第430話 第九章「観客が舞台に上がる」後編
「名簿は」
「重複欄」
「複雑です」
「生きてる」
観客席で、年配の女性が手を上げた。
「家族確認と医療。糖尿の薬が切れる」
「出口へ」
「中に孫がいる」
「名」
「言いたくない」
「座席番号だけ」
「それなら」
限定照合。
孫は参加者名簿にいる。
現在位置、東市場。
顔や役名は公開しない。
女性は退出を選ばず、医療を受けて待つ。
拍手で一つになる観客ではない。
別々の生活を持つ四百八十六人。
観客席から入った介助職の一人が、東市場の負傷者へ手を伸ばし、拒否された。
「触らないで」
負傷者は左肩を押さえている。
「移乗の経験があります」
「知らない人」
「名前は」
「言わなくていい」
七瀬が止める。
「本人が知りたいのは、あなたの名?」
「触る人が誰か」
負傷者。
介助職は技能札を見せる。
《介護施設勤務》
《移乗補助八年》
《腰痛あり》
《肩の診断不可》
《触れる前に確認》
「私は、佐伯と呼んでください」
「本名?」
「仕事名」
「後で探せる?」
「受付に限定記録します」
「では、右側だけ。左肩は触らない」
「受領」
名を公開することと、後で責任を追えることを分ける。
佐伯は右側へ入る。
「立てますか」
「たぶん」
「試す前に、足の感覚」
「ある」
「右脚へ体重を乗せる。私は腰ではなく骨盤。嫌なら止める」
「はい」
立つ。
負傷者は顔をしかめる。
「肩」
「六」
「座り直す?」
「歩く」
「何歩」
「十」
「五で確認」
五歩。
「続ける」
十歩。
医療受付へ。
佐伯は、英雄のように抱えない。
自分の腰痛も隠さない。
その横で、保険担当者が新しい紙を配り始めた。
《緊急技能参加に関する免責同意》
「止めて」
カナタ。
「技能者を入れるには必要です」
「何を免責」
「運営が予測できない負傷」
「事故は既に予測外」
「本人が自発的に入区しています」
「自発的なら、設備不良の責任が消える?」
「全てではありません。一定範囲」
「範囲」
紙の文字は小さい。
浸水。
誓痕停止。
移動模型。
第三者行為。
既往症。
装備不適合。
「読む時間がありません」
設備技師。
「署名しなければ入れません」
カナタは紙を破らない。
七瀬へ渡す。
「現在時刻と配布者」
「記録」
「代わり」
カナタは白板へ書く。
《現在分かっている危険》
《担当範囲》
《本人の身体制限》
《途中で退出できる》
《運営責任は別に残る》
「これでは法的免責になりません」
「免責しない」
「運営が受けられない」
「技能者を入れない選択も、名を残す」
保険担当者は黙る。
「あなたの名」
七瀬。
「公衆へは部署」
「限定記録へ実名」
「受けます」
彼は書く。
《免責同意を要求》
《現場側が拒否》
《最終判断、警備責任者》
警備責任者が読む。
「免責なしで、条件確認済みの技能者を入れます。入区幅一・二メートル。一人ずつ。終了時刻を記録」
「後で処分される」
保険担当。
「後で説明します」
「怖くない?」
「怖い」
警備責任者は鍵を回す。
「規則は、怖くない人を作りません。怖くても誰が回したかを残すだけです」
技能者が一人ずつ入る。
免責された英雄ではない。
負傷すれば治療され、判断すれば問われ、途中で帰れる人として。
午後二時十八分。
レムの搬送先から、医療連絡が届く。
《右膝、前方不安定性》
《関節内出血疑い》
《前十字靱帯断裂を強く疑う》
《骨折所見なし》
《荷重禁止》
《画像診断後、再建術検討》
七瀬は、本人が許可した範囲だけ場内記録へ入れる。
「八城さんの役名は」
脚本担当者。
「試験官」
「事故時の責任者として」
「それも別欄」
「研究上、《型通り》の失敗例に」
「本人へ確認」
「能力条件の重要な」
「医療記録を研究材料へ自動で渡さない」
「事故記録は」
「動作、床、境界、靴、水。身体内部は医療」
「分けすぎでは」
「分けなかった結果を、ずっと見てきた」
脚本担当者は口を閉じる。
七瀬は自分へも同じ質問をする。
撮りたい。
レムが型を外れた瞬間。
能力が消え、足が止まり、膝が折れた動き。
原因を知るために必要かもしれない。
公開すれば、彼女の思想の敗北として消費される。
撮影機には映っている。
七瀬はフィルムを抜かない。
その場で再生もしない。
《保全》
《公開保留》
《医療・事故調査は本人同意》
《思想評価へ使用しない》
札を付ける。
「あなたは、見ないの」
カナタ。
「今は」
「私は映ってる?」
「床に座ってる」
「格好いい?」
「右足を庇ってる」
「現実的」
「公開は別」
「私の失敗は公開して」
「自分の失敗だけで、他人の負傷を説明しない」
「はい」
場内では、観客だった設備技師が非常音声線を開いた。
最初に流れたのは、英雄の台詞ではない。
「音声試験。聞こえない場所を教えてください」
返答が、各区画から戻る。
聞こえる。
聞こえない。
水音で不明。
手話が必要。
文字が濡れた。
欠落が、そのまま放送される。
完全な声ではない。
だから、別の媒体を足せる。
七瀬は現在時刻を言う。
「午後二時二十三分。観客だった技能者の入区後、非常音声線が復旧。現在、全員へ届いたとは確認していない」
英雄の物語なら、声が街全体へ届く。
今は、届かなかった場所から返事が来た。