた」
「私です」
「休憩は」
「まだ」
「鍋帳に未休憩と記録」
真琴が書いた。
「入場時刻、七時三十七分。番号〇一。既存簿への重複なし」
小麦は用具口を通った。
誰も拍手しなかった。
拍手をすると、通れたことが特別になる。
タマキが番号札のインクを指で確かめた。
「乾いてない」
「次、二番」
迅が言う。
「待って」
白戸が前へ出た。
「僕の支持者も、こちらへ並んでいいですか」
正面六番の列にいた者たちが白戸を見る。
迅は答えなかった。
「委員会へ聞け」
元体育教員が赤鉛筆を振った。
「入口は支持で分けない。本人確認が同じなら並べる」
「僕の委任状を持つ人も?」
「本人が来たなら、本人として確認する。委任は会場内で別に扱う」
白戸は右薬指を左手で伸ばした。
自分の列が、自分の手を離れる瞬間だった。
「分かりました」
声が一段低かった。
白戸の支持者のうち、杖をついた女が六番列から抜けた。
「こっちの方が早いなら、こっちへ行くよ」
白戸は止めなかった。
「僕の委任は」
「中で確認する」
「食券は」
「持っていてください」
「返さなくていい?」
「食券は食券です」
小麦の言葉を借りた。
だが、その言葉は借りても減らない。
女が東用具口へ向かう。
続いて二人、三人、正面列から離れた。白戸の腕章をつけた受付係の一人も、警棒を机へ置き、東受付の列整理へ回った。
「六番が空きます」
彼は責任者へ言った。
「なら一般受付へ変えた方がいい」
「勝手に持ち場を離れるな」
「自発的奉仕ですから」
男は腕章を外した。
迅は白戸を見た。
白戸は薄く笑っていた。
負けを認めた顔ではない。
入口が増えれば、白戸の支持者も入れる。会議が成立すれば、彼の四十二通も票になる。
「これで公平だと思いますか」
白戸が訊いた。
「思わない」
「では、なぜ」
「おまえが反対できる場所で変えた」
「反対しても負けました」
「負けた記録が残る」
「それで救われますか」
「救うって主語がでかい」
「あなたはいつも小さくしますね」
「大きい言葉で人を運ぶと、落とした時に見えない」
「それは名言ですか」
「違う。搬送の話だ」
白戸は迅と同じように出口を見た。
似せたのか、自分で見たのか、迅には分からなかった。
午前七時四十二分。
寝かされた鉄扉の上に受付簿が置かれた。
タマキが作った最初の番号札は、朝日を受けてまだ少し濡れていた。