第160話 第六章「中央の空席」後編

 中央時計が鳴る。

 巴には音が届かない。

 床と卓が、低く一度震えた。

「採決時刻です」

 榛名。

 八代表の手が上がらない。

 下がりもしない。

 赤錆代表が、破られた名札の一片を持つ。

「この紙で、どう投票する」

 巴は答えた。

《今は、しない。》

「配給は」

 榛名が問う。

 白冠代表が配給表を引き寄せる。

「名簿にない人数だけ、地区別に仮算定する。参加席とは分ける」

「根拠」

「先週の炊き出し数。浴場利用。診療所の水量」

「誤差」

「出る」

「責任者」

「八旗で分担する」

「期限」

「一月二日」

 榛名は返答を待った。

 対象、理由、期限が揃っている。

「暫定配給のみ、別採決」

 彼は言った。

 巴は止めない。

 参加権と食料を、同じ一枚へ束ねない。

 契約を分けることは、決定を遅らせるだけではない。

 急いでよい物を、急いではいけない物から救う。

 午後一時。

 臨時放送所は、紅牙座の旧小道具倉庫にあった。

 天井から、使われなくなった王冠と偽の月が吊られている。

 壁へ八枚の布幕。

 中央に、細い机が一つ。

 紅葉カナタは、机を端へ寄せていた。

「中央を空ける?」

 巴が手話で訊く。

 カナタは面を外している。

 金髪に煤。素顔なのに、眉の上がり方が舞台用に見える。

「人が立つから」

「誰が」

「毎回、違う」

 裏方へ話す時の短い声。

 足元には、八本の音声線が渦を巻いている。

 右足首の支持帯は外していたが、寒さで踏み替えが遅い。彼は立ち位置へ白い小布を敷き、滑らないよう松脂を擦っている。

 巴は放送順の紙を見た。

 南。

 北。

 西。

 東。

 零番街。

 北工。

 学塔。

 王環。

《固定順です。》

「仮」

《誰が最初ですか。》

「南」

《なぜ。》

「朝が早い」

《北は雪です。》

「じゃあ北」

《王環は中央に近く準備が早い。》

「じゃあ王環」

《近いから先ですか。》

 カナタは紙を裏返した。

「順番、なし」

《全員が同時に話します。》

「話したい時に」

《緊急情報が重なります。》

「それは困る」

《だから順番が必要です。》

「順番は、主人公を作る」

 カナタは八枚の布幕を示した。

「最初に話す人は、問題を出す。最後に話す人は、答えになる。真ん中は、忘れられる」

《劇の話です。》

「放送も劇になる」

《なら、劇にしないでください。》

「人が見る時点で、なる」

 巴の右人差し指が、手袋の中で動かない。

 左手でチョークを持つ。

《順番を毎回変える。》

「何で」

《くじ。》

「緊急の人が最後になる」

《優先理由を公開する。》

「誰が決める」

《各地区が申告。》

「全員、急ぐと言う」

《急ぐ理由を一行。》

「長文が勝つ」

《文字数を制限。》

「説明できない人が負ける」

 巴は、チョークを置いた。

 カナタの方が、理解確認の穴を見つける。

 腹が立つ。

 怒ると、手話がさらに小さくなる。

《あなたの案は。》

「四つの場面」

 カナタは床へ、四本の細い紐を置いた。

「一、誰が参加する。二、何を決める。三、いつ終わる。四、どうやめる」

 巴は見る。

 劇の四幕ではない。

 参加者。

 対象。

 期限。

 撤回。

 対象、理由、期限を使う榛名の命令文へ、拒否を一つ足した形だった。

「各場面で、話す順を変える」

 カナタは八枚の札を並べる。

「一問目は南から。二問目は北から。三問目は西から。八地区を一度ずつ最初にする」

《八問必要です。》

「四問を二巡」

《二巡目は。》

「質問と変更」

 巴は、カナタを見る。

 彼は視線を避けた。

「うん」

《何に、うん。》

「途中で変えていい」

 先月まで、彼は舞台を止めることを失敗と思っていた。

 今は、放送の中へ変更を入れようとしている。

《順番変更の規則を、最初に見せる。》

「見せる」

《優先した場合、理由も見せる。》

「見せる」

《沈黙を切らない。》

 カナタの足指が、靴の中で動いた。

 拍手を待つ時の癖。

「長い沈黙は」

《空白枠を出す。》

「観客は不安になる」

《不安を、勝手な言葉で埋めない。》

「放送事故に見える」

《事故と書くのですか。》

「書かない」

《では。》

 カナタは、壁の黒幕から白い札を一枚切った。

《本人が考えています。》

 巴は首を横へ振る。

「違う?」

《本人が何をしているか、分かりません。》

「じゃあ」

 巴は空白の札を示した。

《何も書かない。開始時刻だけ残す。》

「怖いな」

《私も。》

 カナタが少し笑った。

 舞台の笑いではない。低く、一度だけ。

「じゃあ、やろう」

 午後二時四十七分。

 本番の前に、四人で失敗した。

 南環の模擬話者。

 北塔の確認者。

 王環駅の書記。

 そして、紅葉カナタ。

 巴は四人へ、同じ質問を渡した。

《途中で答えを変えたくなった時、どうしますか。》

 南環の女は言った。

「番台へ言う」

 北塔の確認者は言った。

「変更札へ時刻を書き、証者二名を付ける」

 王環の書記は言った。

「所定様式による再申告」

 カナタは言った。

「もう一度、出番をもらう」

 四つとも、本人には同じ意味だった。

 互いには通じなかった。

「番台って誰」

 カナタ。

「いる人」

「いない時は」

「隣の洗濯場」

「北塔に洗濯場はない」

「じゃあ鐘の人」

「鐘の人は一日ごとに変わる」

 北塔の確認者。

「変わるなら、なおいい」

 南環の女。

 王環の書記が眉を寄せた。

「所定窓口が不定では、受付の成立を確認できません」

「受付が成立する前に、人が帰るよ」

「帰った後でも申告できます」

「誰に」

「所定窓口です」

「それが誰だって話」

 会話が円を描いた。

 巴は黒板へ《同じ意味》と書こうとした。

 やめる。

 同じなのは、「変えられる」という中心だけだ。

 入口は違う。

「もう一度、出番」

 北塔の確認者が、カナタを見る。

「舞台に上がらない人は?」

「マイクを渡す」

「声が出ない人は」

「札を映す」

「文字が書けない人は」

「印」

「何の印」

 カナタは詰まった。

 演出は、代替手段を増やすほど機材が増える。

 機材が増えるほど、使える人が限られる。

「本人が選ぶ動作」

 巴が声で言った。

「立つ。手を上げる。紐を引く。誰かへ伝える」

「それ、全部違う意味になる」

「なる」

「認めるんだ」

「だから、地区ごとに説明する」

 王環の書記が紙をめくる。

「中央様式は作らないのですか」

「中心項目だけ作る」

《最初の答えを消さない》

《変えた時刻を残す》

《誰の言葉を聞いた後か、分かる範囲で残す》

《理由を公開するか、本人が選ぶ》

「これでは、理由を言わない人の変更が疑われる」

 書記。

「疑われます」

「守れない」

「理由を強制すれば、もっと守れない」

 巴の右人差し指が疼く。

 理由を言わせることで、理解を証明させてきた。

 それが役立つ場面もある。

 役立つ道具ほど、使わない判断が難しい。

 南環の女が黒板を見た。

「理由は言わない。でも変える、はあり?」

「あり」

「どうしてって聞かれたら」

「聞かれた、と記録する」

「答えなくても」

「答えなかった、と記録する」

「何でも記録するね」

「全部ではない」

「何を残さない」

 巴は、すぐに答えられなかった。

 カナタが助けるように言う。

「役者の控室」

「何ですか」

「舞台で必要なのは出番と台詞。でも、控室で何を怖がったかまで、客の物じゃない」

「客ではありません」

「知ってる。でも、見る人は欲しがる」

 巴は黒板の下へ一行足した。

《公開しない理由は、理由そのものを公開せず選べる。》

 王環の書記が首を傾げる。

「二重に非公開ですか」

「はい」

「監査できない」

「公開監査と、限定監査を分ける」

「誰が限定側に入る」

「本人が選ぶ確認者。最低二名。選べない場合は地区の候補から拒否できる」

「複雑です」

「人が、控室を持つので」

 カナタが笑った。

「それ、僕の言葉」

「出所を隠していません」

「料金」

「意地悪と比喩は相殺」

 四人は、もう一度同じ問いへ答えた。

 言葉は揃わなかった。

 だが二回目には、互いの答えを勝手に同じ文へ直さなかった。

 模擬放送の記録には、四つの回答と、七つの聞き返しと、一つの未回答が残った。

 成功、と書く者はいなかった。

 失敗の種類が分かった、とだけ書いた。

 午後三時二十六分。

 八地区から、最初の言葉が届いた。

 同じ問いではない。

 南環は言った。

《旗を持たない隣人が、この仕事の相談へ来る時、何を一緒に決めるか。》

 北環は言った。

《名簿にない避難者が、配給と安全の判断へ入る条件は何か。》

 西環。

《店札のない者が、勘定へ口を出す時、損も同じだけ持つのか。》

 東環。

《門の内と外の者が、一つの点検表へ署名する範囲はどこまでか。》

 零番街。

《住所のない人を、誰の家族として数えずに呼ぶにはどうするか。》

 北工。

《名簿外の作業者へ停止権を渡す時、賃金と責任を誰が持つか。》

 学塔。

《許されて参加するのではなく、対等に確認することをどう示すか。》

 王環。

《中央へ来られない人の言葉を、来なかったことへ変えない方法は何か。》

 文は違う。

 問いの数も、重さも違う。

 巴は四本の紐へ、それぞれの問いを結んだ。

 参加者。

 対象。

 期限。

 撤回。

 一つの問いが、二本へ掛かることもある。

 分け切れないものを、無理に一つへ入れない。

「これを、そのまま流す」

 カナタが言った。

《要約しません。》

「長い」

《長い理由を聞きます。》

「短い地区が弱く見える」

《短いまま流します。》

「言葉が少ないと、考えてないように見える」

《見えることと、考えていないことは違う。》

「客は、そこまで待つかな」

《客ではありません。》

「放送を見れば、客になる」

《なら、退出できます。》

 カナタは面の箱へ手を置いた。

「それ、俺に効く言い方だ」

《知っています。》

「意地悪」

《料金外です。》

「請求する?」

《意地悪は無料です。》

 巴は、八地区版の平文へ番号を振らなかった。

 代わりに色と、発言者の選んだ印を付けた。

 湯桶。

 雪靴。

 魚籠。

 門の蝶番。

 住所札。

 安全帽。

 開いた両手。

 駅の長椅子。

 字が読めなくても、自分の問いを見つけられる。

 印が同じ意味を持つとは限らない。

 だから、印の説明も本人の言葉で添える。

 正確さは、一枚の正解文を作ることではない。

 違う文の間に、どこが同じで、どこが違うかを残すことだった。

 午後五時。

 巴は中央時計塔へ戻った。

 空席の白布は、まだあった。

 名札はない。

 榛名が一人、円卓の下へしゃがんでいる。

 隊員の靴紐がほどけていた。

 榛名は左手で結び直す。

 結び目を二度引き、余った長さを靴の内側へ入れる。

 巴が近づくと、彼は立った。

「暫定配給、八旗で可決しました」

 机上に記録がある。

 三日分。

 地区別の仮算定。

 誤差の追加申告。

 参加権の採決とは分離。

 空席は、棄権に数えられていない。

《ありがとうございます。》

 巴は書いた。

「礼の対象が違います」

《では、何ですか。》

「あなたの条項停止は、手続きです」

《感謝ではない。》

「はい」

《不満ですか。》

「期限が近い」

《それだけ。》

「同一文を失えば、後出しが増えます」

 榛名は革の手帳を開く。

 八地区の時計補正予定が、細かく書かれている。

 巴には一部しか見えない。

「地区語彙は認めます。判断時刻は統一します」

《なぜ。》

「弱い地区が、先に答えるからです」

 巴は相手の顔を見る。

 榛名は、中央を強くするためだけに同期を求めているのではない。

 先に答えた者が、後の多数へ踏み潰されないようにしたい。

《同時にすれば、守れますか。》

「隠れた変更は減ります」

《隠れない変更は。》

「結果を汚します」

《汚れた理由を残す。》

「結果が読みにくくなる」

《読みにくいものを、読めるようにするのが私の仕事です。》

「一人では無理です」

《だから、一人でしません。》

 榛名は空席を見る。

「席が多すぎれば、決まらない」

 巴は白布を畳んだ。

 椅子の背から外す。

《席を増やす話ではありません。道を増やす。》

「道は、閉じる責任者が必要です」

《閉じられる人だけでなく、閉じられた人も記録します。》

「記録は、凍えた人を温めません」

《配給と分けました。》

「今日だけです」

《今日を、残します。》

 榛名は手帳の角を揃えた。

 嘘をつく時の癖だと、巴はまだ知らない。

 ただ、角が一度で揃っているのに、二度、三度と指で押すのを見た。

「八時計は、明日補正します」

《誰の許可で。》

「時刻管理責任者として」

《補正前の差も、記録してください。》

「不要です」

《必要です。》

「中央時刻が基準です」

《基準へ直したことも事実です。》

 榛名は返事をしなかった。

 巴は、右人差し指を温熱布で包み直した。

 曲がらない指で、白布を四角く畳む。

 誰の席にも掛けず、空席の座面へ置いた。

 その上へ、八地区から届いた八通りの問いを並べる。

 一枚の正式文ではない。

 同じ答えになる保証もない。

 それでも、空席だけを棄権と呼ぶ紙より、誰が何を訊いているかが見えた。

 中央時計は、八地区の時計がどこにあるかを知らずに進んでいた。