第31話 第二章「一椀と一票」前編
七月二十三日 午前四時五十二分
空腹は人の意見を変えない。
意見を言う順番を変える。
土門小麦は、共同食堂の裏口で米袋を受け取った女が、袋より先に一枚の白い券を前掛けへ隠すのを見た。
夜明け前。零番街の共同食堂には、煮干しを炒る匂いと、古い換気扇の低い振動が満ちている。長机には百人会議用の献立案、仕入れ先、燃料配分、調理交代表が並び、床では発酵種の瓶が布をかぶって眠っていた。
「それ、何」
小麦が訊くと、女は米袋の口を縛るふりをした。
「配給券」
「見れば分かる。裏」
女は少し迷い、白い券を出した。
表には《旧白冠互助食券・三食》。裏には席番号、氏名欄、代理人欄。右下へ、小さく《委任維持確認済》と印刷されている。
食べ物の紙に、政治の文字が寄生していた。
「誰から」
「北の配給所。子ども三人いるから」
「責めてない」
「顔が責めてる」
「これは朝の顔」
「いつも朝みたいな顔だよ」
女は券を取り戻そうとした。小麦は離した。
「委任した?」
「した。会議なんか三日も出られない。洗濯場が止まる」
「白戸に?」
「名前はそう。来たのは別の子。署名すれば、会議の間も食券と寝床を止めないって」
「署名しなかったら」
「止めるとは言ってない」
「何て言った」
「支援登録を見直すかもしれない」
「同じ鍋に入れて味を薄くした言い方」
「でも、今まで白冠の倉庫から出してくれてた。王がいなくなって鍵が分かれても、あの子らは配給を止めなかった」
女の声には弁明と感謝が同じだけ入っていた。
小麦は券を返した。
「食券は持ってて」
「委任も?」
「今決めない。先に朝飯」
「それ、逃げてない?」
「腹が減ってる人に正しい署名をさせる方が逃げてる」
小麦は米袋を担ごうとした。女が先に端を持つ。
「賃金、出るの」
「出す」
「会議の金、決まってないんでしょ」
「だから今日は共同食堂の仕事。百人会議分は切らない」
「無料で手伝うよ」
「時給をもらって、必要なら寄付して。順番を逆にしない」
女は笑った。
「十五歳に金の教育されると腹立つね」
「年齢で米は炊けない」
二人で袋を運び込む。
小麦は食券を思い出しながら、朝の鍋へ水を量った。
米一に対して水七。
会議の粥なら水十。
食券と票を同じ紙へ載せるなら、水をいくら足しても飲み込めない。
午前六時二十分。
食堂の前には三つの列ができた。
一つは朝食。
一つは百人会議の調理手伝い。
一つは旧白冠の食券を見せに来た人。
列は目的が違っても、腹の高さは同じだった。
「まず食べる。話はその後」
小麦は入口へ札を掛けた。
《一人一椀》
《券がなくても食べられます》
《食べても委任したことにはなりません》
最後の一行だけ、朽葉真琴が書き直した。
「『本食事の受領は、百人会議における代理権の設定、維持、追認、または撤回不能の意思表示を構成しない』」
真琴が読み上げる。
「長い」
「意味が違います」
「粥が冷める」
「では、但し書きを下へ」
「字を大きく」
「但し書きは通常、小さく――」
「それで人を刺してきたんでしょ」
真琴の丸眼鏡が、湯気で白く曇った。
「刺す意図は」
「包丁も意図を聞かない」
小麦は紙の裏へ、もっと短く書いた。
《食べても、票は渡りません》
真琴は不満そうに眼鏡を拭く。
「票ではなく委任です」
「食べる人に違いが分かるよう説明して」
「今ですか」
「一人ずつ」
「百二十人います」
「法律は大量調理できない?」
「できますが、同じ文を全員へ配るだけでは理解確認になりません」
「なら働いて」
真琴は脅迫状の句読点なら直せても、粥の列を前にすると眼鏡の奥で露骨に困った。
それでも逃げなかった。
入口へ立ち、一人ずつ訊く。
「この椀を受け取っても、白布への賛否は変わりません。委任状を出した方は、その委任が自動で撤回されるわけでもありません。分からない点はありますか」
「ない」
「本当に?」
「腹が減ってる」
「それは回答では」
「真琴、次」
小麦が言う。
真琴は奥歯を数える顔をしたが、次へ進んだ。
列の中ほどに、獅堂凱がいた。
白い外套は脱ぎ、左膝の装具が見える。自分の順番を待ちながら、前の者が椀を受け取るたび人数を数えていた。
「並ばなくていい」
共同食堂の年配者が言う。
「全員並ぶ」
「元王まで?」
「元だからだ」
「王なら先に食べて、残りを管理するもんだよ」
凱の肩がわずかに固くなる。
「それをやめる会議だ」
真琴が横から言った。
「まだやめると決まっていません」
「おまえは戻したいのか」
「秩序ある決裁者は必要です」
「俺に戻れと言っている?」
「あなたが最も経験している」
「それは答えか」
「事実です」
「主語を置け、真琴」
凱の声は大きくない。けれど食堂の皿が一枚、重なる途中で止まった。
真琴は眼鏡の左つるを上げた。
「私は、あなたが代表を引き受けるべきだと考えています」
「理由」
「三日かけて委任の正しさを確認する間に、白布を使った徴収が増える。旧白冠の配給所は責任者不在で、鍵が毎日変わる。迅は停止はできても、平時の配給表を作らない。あなたなら今日、役割を分けられる」
「だから俺が決める」
「はい」
「誰の同意を省く」
真琴は答えなかった。
凱が続ける。
「早い命令は人を救う。俺は今もそう思う。だが、早かった結果を、命令した者が全部知っているとは限らない」
「遅ければ、結果そのものが出ません」
「それも知っている」
「なら」
「だから厄介だと言っている」
凱の番になった。
小麦は椀へ粥をよそった。薄い塩味。刻んだ大根葉。梅干しは半分。
「名前」
「獅堂凱」
「食事を受けても、票は渡らない」
「委任だ」
真琴が言う。
「今は粥」
小麦は椀を凱へ渡した。
「座って食べて」
「立てる」
「食べられるか訊いたんじゃない。座って」
凱は反論しようとしたが、列の後ろにいる子どもが装具を見ていた。
壁際の椅子へ座る。
椅子は出口へ正対させた。
真琴が小声で言う。
「あなたは、座る命令には従うのですね」
「おまえも食え」
「まだ説明が」
「朝食を省く同意を、誰から取った」
真琴の接続詞が増えかけた。
小麦が椀を差し出す。
「次。朽葉真琴。食べても委任はつかない。食べなかったら喘息に効くとは限らない」
「喘息と空腹は別です」
「別の具合悪いを二つ持つだけ」
真琴は椀を受け取った。
凱の隣へは座らない。
椅子一つ分、空けた。
その距離へ、二人が言わなかった白冠の年月が座った。
午前八時。
白戸依久は、食券を百十六枚持って食堂へ来た。
昨日と同じ、色のない制服。袖口の紙札。胸の左右違う筆記具。今日は右耳の一番下の穴へ、小さな青い輪が付いていた。
「食券を無効にするつもりですか」
白戸の口調は、入口で説明していた真琴に少し似ていた。
「しない」
小麦は答えた。
「委任と切る」
「登録が一つです」
「切って」
「システム上、即日には」
「紙で書く」
「食券番号と委任番号を別管理すれば、二重受給が」
「腹は二つない」
「世帯単位ではあります」
「じゃあ世帯を数える。紙を出して」
白戸は小麦の短い文へ合わせようとしたが、制度説明は短くならなかった。
「互助会の食料は有限です。支援を受ける人が、配給を維持する代表へ委任するのは不当ですか」
「不当って言ってない」
「なら」
「断った時に食べられるかを聞いてる」
「食べられます」
「誰が保証する」
「僕が」
「いつまで」
「百人会議の終了まで」
「終わったあと」
「結果次第です」
「ほら、票の匂いがする」
「食料には匂いがあります」
「うまいこと言っても増えない」
小麦は木べらを鍋の縁へ立てた。
「委任を撤回しても、会議の終わりまでは食券有効。終わった後の見直しは、委任したかじゃなく、腹と家計で決める。紙にして」
「僕に権限はありません」
「昨日、四十二人を代表するって言った」
「会議の判断を」
「食券は代表しない?」
白戸の指が、袖の白札を一枚ずつ数えた。
「互助会へ持ち帰ります」
「何時」
「十時」
「返事」
「正午」
「遅れたら」
「僕の食券を止めます」
小麦は眉を寄せた。
「自分を罰に使うな」
「では何を」
「次の配食で、説明係を一時間。ちゃんと賃金は出す」
「罰になりません」
「働くのは罰じゃない」
白戸は言葉を失った。
小麦は彼へ椀を差し出す。
「食べる?」
「同じ物を」
「前の人と?」
白戸は列の前を見た。真琴が食べた粥。凱が食べた粥。誰も具を選んでいない。
「同じで」
「梅干し、いるかいらないか」
「どちらでも」
「選んで」
白戸の右薬指が、左手で軽く伸ばされた。
「僕は、今回は、いりません」
「了解。なし」
小麦は梅干しを入れなかった。
白戸は椀を受け取ったが、すぐには食べない。
「名を告げて食べれば、あなたの《同じ釜〈セイム・ポット〉》へ入る」
「今日は使わない」
「なぜ」
「疲れを均したら、具合悪い人が隠れる。あと、食べた人を能力で同じにしたくない」
「敵味方を分けられないから?」
「敵って誰」
白戸は自分の委任状を思い出すように黙った。
「あなたは僕の案に反対です」
「案には。腹には反対してない」
「分けられるんですか」
「分けないと料理できない。塩と砂糖はどっちも白い」
白戸は粥を一口食べた。
具のない部分から。
最後の一口だけ、椀へ残した。
正午十二分。
白戸は約束どおり戻ってきた。
食券と委任を分ける仮票を持っていた。
《会議終了までは、委任の設定・撤回にかかわらず支援継続》
《会議終了後の審査項目に、投票・委任行動を含めない》
《審査担当者名を公開する》
「互助会の全員が同意した?」
小麦が訊く。
「七人中五人。二人は保留です」
「保留の理由」
「委任を条件にしなければ、支援を受けるだけ受けて、責任を負わない人が増えると」
「その人たちの名前、出せる?」
「内部会議なので」
「じゃあ反対があったことは書く」
「書いてあります」
白戸は紙の下を指した。
《反対二。理由:支援と地域責任の分離に異議》
小麦は読んだ。
「いい紙」
白戸の顔がほんの少し緩む。
「でも、食券の券面を変える。裏の委任欄を切る」
「在庫が四百枚あります」
「切る」
「手作業です」
「人数」
「僕を含め、三人」
「十五人出す。時給払って」
「互助会から?」
「会議費から。票のためじゃなく、票を切る仕事」
小麦は包丁ではなく、裁断鋏を出した。
食券の下半分を切り離す。
委任欄のある紙片は捨てない。番号を照合し、誰の食事と誰の判断が同じ登録にされていたか残す。
白戸は右手で鋏を使った。
本来は左利きだと、小麦は知らない。
ただ、刃が紙へ入る瞬間、彼の手首だけ誰かの使い方に見えた。
「得意?」
「紙は扱えます」
「好き?」
白戸は鋏を止めた。
「質問が違います」
「答えも違う?」
「僕は、紙が揃っているのは好きです」
「切るのは」
「今日は、好きです」
紙の下半分が落ちる。
食事と委任が、音を立てて分かれた。
午後一時十七分。
小麦は白戸について、旧白冠区の共同宿舎へ行った。
疑うなら台所を見ろ。
食べ物の嘘は、演説より先に棚へ出る。
共同宿舎は、もともと看護職員の家族寮だった建物を三棟つないでいる。白冠の徽章は外されていたが、廊下の床には靴を揃える白線が残り、扉ごとに配給時間と服薬時間が貼られていた。
食堂には六十三人分の椀があった。
子ども。足を悪くした運転手。乳児を抱く男。白冠が崩れた夜に倉庫の鍵を失い、それでも翌朝の米を止めなかった調理者。
英雄の顔は一つもない。
空の米袋は八つあった。
「今日の夕食は」
小麦が訊く。
「具のない豆汁と、乾燥芋」
白戸が答えた。
「米は」
「明後日の朝へ残します」
「会議費を出したら」
「互助金の現金は減る。食料在庫は別です」
「別の箱?」
「帳簿上は」
「現物は」
「同じ倉庫です」
「別じゃない」
白戸は反論しなかった。
厨房の入口へ、《委任登録者 配食確認済》という札が掛かっていた。小麦が指すと、白戸は札を外した。
「誰が掛けたの」
「午前班です」
「命令した?」
「していません」
「外す命令は」
「今、僕が」
「なら、掛けた責任だけ午前班へ置かないで」
白戸の手が止まる。
「僕が、委任登録と配食名簿を同じ順番にしました。確認が速いから」
「速い名簿は、人も同じだと思わせる」
「実際、重なる人が多い」
「重ねたからでしょ」
食堂の奥から、白戸と同じ薄い色の髪をした小さな少女が出てきた。耳に飾りはない。白戸の袖を引き、二つの椀を見せる。
「依久、豆汁と芋、どっち先がいい?」
白戸は前の人の椀を見ようとした。
少女が椀を背中へ隠す。
「依久が選んで」
白戸の右薬指が左手に伸ばされる。
「僕は、芋を先に」
「はい」
少女はそれだけで嬉しそうに芋の皿を渡した。
小麦は訊かなかったが、九人きょうだいの末妹だと分かった。白戸の耳たぶにある七つの穴は、上から受け継いだ何かの数に見えた。
廊下の長机で、年配の男が委任状を書いていた。
「食券のため?」
小麦が訊く。
「食券もある」
男は隠さなかった。
「でも、依久は書類を読む。俺は字が細かいと頭が痛くなる。あいつに任せた方が、白布の連中へ倉庫を持っていかれずに済む」
「白布が倉庫を取るって、誰が言った」
「取らないって誰が保証する」
小麦は答えられない。
別の女が、洗濯物を畳みながら口を挟んだ。
「私は委任しない。依久は何でもできるけど、何をしたいか言わないから」
白戸が女の畳み方を無意識に真似た。端を合わせ、二度折る。
「食券は受け取る?」
小麦が訊く。
「受け取る。昨日まで働いた分だもの」
「止められたら」
「ここで騒ぐ」
女は白戸を見た。
「騒いでいいんでしょ」
白戸は少し遅れて頷いた。
「止めません」
「依久がいなくても?」
その質問に、白戸はすぐ答えられなかった。
小麦は厨房を見た。
在庫は少ない。帳簿は細かい。調理者は四人で、うち二人は夜勤明け。支援は本物だった。圧力も本物だった。
悪い鍋と良い鍋が別々にあるわけではない。
同じ鍋の取っ手を、誰が握って離さないかだ。
「会議費、全部出したらここが減る」
小麦が言う。
「減らしません」
「現物が同じ倉庫なら減る」
「不足分は、僕が別の技能で稼ぎます」
「何時間」
「必要なだけ」
「そうやって自分を無料にする人、嫌い」
白戸の顔に、初めて少年らしい苛立ちが出た。
「あなたも同じです」
「だから嫌い」
「では、どうすれば」
「会議費を一つの陣営が全部出さない。各地区で割る。払えない地区は、仕事の時間を金額にして記録する。あと、互助会が出す分は上限を決める」
「間に合いません」
「集める。私が厨房を回る。七瀬に費用表を流してもらう。凱には旧白冠の倉庫使用料を出させる。迅には靴修理の工賃を払わせる」
「最後だけ少ない」
「本人に言って」
白戸は芋を一口かじった。
「それでも不足したら」
「不足したって見える形で始める。足りないから、四十二人の声を一人へまとめるのは違う」
「足りないまま会議をして、食事が止まったら」
「止める前に、厨房の人が止まるって言える台帳を作る」
「台帳で食事は出ません」
「出ない。でも、倒れた人を善意って呼ばなくて済む」
白戸は、小麦の言葉を真似さなかった。
「僕は、止めたくありません」
「何を」
「ここを。食事も、寝床も、薬も。王がいなくなったから仕方ないと、誰にも言わせたくない」
それは立派な理由だった。
立派な理由は、他人の署名へ勝手に座る免許にはならない。
「なら、止めない方法を一人で持たないで」
小麦は言った。
白戸は返事をしなかった。
末妹が空になった芋の皿を受け取り、今度は訊かずに豆汁を渡した。
白戸はそれを受け取った。
選んだ後にも、次の椀は来る。