第34話 第三章「委任状」後編

「救難要請を受けて入る。常駐はしない」

「間に合わなかったら」

「私が帰路を選んだ記録を残す」

 澪は帰路帳へ時刻を書いた。

 迅はしばらく黙り、やがて言った。

「東排水の地図をくれ」

「何に使う」

「入口の第二受付を作れるか見る」

「議場から人を出すため?」

「入れるためでもある」

「順番」

「出せる幅を測ってから入れる」

 澪は帳面から一枚の写しを切り取った。

「返却期限、当日朝六時」

「紙一枚に期限?」

「地図がないと、帰路を決めた人へ返せない」

 迅は受け取った。

 凱は二人を見た。

 命令しないことは、何もしないことではない。

 断られたあとで作戦を変える仕事が残る。

 王だった頃、凱はその仕事を下へ流していた。

 午後一時から、凱の返答窓口が開いた。

 看板にはこう書いた。

《獅堂凱へ委任した方へ》

《何を任せたか、本人の言葉で確認します》

《凱が知らないことは、知らないと答えます》

《委任を続ける・狭める・取り下げる選択ができます》

《食券、配給、治療、寝床はこの選択と分けます》

 最後の一行は小麦が赤で足した。

 最初に来たのは、白冠旧診療所の看護補助員だった。

「凱に、白布を止めてほしい」

「どの活動を」

「勝手な検問」

「白布を使う全員が検問しているわけではない」

「じゃあ、悪い白布だけ」

「見分け方は」

「凱なら分かるでしょ」

「分からない」

 女は驚いた。

「分からないの?」

「今の情報では。俺へ委任しても、すべての白布を止める命令は出さない」

「なら、何をしてくれる」

「検問の場所、徴収額、日時を記録し、会議へ出す。被害の停止が必要なら、現場へ行く。認証そのものの賛否は、あなたへ返す」

「面倒ね」

「そうだ」

「でも、あんたが行くなら、委任は狭める。被害確認だけ」

 真琴が文を書き直した。

 二人目は、歩行の遅い老人だった。

「会議へ行けない。全部任せる」

「白布が救難路を作ることには」

「賛成」

「検問をする権限は」

「反対」

「期限は」

「短い方がいい」

「代表は」

「凱」

「そこだけ返す」

「なぜ」

「俺は候補ではない」

「でも、凱が一番早い」

「早さ以外を選べ」

「年寄りに宿題を出すな」

 老人は杖で凱の装具を軽く叩いた。

「じゃあ、代表なし。困ったら、その時呼ぶ」

「それでいい」

「呼んだら来る?」

「行ける範囲を答える」

「昔より役に立たない」

「昔より嘘が減った」

 老人は笑った。

 三人目は来なかった。

 代わりに、その息子が現れた。

「父は寝たきりです。私が委任を続けます」

「父本人の意思は」

「同じです」

「確認できるか」

「今日は無理です」

「なら保留」

「一票が消える」

「消さない。所在確認を保留と記録する」

「白戸は受けてくれた」

「俺は受けない」

「それで負けても?」

「誰が」

 息子は答えず、委任状を持ち帰った。

 窓口は遅かった。

 一時間で四人。

 二時間で七人。

 真琴の筆記速度は十分だったが、質問に答える速度は紙では上げられない。

 午後五時までに、二十八通のうち九通が狭められ、三通が取り下げられ、五通が継続、十一通が未確認になった。

「白戸なら、四十二を一度に処理します」

 真琴が言った。

「知っている」

「会議開始時、こちらの委任は十六以下です」

「こちらって言うな」

「では、あなたの」

「俺の票でもない」

 真琴は眼鏡を外し、鼻当ての赤い跡を指で押した。

「私は、何を守っているのか分からなくなります」

「それを俺へ預けるな」

「預けていません」

「なら自分で言え」

 真琴は眼鏡を戻した。

「私は、白冠が間違っていたからといって、白冠が止めた餓死と暴力まで間違いにされるのが嫌です」

「されない」

「迅たちは、王がいなければ善くなると言う」

「迅は言っていない」

「周囲が言う」

「周囲の言葉を迅へ委任するな」

 真琴は口を閉じた。

 凱は、自分の言い方が迅に似たことへ気づいた。

 気に入らなかった。

 午後六時四十七分。

 二十四通目の委任状を、真琴が照合していた。

 突然、指が止まる。

「凱」

 私的な呼び方だった。

「席番号二十九。北医療団地第六棟。署名者を知っていますか」

 凱は紙を受け取った。

 知っていた。

 白冠の共同食堂で、薄い粥へ必ず生姜を足した老女。配給列の順番を乱す子どもを叱り、凱には一度も陛下と呼ばなかった。

 半年前、肺炎で死んだ。

 凱は葬送時の配給を承認した。

 棺へ入れる白布が足りず、自分の外套の裏地を切った。

 署名は彼女の字だった。

 日付は三日前。

「死亡記録を」

 真琴が棚から台帳を出す。

 名前、死亡日、埋葬区画。

 間違いない。

 委任状の本文は新しい印刷。署名部分だけ、古い配給受領票から切り取り、薄い紙の下へ重ねて写した跡がある。

「誰が持ってきた」

「受付簿では、旧共同宿舎の代理回収箱。提出者名なし」

「白戸か」

「断定できません。白戸書式ではない。あなた宛てです」

 凱は紙を机へ置いた。

 自分の側にも、死者が座っていた。

「七瀬を呼ぶ」

「公開しますか」

「まず、受付経路を記録する。名前は遺族へ確認するまで伏せる」

「会議は」

「この一通で全部を無効にはしない」

「なぜ」

「偽物が一枚あったからと、来られない二十七人まで偽物にするな」

 真琴は頷いた。

 凱は委任状の山を見た。

 顔を思い出せない署名。

 狭められた委任。

 戻された紙。

 まだ来ない人。

 死んだ人。

 王の前へ積まれた紙は、すべて同じ薄さだった。

 凱は中央の椅子へ座った。

 膝が痛かったからだ。

 机の正面に、死亡した住民の委任状を一枚だけ立てた。

 誰にも読ませるためではない。

 席を使わせないために。