第506話 第十一章「救助完了」後編

 迅は座ったまま、自分の赤い紐を見る。

 結び目は崩れている。

「数えない?」

「数えてない」

「今、嘘」

「少し数えた」

「何を」

「お前の鍵」

「三つ」

「数字を言った」

「鍵はいい」

「都合がいい」

「そう」

 チカは右足を止める。

 左だけ、二回。

 車椅子の葉と同じではない。

 自分の二回。

「右、止めた」

 迅。

「言わないで」

「悪い」

 チカは左も止める。

 身体が前へ傾く。

 迅は手を出さない。

 チカが自分で両膝を曲げる。

 床へ座る。

「止まる」

 チカが言う。

「今だけ」

「受領」

 誰も拍手しない。

 誰も救助完了と叫ばない。

 七瀬が時刻を書く。

《三月二十一日 午前十一時三十六分十四秒》

《チカ本人が「今だけ止まる」と選択》

 チカが座った後も、確認は一つでは終わらない。

 呼吸。

 右踵の擦過。

 左手指。

 本人が今、触れられてよい場所。

「肩は触らない」

 チカ。

「足は」

「右靴だけ。脱がさない」

「水」

「飲む」

「救護所へ」

「行かない。ここで見てもらう」

 名取枝里が膝をつく。

「私は名取枝里。ここで観察できます。胸痛、息苦しさ、めまいが出たら、搬送をもう一度勧めます」

「名前、覚えた」

「忘れても、また言います」

「私が最後?」

 誰もすぐ答えない。

 隠せば、子どもだから知らなくてよいと決めることになる。

 七瀬が言う。

「同じ歩調から離れた確認では、今の記録が最後に入る。でも、あなたを『最後の人』として公開しない」

「なんで」

「次に同じことが起きた時、止まる役をチカへ押しつけないため」

「私は止まった」

「うん」

「自分で」

「うん」

「そこは書く?」

「本人が望めば」

「書く。顔はなし。靴はいい」

「受領」

「順位は」

「書かない」

「分かった」

「分かった範囲」

「靴と、『今だけ止まる』は書く。最後の一人という順位は書かない」

「受領」

 チカは救護員の真似ではなく、自分の言葉で確認範囲を言い直した。

 救助の最後にいる人へ、最後の物語まで勝手に渡さない。

 全体台帳へ、最後の確認が入る。

 登録者――千二百四人。

 同一歩調からの離脱確認――同数。

 死亡、〇。

 緊急搬送、三十七。

 軽傷、百八十六。

 数は必要だ。

 ただし、《最後の一人》という順位は、チカ本人へ渡さない。

 古橋巡が、駅の定型文を持って来た。

《中央同期事故、全員救助完了。安全を確認しました》

 真琴が最初の一行を指す。

「全員、の範囲」

「登録者千二百四人」

「緊急搬送三十七人の治療は継続」

「駅の救助として」

「では、駅設備上の緊急救助」

「安全を確認しました、は」

 轟が床を見た。

「仮設が残る。時計の囲い。手すり。F橋。全部、条件付き」

「安全ではない?」

「今の条件で通行禁止。仮設は点検中。安全を一語へしない」

 古橋は書き直す。

《中央同期事故について、登録者全員の同一歩調からの離脱を確認。駅設備上の緊急救助を終了します。医療、宿泊、移動、設備点検、損失確認は継続します》

「長い」

 豪。

「放送で息が続きません」

 古橋。

 百舌忍が携帯板へ打つ。

《二回に分ける》

「一回目だけ聞いた人は」

 七瀬。

《二枚の表示。片方だけ掲示しない》

「音声は」

《短い事実。詳細は表示場所を言う》

 古橋は放送文をもう一度作る。

《登録者全員の同一歩調からの離脱を確認しました。駅設備上の緊急救助を終了します。医療と生活支援は継続します。詳細は各出口の二枚組表示で確認してください》

「勝ちました、は」

 豪。

「入れません」

「少し寂しい」

「誰が勝ったか、決められない」

 迅。

「負けたのは」

「歩き方を一つにした仕組み。でも、作った人も使った人も、途中で止めた人もいる」

「また長い」

「だから放送しない」

 古橋は、自分の名を末尾へ入れる。

《放送責任者 古橋巡》

 駅の範囲だけを引き受ける。

 登録者全員の人生までは代表しない。

「救助完了を記録」

 七瀬が言う。

 声は小さい。

 迅はチカの隣へ座る。

「鍵屋へ行く?」

「今は行かない」

「いつ」

「座った後」

「何分」

「決めない」

「受領」

 改札の向こうで、古橋巡が待つ。

 急かさない。

 回転柵は台車の上。

 白墨の犬の足跡。

 歩幅札。

 停止札。

 札なしの手。

 救助完了の記録が入ったあと、仕事はむしろ増えた。

 歩幅札の回収。

 返さない人の確認。

 使用済み切符の処分。

 木匙の洗浄。

 仮設座面の点検。

 顔を映さなかった映像の公開範囲。

 駅に残る人の暖房。

「終わったのに」

 豪が言う。

「救助が」

 轟。

「仕事は」

「別」

 豪は犬の足跡を消そうとし、雑巾を止める。

「期限、明日だった」

「今日は消さない?」

「覚えてるうちに」

「期限前に消すと、案内として使いたい人が困る」

「じゃあ残す」

「残す理由を記録」

「面倒」

「今日、最後まで多い」

 歩幅札を持ち帰りたい人が三人いた。

 一人は、事故を忘れないため。

 一人は、次に使うため。

 一人は、紙が丈夫だから。

 全部を記念品へまとめない。

 タマキが訊く。

「札の所有は、本人へ移す?」

 真琴が答える。

「個人情報のない札は、希望者へ譲渡可。受取先や医療情報を書いた札は、本人返却か保全か破棄を選ぶ」

「料金」

「事故対応費に含む」

「無料?」

「あなたは嫌?」

「無料だと、次も無料で運べと言われる」

「では、今回の費用負担者を表示する」

「中央と駅と臨時救助費」

「本人負担ゼロ」

「ゼロも、誰かが払ってる」

 タマキは緑の帽子を直す。

 能力を一度使ったことより、誰が料金を負担したかを気にする。

 迅が言う。

「お前ら、終わった後のほうが喋るな」

「戦ってる間は、説明できない」

 真琴。

「だから、後で増える」

「後書きみたい」

「記録です」

「似てる」

 七瀬は、今の会話を撮らない。

 救助完了の直後に笑っている映像だけを切り取れば、事故が楽しかったように見える。

 代わりに、木匙を洗う手、札を選び直す指、雑巾を置き直す豪の膝を記録する。

 勝利の後景ではない。

 次の生活そのものだった。

 街は、ばらばらに止まっていた。

 止まった街は、死んでいない。

 次に歩く時刻を、一人ずつ決められる街になり始めていた。