第219話 第十二章「鍵の返却」前編

三月二日 午前六時十一分

 勝った翌朝、轟は扉を戻した。

 勝ったかどうかは、まだ決めていない。

 扉は決める必要がない。

 外された蝶番軸を元の穴へ戻し、六ミリの床隙間を合わせ、開閉時の音を聞く。それだけだった。

「一号ジャッキ、一ミリ上げる」

 轟が言う。

 水務隊員が柄を押す。

「止め。二号、〇・五」

「目盛りがない」

「手の半分」

「誰の手」

「おまえ」

「昨日と説明が違う」

「昨日のおまえと今日のおまえで、握り幅が同じならいい」

「建築基準が人頼みだ」

「最後は全部、人が合わせる」

 外した扉は、昨夜のうちに錆を落としてある。

 A、B、Cの蝶番軸は、番号札どおり。

 曲がった座金は交換。

 使えるねじは戻す。

 新しい部品だけで直すと、どこを直したか分からなくなる。

 古い傷も、残す場所を選ぶ。

 凱が扉の右下を支えている。

「膝」

 轟。

「昨日より良い」

「良いかを聞いてない。痛いか」

「階段では痛む。静止なら軽い」

「なら三十秒で交代」

「扉が入るまで四十秒」

「三十秒」

「十秒を誰が」

「迅」

 迅は右掌へ厚い包帯を巻いている。

「手、使えない」

「腰で受けろ」

「昨日、持つなって」

「昨日は梁があった。今日は扉」

「建物、都合いい」

「人間よりは」

 三十秒。

 凱が離れる。

 迅が扉の下へ腰を入れる。

 右掌は使わない。

 左手で縁を支え、体重を足へ逃がす。

「重い」

「知ってる」

「毎日これを開ける?」

「蝶番が持つ」

「偉い」

「褒める相手が違う」

 C軸が入る。

 次にB。

 最後にA。

 轟は一番上へ手を伸ばさない。

 低い作業台へ乗り、右肘を肩より下に保つ。

 左肩の手術痕が引きつらない高さ。

 ポンチを右手で押す。

 A軸が収まる。

「ジャッキ、両方一ミリ下げ」

 扉の重さが蝶番へ戻る。

 鋼板が、低く鳴った。

 轟は右耳を当てる。

「どう」

 タマキ。

「上が少し重い」

「扉が喋った?」

「閉めた時に分かる」

 試しに開く。

 九十度。

 戻す。

 最後の十センチで、扉が自重だけでは閉じない。

「A、〇・三右」

「〇・三ミリ?」

「そう」

「見える?」

「聞こえる」

 水務隊員が半信半疑で軸受けを調整する。

 もう一度。

 扉は静かに閉じた。

 ラッチが一度だけ鳴る。

「直った」

 タマキ。

「戻った」

 轟。

「違う?」

「外す前と同じじゃない。座金が一枚変わった。右下に擦り傷。小窓の縁に厚布の跡。戻したけど、無かったことにはならない」

「面倒」

「建物なので」

 タマキは諦めた顔をした。

「もう、みんなの言葉だ」

 午前七時二分。

 轟は住民を集めた。

 勝利報告ではない。

 修理箇所の説明だった。

 塔正面の壁へ、十二枚の図を貼る。

 一枚目。

 外周足場の北西部。

 固定ボルト四本交換。

 補強帯の亀裂、長さ十八センチ。

 使用制限は一週間。

 二枚目。

 四階換気箱。

 迅の降下時に凹み。

 換気量への影響なし。

 外板交換予定。

 迅が図を見る。

「俺」

「名前、書く?」

 七瀬。

「書く」

「理由」

「凹ませた」

「記録公開は」

「塔の人がいいなら」

 四階住民が手を上げる。

「名前はいらない。修理費を払う人だけ分かれば」

「俺が払う」

「金あるの?」

 タマキ。

「ない」

「受理できない」

「働く」

「何を」

「直す」

「壊した人が自分で直すと、工賃が消える」

 轟が言った。

「迅は補助。工賃は塔の修繕費から。迅の負担分は、別の作業で計上」

「面倒」

「仕事なので」

 三枚目。

 西基礎。

 沈下二・一ミリ。

 現在停止。

 七日、十四日、三十日で再測定。

 四枚目。

 南排水弁。

 全開による圧力急減。

 左伯ハコの操作記録、久我の命令記録、外側供給停止記録を併記。

 ハコは壁際にいる。

「私の名前を先に書け」

 七瀬。

「時系列では、外側供給停止、久我の指示、左伯の全開」

「でも全開したのは私」

「先に書くと、原因があなた一人に見える」

「逃がしてるように見える」

「順番を変えず、太字にする?」

「太字って、罰?」

「見落とし防止」

「じゃあ全員太字」

「記録が読みにくい」

「面倒だな」

「よく言われる」

 五枚目。

 水槽北補助梁。

 受け座へ仮固定索三本。

 迅が落下を戻した事実。

 固定した住民技師三名の作業。

 恒久修理までは点検路閉鎖。

「能力で直ったんじゃない?」

 チカが聞く。

「戻しただけ」

 轟。

「違う?」

「同じこと、扉で聞いた」

「答えも同じ?」

「梁は、まだ直ってない」

「じゃあ迅、半分?」

 チカは勝敗を半分に分けるのが好きらしい。

「一秒」

 迅。

「何が」

「俺が戻した時間」

「一秒しか勝ってない?」

「その一秒に、索を掛けた」

 住民技師が言う。

「じゃあ、みんなで一秒?」

「一秒を分けるな」

 迅。

「配給は分けるのに」

 久我が、昨日と同じ返しを聞いて視線を逸らした。

 六枚目から十一枚目。

 窓枠。

 洗濯台。

 再利用管。

 正面扉。

 地下点検槽。

 診療所の換気。

 十二枚目。

《未確認》

 紙の下半分が空白だった。

「何も書いてない」

 住民。

「壁の内側は、全部見てない」

 轟。

「占拠が終わったなら、調べられる」

「住戸へ勝手に入らない。希望する部屋だけ。家具を動かすなら、持ち主がいる時」

「壁の中が壊れてたら」

「音と表面から危険があれば説明する。開けるかは、住んでる人と決める」

「建物の安全より?」

「安全を理由に、家を全部剥がさない」

 轟は空白の紙へ、最初の一行を書いた。

《分からない場所を、分からないまま一覧に残す。》

「名言?」

 タマキ。

「検査項目」

「長い」

「短くすると《不明》

「そっちでいい」

「駄目だ。《不明》だけだと、誰かが後で《問題なし》へ直す」

 午前八時二十六分。

 水質検査。

 塔内の十二か所から採水する。

 ポンプ室。

 一階共同水栓。

 三階乳児世帯の台所。

 四階診療所。

 七階の洗濯再利用管。

 九階医療設備。

 十二階末端。

 ほか五か所。

 久我は採水へ同行しようとした。

 ハツが止める。

「警備の仕事じゃない」

「汚染があれば警備問題だ」

「検査に立ち会うのは水係。結果は見せる」

「採水者が入れ替えたら」

「七瀬が容器番号と時刻を撮る」

「火群を信用するのか」

「信用しないから、二人で見る。私と水務技師。容器はタマキが運ぶ」

「誰から、誰へ」

 久我。

 タマキが眉を上げる。

「使う?」

「便利だ」

「料金」

「警備費から」

「受理」

 採水容器には、封を二つ。

 塔内の印。

 外部検査員の印。

 タマキは十二本を鉄箱へ入れる。

 順番は、採水した順ではなく、検査台で開ける順。

「なぜ」

 久我。

「上から開けると、下の瓶を出す時に全部触る。検査順に入れる」

「所在管理」

「荷物管理」

「同じだ」

「人間へやると監視。瓶へやると仕事」

 久我は返さなかった。

 午前九時十四分。

 簡易検査。

 濁度。

 塩素。

 油分。

 金属臭。

 南排水弁を全開にした影響で、地下管の一か所に錆が増えている。

「飲めない?」

 チカ。

「十二階の末端は、十分流してから」

 ハツ。

「十分って、時間?」

「今回は時間」

「水、もったいない」

「流した水は便所用へ回す」

「捨てない?」

「捨てない」

 チカは納得した。

 水は透明だから、汚れていないように見える。

 塔の事件も、扉が戻れば無かったように見える。

 だから、流した水の行先まで残す。

 午前九時四十六分。

 検査台の隣へ、診察用の椅子が三脚並んだ。

 サナが言う。

「建物の次は、人」

「順番、逆では」

 凱。

「昨日は人を先に出した。今日は、動ける人が自分を後回しにしている」

 最初は迅。

 右掌の包帯を外す。

 梁の縁で裂けた傷は、手の付け根から斜めに四センチ。

 深くはない。

「指」

 サナ。

 迅は小指と薬指を曲げる。

「痺れ」

「いつもより少し」

「少しを数字で」

「三」

「何段階」

「知らない」

「十」

「じゃあ三」

「昨夜は」

「五」

「隠してた?」

「寝れば下がると思った」

「下がったから隠してよかった、にはならない」

 骨の圧痛。

 手首の回旋。

 握力。

 新しい骨折を疑う所見はない。

 古傷の神経症状が一時的に増えた可能性。

「三日、強い握り込み禁止。濡れた包帯で梁へ触らない」

「もう梁、触らない」

「約束ではなく制限」

「違う?」

「建物と同じ。善意より、やらない範囲を書く」

 迅は診察票へ左手で署名した。

 次は轟。

「左肩は」

「昨日と同じ」

「右」

「打撲」

「見せて」

 上着を脱ぐ。

 右肩から上腕へ、紫と黄色の痣が重なる。

 左の手術痕は赤くなっていない。

「右肩、動かす」

 轟が前へ上げる。

 九十度。

 百二十度。

「痛い」

「何度で」

「百十」

「昨日、扉を持った時は」

「腰で受けた」

「質問に答えて」

「痛かった」

「数字」

「四」

「今は」

「二」

 骨折と脱臼を疑う所見はない。

 だが、右で庇い続ければ、左の術後肩へ負荷が戻る。

「今日は頭上作業なし。扉点検は終わった?」

「終わった」

「終わってなくても禁止」

「梁の図が」

「住民技師へ渡す」

「俺が説明する」

「座って」

「座って説明する」

「それなら」

 轟は不満そうに椅子へ戻った。

 タマキが言う。

「禁止事項、他人から増えた」

「必要なら増やす」

「寝るの」

「今夜」

「時刻」

「分からない」

「未定は確認時刻を決める」

 真琴が横から言った。

「午後八時に確認」

「全員、嫌な大人になった」

 久我は診察列の最後へ立っていた。

 左足首。

 扉裏を蹴った時に増えた腫れ。

 古い靱帯損傷の部位。

「歩ける」

「歩けるかではなく、悪化しているか」

 サナ。

「軽度」

「誰の診断」

「私」

「患者の推測」

 久我は黙って靴を脱いだ。

 押すと痛む。

 不安定性は以前と大きく変わらない。

 新しい断裂を疑う所見なし。

「二日間、屋上巡回を一人でしない。階段は交代。冷却」

「警備委任は」

「治療で失効しない」

「代行者」

「ノノと決めて」

「ノノは警備員ではない」

「だから、できる範囲を聞く。できないなら別の人」

「私が行く」

「治療拒否として記録する?」

 久我は嫌そうに息を吐いた。

「交代を置く」

「誰」

「左伯」

 壁際のハコが顔を上げる。

「私?」

「命令ではない。頼む」

「断ったら」

「別を探す」

 ハコは少し考えた。

「今夜だけ。屋上は行く。住戸の巡回はしない」

「受ける」

 久我が答えた。

 頼むことと、命じることの違いは、断られた後に現れる。

 次に、作業の請求を決めた。

 轟は修理を無償奉仕にする案を拒んだ。

「占拠を終わらせた側が、善意で直すのでは」

 監督官。

「善意で直した仕事は、次に壊れた時、予算がないことにされる」

「事故対応費から出す」

「誰の事故」

「占拠に伴う損傷だ」

「外周足場は、外の救出索でも壊した。換気箱は迅。排水弁は左伯と久我の指示と外側供給停止。補助梁は以前からずれていた」

「分ければ査定が遅れる」

「まとめれば、一番弱い人へ寄せられる」

 真琴が、修理表へ三つの欄を作った。

《原因が確定している》

《複数の行為が関係する》

《現時点で分からない》

 工賃。

 材料費。

 住民が提供した道具。

 失われた作業時間。

 四階の炊事担当の女が、腕を組む。

「私らが夜通し湯を沸かした分は」

「記録に入れる」

 真琴。

「家事でしょ、って消すなよ」

「消しません」

「飯を作った沼代だけの仕事にもするな。鍋を洗ったのは六人だ」

 ケンが頷く。

「名前を出したくない人は、当番番号で」

「金は誰へ」

「共同炊事費へ入れるか、個別に受けるか選ぶ」

「選ぶ紙、また増える?」

 タマキ。

「増える」

「運ぶ料金」

「公費」

「受理」

 迅の換気箱修理分も、ただ働きにはしなかった。

 迅は別の補助作業をする。

 その時間を工賃として記録し、修繕費へ戻す。

「自分で壊して、自分で働いて、金もらう?」

 チカ。

「金は修繕費へ」

 轟。

「じゃあ、もらわないのと同じ」

「違う。働いた時間が消えない」

「消えると、どうなる」

「次の人にも無料でやれって言われる」

 チカは少し考えた。

「靴を直したのも?」

「請求してない」

「矛盾」

「俺が個人で選んだ」

「仕事と親切、どう違うの」

「断っても困るのが俺だけなら、親切にできる」

「靴が直らないと、私が困る」

「そうだな」

 轟は言葉に詰まった。

 タマキが横から言う。

「次は料金を聞く」

「子どもから取る?」

「受取人はおばあちゃんか、共同修繕費。先に決める」

 チカは満足した。

 善意も、相手へ借金を残すことがある。

 何を無料にするかは、与える側だけで決めない方がよかった。

 診察票と修理表と請求表が、同じ机へ並んだ。

 体も建物も、勝ったという一言では直らない。

 直す仕事へ名前と時間を戻して、ようやく翌日になった。

 午前十時三十分。

 久我は、残った鍵を机へ並べた。

 四角い布を敷く。

 正面警備鍵。

 屋上警備鍵。

 二本だけ。

 その横へ、期限を書いた紙。

 三月十五日、日没。

「確認する」

 久我。

「期限後、自動失効。更新がなければハツとノノへ返却。緊急事態中の行動は、期限延長とみなさない」

 真琴が頷く。

「合っています」

「警備対象は、正面、屋上、依頼のある階の外周。住戸内へ入らない。診療所、食料庫、ポンプ室の鍵を持たない」

「合っています」

「外出者の所在は、本人が依頼した場合のみ記録。未帰還時の捜索範囲は、依頼時に決める」

「合っています」

「急迫時は」

「生命・水・建物への具体的危険がある場合、必要最小限。事後に何をしたか記録。あなた一人の判断で恒常化しない」

《必要最小限》は曖昧だ」

「曖昧です。事前に全てを列挙すると、列挙外を見捨てるため残しました」

「おまえが曖昧を使うのか」

「使った責任も残します」

 久我は期限紙を折った。

 四つ折り。

 四角い小さな紙にする。

 短衣の胸へ入れる。

「鍵は」

 タマキ。

「持つ」

「期限を忘れたら」

「紙がある」

「紙をなくしたら」

「壁にも書く」

「壁、勝手に書くな」

 轟。

「警備台帳へ」

「それならいい」

「おまえが決めるな」

「建物の壁は俺の担当」

「住民が決める」

「そうだった」

 轟は、久我へ黒い鉛筆を渡した。

 久我は入口脇の警備台帳へ、期限と鍵番号を書く。

 自分の所在ではなく、自分が持つ権限の終わりを記した。

 正午。

 塔の共同炊事場で、昼食が作られた。

 占拠中と同じ硬い麦粥。

 ただし、配給札はない。

 鍋の前へ、食べる人数を書いた板を置く。

 足りなければ、後から薄める。

 外の作業員も食べる。

 住民の水は使わない約束だったため、外から持った水を鍋へ足す。

 塔の粉と、外の水。

「誰の飯」

 タマキ。

「食べる人の」

 ケン。

「誰から」

「作った人から」

「誰へ」

「腹が減ってる人へ」

「何のため」

「午後も働くため。あと、朝から腹が鳴ってうるさいから」

「受理」

 迅は左手で椀を持った。

 右掌は包帯。

「味、薄い」

「水が多い」

 ケン。

「昨日までより」

「昨日までは、一杯の量を揃えた。今日は、おかわりするか自分で決める」

「濃さも選べる?」

「塩は自分で」

 迅は塩を取らなかった。

「薄いまま?」

 凱。

「文句を言うため」

「変なこだわりだ」

「薄いものを薄いと言わないと、次も薄い」

「名言か」

「粥の話」

 七瀬は椀を置き、左肩へ温めた布を当てた。

「撮らない?」

 タマキ。

「食事中の顔は撮らない」

「なぜ」

「人は口へ物を入れた瞬間、反論できない」

「記録に不利?」

「相手に不利」

 彼女は代わりに、鍋の横の板を撮った。

《作った量》

《食べた人数》

《残った量》

《足した水》

 配給の仕事は続く。

 鍵を持つ人が変わっても、鍋は勝手に満ちない。

 食後、色札の行先を決めた。

 赤い診療札。

 黄色い配給札。

 青いポンプ札。

 白い入浴札。

 黒い夜間通行札。

 緑の外周作業札。

 久我の鍵束から外された札は、机の上で六つの山になっている。

「捨てる?」

 チカが聞いた。

「使った物だ」

 久我。

「もう使わない物もある」

 ノノ。

「同じ色で新しい役割を決めれば、混乱が少ない」

「前の意味が残る」

 真琴。

「なら全部、新しくする」

「材料がない」

 ケンが黄色い札を一枚持つ。

「配給許可には使わない。食料庫の棚番号へする。人へ持たせず、棚へ付ける」

「黄色い札を持ってる人が、飯を先にもらえると思う」

 タマキ。

「最初の一週間は、札の下へ《人の順番ではない》って書く」

「長い」

「短くすると間違う」

 青い札は、ハツが取った。

「ポンプ室へ入る許可じゃなく、弁の状態へ掛ける。青一枚は点検中。二枚は操作禁止。三枚は水を止めるな」

「色の意味、増える」

 轟。

「場所が違う。人は腰へ下げない」

「記録表へ図を載せろ」

「やる」

 赤い札はサナ。

「患者を区分する札には使わない。診療所の戸棚へ、消毒済み・未処理の表示として使う」

「人へ付けない?」

 チカ。

「付けない」

「前は、診てもらえる人が持ってた」

「これからは、診る順番を札一枚で決めない」

 白い入浴札は、共同浴場の壁へ残す。

 ただし、入れる人の資格ではなく、湯の温度と清掃時刻を書く板へ縫い付ける。

 緑の外周作業札は、壊れた足場の部材へ。

 返却先が決まった物。

 修理する物。

 捨てる判断を待つ物。

 黒い夜間通行札だけが余った。

「燃やす」

 久我が言う。

「証拠を?」

 七瀬。

「使わない権限だ」

「使わなかったことを、残す?」

「残せば、戻したい人間が出る」

「燃やせば、無かったことにできる」

 久我は黒札を見た。

 占拠中、夜に廊下を通る者は、この札を見せた。

 持たない者は止められた。

 札自体に力はない。

 止める人間が、力を貸した。

 ノノが言う。

「一枚だけ残す」

「なぜ」

「入口の記録箱へ。使用停止の札として」

「再利用するのか」

「人へ見せるためじゃない。箱の中に、いつ止めたかと一緒に」

「残りは」

「本人へ返す」

「誰の」

「持ってた人」

 七瀬の記録には、札番号と貸与先がある。

 顔を撮っていない者も、番号は残っている。

「返されたくない人は」

 真琴。

「共同箱へ。処分方法を後で決める」

 黒札を持っていた警備員の一人が、前へ出た。

 七階でチカの紐を支えていた、鼻の横に傷のある若い男。

「俺のは、返さなくていい」

「理由」

 久我が聞く。

 男は少し迷う。

「言わない」

 ノノが頷いた。

「じゃあ箱」

 久我は問い直さなかった。

 自分が作った規則の中では、理由を言わない人間は疑う対象だった。

 今は、理由を聞かないことが、新しい警備の最初の仕事になった。

 タマキが一枚ずつ、行先を書いた封筒へ入れる。

「誰から」

「前の管理から」

「誰へ」

「棚、弁、戸棚、浴場、部材、持ってた人」

「何のため」

「人を通す札を、仕事を見せる札へ変えるため」

「受理」

 札は消えなかった。

 意味が変わった。

 同じ物を使い続けても、同じ仕組みを繰り返すとは限らない。

 ただし、前の意味を忘れれば、色だけがまた人を選び始める。

 午後二時四十分。

 退去した者のうち、七人が塔へ戻った。

 家族の様子を見に来た者。

 必要な薬を取りに来た者。

 宿舎の寝台が合わず、今夜は自室で寝たい者。

 入口で、久我が立っている。

 以前なら、帰還時刻と目的を聞いた。

 今は、正面警備鍵だけを持つ。

「入る」

 戻った女が言う。

「住戸鍵は」

「持ってる」

「外へ出る予定は」

 久我は途中で止めた。

「聞かなくていい」

 女。

「分かった」

「それだけ?」

「警備上、危険があれば伝える。現在、正面異常なし」

「前より短いね」

「必要な情報だけだ」

「寂しい?」

「確認が必要」

 女は笑って中へ入った。

 久我は追わなかった。

 戻った七人には、住戸鍵とは別に返される物があった。

 占拠中、久我の警備班が預かった封筒。

 外出許可の申請紙。

 家族の連絡先。

 薬の受取時刻。

 帰還予定。

 避難先の候補。

 久我は封筒を、番号順に机へ置いた。

「本人確認」

「鍵でいい?」

 戻った女が聞く。

「住戸鍵は、持ち主である証明にはならない。借りている可能性がある」

「じゃあ顔」

「顔も、私の記憶だけになる」

「面倒」

「確認が必要」

 女は封筒番号を言った。

「七―十九。中に、姉の名前と古い診察札。姉の姓は、今は違う」

 久我が封を見せる。

 未開封。

 ただし端に、一度水へ濡れた跡。

「開けた?」

「開けていない」

「濡れてる」

「二月二十日の漏水。保管箱の下段」

「中、読めるかな」

「開けて確認する?」

「ここで?」

「場所を選べ」

 以前なら、久我が確認のため開封し、中身を照合した。

 今は、女が封筒を受け取る。

「自分の部屋で見る。読めなかったら、真琴に頼む」

「私には」

「頼まない」

「分かった」

 久我は理由を聞かなかった。

 二人目の男は、封筒を受け取らなかった。

「捨てて」

「本人情報がある。処分方法を確認する」

「燃やす」

「焼却器は共同。立ち会う?」

「見たくない」

「誰の立ち会いを希望する」

「ノノ」

 ノノが頷く。

「私が見るのは、燃えたことだけ。中は見ない」

「それで」

 七瀬が記録する。

《封筒番号五―八。本人希望により未開封のまま焼却。立会人・磯良ノノ。内容は記録しない。》