第220話 第十二章「鍵の返却」後編

「消した物まで記録するのか」

 男。

「内容ではなく、私たちが勝手に残していないこと」

「俺の名前は」

「希望しなければ番号だけ」

「番号も、誰かが調べれば」

「対応表を本人へ返す。こちらには残さない」

「じゃあ、番号だけ残っても俺にはつながらない?」

「その予定です。完全に保証はできません。過去の配給記録と照合する人がいれば推定される可能性はあります」

「正直すぎる」

「保証できないことを保証すると、後であなたが嘘をついたことにされます」

 男は少し考えた。

「記録は番号だけ。対応表は燃やす」

「了解」

 三人目は、封筒を開けて読んだ。

 そこには、外へ出たら剛嶺の妹へ連絡する、と自分で書いた紙があった。

「連絡、まだする?」

 タマキ。

「今はしない」

「前に書いたのに」

「前は、出たらすぐ塔を離れると思ってた」

「変わった?」

「扉が戻ったから、今夜はここで寝る」

「紙、どうする」

「取っておく。明日また変わるかもしれない」

 決め直した紙は、古い自分への裏切りではなかった。

 その時の自分が必要だと思った出口を、今の自分が閉じ直しただけだ。

 久我は、封筒の山が減るたび、鍵束を失った時より静かになった。

 鍵は入口を管理した。

 封筒は、その人がどこへ行きたいかを管理していた。

 後者を返す方が、彼女には難しかった。

「全部、今日返す?」

 チカ。

「本人が来た分だけ」

「来ない人のは」

「保管する。ただし二週間の警備委任とは別。三月九日に、保管方法を住民が決める」

「久我が決めない?」

「決めない」

「寂しい?」

「確認が必要」

 チカは笑った。

 久我も、今度は否定しなかった。

 午後四時十八分。

 チカが、轟の作業台へ来た。

 黄色い靴。

 直した底は剥がれていない。

「これ」

 小さな鍵を見せる。

「何」

 轟。

「うちの」

「誰から」

 タマキが近くから言う。

「おばあちゃんから」

「誰へ」

「私へ」

「何のため」

「自分で帰るため」

 タマキは頷いた。

「受理」

「おまえが受理するの?」

 轟。

「もうした」

 チカの祖母は、後ろからゆっくり歩いてくる。

「今までは、予備鍵を久我さんが持ってたからね。子どもに持たせるのは危ないって」

「落とす?」

 轟。

「落とすかもしれない」

「紐をつける」

「首からは駄目。引っかかる」

 轟は細い革紐を出した。

 チカの外套の内側へ、小さな輪を縫い付ける。

 鍵は伸びる短索へつなぐ。

 手を離しても、地面まで落ちない長さ。

 左肩を上げず、右手で針を持つ。

「靴も直すし、服も縫うの?」

 チカ。

「建物と違う」

「前も言ってた」

「小さい方が難しい」

「前は簡単って迅が言ってた」

「迅は針を折る」

「折ってない」

 迅が遠くから言う。

「持ってないから」

 轟。

 輪が縫い上がる。

 チカは鍵を引く。

 伸びる。

 戻る。

「これなら、なくさない?」

「なくす時はなくす」

「駄目じゃん」

「なくしても、誰か一人が全部の鍵を持ってない。予備はおばあさん。もう一本は封筒へ入れて、ハツとノノが二人で開ける箱」

「面倒」

「鍵なので」

 チカは、みんなの言葉になった返事へ笑った。

 午後四時三十二分。

 轟は最後の点検へ同行した。

 七階。

 磯良ノノの部屋。

 由良も来た。

 通行証停止中だが、住民からの訪問依頼があり、塔内だけ許可された。

「見舞い」

 ノノが言う。

「三年と十三日遅れ」

 由良。

「数えた?」

「だいたい」

「斥候がだいたいでいいの」

「今日は友達」

 ノノは縫い台を見せた。

 右手の二本の指がなくても布を送れるよう、木の押さえを足してある。

 机の脚は、床の傾きへ合わせて一本だけ短い。

 轟は床へ水平器を置く。

「二ミリ西下がり」

「前から」

 ノノ。

「分かる?」

「糸巻きが西へ転がる」

「昨日、変わった?」

「少し速くなった」

「記録する」

「床、剥がす?」

「今日は剥がさない。壁際に新しい割れなし。七日後、もう一度測る」

「その時、また由良を連れてきて」

「俺が?」

「見舞いを分割払いさせる」

 由良が赤索を窓辺へ置いた。

「塔を出たくなったら、言って」

「剛嶺へ?」

「行先は聞いてから」

「少し賢くなった」

「少し?」

「見舞い一回分」

 窓の外には、旗のない竿が見えた。

 由良はそれを故郷への目印にしなかった。

 ノノの部屋そのものが、ノノの帰る場所だった。

 午後五時十分。

 日が傾く。

 チカは祖母と九階から七階へ下り、自分の部屋の前へ立った。

 扉は小さい。

 正面の鋼製扉より、ずっと軽い。

 蝶番は二つ。

 塗装が剥げている。

 鍵穴の周りに、何度も外した傷。

 久我は廊下の角にいる。

 警備の見回り。

 正面鍵と屋上鍵だけを持つ。

「開けて」

 祖母が言った。

 チカは外套の内側から鍵を引き出した。

 伸びる短索。

 右手で鍵を持つ。

 一度、上下を間違える。

「逆」

 久我が言いかけた。

 途中で止めた。

 チカは自分で鍵を裏返した。

 鍵穴へ入れる。

 小さな手首を回す。

 固い。

 もう一度。

 黄色い靴で床を踏む。

 カチリ、と音がした。