第32話 第二章「一椀と一票」後編

 午後三時。

 風祭澪は、会議用の食事を持ち帰れる形にしろと言った。

「会場で食べさせる」

 小麦が返す。

「帰る人もいる」

「食べてから帰れば」

「日没前に西橋を渡る人は、午後四時半に出る。夕食まで残せば帰路が閉じる」

「弁当を作る人が増える」

「必要人数を出す」

「誰が運ぶ」

「帰路班」

「帰路班って、まだ仕事の名前」

「仕事はできる」

 澪は帰路帳を開いた。右耳へ入る音が欠けるため、小麦の左側へ立つ。小麦は最初、癖で鍋を右へ置き、澪が聞き返した二度目に位置を変えた。

「持ち帰り百二十。三日で三百六十。汁なし。塩分を上げすぎない。容器返却は任意、洗浄場所を三つ」

「勝手に献立を決めないで」

「条件」

「それが献立を決めるの」

「帰宅を人質にしない」

「食べる場所を作るのも仕事」

「残ることを人質にしない」

「帰すことを正解にしない」

 二人は向かい合った。

 澪は一番小さい笛を握る。吹かない。

 小麦は布巾を折り直す。

「三分の一を持ち帰り」

 小麦が言った。

「半分」

「容器がない」

「包めるパン」

「発酵時間」

「何時間」

「今からなら、明朝。百二十個で一人四時間増える」

「四人、二交代。賃金へ追加」

「小麦、寝る時間は」

「五時間」

「六」

「パンを減らす」

「八十個」

「成立」

 迅が入口の柱へ背を預け、二人のやり取りを見ていた。

「おまえら、会議より早いな」

「人数と時間があるから」

 澪が言う。

「反対意見は?」

「八十個じゃ足りない」

 小麦が言う。

「だから足りない人を記録する」

「記録すると腹が膨れる?」

「次の発注が変わる」

「次があると思うな」

「ないと思って作るな」

 また睨み合う。

 迅は口を挟むのをやめた。

 仲裁は、しばしば両方から仕事を奪う。

 夜八時三十八分。

 小麦は共同食堂の壁へ、一冊の大学ノートを吊った。

 新品ではない。

 献立帳の使い残しで、最初の十二頁には豆の煮方、十三頁目から勤務欄が引かれている。

《氏名》

《開始》

《終了》

《休憩》

《体温》

《担当》

《交代者》

《本人の異議》

「在庫帳じゃないの」

 調理を終えた女が訊く。

「鍋帳」

「鍋の数?」

「鍋を動かした人の時間」

「体温まで?」

「熱があるのに善意で立つ人がいる」

「本人の異議って」

「休めと言われて嫌なら書く。働けと言われて嫌でも書く」

「小麦の欄は」

 小麦は自分の名前を書いた。

《土門小麦》

《開始 四時四十二分》

《終了 未定》

《休憩 十四分》

《体温 未測定》

「休憩十四分?」

「味見は休憩に入れない」

「座ってた」

「仕入れ表を読んでた」

「それ、仕事」

「だから休憩じゃない」

「じゃあ十四分も何してたの」

 小麦は思い出した。

 白戸が食券を切り離している間、梅干しを一つ食べた。

 座ってはいない。

 裁断屑を数えていた。

「休んでない」

「書き直し」

 女は小麦の《十四分》へ一本線を引いた。消さない。訂正者欄へ自分の印を押す。

《休憩 〇分》

 小麦は怒ろうとした。

 鍋帳には《本人の異議》欄がある。

 そこへ書くしかない。

《異議:味見の時間を一部休憩と認めるべき》

 女が読み、鼻で笑った。

《回答:椅子へ座り、火と帳簿から離れた時間のみ》

 小麦は木べらを持ったまま、初めて自分の台帳に負けた。

 悔しいので、玉葱を二個余計にみじん切りした。

 目が痛くなった。

 壁の鍋帳には、調理者十五人の名前が並んだ。

 百人会議の席には、まだ一人も座っていない。

 それでも政治は始まっていた。

 誰が食べ、誰が切り、誰が休めなかったか。

 椀の底から先に。