第507話 第十二章「代表しない調停」前編

三月二十二日 午前十時十九分

 御厨朝の両脚には、同じ傷が残らなかった。

 右腓腹筋は、内側頭の広い断裂。

 左は、外側頭と筋腱移行部。

 腓骨神経の障害も、右が重い。

 同じ能力の反証が、左右へ同じように返ったわけではない。

 身体は、制度より不公平だった。

「右足背屈、もう一度」

 医療者が言う。

 朝は右足首を上げようとする。

 少し動く。

 十分ではない。

「痛み」

「安静で四。動作で七」

「しびれ」

「右外側、足背。左は薄い」

「長距離歩行は、当面不可。両脚固定具。右は短下肢装具を追加。杖は左手」

「復職」

「座位業務は、休憩と腫脹管理を条件に段階的。現場歩行は不可」

「期間」

「今、永久にも一時的にも決めません。二週間ごとに再評価」

「受領」

 朝は診療票へ署名する。

 指先の青は、もう薄い。

 事故当日の墨ではない。

 病院で新しく使った青墨。

「黒では駄目?」

 医療者が訊く。

「青が見やすい」

「自分の署名を?」

「血や複写墨と混ざらない」

「職業病ですね」

「病名へ入れないでください」

「冗談です」

「冗談は記録しません」

「助かります」

 病室の外で、久世直人が待っている。

 名札は表。

「審理室へ移動できますか」

「車椅子で」

「杖の練習は」

「午後」

「公開説明を延期しても」

「しません」

「医療者は、座位なら二十分」

「二十分で全部は話せない」

「全部を一度に話さない」

「聞き手が、次へ来ないかもしれない」

「それでも」

 久世は車椅子の足台を出す。

「誰が押す」

 朝。

「私」

「歩幅を」

「合わせません」

「椅子が揺れる」

「苦情は御厨朝」

「責任者は久世直人」

 二人は、事故の日の会話を繰り返す。

 意図的な反復。

 朝は少しだけ笑った。

 三月二十二日 午前十一時

 公開説明は、病院の会議室で行われた。

 席は四十八。

 立見は禁止。

 中継は、顔を映さない選択をした参加者について足元と手元だけ。

 朝は前へ出ない。

 会議室の中央ではなく、壁際。

 車椅子。

 両脚固定。

 机の上に、三つの紙束。

 一つ目。

 同期命令の原本と別紙。

 二つ目。

 事故対応中に発行した八区画の内部停止命令。

 三つ目。

 朝自身の審理提出書。

「私は、登録者全員を代表して話しません」

 最初に言う。

 記者の一人が手を上げる。

「しかし、事故対応の中心人物です」

「中心にいたことと、代表資格は別です」

「被害者の声をまとめる必要が」

「まとめるのは、本人の許可を得た論点だけです。感情を一つへしません」

「では、何を説明する」

「私が署名した範囲。私が使った能力。私が出した命令。私が知らなかったこと。知らなかったまま確認しなかったこと」

「謝罪は」

「します。ただし、謝罪で事実を短くしません」

 朝は一枚目を開く。

「三月二十日午前六時十二分。別紙四号付きの同期命令へ署名しました。別紙には、任意停止帯、介助拒否時の代替、区画別停止権がありました」

「なら、あなたは安全措置を」

「署名時には確認しました」

「事故は別紙を外した部署の責任では」

「別紙を分離した責任と、別紙なしの本書を配布した責任があります。私は、署名後の変更通知を受けていません。同時に、私の署名がどの版へ使われているか確認しませんでした」

「通常、署名者が配布版まで追うことは」

「通常を理由に、私の範囲を消しません」

「自分を厳しく裁く姿勢?」

「姿勢は評価語です。事実を書いてください」

 七瀬が後方で、小さく頷く。

 記者が質問を変える。

「能力使用について。最初の一回は成功、二回目は負傷した。そう理解してよい?」

「よくありません」

「なぜ」

「最初の使用も、強制性がなかったと確定していません。二回目は救命上の効果がありました。同時に、旧放送による不利益の脅しが残る中で選択をそろえました」

「あなたの負傷は、その反証?」

「能力条件上は、強制された異議の抵抗が両脚へ返った可能性が高い」

「身をもって誤りを」

「その表現を使わないでください」

 朝の声が、少し強くなる。

「私が傷ついたことで、他人の選択が正しくなるわけではありません。障害は、贖罪の勲章ではない」

「しかし、責任を取ったと」

「取っていません。責任は今から審理されます。脚の治療は、責任とは別です」

 会議室が静かになる。

「今後、過半歩を使う?」

「今は決めません。医療上も運用上も停止。再使用には、身体評価、同意条件、強制性の検証、独立した監督が必要です」

「事実上の封印?」

「期限を決めず、使わないという現在の状態です。永遠という言葉へ逃げません」

「空白の旗へ加入するとの話が」

「ありません」

「迅たちとは協力した」

「同じ事件で働きました」

「今後も」

「必要な案件で、範囲を確認して」

「味方では」

「調停官が一方の味方であることを隠すほうが危険です。私は、彼らへ同意する時も、反対する時もある。今回も、迅の無権限介入は審理対象です」

 迅が後方で顔をしかめる。

「聞こえてる」

「公開説明ですから」

「俺の話、今いる?」

「あなたが無権限で柵、橋、改札へ介入した事実は必要です」

「助けた」

「助けたことと、権限外行為は別」

「止めたら死んでた」

「その可能性も記録する」

「罰する?」

「私が決めません」

「面倒だな」

 会議室のあちこちから、笑いが漏れる。

 タマキが言う。

「今日、何人目」

 迅が睨む。

「数えるな」

「台詞はいいんでしょう」

「誰が広めた」

「広場」

 笑いが少し大きくなる。

 朝は笑わない。

 笑いを止めもしない。

 記者が次へ。

「異議保全とは、反対者を把握する制度ですか」

「違います」

「拒否を記録するなら、名簿では」

「公衆表示には、氏名を出しません。何に対する異議か、退出、保留、再審理、後日の変更を残します。本人が名を公開する場合だけ、公開」

「匿名では責任が」

「決定権を持つ側の責任と、拒否する側の身元公開を交換条件にしません」

「虚偽の異議は」

「二鍵保管の本人資料で、必要時に本人確認。ただし、制度批判のために氏名を暴くことは禁止」

「反対が多ければ、決定を覆す?」

「自動では覆しません。再審理条件を事前に決める」

「少数派を永遠に保存する意味は」

「多数決の後で、最初から全員が賛成だったことにしないためです」

「社会が割れ続ける」

「割れていた事実を、紙で接着しても治りません」

 異議保全は、三月三十日までの暫定。

 朝は期限を繰り返す。

「延長は」

「自動ではしない」

「必要なら」

「別の審理。本人たちの選択を再確認」

「あなたが主導?」

「しません」

「では誰が」

「公開記録、限定記録、本人返却の三系統。管理者は分かれる。私は制度評価の一人であり、同時に審理対象」

「矛盾では」

「人は一つの役割だけではありません。ただし、同じ案件で自分を裁く席には座らない」

 二十分が過ぎる。

 久世が札を出す。

《休止》

 朝は見る。

「続けられます」

 久世。

「医療者との約束は二十分」

「あと一問」

「その一問が十問になる」

「質問者へ、次回」

 久世は記者へ言う。

「本日の説明はここまで。未回答は、質問票へ。次回時刻は、医療評価後に公開」

「調停官本人が決めるべきでは」

「本人が、二十分の条件を受領しています」

 朝は頷く。

「休止します」

 自分で言う。

 車椅子が動く。

 拍手はない。

 説明の終わりに拍手をすると、内容へ賛成したように見えるからだ。

 代わりに、質問票を置く音が一枚ずつ続いた。

 三月二十四日

 軽傷者の最終集計が確定する。

 百八十六。

 擦過傷。

 打撲。

 軽度捻挫。

 過換気。

 脱水。

 装具部の皮膚損傷。

 緊急搬送三十七。

 骨折。

 頭部打撲。

 胸部圧迫。

 神経症状。

 朝の両脚損傷。

 死亡、〇。

 七瀬は映像へ数字を載せる前に、本人たちの公開範囲を確認する。

 全員の顔を並べない。

 負傷の重さで順番を付けない。

 公開を拒否した人は、数字だけ。

「死者ゼロを見出しに?」

 補助員。

「しない」

「重要では」

「重要。だから、単独で勝利の見出しにしない」

「何と」

「登録千二百四。死亡〇。緊急搬送三十七。軽傷百八十六。失われた勤務、搭乗、面会、賃金は集計継続。自分で停止を選べた時刻は、本人記録へ」

「長い」

「短くすると、〇だけが残る」

「映像タイトルは」

「『同じ歩調』」

「事故前の宣伝みたい」

「だから、最後まで見れば意味が変わる」

「最後は」

「チカが座る場面。顔なし。靴と鍵袋」

「最後の一人とは」

「書かない」

「なぜ」

「最後の役を本人へ固定しない」

 数字の下には、負傷以外の損失が続いた。

 運休した列車、七本。

 欠勤または遅刻申告、三百八十一件。

 失われた面会時間、確認できた範囲で百二十九時間。

 破損した靴、装具、杖、荷物。

 宿泊費。

 臨時厨房の食材。

 警備班の盾修理。

 駅の時計を覆った木箱。

「全部、賠償?」

 古橋巡が訊く。

「全部を同じ賠償へ入れない」

 真琴。

「事故による直接損失。救助判断で生じた追加費用。本人が選んだ変更。制度上の不利益。分けます」

「同じ人に複数ある」

「複数欄」

「申請が難しい」

「だから、本人が一枚へまとめなくていい。受ける側で接続する」

「偽申請は」

「審査する。ただし、偽申請の可能性を理由に全員へ先払いを拒まない」

 朝は車椅子から書類を見る。

「私の治療費を、事故救済基金へ入れないで」

「なぜ」

 久世。

「能力使用による公務災害として別審理。私の額が大きいと、軽傷者の靴や欠勤が見えなくなる」

「同じ事故です」

「同じ事故でも、支払根拠が違う」

「自分だけ外へ出すと、特別扱いに」

「別欄にする。非公開にしない」

 古橋が言う。

「駅としては、死者ゼロを成果として出したい」

「出していい」

 七瀬。

「ただし、その下へ三十七と百八十六を同じ大きさで」

「広報紙に入りません」

「紙を大きく」

「予算が」

「小麦に訊けば、裏紙をつないでくれる」

 小麦は本当に、厨房の納品票の裏をつないだ。

「食べ物の記録の裏に、事故」

 古橋。

「事故の後も食べるから」

 小麦。

「名言?」

「昼飯」

 長い紙へ、数が同じ大きさで書かれる。

 〇だけを大きくしない。

 助かった命を小さくするためではない。

 助かったという言葉で、痛みと費用を小さくしないためだった。

 三月二十五日

 異議保全の最初の公開閲覧日。

 公開されたのは、反対した人の名前ではない。

 何に反対したか。

 どの時刻に退出を求めたか。

 保留が、後で何へ変わったか。

 再確認を求めたのに、誰が答えなかったか。

 中央図書室の一階へ、二十七枚の論点板が並ぶ。

《停止すると搭乗順を下げられると思った》

《介助を断る欄がなかった》

《同じ歩幅を選びたい二人まで離された》

《札を持たない人が、進む同意として扱われた》

《警備盾が救護路を作る前に人を押した》

《撮影停止の理由が、その場で説明されなかった》

《能力使用を拒否する選択肢がなかった》

 賛成意見もある。

《同期誘導で、最初の区画までは安全に歩けた》

《音と振動がなければ、方向が分からなかった》

《全員が別々に動き始めた後のほうが怖かった》

《歩幅札は、周囲へ伝えやすかった》

《札を見られるのが嫌だった》

 同じ制度への評価が、同じ板に並ぶ。

 朝は車椅子で、一枚ずつ読む。

 自分への言葉もある。

《御厨朝は止めたが、最初に歩かせた》

《脚を壊した映像を美談にするな》

《能力を使わなければ、落下者が出たかもしれない》

《能力を使ったから、また一つの動作へ戻った》

《調停官が全部決めなかったので、誰へ怒ればいいか分からなかった》

「最後の、答えますか」

 久世。

「公開板では答えない」

「なぜ」

「怒りの宛先を、私が指定しない」

「本人へは」

「返答を希望している?」

「保留」

「では待つ」

 図書室の端で、相良ミイが娘と話している。

 娘の右手には、緑の布。

 顔は非公開。

「私は、娘へ会うために上がりたかった」

 ミイ。

「あなたたちは、私の膝を理由に遅らせた」

 朝は聞く。

「はい」

「凱は一人ずつ訊いた。あれは良かった。でも、娘は中で待っていた」

「遅れた時間」

「十九分」

「失った面会時間」

「七分」

「記録します」

「謝らない?」

「謝ります。あなたと娘さんの時間を遅らせた」

「でも、安全だったと言う?」

「前輪事故と階段圧があり、急いで上がれば負傷した可能性を説明します。謝罪で、その判断を撤回したとは言いません」

「都合がいい」

「そう聞こえると思います」

「私が許さなければ」

「許さないことを、異議として残せます。私の職務復帰条件にはしません」

「許されなくても、働く?」

「審理が許せば」

「図太い」

「はい」

 ミイは、少し笑う。

「そこは否定しないんだ」

「褒められたとは思っていません」

「褒めてない」

「受領」

 娘が緑の布を握り直す。

「顔を撮られなかったのは、良かった」

「七瀬へ伝える?」

「自分で」

「受領」

 次は、警備班長の葛西充。

 彼は制服を着ていない。

「私の命令で盾列が人を押した」

「はい」

「途中で止めた」

「はい」

「止めたことは、評価される?」

「私が決めません」

「報告書では」

「初動、継続、変更、結果を別欄。止めたことで、先に押した責任を消さない」

「なら、途中で直す意味がない」

「被害が増えない意味がある」

「評価は増えない」

「褒賞のために止めた?」

「違う」

「では、止めた意味は残る」

「罰は」

「審理」

「あなたも」

「はい」

「同じ審理室?」

「同じではありません。案件と判断主体を分ける」

「一緒に裁かれたほうが、公平では」

「同じ罰を受けることが、公平とは限らない」

 葛西は黒い帽子を手で回す。

「私は、鶴見の命令違反を処分しようとした」

「その後」

「処分保留。事故報告へ」

「鶴見本人は」

「警備を続けたい。私の下ではない場所で」

「あなたは」

「班長停止中」

「今後」

「分からない」

「受領」

 朝は、葛西を改心した元敵へしない。

 自分も、負傷で正しくなった調停官へしない。

 異議保全は、人を善悪へ並べ替える棚ではない。

 決定の後も残る、消してはいけない文章を置く棚だ。

 午後、七瀬が朝の映像公開案を持ってくる。

 三つ。

 一つ目。

 署名した手。

 二つ目。

 能力使用後に倒れた脚。

 三つ目。

 布担架で運ばれる足元。

「二つ目を外す?」

 朝。

「本人が望むなら」

「外すと、負傷を隠したと言われる」

「残すと、自己犠牲映像へ使われる」

「説明を付ける」

「説明を読まない人もいる」

「だから外す?」

「私は決めない」

「撮影者なのに」

「あなたの身体」

「共同で決める?」

「公開、限定、非公開を、場面ごとに」

 朝は映像を見る。

 顔はない。

 青い指。

 歪んだ署名。

 動かない足首。

「二つ目は、公開」

「理由」

「能力の反証を、抽象語にしない」

「説明」

「救命効果と、強制性の汚染を併記。負傷は贖罪ではない。治療中。再使用未定」

「布担架」

「限定。医療搬送の動線検証へ。一般公開しない」

「署名」

「公開」

「歪んでる」

「だから」

「受領」

 七瀬は公開範囲を書く。

「私の左肩も、映す?」

 朝が訊く。

「何を」

「固定台へ機材を委ねたこと」

「今回は、映像に必要なら。私の身体の物語を、あなたの説明の添え物にはしない」

「厳しい」

「記録者なので」

「王より?」

「王はやめた」

「あなたは、やめない?」

「今は」

「期限」

「次の肩評価まで」

 二人は笑わない。

 笑う話ではない。

 それでも、言葉の軽さは残る。

 重い話を重い顔だけで運ぶと、途中で誰かが持てなくなる。

 三月二十六日

 チカは中央行政棟の鍵管理室へ行く。

 古橋巡が同行を申し出る。

「自分で行く」

 チカ。

「案内だけ」

「誰の鍵か答える人の名前」

「鍵管理、牧田蓮」

「前に車椅子を介助してた」

「兼務です」

「鍵屋だね」

「役所は、そう呼びません」

「鍵を持ってるのに?」

 七瀬が笑う。

「その質問、撮っていい?」

「一問、銅貨一枚」

「前と同じ」

「値上げしてない」

 チカは三つの鍵を見せる。

 自室。

 共同靴箱。

 給水扉。

 牧田は、一つずつ台帳と照合する。

「自室と靴箱は、チカ本人の使用鍵。給水扉は、共同設備の旧鍵。現在は設備停止中」

「返す?」

「返却も保管も選べる。再使用の審理まで本人保管なら、紛失責任は本人。管理室へ預けるなら、受領票を出す」

「誰の鍵」

「給水扉の鍵は、扉を使う共同体の物。今、代表者は決まっていない」

「じゃあ、私のじゃない」

「持っていることと、所有は別です」

「預ける」

「受領」

 チカは給水扉の鍵を渡す。

 自室と靴箱は持ち帰る。

 全部を返さない。

 全部を持たない。

 役所の鍵屋は、鍵を一つずつ違う場所へ戻した。

 三月二十七日。

 朝へ、中央行政棟から役職案が届いた。

《異議保全暫定統括》

 期限は、三月三十日まで。

「期限付きです」

 久世が言う。

「だから受けると思った?」

「あなたは期限を重視する」

「期限があれば、何でも正しいわけではない」

「制度を作った人が統括するのは自然です」

「自然、は責任者名を隠す言葉になる」

「では誰が」

「公開記録、限定記録、本人返却で別」

「もう分散しています」

「統括を置けば、最後に一つへ戻る」

「調整が必要です」

「必要な時、案件ごとに調停を依頼する」

「常設ではなく?」

「私が常設になれば、私の署名へまた預ける」

 久世は役職案を裏返す。

「空白の旗からも、協力の打診があります」

「加入?」

「固定ではない。連絡役」

「断る」

「理由」

「私の審理が続く。迅たちの仲間へ入って、善人の席を取らない」

「迅たちの仲間?」

「はい」

「あなたも事件の中心でした」

「中心にいたことと、仲間になることは違う」

「今後、敵対するかもしれない」

「案件によっては」

「恩知らずと言われます」

「救助と服従を交換しない」

 久世は少し黙る。

「その言葉、公開していいですか」

「私の加入拒否理由としてなら」

「名言欄へ」

「そんな欄を作るな」

 朝は役職案へ署名しない。

 代わりに、辞退理由と、今後受けられる依頼範囲を書く。

《個別案件の調停》

《自分が当事者である案件では、単独決裁しない》

《異議保全の管理者にならない》

《空白の旗へ所属しない》

《必要な協力は、案件ごとに範囲と終了日を定める》

 所属を断ることを、関係の断絶へはしない。

 関係を続けることを、所属の同意へもしない。

 三月二十八日

 朝は杖歩行の練習を始める。

 黒い一本杖。

 左手。

 右足と杖を同時に出す方法を、医療者が説明する。

「同時」

 朝が言う。

「必要な支持動作です」

「他人とではなく、自分の杖と」

「はい」

「今日は、それを嫌う必要はない?」

「同じ動作が悪いのではありません。誰が選んだか、身体に合うかです」

「分かっています」

「分かっていても、怖い?」

「はい」

「一歩」

 朝は杖を出す。

 右足。

 左足は、短く。

「痛み」

「五」

「続ける?」

「一歩だけ」

「今のが一歩」

「では止める」

 椅子へ戻る。

 椅子へ戻った朝の右足首へ、医療者が細い布を掛けた。

「これは」

「足を持ち上げるための補助ではありません。動いた角度を測る目印です」

「歩けた距離ではなく?」

「今日は、一歩で何が起きたか」

 右足背屈は、開始前よりわずかに低下。

 左ふくらはぎの腫脹は増えていない。

 痛みは五。

 しびれは右外側に残る。

「昨日より短い」

 朝。

「昨日と競争しない」

「記録は比較する」

「比較と競争は別です」

「難しい」

「だから、同じ欄へ書かない」

 医療者は、歩行距離と神経所見を別の欄へ記した。

 朝は自分の一歩を、回復の物語へ急いで接続しなかった。

 廊下の向こうで、別の患者が二歩進み、三歩目をやめた。

 朝は拍手しない。

 医療者も、やめた理由を本人へ訊いてから記録する。

 歩けた人と、歩かないと決めた人を、同じ進歩の物差しへ載せない。

 同期塔から離れた後にも、病院の中には「昨日より先へ」という小さな号令がある。

 朝は、その号令へ従わない日を自分にも許すことから始めた。

 能力の反証を克服する場面ではない。

 歩けたことを拍手する人もいない。

 医療者は、歩行距離ではなく、腫れと神経反応を書く。

 三月三十日 午後四時

 異議保全の暫定期限。

 中央行政回廊の同じ場所で、継続審理が行われる。

 床の白と青の光帯は、消されていない。

 ただし、自動歩調は停止。

 固定矢印の周りには、豪が描いた犬の足跡が薄く残っている。

 消す期限は過ぎた。

「消し忘れ」

 朝が言う。

 豪が雑巾を持つ。

「雨が降らなかった」

「屋内です」

「知ってる」

「期限を守らなかった」

「今、消す」

「責任者名」

「犬飼豪」

「理由」

「忘れた」

「正直」

「褒めた?」

「記録」

 豪は足跡を一つずつ消す。

 全部は消えない。

 白墨が床の細い傷へ入っている。

「跡が残る」

「床を削る?」

「削らない。生活上の支障がなければ、残ることを記録」

「善行の記念に?」

「違反の痕跡としても」

「両方か」

「別々に残す」

 異議保全の運用審理とは別に、朝本人への予備審理が開かれた。

 傍聴は限定。

 七瀬の撮影なし。

 記録は速記と音声。

「二度目の過半歩は、落下を防いだ」

 審理員。

「はい」

「使わなければ、死者が出た可能性」

「あります」

「では、正当な使用だった?」

「救命効果と、同意条件の汚染を分けて判断してください」

「あなた自身は」

「使うべきだったと、今も思う部分があります。同時に、脅迫放送下の選択を自発的過半数へ含めた判断は、検証が必要です」

「後悔している?」

「質問を分けてください」

「能力使用を後悔しているか」

「死者を防いだ可能性を、後悔とは呼びません」

「負傷したことを」

「身体の結果です。倫理判断の証拠ではありません」

「もう一度、同じ条件なら」

「同じ条件は再現できません。人の位置、放送、手すり、選択者が違う」

「答えを避けている」

「未来の私へ、今の私が命令しない」

 審理員は筆を止める。

「あなたの脚は、責任を果たした証明ではない、と」

「はい。歩けなくなれば、正しくなる制度は危険です」

 朝は杖を椅子へ立てかけている。

 黒い杖は、発言の重みを増やす道具ではない。

 倒れないための道具だ。

 予備審理は結論を出さない。

 救命上の適法性。

 選択条件の強制性。

 署名者としての確認義務。

 能力反証と公務災害。

 別々の審理へ送る。

 朝は無罪にも有罪にもならず、次の日の歩行訓練へ戻った。

 継続審理の結果、異議保全は恒久制度にならない。

 三十日で一度失効。

 次の運用は、四月一日から二十八日間の試験。

 自動更新なし。

 変更点。

 拒否者数を成果指標にしない。

 異議が少ない部署を優良と評価しない。

 匿名の異議を、身元確認不能として捨てない。

 本人返却資料の期限。

 再審理条件。

 朝は制度管理者にならない。