第33話 第三章「委任状」前編
七月二十五日 午前七時三十一分
王に預ける紙は、王より軽い。
だから積もる。
獅堂凱の机には、朝までに二十八通の委任状が積まれていた。
机は旧白冠書記局の備品で、引き出しの右上に《王用》と焼き印がある。凱は焼き印へ紙を貼り、《臨時連絡所》と書き直した。貼った紙は、夜の湿気で端から浮いていた。
椅子は一脚。
出口へ正対。
左膝を伸ばせる高さ。
凱は座らず、机の前に立って一通目を開いた。
《席番号七。獅堂凱へ、白布活動の認証および運営判断を委任する。》
署名は読めた。
顔は出てこない。
二通目。
《席番号十一。獅堂凱へ一任。》
地区は白冠旧配給所の南列。世帯人数四。薬の受給歴あり。
名前は知っている。
顔を思い出せない。
三通目。
《席番号十五。白王陛下の御決裁に従う。》
凱は赤鉛筆で《呼称不同意》と書いた。
四通目。
五通目。
六通目。
どの紙にも、凱なら早く決められると書かれている。
誰も、凱が何を決めると思っているかは書いていない。
扉の外で、整った靴音が止まった。
「陛下、北倉庫の鍵について――」
「その呼び方をやめろ」
凱は紙から目を上げずに言った。
白冠時代の若い配給係が、扉の隙間で背筋を伸ばした。まだ白い上着を着ているが、冠の徽章は外してある。外した跡だけ、生地が新しい。
「凱さん。北倉庫の鍵を、会議終了までこちらで保管してよいか」
「保管理由」
「白布の連中が、認証前に在庫を共同管理へ移すという噂があります」
「誰から聞いた」
「住民から」
「名前」
「複数です」
「名のない複数は、命令に使うな」
「では、鍵は」
「倉庫係二人と診療係一人で持て。開閉時刻を掲示。俺の名を使うな」
「命令として?」
凱は顔を上げた。
配給係は期待していた。
白王が戻れば、鍵を持つ手が震えなくて済む。
失敗した時、王の命令だったと言える。
「提案だ。三人のうち二人が同意すれば実行しろ。拒否者名は公開しなくていい。理由だけ残せ」
「それでは遅い」
「何分」
「確認に二十分は」
「二十分後に開ける必要がある物資は」
「今はありません」
「なら二十分使え」
配給係は納得していない顔で一礼した。
扉を閉める直前、小さく言う。
「王なら、こんなに訊かない」
「王だったから、訊かなかった」
凱の返事に、扉は一度止まった。
それから閉じた。
凱は七通目を開いた。
膝の奥が鈍く疼く。
天気ではない。
立ち続けているせいだ。
痛みは命令より正直だった。
「座ってください」
朽葉真琴が部屋の奥から言った。
いつからいたのか分からない。窓際の書類棚で、委任状の紙質を光へ透かしている。淡い茶髪の中央分け。丸眼鏡。白手袋の指先に黒インク。
「おまえは入室を告げろ」
「扉が開いていました」
「だから入った?」
「立入禁止の表示がありませんでした」
「その理屈で育ったのか」
「両親が法律家ですので」
真琴は一枚を机へ置いた。
「二十八通のうち、書式は六種。紙は四種。署名日の筆圧と本文印刷時期が合わないものが五通。白戸書式は九通。旧白冠の緊急代理書式が十二通。残り七通は手書きです」
「偽造か」
「まだ言っていません。本人が古い署名済み用紙を渡し、本文だけ後から印刷した可能性もあります」
「それを偽造と呼ばないのか」
「権限があったなら、文書作成としては成立し得ます」
「本人が何を委任したか知らなくても」
「そこが問題です」
「分かりにくい言い方をするな」
「迅の悪影響ですね」
真琴は眼鏡の左つるを上げた。
「形式は有効でも、内容への同意が不明。無効と断定すれば、来られない人の代理手段を奪う。有効と断定すれば、署名を持つ者が内容を後から決められる」
「だから一枚ずつ訊く」
「二十八人。白戸の四十二人。重複を除いて六十三人です」
「時間はある」
「会議まで二日です」
「二日ある」
「あなたが寝なければ?」
「交代を置く」
真琴の視線が上がった。
「誰を」
凱は答えられない。
白冠時代なら、真琴を置いた。
自分が決め、真琴が文にし、現場が従った。
今、その手順を戻せば速い。
「私はできます」
真琴が言った。
「頼んでいない」
「頼まれるまで待った結果、書類は六十三です」
「おまえが判断するのか」
「形式の照合を」
「内容は」
「あなたが」
「それが王だ」
真琴の唇が薄くなる。
「非常時には、集中決裁が被害を減らします」
「またその話か」
「終わっていません」
「王位は終わった」
「役割と名前は別です」
「名前を変えて同じ椅子へ座れと?」
「椅子が空いているから、白戸が四十二人分を置こうとしている」
「だから俺が二十八人分を置く?」
「少なくとも、あなたは責任を逃げない」
凱は机を見た。
紙は軽い。
責任は紙に書いてあるほど一人分になる。
「真琴」
「はい」
「俺が二十八人の委任を受けたら、おまえは安心するか」
真琴は質問の前に眼鏡を上げる癖を持つ。
答える前には、奥歯を数える。
今はどちらもしなかった。
「します」
「なぜ」
「あなたが決めたなら、私は文の責任だけを負える」
「それを安心と呼ぶのか」
「少なくとも、役割が明確です」
「俺は、おまえを明確な場所へ置いた。置いたまま、何を書かせたか見なかった」
「反省なら、会議後に」
「今の話だ」
「今は白戸へ対抗する必要が」
「敵が一人へ集めるから、こちらも一人へ集める。よく知っている形だな」
真琴の声に接続詞が増えた。
「しかし、同じ形式でも、目的と責任の公開が異なるのであれば――」
「形式が人を作ると、おまえは言ってきた」
「規則は重要です」
「なら、都合のいい時だけ中身を見るな」
真琴は紙片を左右へ並べた。
怒っている時の手だった。
「あなたは、迅に負けてから、決めないことを正しさにしている」
凱の胸の鐘が、外套の内側で小さく鳴った。
「決めないのではない」
「では、決めてください」
「誰の声か確かめると決めた」
「間に合わなければ?」
「間に合わなかった責任を、俺が負う」
「具体的に何を」
凱は黙った。
責任という語は便利だ。
未来の罰を曖昧にして、現在の決断を立派に見せる。
「会議費の不足」
凱は言った。
「旧白冠の倉庫使用料として三万円を出す。俺個人ではない。倉庫を使ってきた組織の残金から。支出理由と残高を公開する」
「それだけですか」
「委任者へ返答窓口を開く。俺へ預けた者は、何を任せたか訊ける。俺が知らなければ、知らないと答える」
「白戸も同じ窓口を開くと言えば」
「開かせる」
「拒否したら」
「その拒否を会議へ出す」
「弱い」
「強い方法を知っている。使わない」
真琴は机の高い束を見た。
「それで死ぬ人が出ても?」
凱はすぐ答えなかった。
「出るかもしれない」
真琴の眉が動く。
「王の頃は、そんなことを言わなかった」
「王の頃も思っていた。言えば命令が弱くなると思って、隠した」
「迷いを見せれば、人は動けません」
「迷っていないふりをしても、死者は減らない」
「減った時もあります」
「ああ」
凱は否定しなかった。
「だから戻りたくなる」
午前九時二分。
竜胆迅は、窓口を開くという話を聞いて笑った。
「王様相談室」
「殴られたいか」
「右が治ってから」
迅は連絡所の窓枠へ腰を掛けた。右腕はまだ固定材の中。左手首のテープは細くなっているが、瓶の蓋を強く回すと痛む。色褪せた紺の学ランは一番下だけ留め、赤い七結びが固定材の端から覗く。
「相談ではない。委任内容の確認だ」
凱が言う。
「顔を知らない奴の?」
「名前は知っている」
「便利だな。名簿は」
「おまえならどうする」
「受けない」
「それで、白戸の四十二が通る」
「受けたら、おまえと白戸で七十」
「俺は白戸ではない」
「紙から見れば同じだ」
凱は一歩出た。
左膝が装具の中で止まり、上体だけが迅へ近づく。
「俺が何をしたか知っていて言っているのか」
「知ってるから言ってる」
「白冠の配給は、一人へ集めたから止まらなかった」
「拘束も一人の名で止まらなかった」
「俺は提出した。記録も責任も」
「だからまた預けていい?」
迅の声が低くなる。
「おまえは返すのが下手だ」
凱の右手が、迅の胸元を掴みかけた。
途中で止まる。
迅は動かない。
退けば能力の話になる。
進めば昔の王になる。
凱は手を下ろした。
「おまえは、責任を受けないふりをして、止める時だけ前へ出る」
「そうだな」
迅があっさり言った。
「否定しろ」
「今日はおまえの欠点の話」
「便利な男だ」
「右手も左手も便利じゃない」
迅は窓枠から降りた。
「窓口はいい。紙を受けるな。質問だけ受けろ」
「委任者が、どうしても預けたいと言ったら」
「返し方を先に決めろ」
「返した結果、本人が判断できないと」
「判断できないって、誰が決める」
「本人がそう言う」
「なら、判断を預ける範囲を本人の言葉にする。全部は受けるな」
「それを六十三人へ?」
「一人ずつ」
「間に合わない」
「間に合わせるために人を消すな」
凱は言い返そうとした。
外から、澪の笛が一度だけ低く鳴った。
進行ではない。
点検の音だ。
午前十時。
旧第二体育館の東門で、迅と風祭澪が言い争っていた。
凱は窓口用の机を運ぶ途中で、二人の間へ止まった。
「会議当日、入口を守れ」
迅が言う。
「帰路を守る」
澪が答える。
「入口が荒れたら、百人が入れない」
「帰れないと分かれば、来ない」
「中へ入ってから誘導すれば」
「閉じ込めて数えるのか」
「閉じ込めるとは言ってない」
「東路一本で二百五十人。雨なら排水。南路は集会。北は日没封鎖。西橋は補修中。会場警備へ十二人置けば、帰路誘導が六人足りない」
「俺と轟が入口に立つ」
「あなたは腕。轟は手。凱は膝。七瀬は肩。戦える人を数えて、帰れる人を数えない?」
「戦える人って言ってない」
「同じ顔をした」
迅の右親指が、固定材の下の赤紐を押さえる。
「議場を取られたら、会議が終わる」
「帰路を取られたら、会議が人質になる」
「じゃあ両方」
「人が足りない」
「増やす」
「二日で?」
「作業を分ける」
「命令者は」
「決める」
「誰が」
迅は答えない。
澪は一番小さい笛を握った。
「迅。あなたは止める時だけ責任者になる。始める時は『誰か』と言う」
凱は、自分へ向けられた言葉のように感じた。
「私へ議場を守れと命じるなら、帰路を閉じた人数へ署名して」
「命令してない」
「なら断る」
澪は踵を三度鳴らした。
「当日、私は西橋と東排水路。議場警備は受けない。帰宅困難者の持ち帰り食、誘導灯、休憩所を優先する」
「中で負傷者が出たら」