第505話 第十一章「救助完了」前編

三月二十一日 午前五時三十六分

 夜明け前の駅は、昼より音が多い。

 寝息。

 咳。

 紙をめくる音。

 弁当箱。

 暖房弁。

 夜を越した人が、朝になったことを確かめる声。

 そして、足踏み。

 竜胆迅は、中央連絡駅の第三待合区画へ入った。

 右手の甲には薄い固定布。

 骨折なし。

 打撲。

 環指と小指の痺れは、夜の冷えで少し強い。

「何人」

 口から出かける。

 飲み込む。

「まだ足踏みしてる人、どこ」

 七瀬が記録票を見る。

「第三待合に十九。北宿舎に十一。駅内改札前に八。その他、個別確認中」

「数字言った」

「全体管理には必要」

「俺へ」

「あなたが場所を訊いたから。次から、地図で示す」

「頼む」

「謝罪と依頼が増えた」

「記録するな」

「珍しいので」

「前も言った」

「反復は削る」

 七瀬の左肩は、夜通しの固定撮影でも熱を持っていた。

 撮影機は補助員へ渡し、本人は紙の記録を持つ。

「寝た?」

 迅。

「二時間十一分」

「短い」

「あなたは」

「三時間くらい」

「くらい、は記録語じゃない」

「三時間四分」

「数えてる」

「睡眠はいい」

「自分に都合がいい」

 第三待合区画。

 椅子を壁へ寄せ、床へ毛布。

 足踏みを続ける人々は、眠っていない。

 止まると、身体が前へ倒れる感覚。

 列車へ遅れる恐怖。

 次の光が来ない不安。

 中には、自分が足踏みしていると気づいていない者もいる。

 迅は最初の男性へ近づく。

「名前か呼称」

「昨日言った」

「俺は聞いてない」

「記録へある」

「記録と話してない」

「……石上忠」

「石上。足、痛い?」

「仕事へ行かないと」

「何の」

「墓石」

「今日?」

「昨日の午後」

「過ぎた」

「だから行かないと」

「依頼主へ連絡は」

「してない」

「誰が受ける」

「俺」

「今、電話は」

「ない」

「伝令を送る?」

「配達員へ金が」

「救助連絡なら本人負担なし」

「無料は嫌いだ」

「スエと同じ」

「誰だ」

「膝の人」

「知らない」

「今は石上の話」

 迅はタマキへ連絡する。

 能力は使わない。

 普通の伝令。

「依頼主の呼称」

 タマキ。

「井田家」

「目的」

「作業延期。石材は現場に置かず、工房。損傷なし」

「受ける人」

「井田の娘」

「連絡方法」

「西市場の電話所」

「料金」

「あとで払う」

「救助連絡は本人負担なし。払いたければ通常便として、後日再契約」

「面倒だな」

「人は面倒」

「今日、何人目」

 石上が訊く。

 迅は答えない。

「伝言、受領」

 タマキが去る。

 迅は石上へ言う。

「仕事は今、止めた」

「俺は止まってない」

「足を止める?」

「止めたら、仕事を休んだことになる」

「もう休んでる」

「自分で決めてない」

「じゃあ、今決める?」

 石上の足踏みが少し遅くなる。

「……今日は休む」

「誰が」

「俺が」

「足も?」

「それは」

「別に決める」

 石上は右足を止める。

 左だけ二回。

 それから、左も止める。

 身体が前へ傾く。

 迅は支えない。

「椅子」

「座る」

「自分で?」

「自分で」

 石上が座る。

 止まった。

 迅は数えない。

 次。

 野々村葉は車椅子の車輪を、同じ拍で前後へ動かしている。

「足じゃない」

 迅が言う。

「車輪も歩く」

 葉。

「止める?」

「手を離すと、前へ行く感じがする」

「車輪止め」

「自分で掛ける」

「今?」

「まだ」

「何を待つ」

「牧田」

「どこ」

「水」

「一人で止めたくない?」

「一緒に止めたい」

「受領」

 牧田蓮が戻る。

 葉が言う。

「右から」

「右」

 二人が左右の車輪止めを別々の時刻に掛ける。

 右。

 間。

 左。

 車椅子が止まる。

「同時じゃない」

 迅。

「同時にしなくても止まる」

 葉。

「それ、使える」

「誰に」

「俺に」

 次。

 赤帽子。

 呼称だけ。

「足踏みを止めたい?」

「止めたら、頭の音が大きくなる」

「何の音」

「歩け、って」

「耳から?」

「中から」

「医療者へ」

「病気扱いするな」

「症状を訊く。病名は決めない」

「薬は嫌」

「薬を断れる」

「隔離は」

「目的を説明して、本人が選ぶ。緊急なら別だけど、今は会話できる」

「じゃあ、話だけ」

「受領」

 名取枝里が来る。

「呼称、赤帽子。話だけ。接触なし。薬剤なし」

「受けます」

 赤帽子は足踏みを続けながら、枝里と話す。

 止まることだけを救助の先頭へ置かない。

 話した結果、歩き続ける選択もある。

 午前七時。

 足踏みを続ける人々の場所は、駅内二か所へ減る。

 北宿舎では、浅海スエが自分の弁札で床を叩き、同じ拍を崩した。

 ただし、全員へ叩かない。

 一人ずつ、違う間隔。

「今のは、あんたの音」

「次は、私の膝」

「次は、鍋」

 小麦の厨房から、蓋の音。

 リズムを作らない。

 蓋を落とす人ごとに違う。

「料理がまずくなる」

 小麦。

「音で救助」

 スエ。

「鍋は楽器じゃない」

「道具は転職する」

「誰から聞いた」

「広場」

「噂が速い」

「歩調より」

「それ、もう使われた」

「何回」

「迅が怒る」

 小麦は足踏みを続ける若者へ、粥を一杯ずつ渡す。

「食べながら歩くな」

「止まれない」

「じゃあ、私が椀を持つ。あんたが一口ずつ止まる?」

「命令?」

「食事の提案」

「こぼしたら」

「私が拭く。火傷したら私の責任。止まるかはあんた」

 若者が一歩止まる。

 小麦が一口。

 次の一歩。

 止まる。

 一口。

 最後に椀が空になる。

 若者の足も止まる。

「食べ終わったから?」

 小麦。

「分からない」

「分からないを受領」

 救助は、英雄の技ではなく、生活の手順へ分かれていく。

 三月二十一日 午前九時四十八分

 改札前に、最後の集団が残る。

 三十一人。

 その中に、チカ。

 全員が同じ場所で足踏みしているわけではない。

 前後へ歩く者。

 円を描く者。

 右足だけ。

 車輪。

 杖先。

 しかし、改札の回転柵が、一定の間隔で動いている。

 電源は切られている。

 人が押すたび、機械式の戻りばねで同じ位置へ戻る。

 カタン。

 人々がその音へ合わせる。

「回転柵を外す」

 轟が言う。

「壊さず?」

 迅。

「軸受けを抜く」

「何分」

 轟は答えない。

「数えるな、だったな」

「工事は数えろ」

「都合がいい」

「荷重は名言で減らない」

 豪が回転柵へ手を置く。

「俺が止める」

「持ち続けるな」

 轟。

「一時だけ」

「誰が交代」

「石上」

 石上忠が来る。

「墓石屋を休んだ日くらい、鉄を持つ」

「右肩は」

「動く。腰は痛い」

「腰で持つな」

「お前、注文が多い」

「壊したくない」

「俺を?」

「回転柵も」

「順番が気に入らない」

 豪と石上が交代で柵の戻りを抑える。

 轟が軸受けの割りピンを抜く。

 左肩を上げない。

 右手。

 腰。

 台車。

 真琴が駅側へ、改札機能の一時停止を説明する。

「無賃通過にならない?」

 駅員。

「運賃は後払い記録へ。通過資格を失わせない」

「回転柵を外したら、人数確認が」

「本人確認と、通過数を分ける」

「不正が」

「事故中に不正の可能性だけを優先して、人を同じ拍へ閉じ込めますか」

「後で責任を」

「私も取ります。駅側の責任を消すとは言っていません」

 軸受けが外れる。

 回転柵を倒さず、台車へ載せる。

 カタン、が消える。

 人々の足踏みは残る。

 機械音が原因のすべてではなかった。

「次」

 迅。

「何を外す」

 轟。

「人の中の拍は外せない」

「じゃあ、外さない」

 迅は改札の向こうへ立つ。

 七歩を取れる広さ。

 身体が、無意識に出口を数える。

 右の柱。

 左の券売機。

 後ろの階段。

 数えたことに気づく。

 迅は、その場へ座った。

「また?」

 豪。

「座る」

「何する」

「待つ」

「何を」

「一人が、自分で止まるの」

「三十一人」

「数字言うな」

「俺じゃない。真琴の紙に」

「声に出した」

「悪い」

 豪も座る。

「お前まで」

「右膝」

「痛い?」

「二」

「休む?」

「休む」

「誰が改札を」

「轟」

「轟は工事」

「石上」

「腰」

「駅員」

 駅員が言う。

「私が立ちます」

「名前」

「古橋巡」

 昨日、発車延期の責任者として名前を出した男。

「班長?」

「はい」

「改札へ立つ?」

「立つ。通過を急かさない。運賃は後払い。戻る人も止めない」

「受領」

 迅と豪は、改札脇へ座る。

 凱も来る。

 左膝装具。

「座る?」

 迅。

「立つ」

「痛み」

「二」

「何する」

「説明」

「全員へ?」

「一人ずつ」

 凱は最前列へ行く。

「改札を通る?」

「列車は」

「今日は出ない」

「じゃあ、なぜ通る」

「通らなくていい」

「どこへ行く」

「北宿舎、南宿舎、駅内、広場へ戻る。ほかの受取先があれば確認する」

「今は」

「決めない?」

「決めない」

「では、ここで足踏みを続ける?」

「……座る」

「椅子」

「いらない。床」

「床は冷たい」

「毛布」

「受領」

 一人が座る。

 次。

 イオは、周囲の人がその動作を真似しないよう、別の選択を提示する。

「座らなくてもいい。壁へ。立つ。歩く。戻る」

 次の人は壁へ。

 次は改札を通る。

 次は戻る。

 集団が、少しずつ集団でなくなる。

 午前十時十五分。

 改札前に残る人々を一人ずつ分けている最中、駅北側の仮支柱が鳴った。

 轟が顔を上げる。

 乾いた音。

 一度。

 二度目は低い。

「荷重が移った」

「どこ」

 迅。

「天井じゃない。券売機側の床」

 改札を外したことで、通行する人の位置が変わった。

 今まで中央へ分散していた荷重が、券売機前へ偏っている。

 しかも、足踏みを続ける人々は同じ場所へ反復荷重を掛ける。

「床が抜ける?」

 豪。

「すぐではない」

「何分」

「分からない」

「お前が分からないって言うと怖いな」

「嘘の数字よりまし」

 轟は床へ耳をつけない。

 左肩を守り、右掌を石床へ。

 振動。

 足踏み。

 床下の空洞。

「旧配線溝。蓋板の支えが一本外れてる」

「開ける?」

「上に人」

「動かす?」

「一斉に動かすな」

 同じ答えを、全員が覚えている。

 覚えていることが、また一つの合図になりかける。

 迅が言う。

「俺から近い人へ訊く。豪は反対側。凱は改札側。轟は床」

「指揮?」

 凱。

「役割の提案」

「断る理由はない」

「受領」

 四人は、同じ時には動かない。

 迅は券売機側の女性へ。

「足踏みを止める、じゃない。今いる場所から、どこへ動きたい」

「動けない」

「動かない?」

「動けない」

「介助」

「触らないで」

「床板を、あなたの下へ補強する?」

「何する」

「足元へ薄い板。身体は動かさない」

「音がする?」

「する」

「嫌」

「別の案。隣の人が先に移動して、空間ができた後、自分で一歩」

「待つ」

「受領」

 豪は男へ。

「俺の腕へ触る?」

「持ち上げるな」

「持ち上げない。押される時だけ、壁」

「胸は」

「触らない」

「右肘」

「受領」

 凱は、足踏みを続ける老人へ。

「一歩、改札側へ?」

「列車へ」

「今日は出ない」

「なら、ここ」

「床が傷んでいる」

「どこなら」

「改札の向こう。駅員が受ける。戻ることもできる」

「戻れる?」

「回転柵は外した」

「なぜ」

「同じ拍を作っていたから」

「壊した?」

「壊していない。台車の上」

「じゃあ、見てから」

「受領」

 一人ずつ、床から離れる。

 しかし、中央にいた若い男が、急に身体を固くした。

 足踏みが止まらない。

 呼吸が止まる。

「息!」

 七瀬が叫ぶ。

 男の顔は映さない。

 迅が近づく。

「触る!」

 返事がない。

「意識低下。緊急介助」

 名取枝里が判断する。

 迅は男の背後へ入る。

 持ち上げない。

 膝を折らせ、床へ低くする。

 男の胸が動かない。

「気道」

 枝里。

「口腔内、異物なし。脈」

「ある。速い」

「過換気後の息止め?」

「決めない。酸素」

 救護員が酸素面体を持つ。

 男の手が、面体を払いのけた。

 意識が戻る。

「嫌」

「酸素を断る?」

「顔、覆うな」

「鼻カニュラ」

「何」

「鼻の下へ細い管。顔を覆わない」

「それ」

「受領」

 管を付ける。

 男は呼吸を再開する。

 足は止まった。

「緊急搬送」

 枝里。

「嫌」

「胸部症状。心電図が必要。北救護所ではなく、病院」

「行かない」

「今、会話できる。理由を説明する。突然の呼吸停止、頻脈、胸痛の有無を確認。命に関わる不整脈を除外できない」

「病院に記録が残る」

「限定照合。氏名非公開も選べる」

「家族へ」

「本人同意なしには知らせない。ただし、意識を失い緊急処置が必要なら、医療上の範囲で照合する可能性」

「保留」

「今は搬送を勧める。保留の間、心電図をここで取る?」

「ここ」

「受領」

 携帯心電計。

 不整脈。

 枝里が説明する。

「搬送を、もう一度勧めます」

「行く。名前は病院だけ」

「受領」

 この男が、緊急搬送三十七人目になる。

 七瀬は順位を本人へ言わない。

 担架を縦に入れない。

 床から離れた人々が、別々の位置へいるため、布担架を横から通せる。

 迅は右手を使わない。

 左手で担架の端を支える。

 豪は持ち上げようとする。

「一人で持つな」

 轟。

「四人なら」

「本人へ、どこを持つか説明」

「意識ある」

「だから訊く」

 男が言う。

「頭は、そこの小さい人」

 救護員が頷く。

「足は」

「大きい人。胸の近くは、誰も持たない」

「受領」

 四人で担架を運ぶ。

 豪は足側だけ。

「小さい人って言われた」

 頭側の救護員が言う。

「役割は大きい」

 豪。

「慰め?」

「俺よりは小さい」

「事実」

 担架が出る。

 轟は空いた床へ補強板を入れる。

 厚さ。

 位置。

 撤去期限。

「これで、床は安全?」

 古橋。

「この範囲、静止荷重なら。足踏みを続ければ再評価」

「足踏みを禁止?」

「しない。ここへ留まる人へ、床の状態を見せる」

「危険なら移動を」

「勧める。拒否したら、補強と見守りを増やす。崩落が迫れば緊急介助」

「どこから緊急」

「亀裂幅、沈下、音。今は基準値を書く」

「数える」

 迅。

「工事はいい」

「今日は、その例外が多い」

「お前が勝手に作った」

 床の補強が終わる。

 残る人々は、別々の場所へ移る。

 改札前の人数が減る。

 午前十時五十二分。

 全体台帳では、同一歩調から離れた人が千二百一人になった。

 改札前には四人いる。

 数字が合わない。

 一人は、足踏みをやめているが、台帳へ変更が反映されていない。

 中尾弦。

「止まった時刻」

 七瀬が訊く。

「覚えてない」

「誰か見た?」

「見てない」

「では、今の確認時刻を記録する」

「遅くなる」

「あなたが止まった事実は変わらない。正確な時刻は不明」

「映像から探せる」

「探してほしい?」

 弦は考える。

「探さなくていい。止まった瞬間を、そんなに大事にしてない」

「受領」

 《停止時刻――本人記憶なし。午前十時五十二分確認》

 残り三人。

 一人は、歩調から外れた後も、自分で一定の拍を踏み続けている。

 石上忠。

「まだ同期してる?」

 迅が訊く。

「朝の祈り」

「今、朝?」

「事故が終わるまで朝」

「変な宗教」

「自作」

「やめたい?」

「十二回で終わる」

「今、何回」

「十」

 迅は数えない。

 石上が自分で十一、十二と踏む。

 止まる。

「数えた?」

 石上。

「聞こえた」

「同じ」

「違う」

「都合がいい」

「今日、流行ってる」

 石上は笑い、停止札を返す。

 残り二人。

 もう一人は、右足だけを動かしていた。

 柏木秋枝。

「左が痛い」

「医療へ」

「行った。骨は大丈夫。動かすと怖いから、右だけ動かしてる」

「止めたい?」

「右を止めると、左へ体重が行く」

 轟が床へ低い座面を置く。

「座る?」

「座ったら立てない」

「立つ時の介助を選べる」

「誰」

「今は俺。後で別の人へ渡せる」

「左肩、悪いでしょ」

「頭上は持たない。腰と右腕」

「私、重い」

「重量を訊く?」

「訊かないで」

「なら、持ち上げない。座面を高くする」

 板を二枚重ねる。

 秋枝は、自分の手で手すりを持つ。

「今、右を止める」

「受領」

 右足が止まる。

 腰を下ろす。

 左へ全体重を載せない。

「立つ時」

「呼ぶ」

「誰を」

「その時、いる人」

「受領」

 全体台帳へ、千二百三人目の離脱確認が入る。

 ただし、その順位を秋枝へは渡さない。

 改札前で足踏みを続けるのは、一人だけになる。

 チカは、まだいる。

 彼女を最後にするためではない。

 ほかの人が、自分で先に止まることを選んだ結果だった。

 午前十一時七分。

 御厨朝から、音声だけの連絡。

《全体救助完了の宣言は、最後の本人確認後に。私の名で一括宣言しない》

「誰が宣言」

 古橋。

《現場記録者が、確認事実を記載。代表者の勝利宣言は不要》

「駅側としては、区切りが」

《必要なら、駅運用上の救助終了を古橋さんの名で》

「全員を、私が」

《代表しない。駅設備と通路の範囲だけ》

「分かりました」

《分かった範囲》

「駅設備上の緊急救助終了を、私の名で記録。本人の医療、生活、移動選択は継続」

《受領》

 朝の声が切れる。

 迅が言う。

「寝てろ」

 通信は切れている。

「本人へ届かない」

 七瀬。

「記録するな」

「伝言として残す?」

「残さない」

「では、今のは感想」

「そう」

 チカの足踏みが、改札前に響く。

 右。

 左。

 それ以外の靴音は、もう止まっていた。

 午前十一時三十二分。

 改札前に残るのは、チカだけになる。

 ただし、救助完了とは言わない。

 最後という言葉を聞けば、チカが止まる役を背負う。

 七瀬は全体人数を口に出さない。

 迅も訊かない。

 チカは黄色い靴で、右、左を繰り返している。

 右踵の青と紫。

 左のすり減り。

「鍵屋」

 迅が言う。

「開いた?」

 チカ。

「午前十時に開いた。今、古橋が連絡した」

「誰の鍵か聞ける?」

「担当者が待ってる」

「名前」

「古橋が確認中」

「名前がないと行かない」

「正しい」

「褒めた?」

「確認」

「迅は」

「一緒に行かない」

「なんで」

「俺が行くと、俺が決めた道になる」

「タマキ」

「休息中。左耳の診察」

「七瀬」

「撮影中」

「凱」

「膝」

「大人、役に立たない」

「今日は特に」

 チカの足踏みは続く。

「一人で行く?」

 迅。

「行ける」

「行きたい?」

「分からない」

「止まりたい?」

「止まったら、最後になる」

 迅は息を止める。

 誰も最後と言っていない。

 それでも、チカは分かっていた。

 周囲に足踏みする人がいない。

 七瀬の記録者が静かになった。

 救護員が自分を見ている。

「最後だから、止まってほしい?」

「違う」

「嘘」

「救助を終わらせたいとは思ってる」

「私が止まれば」

「終わる」

「じゃあ、命令と同じ」

「そうなる」

 迅は否定しない。

「だから、終わらなくていい」

「いつまで」

「お前が決めるまで」

「みんな待つ」

「待たせる」

「怒る」

「俺が怒られる」

「なんで」

「俺が終わらなくていいと言った」

「朝の命令じゃない」

「俺の提案」

「責任は」

「竜胆迅」

「役職」

「無権限介入」

 チカが笑った。

 足踏みが、一拍乱れる。

「変な役職」

「報告書に多い」

「鍵、三つある」

「知ってる」

「部屋。靴箱。給水扉」

「うん」

「全部、開ける人が違う」

「うん」

「足も?」

「右と左で違う」

「歩く時は、一人」

「うん」

「難しい」

「俺も」