第35話 第四章「入口の乱闘」前編

七月二十七日 午前七時十一分

 入口は、建物が最初につく嘘だ。

 誰でも入れる顔をして、誰を止めるかは蝶番が決める。

 旧第二体育館の正面玄関には、夜明けまでなかった机が六台並んでいた。

 机の上には《持ち物確認》《本人照合》《危険物預かり》《委任内容確認》と札が立ち、机の前には鉄柵が蛇の腹のように折り返している。会議参加者の列は校門から旧プール脇まで伸びていた。

 六台あれば早そうに見える。

 動いているのは二台だった。

「刃物は」

「仕事用の裁ち鋏です」

「危険物です。預かり番号を発行します」

「紙を切るだけです」

「紙も人も切れます」

「人を切る予定はありません」

「予定は持ち物では確認できません」

 一番机の前で、仕立屋の女が十五分止められている。

 二番机では、杖をついた老人が靴底まで調べられていた。三番と四番には係員が座っているが、説明書を読み直すふりをして誰も通さない。五番は《休止中》。六番は白戸の委任状を持つ者だけを受け付け、名前を見せる前に白い札を出せば一分で通った。

 規則を破ってはいない。

 規則へ一人ずつ足を引っかけている。

 迅は列の外側を歩いた。

 色褪せた学ランの右袖は肘から先を留め具で吊っている。雨は降っていないのに、骨の中へ細い針を差されたような痛みがあった。左手首には冷蔵薬の搬送で捻った跡が薄く腫れ、強く返すと熱を持つ。

 殴る手がない、というのは正確ではない。

 殴れば悪くなる手しかない。

「午前七時十二分。受付一、処理停止十五分四十八秒」

 七瀬の声が入口上の足場から降ってきた。

 固定撮影機は正面玄関の全景を捉えている。左肩へ荷重を掛けないよう、三脚は鉄骨へ索で吊られ、クランクだけが七瀬の右手へ伸びていた。銅色の短い髪の左編み込みに結ばれた黄色いフィルム片が、朝風のたび細く鳴る。

「停止じゃない。確認中です」

 受付責任者を名乗る男が、上へ向かって言った。

「同じ人を十五分確認しています」

「慎重なんです」

「六番は平均五十二秒です」

「書類が整っている」

「一番の書類も整っています」

「危険物がある」

「裁ち鋏です」

「刃物です」

「あなたの机にも鋏があります」

 男は机の鋏を引き出しへしまった。

「撮影は受付から十歩下がってください」

「告知では三歩です」

「混雑時は十歩に変更した」

「変更時刻と決定者を」

「現場判断です」

「現場の誰ですか」

 七瀬の敬語が一段増えた。

 迅は列の靴を見た。

 仕立屋の女は左靴の踵を上げ始めている。苛立つ者はつま先を鳴らす。帰ろうとする者は踵を浮かせる。

 三十七人のうち、十二人が帰る準備をしていた。

「迅」

 タマキが巨大な鉄箱を背負って走ってきた。緑のニット帽の下で焦げ茶の髪が汗に張りついている。左右で色の違う靴紐のうち、今日は右が黄、左が青だった。

「東門も閉められた」

「理由」

「資材搬入口だから参加者はだめ。南は傍聴者用。北は救急用。西橋は澪が帰路にするから入口にするなって」

「正面だけ」

「入口が一個ってこと?」

「嘘が一個」

「意味は」

「あとで」

「あとって何分」

「七分」

「数えた」

 タマキは鉄箱の留め具を一度鳴らした。

 迅は受付机へ近づいた。

「参加者の通過速度を上げろ」

 責任者の男は迅の固定された腕を見た。

「命令ですか」

「質問だ」

「なら答えません」

「係員は誰が選んだ」

「会場保全を心配する住民です」

「名簿」

「個人情報です」

「報酬」

「自発的な奉仕です」

 男の袖口から、白い紙札の端が見えた。

 奉仕という言葉は、給料を払わない側によく似合う。

「白戸は」

「会議参加者です。受付運営には関与していません」

「その言い方、本人に習ったか」

 男の目が一度だけ左へ動いた。

 玄関脇の旧用具室前に、白戸依久が立っていた。

 白に近い金髪を耳へかけ、誰かから譲られた灰色の制服を寸法だけ直している。胸には左右違う筆記具。耳たぶの七つの穴には、薄紫の小さな留め具が一つだけ光った。

 白戸は自分へ並ぶ人へ頭を下げ、書類を一枚ずつ確認していた。相手が背を丸めれば自分も丸め、早口なら同じ速度で返す。似せていると気づかない程度に、よく似ていた。

「おはようございます、迅さん」

 迅へ向いた時だけ、白戸の肩が迅と同じ角度へ落ちた。

「受付を退かせろ」

「僕は受付の責任者ではありません」

「今の男と同じ文だ」

「事実が同じなら、文も似ます」

「おまえに似る理由はない」

「会場の安全を心配する人が、自分で立っています」

「六番だけ速い」

「必要書類が揃っているからです」

「食券と一緒に渡した書類か」

 白戸の右手が、袖口の札を数えた。

「食券を受け取った人が、僕へ委任した。それは二つの事実です」

「交換じゃない?」

 タマキが割って入った。

 白戸はタマキの少し高い声に合わせた。

「交換と感じた人もいるかもしれない」

「感じた人って誰」

「話したくない人の名前は出せません」

「じゃあ、話したい人を受付で十五分止めるのは誰」

「僕ではありません」

「その答え、何個持ってる」

 白戸は笑わなかった。

 正面列の後ろで怒号が上がった。

「八時に間に合わない!」

「番号だけ先に寄越せ!」

「押すな!」

 鉄柵が横へ揺れた。

 受付係の一人が警棒を抜く。抜き方が速すぎた。柄を握る角度、親指の置き方、半歩下がって間合いを作る足。素人の自発的奉仕ではない。

 警棒が、列の先頭にいた仕立屋の女の鎖骨へ向いた。

 迅は一歩退いた。

 床に黒い環が一瞬だけ開き、靴底へ冷たい感触が走る。

 退いた距離が身体のどこかへ刻まれる。

 一。

 警棒は女へ届かなかった。

 轟の左掌が、棒の先を包んでいた。

 百九十八センチの身体が玄関の影を半分塞ぐ。橙色の工事ベスト。剃った頭。首へ続く三本傷。両掌には先週の摩擦熱でできた新しい皮膚がまだ桃色に浮いている。

「打つなら、検査終わる」

 低い声が床を震わせた。

「警備妨害だ!」

「検査と打撃、同じ手でやるな」

 受付係が棒を引いた。

 轟は離した。

 勝てる力を見せ、勝たない。簡単そうで、殴るより筋肉を使う。

 別の係員が笛を鳴らした。

 玄関両脇から、白い腕章の男たちが八人出てきた。揃った装備ではない。鉄棒、木盾、作業手袋、救難用の短棒。誰かの倉庫から集めた道具だ。

 ただ、立ち位置だけが揃っていた。

 白戸の指が、袖口の札へ触れる。

 札には名前があった。

 細い光が彼の指先から紙の縁へ走り、手首の内側に薄い文字列が浮かぶ。

 誓痕〈ヴァウ・スカー〉

「受付保全をお願いします」

 白戸が言った。

 声は柔らかいままだった。

 次の瞬間、その身体の重心が変わった。

 肩の力が抜け、右足の母趾球へ体重が移る。受付責任者と同じ警棒術。続けて左手が紙束を扇状に広げ、別の係員と同じ照合速度で三枚の署名を見分ける。鍵束を受け取れば、錠前師の指で一度も迷わず鍵を選んだ。

 他人が署名した空白へ、技能を借りる。

 白紙委任〈ブランク・チェック〉

 借りたのは技術だけではない。

 立ち方も、利き手も、迷わない時の顔まで借りていた。

 白戸が右手で警棒を持つ。次の札へ触れると、今度は左手へ持ち替えた。身体の中心が半拍遅れて揺れる。

「迅さん。ここで暴れれば、あなたを支持しない人だけでなく、あなたを支持する人の受付も無効になります」

 迅の話し方を借りずに言った。

「よく知ってる」

「だから退いてください」

「誰から」

「入口から」

「入口はおまえのものか」

「会議のものです」

「なら会議へ返す」

 迅は踵で床を一度擦った。

「轟。扉、外せるか」

「正面か」

「用具口」

「開けるだけなら三分。受付にするなら」

「あと四分」

 タマキが言った。

「さっき七分って言った」

「今、三分使った」

「ちゃんと減ってる」

「七瀬」

「撮れています」

「固定を動かすな」

「あなたに撮影判断は渡しません」

「分かった。用具口も入る画角を作れるか」

「鏡を二枚。タマキ、旧卓球室の割れていない姿見を」

「死角を増やした方が人は運べる」

「死角で受付を作ると、あとで全員が疑われます」

「じゃあ鏡。運ぶのは姿見?」

「二枚。落とさないで」

「料金は」

「会議経費」

「壊したら」

「あなたの配達保険」

「そんなのない」

「今作ってください」

「規則を増やすの好きだね」

「記録が残る規則だけです」

 タマキは走った。

 迅と轟は正面列を離れ、体育館東側の用具搬入口へ向かった。

 背後で白戸が言う。

「そこは参加者入口ではありません」

「まだな」

「用途変更の決定権は誰に」

「決めてない」

「なら開けられない」

「開ける。受付にするかは、見てる全員へ聞く」

「群衆の拍手を決定にするんですか」

「しない。反対も書く」

「あなたはいつも、壊してから相談する」

「今日は外すだけだ」

 用具搬入口は、鉄製の両開き扉だった。

 幅二・四メートル。高さ二・一メートル。外側に錆びた南京錠、内側に横閂。右扉の下が床へ擦れ、左上の蝶番は交換跡がある。

 迅は蝶番を数えた。

 片側三つ、計六つ。

 人間が入口を一つだと思うのは、たいてい鍵を見るからだ。

 扉は鍵だけで壁へ付いているわけではない。

「外から鍵を切ると破壊扱い」

 真琴が書類箱を抱えて追いついた。走ったせいで丸眼鏡がずれ、呼吸が浅い。

「蝶番軸の抜去は」

「用途外修繕。管理者承認が必要です」

「管理者は」

「元体育教員。今、議場で席番号を確認中」

「呼べ」

「呼べば受付が止まります」

「止まってる」

「つまり、あなたは停止している一つの実務を救うため、別の実務を停止させると」

「短く」

「勝手に外すな」

 迅は扉を見た。

「緊急避難設備としては」

 真琴の眼鏡の左つるが上がった。

「人員滞留が避難上の危険へ達した場合、避難口の障害物を除去できます。ただし、除去過程、判断者、復旧責任者、費用負担を記録し、用途は避難に限定する」

「入るのも避難か」

「通常は出る方です」

「外の列は、道路を塞いでる」

「議論の余地があります」

「議論してる間に倒れる」

 列の方で、子どもの泣き声がした。

 夏の朝はもう暑い。校門から体育館まで日陰は少なく、列の中央で老人がしゃがみ込んでいる。

「私は、用途変更の正当性を保証しません」

 真琴は言った。

「ただし、判断者名と復旧手順を公開し、既存受付と同じ本人確認を行い、反対者の異議を記録するなら、開会準備委員会へ暫定運用案として提出できます」

「今、誰が決める」

「委員六人のうち、会場に四人。過半数は三人」

「場所」

「床の席番号を確認中です」

「集めろ」

「あなたが?」

「タマキに頼む」

「本人がいません」

「戻る」

「戻らなければ」

「俺が走る」

「腕と手首は」

「足はある」

「その答えは医療的には不十分です」

「法的には」

「もっと不十分です」

 轟が扉へ耳を当て、二度叩いた。

「軸、上から抜ける。錆、浅い。扉自重百二十から百四十」

「手は」

「持たん。ジャッキ使う」

「あるか」

「持ってきた」

 橙色のベストの背から、小型油圧ジャッキが出た。

「何で会議に」

「体育館、椅子百。床、泣くと思った」

「会議に工具を持ってくるな」と真琴が言った。

「持ってこなきゃ、今困る」

「困る状況を予想して持ち込むことと、持ち込んだから使う状況を作ることは別です」

「つまり?」

「……使う前に署名を」

 轟は欠けた前歯へ舌を当て、短く笑った。

 真琴が運用案を書き始めた。

《旧第二体育館東用具搬入口・暫定第二受付》

《目的――正面列の滞留解消および帰路確保》

《開始――開会準備委員三名承認後》

《同一確認――番号、地区、本人照合、危険物預かり》

《映像記録――正面固定機および鏡面補助》

《終了――午前十時、または滞留解消時》

《復旧――伏見轟。費用見積もり後公開》

《異議――白戸依久ほか、全件記録》

「ほか、って勝手に増やさないでください」

 白戸が来ていた。

 足音がなかった。

 借りた誘導員の歩き方で、列の隙間を抜けてきたらしい。

「あなた一人です」

 真琴が言う。

「受付担当にも反対者がいます」

「氏名と理由を」

「匿名では駄目ですか」

「用途変更の異議は匿名でも残せます。ただし決定票には数えません」

「安全上の懸念です」

「具体的に」

「混乱、本人確認の二重登録、危険物の持ち込み、撮影死角、用具損傷、責任の分散」

「六点。記録します」

 真琴の筆が走る。

「反論は」

 迅は扉を見たまま言った。

「混乱はもうある。二重登録は番号を一つにする。危険物は同じ箱。死角は七瀬。用具は轟。責任は俺」

「あなたが会議の代表になるんですか」

「扉を外す責任だ」

「その後の人も通る」

「通す責任は委員会」

「都合よく分けますね」

「全部背負うやつよりましだ」

 白戸の薄紫の目が細くなった。

「僕は全部背負っていません。委任された範囲だけです」

「範囲を本人が知らない」

「紙に書いてある」

「食券の裏に」

「読めた」

「読める字と、断れる条件は別だ」

 白戸は迅と同じように右親指を袖口へ押し当てた。

 似せた動きだった。

 迅は自分の赤紐を押さえなかった。

「僕の支持者を、空腹だから判断できない人のように言わないでください」

「言ってない」

「小麦さんも、七瀬さんも、みんな言う。食事と票を分けろと。分けたら食事を出せない人がいる」

「おまえが出してる?」

「僕たちが出しています」

「みんなって誰」

 タマキが姿見を一枚ずつ抱えて戻ってきた。鉄箱は背から下ろし、鏡の間へ挟んで運んでいる。鏡面に朝空と自分の緑帽子が交互に映った。

「その質問、僕のです」とタマキは言った。

「旧共同宿舎の六十三人。受付の十八人。食料を運んだ九人」

 白戸が答える。

「名前は」

「今ここで全員?」

「みんなって言うなら」

「個人情報です」

「便利だね、みんな。増えたり隠れたりする」

 タマキは鏡を壁へ立てた。

「委員四人、呼んだ。三人賛成、一人保留。保留の人は、扉を外すところを見てから決めるって」

「見てからでは遅い」

 白戸が言った。

「外したら既成事実です」

「だから外す許可だけ三人で取った。受付にするのは、外したあと四人で決める」

「分けたんですか」

「迅が都合よく分けたから、ちゃんと分けた」

 タマキは番号札用の古い得点板を鉄箱から出した。

 木製の数字板。表に一から百、裏に赤い取消線。黒雨前のバスケットボール部が使っていた物だ。

「これ、番号にする。誰から誰へ何のため、書く場所はないけど、番号はある」

「既存の番号札と形式が違う」

 白戸が言う。

「番号が同じなら間違う。違う形なら、東から入ったって分かる」

「区別される」

「差別?」

「東受付の人だけ、あとで疑われる」

 タマキは数字板を見た。

 迅もそこは考えていなかった。

 入口を増やすことが、入口ごとの人間を作る。

 自分の得意なやり方が、別の印を背負わせる。

「番号は既存票に合わせる」

 七瀬が足場から言った。

「入口情報は公開簿に残す。投票用紙には残さない」

「後から映像で分かります」

「受付映像の公開範囲を、異議審査に限定します。一般公開しません」

「あなたが決める?」

「撮影責任者として提案します。承認は委員会」

「映像を持つ人は強いですね」

「はい。だから持っている場所を記録します」

 七瀬は逃げなかった。

 白戸はしばらく鏡を見た。

 鏡の中で、迅、轟、タマキ、真琴、白戸が一枚の狭い画面へ並んでいた。誰も同じ方向を向いていない。

「外す」

 轟が言った。

 ジャッキを扉下へ差し、木片を噛ませる。新しい皮膚の掌には力を込めず、長い鉄棒へ体重を移した。

 油圧が上がる。

 鉄扉が一ミリ浮いた。

 錆びた蝶番が、長く低く鳴った。

 受付側の秩序班が動いた。

 三人が正面から、二人が壁沿いに回る。鉄棒を持った男が、ジャッキのレバーへ手を伸ばす。

 迅は一歩退いた。

 二。

 男の手が空を切る。

 迅は左前腕で肘の内側を押し、体幹を壁へ流した。打たない。掴まない。相手が自分の速度で二歩進み、壁へ掌をつく。

 別の男が木盾を押し込む。

 迅は三歩目を退かず、盾の外側へ半身を滑らせた。七退一還を完成させる必要はない。退くたび力を貯めれば、最後に返したくなる。

 今、返せば壊れるのは男ではなく受付だった。

「触るな」

 轟が言った。

 足を柱間隔へ開く。

 ジャッキと扉の前へ、巨大な身体が一つの門になった。

 男たちは同時に左右へ回ろうとした。

 轟の胸に、薄い矩形の光が走る。

 一人門〈ワン・ゲート〉

 二本の境界線の間で、轟が向き合える相手は一人だけになる。二人目が踏み込むと、足が見えない段差へ乗ったように止まった。

「一人ずつ来い」

 低音が鉄扉を震わせる。

「暴力で受付を奪う気か!」

「扉、直してる」

「外してるだろ!」

「直すため、外す時ある」

「今は壊してる!」

「見積もり、あとで出す」

 最初の男が鉄棒を振った。

 轟は肩で受けない。短く身を引き、棒を安全靴の甲へ落とす。鉄と鉄が鳴り、衝撃は床へ逃げた。男の手が痺れる。

 迅の左後方から短棒が来た。

 白戸だった。

 さっきの受付係の打ち方ではない。今度は救難隊の制圧術。相手の負傷側を避け、足を止めるため膝裏へ棒を差す。

 借りた技能には、持ち主の倫理まで少し残るらしい。

 迅は右腕を庇い、前へ出た。