第431話 第十章「無能力の殺陣」前編
午後二時十一分
竜胆迅は、七歩目を知りすぎている。
退く。
源を見つける。
七つの暴力を一つへ束ねる。
返す。
能力が止まっている区画でも、身体は順番を覚えていた。
一歩目で相手の肩を見る。
二歩目で床を測る。
三歩目で守る対象を背後から外す。
四歩目で呼吸を落とす。
五歩目で距離を切る。
六歩目で拳を作る。
七歩目で――
何も起きない。
分かっている。
それでも、身体のどこかが待つ。
西巻上塔へ続く倒壊模型は、もともと殺陣の舞台だった。
傾いた屋根。
折れた橋。
足場板。
英雄が追撃者を退け、非常弁へ飛びつく。
安全な落下方向まで、床へ薄い線が引いてある。
今は水が流れている。
足場線は見えない。
落下網の一部は外されている。
模型街区の回転で、屋根の傾きも変わった。
迅の前に、運営実働責任者が立つ。
名前は知っている。
しかし、名を呼ぶ場面ではない。
胸の札。
《現場秩序》
《入区統制》
《演目保全》
技能ではなく、目的が三つ。
「非常弁へ行かせません」
「水、止める」
「西巻上塔の弁は、街区を緊急固定します。途中で止めれば、住宅模型が傾斜位置に残る」
「今も傾いてる」
「制御室で正規停止を行う」
「応答ない」
「復旧中です」
「何分」
「確認中」
「それ、時間じゃない」
責任者は両手を上げる。
訓練された制圧姿勢。
拳を握らない。
掌を見せる。
「あなたが弁を操作すれば、設備損壊として扱います」
「壊さない」
「素人が触れれば同じです」
「技術者、後ろ」
観客席から入った設備技師が、足場の下にいる。
「私は弁の操作を指示できます!」
「認証外の者です」
「資格証を見せた!」
「この施設の委任がありません」
「委任を待ってる間に軸が焼ける!」
迅は責任者の足を見る。
左足が前。
右足は屋根の棟へ平行。
腰が低い。
止める技術がある。
「退け」
「拒否します」
「殴りたくない」
「私もです」
「じゃあ、どく」
「それも拒否します」
「面倒」
「同意します」
責任者が一歩出る。
迅の肩を押す。
投げるためではない。
非常弁への線から外す。
迅は半歩退く。
一歩目。
能力はない。
責任者の右手が肘へ来る。
迅は左手で外へ流す。
右環指と小指は、水の冷たさで鈍い。
握らない。
二歩目。
足場板が沈む。
想定より柔らかい。
「右、腐ってる!」
カナタの声。
倒壊模型の下。
演出家は、この殺陣の足場を作った。
「左へ三十センチ!」
迅は左へ移る。
責任者も追う。
彼も台本の殺陣を知っている。
迅が左へ逃げれば、次は右肩を取る。
そこから棟へ押し、英雄が返す。
既知の動作。
責任者は一手先へ入る。
迅は肩を返さない。
膝をつく。
相手の手が空を切る。
「台本を外すな!」
「事故、台本外」
「足場の安全線から外れる!」
「線、見えない」
責任者は迅の襟を掴む。
迅は掴ませる。
引かれた方向へ一歩進む。
退かない。
相手の胸へぶつかる。
頭を上げない。
腰へ入る。
投げず、二人とも屋根へ伏せる。
背後で足場板が落ちた。
落下先には、観客だった作業者が二人いる。
「下!」
カナタが叫ぶ。
板が落ちる。
カナタは右足で踏み込まない。
左足を軸に、長い幕棒を滑らせる。
落下板の角へ当て、向きを変える。
板は作業者の横へ落ちる。
水しぶき。
カナタ自身は反動で倒れる。
受身。
右足を床へ打ちつけない。
肩から転がらず、背中を丸める。
「呼吸」
十夜の声。
「できます」
「指」
「動く」
「足」
「右、痛い。前から」
「新しく増えた?」
「二」
「十分休む」
「今、演出が」
「休むのも演出」
「違います」
「知ってる。選手、言ってみたかった」
迅は責任者の下から抜ける。
相手を殴らない。
手首を床へ置く。
立てる余地を残す。
「続けますか」
責任者が訊く。
「水が止まるまで」
「私も」
「何を守る」
「施設」
「人は」
「施設が人を守ります」
「今、施設が人を流してる」
「壊せば、次の人を守れない」
「壊さない。止める」
「同じではありません」
「分かってる」
迅は息が上がっている。
能力がある時、七歩の間に呼吸は整った。
暴力の源へ意識が絞られ、身体の無駄が消えた。
今は、全部見える。
水。
屋根。
責任者。
非常弁。
下の作業者。
カナタ。
タマキ。
回転する住宅模型。
右手の痺れ。
暴力の源が多すぎる。
相手一人へ返せない。
「迅」
タマキが下から言う。
「あと二十七メートル。途中、橋二枚。二枚目、左固定外れ」
「見た?」
「予定図と今。作業者が確認」
「受領」
「帰りは」
「同じ道、使わない」
「住所」
「非常弁」
「帰りの住所」
迅は答えない。
「決めて」
「東市場の高台」
「受取人」
「凱とイオ」
遠くで凱が返す。
「受ける」
イオ。
「戻り時刻」
「十五分」
「長い」
「十二」
「受領」
能力のない配達確認。
迅は立つ。
責任者も立つ。
今度は、相手が先に屋根の梁を蹴った。
演目用の可動障害。
梁が振り子になる。
迅の進路を塞ぐ。
通常の殺陣なら、迅は七歩退いて梁を避け、反動を使って相手へ戻す。
迅は一歩だけ前へ出た。
梁の根元へ肩を当てる。
完全には止めない。
軌道を上へずらす。
肩へ衝撃。
息が抜ける。
責任者の掌が胸へ来る。
迅は左肘で受ける。
足場が滑る。
三歩。
無意識に数えている。
責任者の膝が腹へ来る。
迅は腰を引く。
四歩。
水が屋根の縁を越える。
右手が冷たい。
小指が閉じない。
責任者の袖を掴めない。
左手で肩を押す。
相手は押された方向へ回り、迅の背へ回る。
五歩。
「足が止まってる」
迅が言う。
「あなたも」
責任者。
「主語、逃げてない」
「何の話です」
「俺は非常弁。お前は施設。どっちも人を言ってない」
相手の腕が首へ回る。
迅は顎を引く。
指二本分の空気。
腰を落とす。
六歩。
身体が待つ。
次で、力が返る。
返らない。
分かっている。
それでも、赤い七結びを親指が押す。
七歩目。
屋根の端。
後ろは水。
退けば、落ちる。
能力はない。
落ちれば、非常弁へ届かない。
迅は足を止めた。
責任者の腕が締まる。
「終わりです」
「何が」
「制圧」
「水、止まってない」
「技術班が」
「確認中」
迅は、七歩目を踏まなかった。
代わりに、相手の腕へ両手を添える。
右手は弱い。
左手を主にする。
首を抜くのではない。
足を前へ出す。
八歩目。
ただの一歩。
相手の重心の下へ入る。
背負わない。
投げない。
二人の向きを九十度変える。
責任者が屋根の内側へ。
迅が非常弁側へ。
相手の手が離れる。
八歩目には、光も圧もない。
息が苦しい。
脚が重い。
それでも、距離は一歩分縮む。
迅は走らない。
足場を一つずつ踏む。
「一枚目、右端!」
カナタ。
「中央は抜ける!」
迅は右端。
板が沈む。
戻る。
「次、左固定なし!」
タマキ。
「索!」
轟が下から投げる。
迅は右手で取らない。
左前腕へ引っかける。
腰へ回す。
橋二枚目。
固定のない左側が落ちる。
迅は右側へ身体を寄せる。
責任者が追ってくる。
「戻ってください!」
「弁開ける」
「閉める弁です!」
「そう」
「なら、操作方向は」
「右へ九十度、押し込み後」
設備技師が叫ぶ。
「一度に回すな! 圧が戻る。三十度ずつ、十秒!」
「聞いた」
責任者も聞く。
彼は迅へ飛びつくのではなく、先に弁へ手を伸ばした。
「私が操作します」
「委任」
「現場責任者です」
「設備資格」
「ありません」
「俺も」
二人とも触れる資格がない。
資格のある技師は、橋の下。
弁まで来られない。
「声で」
迅。
「指示を受ける」
責任者が迷う。
「事故時の無資格操作は――」
「記録する」
七瀬の声が拡声から届く。
「操作者、指示者、理由、時刻、結果。免責とは言わない」
「壊した場合」
「責任も残る」
「止めなかった場合」
「残る」
責任者は弁を見た。
施設を守る。
人を守る。
どちらも、結果を保証しない。
「技師」
責任者が叫ぶ。
「操作を指示してください。私は補助します」
「受領!」
下から返事。
「押し込め! 固い。腰使え、腕だけで回すな!」
迅と責任者が、弁輪へ手を置く。
迅の右手は添えるだけ。
左で押す。
責任者は両手。
「三十度!」
回す。
固い。
錆が割れる。
弁輪が動く。
「十秒待て!」
水圧計の針。
下がらない。
むしろ一度上がる。
「戻す?」
責任者。
「待て!」
設備技師。
「配管内の残圧! 十秒!」
迅は数える。
一。
二。
三。
七まで行く。
そこで止めない。
八。
九。
十。
「次、三十度!」
回す。
肩が痛む。
右手の感覚が薄い。
責任者の靴が滑る。
迅が腰で支える。
「俺を支えるな」
「弁、戻る」
「そうでした」
もう十秒。
一から十。
最後の三十度。
弁が止まる。
完全閉鎖ではない。
流量を三分の一へ落とす位置。
「閉め切るな!」
技師。
「排圧路が先! イオ、巻上側を止めろ!」
遠くでイオの返事。
「まだ停止区画。能力は使えない。手動へ行く」
凱。
「同行する」
「膝」
「平地」
「地図」
「あなたが持て」
「正しい」
二人の声が遠ざかる。
非常弁の効果は、すぐには見えない。
水位は、まだ上がる。
流れもある。
最後の一撃で終わらない。
迅は弁から手を離す。
責任者も離す。
「制圧は」
迅が訊く。
「継続します」
「今?」
「あなたは無資格操作をしました」
「お前も」
「はい」
「じゃあ、後で一緒に」
「逃げない?」
「帰りの住所、決めた」
「何ですか」
「東市場高台」
「私の住所ではない」
「自分で決めろ」
責任者は少しだけ笑った。
「現場記録卓」
「受取人」
「警備員と七瀬さん」
「目的」
「操作責任の申告」
「タマキに言え」
「能力なしでも?」
「その方がうるさい」
橋を戻る。
迅は七歩を数えない。
一枚目。
足場。
索。
屋根。
梯子。
ただ、踏める場所を一つずつ選ぶ。
下でカナタが座っている。
「見事な殺陣でした」
「殺陣じゃない」
「私の台本より上手い」
「褒めるな」
「では、右足首の痛み、五。私の失敗。休憩中」
「長い」
「止めてよい」
「休め」
「受領」
橋を半分戻ったところで、足元から鐘のような音がした。
舞台用の効果音ではない。
金属同士が、間違った角度で当たる音。
「止まれ!」
設備技師が叫ぶ。
迅と責任者が同時に足を止める。
二人が乗った足場板の下で、戻し索が排水格子へ吸い込まれていた。
流量を三分の一へ落としたため、主流が細くなり、代わりに排圧路へ水が集中している。
索の先には、橋下で弁指示を出していた若い技師がいる。
腰の安全帯。
格子へ噛んだ索。
水は胸。
「切れ!」
運営責任者が言う。
「切ると下へ流れる!」
技師。
「安全帯を外せ!」
「留め具が水圧側!」
迅は橋から下を見る。
高さ二・八メートル。
水深は見えない。
流れの下に、装飾材と工具箱。
飛べば届く。
着地できるかは別。
「索の荷重」
轟の声が通話へ入る。
「今、百二十。増える」
「格子」
「舞台用。人を止める強度じゃない」
「抜ける?」
「格子が先に」
格子ごと外れれば、技師と金属板が一緒に流される。
迅は橋の端へ腹這いになる。
「右手」
責任者が言う。
「左で取る」
「届きません」
「お前、脚」
「何を」
「俺の腰を持て」
「無資格です」
「人を持つ資格?」
「救助訓練は」
「今、訓練じゃない」
責任者は一瞬だけ黙る。
「持ちます。腰帯の上。落下時は、私も引かれます」
「分かってる」
「二人目」
タマキが橋の手前へ来た。
「僕が索」
「耳」
「目で見る」
「体重」
「足場へ二重巻き」
彼は自分を迅へ結ばない。
橋の支柱へ補助索を回し、迅の胸帯へ結ぶ。
「送り主」
迅。
「迅。受取先、橋。目的、落ちない」
「能力使えない」
「住所は作れる」
結びを二人で確認。
カナタが下から叫ぶ。
「右側の装飾樋を外せば、足場になります!」
「耐荷重」
轟。
「演出用。私一人なら乗りました」
「それは数字じゃない」
「図面、手元。吊り点二。鋼材。板は薄い」
「一本なら足を置くだけ」
責任者が装飾樋の留め具を蹴る。
外れない。
迅は腹這いのまま、左足で一度踏む。
留め具が曲がる。
もう一度。
七歩ではない。
同じ場所へ二回。
留め具が抜け、細い樋が水面へ落ちる。
片側は索で残る。
「足場、一本。中央へ乗るな!」
轟。
迅は樋へ左足を置く。
沈む。
戻る。
責任者が腰帯を持つ。
タマキの補助索が張る。
迅は左腕を伸ばす。
技師まで、あと三十センチ。
「自分で上がれるか」
「右腕、使えます。左は格子を押さえてる」
「留め具」
「腰の左」
「触る」
「受ける!」
迅の指が安全帯の金具へ届く。
冷たい。
油。
水。
右手なら角度がいい。
しかし、小指と環指の感覚が薄い。
左手をひねる。
金具は、引けば外れる型ではない。
押して、九十度回して、引く。
「型」
レムの声が、医療回線から入った。
まだ搬送車が出る前なのか。
「何」
迅。
「その安全帯。旧操車場型。押し込み、右へ。戻り爪が二つ」
「見える?」
「公認装備一覧で」
「今は左から触ってる」
「左右反転。左へ回す」
「条件が違う」
「だから、反転だけ」
「受領」
型を命令にしない。
使える部分だけ借りる。
迅は押し込む。
左へ九十度。
一つ目の爪。
戻らない。
二つ目。
外れる。
技師の身体が流れへ持っていかれる。
「上!」
責任者が迅の腰を引く。
タマキの索。
橋の支柱。
迅の左肩。
全てへ荷重。
迅は技師の上着を右手でつかむ。
小指が閉じない。
布が滑る。
技師自身が、迅の前腕へ両腕を回した。
「自分で持てる?」
「持つ!」
迅は救助者ではなく、支点になる。
責任者が後ろへ一歩。
タマキが補助索を巻く。
カナタが樋の揺れを足で押さえる。
轟が全員の動きを止め、格子の音を聞く。
「今!」
一斉に引く。
技師の胸が水から出る。
橋の縁へ。
肩。
腰。
脚。
格子が外れた。
金属板が水へ吸われる。
全員の足元が揺れる。
「伏せろ!」
迅は技師の頭を腕で覆う。
格子は装飾樋の下を通り、排圧路へ消えた。
水しぶき。
静かになる。
技師が咳をする。
「呼吸」
十夜が遠くから叫ぶ。
「返事できますか!」
「できる!」
「胸痛」
「ない!」
「水飲んだ」
「少し!」
「医療へ!」
責任者が立ち上がろうとする。
「お前も」
迅。
「私は」
「腰、持った。右手見せろ」
責任者の右掌は、索で皮膚が裂けている。
「軽傷です」
「医療が言う」
「あなたも右手」
「知ってる」
「一緒に行きますか」
「記録卓が先」
「医療が先です」
「逃げる?」
責任者は、迅が先ほど使った言葉を返す。
「逃げない。医療の後、記録卓」
「受領」
技師を橋へ載せる。
担架は来られない。
四人で座位搬送。
レムの回線が、まだ開いている。
「八城」
迅。
「はい」
「安全帯、助かった」
「既知装備でした」
「条件、違った」
「反転しました」
「使えた」
「評価ですか」
「情報」
少し間がある。
「受けます」
回線が切れる。
非常弁を回したことだけでは、水は止まらなかった。
水を弱めたことで、別の流れが人を引いた。
一つの正しい操作が、別の危険を作る。
だから、操作の後にも人が要る。
戻る人。
見ている人。
間違いを言う人。
型の一部だけ渡す人。
迅は技師の横を歩いた。
英雄の帰還ではない。
怪我をした操作者と、止めようとした責任者と、八歩目を踏んだ少年が、同じ医療受付へ向かった。
迅は東市場高台へ戻る。
凱とイオはいない。
受取人の一人が不在。
タマキが札を見る。
「未完了」
「待つ」
「何分」
「二人が戻るまで」
「上限」
「十五分」
「もう九分」
「六分」
「受領」
迅は座る。
七歩ではなく、八歩目の後で。
水位計の針が、初めて一目盛り下がった。
医療受付の前で、運営責任者は自分の名を申告した。
七瀬は、その名を公衆記録へ出さない。
「なぜ」
責任者。
「本人確認はした。公開範囲を決めていない」
「私は責任者です」
「役職は公開。実名は審理で必要。公衆へ出すこととは別」
「隠したと疑われます」
「疑われる。だから、限定記録の保管者と鍵を公開する」
「名前を出した方が簡単です」
「簡単な責任は、石を投げる住所になる」
責任者は右掌を洗浄される。
裂創は浅い。
縫合不要。
圧迫止血。
「私が施設を守ろうとしたことは、どう書きますか」
「本人申告」
「事実では」
「行動は事実。目的は本人の言葉」
「人も守るつもりだった」
「弁を止めた」
「迅さんを制圧しようとした」
「両方」
「矛盾です」
「人間」
隣でイオが言った。
動力室へ向かう途中、一度戻ってきたらしい。
「あなたは」
責任者。
「時間管理。今は、右手の処置が終わる時刻を確認」
「能力は」
「区画内ではない」
「外へ出れば使える」
「使えることと、使うことは別」
責任者は迅を見る。
「あなたも、使える場所へ誘導されれば」
「今、使わない」
「なぜ」
「相手が一人じゃない」
「私を暴力の源と見なした?」
「一部」
「一部なら殴れない」
「能力の条件」
「不便ですね」
「今日、役に立った」
責任者は笑うと、掌が痛んだ。
「私は、あなたを止められなかった」
「一緒に弁回した」
「それを協力と書けば、責任が薄まる」
「制圧。共同操作。救助。別」
七瀬。
「同じ二人でも、欄を分ける」
「結果として水位が下がった」
「それも別」
記録板に四行。
《運営実働責任者、迅の進入を身体制止》
《設備技師の音声指示下で、二名が非常弁を共同操作》
《操作後の排圧変化で技師一名が索へ拘束》
《責任者、迅、タマキ、カナタ、轟の連携で救助》
「多い」
責任者。
「英雄一人なら一行」
カナタ。
「あなたは、それを作る側だった」
「はい」
「今も、格好いい台詞を足したい?」
「足したい」
「何を」
「敵と味方が手を組んだ、と」
「違う」
迅。
「何が」
「同じ弁に手を置いただけ」
「それが手を組むことでは」
「目的、違う」
「でも回した方向は同じ」
「一回だけ」
責任者が言う。
「次は、審理で反対するかもしれません」
「その方が正確」
カナタは、名台詞を飲み込んだ。
記録板には、誰も和解したと書かなかった。
同じ弁を回した事実だけが残った。
六分の待機中、迅は自分の右手を開いた。
環指。
小指。
動く。
感覚は薄い。
能力があれば、七歩の後に痛みを数える。
今は、八歩目の前から数えるべきだった。
「握力」
十夜が来る。
「測る道具ない」
「選手の指、握って」
「嫌だ」
「医療係へ言う言葉です」
「お前、医療係じゃない」
「補助。拒否、受領。代わりに指先、色」
「普通」
「禁止語」
「イオの」
「借りた。爪、戻り二秒。冷たい。感覚、右小指が三割?」
「数字、適当」
「本人申告は適当でも記録」
「五割」
「増えた」
「触ったから分かった」
「書く」
十夜は札へ時刻を書く。
「胸は」
「お前の?」
「私のは機械が見てる。迅の呼吸」
「戻った」
「水で止まった?」
「最初」
「七瀬が記録」
「知ってる」
「公開」
「本人確認」
「今」
「事故記録へ。深水反応。顔は要らない」
「受領」
十夜は競技へ戻らない。
迅と戦って確かめることもしない。
脈を取り、本人の選択を記録し、次へ行く。
東市場高台へ、凱が先に戻った。
「受取人、獅堂凱。竜胆迅の帰還を受領する」
「イオ」
「巻上動力室へ移動中。受取人一名不在」
タマキが札へ書く。
《部分受領》
《本人帰還》
《二人目の確認、未了》
「一人で十分だ」
迅。
「最初、二人って決めた」
「状況変わった」
「誰が変更」
「俺」
「送り主だけで受取条件変えない」
「面倒」
「能力なくても面倒」
凱が言う。
「俺が現場受領。イオは後で時刻確認。二段階へ変更を提案」
「迅」
タマキ。
「受ける」
「受領」
札へ変更理由。
《イオ、巻上停止作業へ移動》
《現場受領は凱》
《時刻照合はイオ》
迅は座ったまま、非常弁の操作を報告する。
三十度、三回。
十秒間隔。
完全閉鎖せず。
設備技師の音声指示。
運営実働責任者と共同操作。
「相手の名」
七瀬。
「公開範囲、確認してない」
「役職で仮記録」
「逃げた?」
「現場記録卓へ行く」
「本当に」
迅は責任者の靴を見る。
遠く。
水を蹴らず、歩いている。
警備員と話し、自分の札を出している。
「行った」
「時刻」