第317話 第一章「七月一日」前編
二十歳になった瞬間、獅堂凱は泥水の中にいた。
午前六時十二分。
七曲低地の共同洗濯場で、排水溝につまった布切れを長い鉤で引き上げている。
水はもう膝までは来ない。
長靴の甲を覆うだけだ。
それでも、六日前まで人が流されていた場所の水には、深さとは別の重さがある。
「誕生日の朝にする仕事ではないですね」
火群七瀬が言った。
腰高の三脚へ手回し式撮影機を固定している。左肩は使わない。右手でクランク、左手は高さ調整の螺子へ軽く添えるだけだ。
「誕生日にだけ止まる排水溝はない」
「その台詞、撮っておきます。来年、休ませる材料にします」
「来年の予定を、俺の同意なく決めるな」
「誕生日が来ることに同意は要りません」
「生きていれば来る」
「では、生存予定を確認しました」
七瀬は時刻を記録した。
凱は鉤を引いた。
濡れたシーツが一枚、排水格子の下から出る。
白ではなかった。泥を吸って灰色になり、端には《洗濯物、ここ》と書いた仮札の黒鉛がにじんでいる。
十三番目の避難口は、もうない。
階段は洗濯場へ戻り、搬入口は荷物を受け入れ、病院の斜路には患者用の手すりが戻った。
戻したから終わったわけではない。
戻した物は、戻した後も壊れる。
凱はシーツを泥水から上げ、洗濯籠へ入れた。
「二十歳、おめでとう」
背後から竜胆迅の声がした。
祝いに向いた声ではなかった。
乾いていて、眠そうで、右の靴底が一度だけ砂利を擦った。
「心がこもっていない」
「時刻は合ってる」
「朝六時十四分だ」
「生まれた時刻まで知らない」
「母は午前四時三十二分だと言っていた」
「二時間遅れた」
「謝れ」
「来年、四時半に来る」
「来なくていい」
「じゃあ、今ので正解だ」
迅は洗濯場の入口へ立った。
黒髪の前の灰色だけが、朝の薄い光を拾っている。右手には包帯がない。環水三号塔で裂けた掌も、外環共同病院で負った擦過傷も閉じていた。ただ、濡れた朝は右の環指と小指が少し遅い。指を開く動作が左より半拍遅れる。
本人は見ていないふりをする。
凱も言わない。
言わないことと、見ていないことは違う。
「何を持ってきた」
凱が訊いた。
「俺は何も」
迅の背後で、鍋蓋が鳴った。
「嘘つけ」
土門小麦が、両手で木箱を持っていた。
山吹色の前掛けに、《有給食事班・七月一日・五名・勤務六時から九時》と墨で書いた布札を縫いつけている。
「迅は蝋燭を持ってきた。一本。太いやつ。二十本は高いって」
「二十本立てたら、食べるところが減る」
迅。
「人の貧乏を合理性にするな」
小麦は木箱を台へ置いた。
中には、丸い蒸しパンが一つ。
白い粉糖はない。黄色い南瓜の生地に、黒豆を二十粒、縁へ等間隔に埋めてある。
中央へ一本だけ、太い蝋燭。
「誰が勤務五名だ」
凱。
「私、タマキ、浅海さん、南雲さん、それから凱」
「俺は食事班ではない」
「食べるのも仕事。十五分。無給にしない。誕生日だからって無償で祝われると思うな」
「祝われる側へ賃金が出るのか」
「出ない。凱の十五分は復旧班から休憩扱い。私たちは作る時間に賃金。混ぜると善意が腐る」
小麦は布巾を二度折り直した。
「蝋燭、つける?」
「排水が先だ」
「あと一枚」
「誰が決めた」
「格子の下を見た人」
迅が顎で排水溝を示す。
凱は鉤を差し込んだ。
水の下で、何かが引っかかる。
古い旗布だった。
白冠連〈ホワイト・クラウン〉のものではない。避難路を示すために使った、色のない作業布だ。泥を吸うと、どの旗より似た色になる。
凱が引く。
布は動かない。
左膝の装具が、水の中で軋んだ。
「腰で」
伏見轟が言った。
いつ来たのか分からなかった。
二メートル近い身体を狭い入口へ横向きに入れ、橙色の工事ベストの肩を柱へつけている。
「腕で引くな。格子の角、布を噛んでる」
「見えるのか」
「音」
轟は壁を二回叩いた。
返る音を聞く。
「凱、鉤を左へ三寸。迅、格子の右を踏め。俺が枠を浮かす」
「左肩は」
凱。
「使わん。腰と柱」
轟は右手で格子の縁をつかみ、左肘を身体へ付けたまま、腰を沈めた。
迅が右足を格子へ置く。
凱が鉤を左へずらす。
「今」
三人で力を入れた。
布が外れた。
排水口が喉を鳴らし、水位が一指ぶん下がる。
拍手はなかった。
小麦が蒸しパンの蓋を開けた音だけがした。
「よし。二十歳」
「格子を閉じる」
「閉じたら二十歳」
「閉じなくても二十歳だ」
迅。
「黙れ」
凱は格子を戻した。
七時零分。
洗濯場の軒下へ、復旧班と近所の住民が十三人集まった。
祝うために呼んだのではない。
朝の作業交代を伝えるためだ。
そこへ蒸しパンがあった。
蝋燭もあった。
人間は、集まる理由が一つだと不安になるらしい。
タマキが蝋燭へ火をつけた。
緑のニット帽は濡れていない。胸の鉄箱には、共同洗濯場、復旧班詰所、中央審査局の三つの住所札が差してある。
「吹いて」
「仕事の説明が先だ」
「火が短くなる」
「蝋燭はそういうものだ」
「二十歳も?」
「何が言いたい」
「知らない。迅が、凱は今日から減るって」
「言ってない」
迅が言った。
「二十歳から誓痕が薄くなる奴もいるって言った」
「それを減るって言う」
タマキは蝋燭を見た。
炎が風に揺れている。
凱は胸の割れた青銅鐘へ触れた。
癖だった。
命令の前に触れる。
決断後は水を飲まない。
直すべき癖は、直そうとすると別の場所へ出る。
「九時までに、東の洗濯槽を二つ空ける。濁りが残る槽は使わない。十一時から子どもの衣類を優先する。復旧班は――」
凱の声が軒下を通った。
深く、明瞭な声だ。
十三人が彼を見る。
いつもなら、その瞬間に道が一本できる。
王と呼ぶ者の前で退かず、進んだ距離を力へ変える《王路不退〈キングス・ロード〉》。その圧は拳だけではない。声を聞いた人間の足を、同じ方向へ一拍早く揃える。
凱は命じた。
「北側の三人は、残った泥を外へ出せ」
誰も動かなかった。
聞こえなかったわけではない。
三人のうち一人が、隣へ顔を向けた。
「北側って、井戸の方?」
「壁の方だ」
「誰が三人?」
別の者が訊く。
凱は答えようとした。
一秒。
二秒。
胸の鐘は鳴らない。
青いひびにも、光は出ない。
それでも、十三人のうち一人が北へ半歩動いた。
隣の二人が、それを命令の答えだと思って続いた。
さらに四人が、遅れた自分を恥じるように足を出す。
水桶を持っていた女まで釣られ、濡れた床へ踵を滑らせた。
迅が桶を押さえ、轟が女の背を受ける。
水だけが床へ落ちた。
凱は動かなかった。
能力は出ていない。
なのに、人は動いた。
「今のは」
女が言った。
「地面?」
「違う」
七瀬の声。
撮影機のクランクは止まっている。
彼女は凱を撮っていなかった。十三人の足元を撮っていた。
「七時三分十一秒。獅堂凱の発声から、最初の自発移動まで二・一秒。誓痕反応は確認できません。その後、六人が同方向へ追従」
「自発なら問題ない」
凱は言った。
言葉が早すぎた。
迅が右手首の赤紐を押さえる。
「誰の自発」
「本人たちのだ」
「最初の一人はな。後ろの六人は、考える前に遅れたくなかっただけかもしれない」
「能力ではない」
「だから面倒なんだろ」
「なら座れ」
「説明が終わっていない」
「二回言え」
迅は北側を見た。
「井戸じゃなく壁。三人は、黒い長靴と、青い袖と、桶を落とした人。合ってるか」
凱は迅を見た。
迅は肩をすくめた。
「俺の命令じゃない。確認」
「合っている」
桶を落とした女が手を上げる。
「今は転びかけたから、一分待つ」
「受けた」
凱は言った。
それから、他の二人へ同じ作業を説明した。
誓痕は出なかった。
人々は、自分の順で動いた。
さっきより遅い。
だが、誰も倒れなかった。
軒下の外で、真鍮が小さく鳴った。
見知らぬ人物が、柱にもたれている。
濃い青緑の髪を左側だけ刈り上げ、黒い作業着の裾が左右で違う。靴も片方だけ白い。左前腕の真鍮装具には、時刻が細かく刻まれていた。
その人物は時計を見ず、足指で床の振動を数えていた。
「二・一四秒」
低い、中性的な声。
「撮影の読みより〇・〇四長い。床板の遅れを足した」
七瀬が振り向く。
「どなたですか」
「水科イオ。機械保守。今は相談員。番号で呼んだら帰る」
イオは凱を見た。
慰める顔ではなかった。
「二十歳?」
「今日だ」
「家賃、払える?」
軒下の全員が黙った。
小麦だけが蝋燭の火を手で囲っている。
凱は眉を寄せた。
「質問の意図が分からない」
「能力減衰期〈フェード〉に入った人間へ、最初に聞くことを変えた」
「俺は入ったと決まっていない」
「じゃあ、家賃は」
「個人の住居費は共同会計から――」
「自分で払える?」
「払える」
「仕事は」
「ある」
「能力が今日消えても?」
凱は答えた。
「ある」
イオは真鍮装具の一番上を、左の親指で触った。
「恵まれてる」
「何が言いたい」
「減る話を、王の悲劇だけにするなって言いたい」
言い終えた時刻を、イオは口にしなかった。
未来の話をするとき、この人物は一拍だけ遅れる。
凱は蒸しパンの蝋燭を見た。
炎は半分ほどになっている。
「吹いて」
タマキ。
「願い事はしない」
「火を消すだけ」
「消えるという言葉を選ぶな」
小麦が言った。
「じゃあ、止める」
「蝋燭へは同じ」
「凱には違う」
タマキは真面目な顔だった。
凱は息を吸った。
炎へ向ける。
その直前、洗濯場の外で金属のベルが鳴った。
中央審査局の灰色の車が、狭い道へ入ってきた。
祝席の十三人が道を空ける。
凱が命じていないのに、空けた。
車から降りたのは、灰色の上着を着た成人職員二人だった。
一人が封筒を持っている。
「獅堂凱さん」
「俺だ」
「本日、二十歳到達を確認しました。誓痕世代〈レインボーン〉の成人能力判定について、出頭通知です」
封筒の表には、三つの選択欄があった。
《非公開判定》
《限定証者判定》
《公開判定》
職員は言った。
「選択は七十二時間以内です。判定結果は、現在の代表資格、危険業務許可、医療補助区分へ影響する可能性があります」
「可能性」
真琴が、いつの間にか灰色の車の反対側に立っていた。
丸眼鏡を上げる。
「どの条文に基づく、どの範囲の影響ですか」
「詳細は同封資料へ」
「今、口頭で言えない理由は」
「担当外です」
「担当者名は」
「通知係です」
「氏名です」
職員は名札を見せた。
真琴は書き留める。
凱は三つの欄を見た。
非公開なら、弱さを隠したと言われる。
限定なら、証者を選んだと疑われる。
公開なら、能力の失敗まで見世物になる。
どれも正しい批判だった。
正しい批判が三つ並んだとき、凱は警戒するべきだった。
だが、警戒より先に右手が動いた。
命令を出す手。
素手の右。
《公開判定》へ印を付ける。
「俺の結果を隠さない」
「獅堂さん」
七瀬。
「撮影を許可する」
「私はまだ申請していません」
「全面許可だ」
「許可の広さは、撮影の正しさではありません」
「弱さを切り取るな」
「切り取らせないために全部を渡すのは、自罰です」
凱の右手が、紙の上でわずかに震えた。
風ではない。
インクの線が、一ミリだけ二重になる。
イオが見ていた。
迅も見ていた。
誰も手を取らなかった。
凱は震えたまま、署名を最後まで書いた。
獅堂凱。
二十歳。
役職欄は空白だった。
職員が封筒を受け取る。
「判定日は七月八日。旧王環競技場です」
凱の指が止まった。
旧王環競技場。
白冠の前身が公開誓戦を行い、地下興行がその床下で賭けを回してきた場所だ。観客席は四千二百。王と呼ばれた人間の声が、いちばんよく返るように作られている。
「別会場を選べるか」
七瀬が訊いた。
「判定設備があるのは同競技場だけです」
「設備を移せない理由」
「校正が必要です」
「必要日数」
「担当外です」
真琴の筆が速くなる。
「担当外という役職を廃止したら、行政の床面積は半分で済みそうですね」
「朽葉」
凱が止める。
「何です」
「通知係へ制度設計を要求するな」
「あなたは公開判定へ署名する前に要求すべきでした」
「署名した」
「見れば分かります。だから腹が立っている」
真琴は怒るほど敬語になる。
職員の一人が咳払いした。
「事前登録する証者は、最大二百十名です。一般観客は能力判定の証者へ自動算入されません」
「四千二百席で、二百十人だけを数える」
七瀬。
「判定精度のためです」
「残り三千九百九十人は何をする」
「観覧です」
「見世物だな」
迅が言った。
「公開性を確保するものです」
「同じ椅子に座っても、証者と客で値段が違う?」
タマキ。
「入場規定は興行管理者から」
「料金は」
「担当外です」
タマキは鉄箱の留め具を鳴らした。
「その言葉、便利だね」
職員は返事をしなかった。
灰色の車が去る。
タイヤが、洗濯場前の泥へ二本の線を引いた。
イオは線の幅を靴先で測った。
「公開にした理由は」
「隠さないためだ」
「誰から」
「全員から」
「全員って、四千二百人?」
タマキが訊いた。
「市民だ」
「来られない人は」
「映像を出す」
「撮られたくない人は」
七瀬。
「俺の判定だ」
「巻き込まれた観客の顔も、職員の声も、医療記録も入ります」
「必要な範囲を決めろ」
「私が?」
「記録担当だ」
「あなたが全面許可を出した後に、私が削れば、私だけが隠した人になります」
凱は口を閉じた。
七瀬は、撮影機のクランクを半回転だけ逆へ戻した。
「許可を撤回してください」
「撮るなという意味になる」
「全面を撤回して、範囲を相談する」
「同じだ」
「同じなら、言い直せます」
凱は胸の鐘へ触れた。
鐘は鳴らない。
「全面許可を撤回する」
言うと、軒下にいた住民の何人かが顔を見合わせた。
撤回という語は、失敗に聞こえる。
だが、撤回できない許可は、許可ではなく遺言に近い。
「判定、発動、反証、停止申告、医療判断、規則変更は公開する」
七瀬が指を折る。
「私的診察、家族連絡、観客の顔、登録証者の住所は、別同意。能力が出なかった沈黙は、時刻だけ記録し、表情の寄りは撮らない」
「弱さを隠すな」
「沈黙の秒数は隠しません。あなたの顔を所有しないだけです」
「顔で分かることがある」
「顔だけで決めつけることもあります」
凱は七瀬を見た。
七瀬は引かなかった。
迅が蒸しパンの黒豆を一つ抜こうとして、小麦に木べらで手を叩かれた。
「二十歳の分」
「二十粒ある」
「一歳一粒」
「一粒なくても十九には戻らない」
「戻ったら審査を受けなくていいかも」
タマキ。
「年齢を食べ物で操作するな」
真琴。
凱は思わず息を吐いた。
笑ったわけではない。
だが、肩の位置が一寸下がる。
イオはそれを見て、真鍮装具の刻みを一つ触った。
「今の方が、命令の時より手が震えてない」
「診断か」
「観察」
「医師ではないなら、断定するな」
「じゃあ質問。蝋燭を持てる?」
小麦が太い蝋燭を抜き、凱へ渡した。
凱は右手で持つ。
炎は消えている。
蝋が柔らかい。
指先が、ごく細かく震える。
「持てる」
「置ける?」
「当然だ」
「じゃあ置いて」
凱は台へ戻した。
蝋燭は倒れなかった。
それだけだった。