第159話 第六章「中央の空席」前編
十二月二十九日 午前九時三分
空席は、座る人がいないから空いているとは限らない。
一文字巴は、王環駅中央時計塔の円卓を見て、白い手袋の親指で句点をなぞった。
八つの椅子には、八旗側の代表が座っている。
九つ目だけが空いていた。
背もたれへ白布。
机上へ名札。
《空白住民代表》
いつ、誰が、そう決めたのか。
名札の右下へ、小さく《暫定》とある。
暫定という言葉は便利だ。
間違っても、まだ本決まりではないと言える。
続けても、もう動いていると言える。
巴は名札を裏返した。
円卓の向こうで、白冠側の代表が口を動かす。
「そこが、あなたの席です」
巴は相手の顔を見た。
口元。
視線。
手元の文書。
透明な喉当てへ指を当てる。
「違います」
発声は低く明瞭だった。
広い会議室では、自分の音量が分からない。だから最初の一文だけ声にし、続きは黒板へ書く。
《私は通訳者です。代表ではありません。》
「空白の旗と行動してきたでしょう」
《依頼を受けました。所属していません。》
「南環市場の契約も、列車の移送も、祝祭劇も」
《仕事です。》
「では、仕事として座ってください」
巴は、二枚目の黒板を開いた。
《通訳料 一時間一千二百。契約監査を含む場合、一千八百。代表行為は受任しません。》
赤錆側の代表が、思わず笑った。
「ここで請求書か」
《無料の通訳は、都合よく消えます。》
「消えないために席へ」
《席へ座ると、通訳が代表へ変わります。》
「あなたなら、空白の者の意見が分かる」
巴の手が止まる。
怒るほど、動きは小さくなる。
右人差し指の句点が、ほとんど見えない角度で曲がった。
《誰の意見ですか。》
「領土を持たない住民の」
《何人ですか。》
「全員を数えることはできない」
《何を委任されましたか。》
「参加枠を求めること」
《誰から。》
「空白の旗から」
《空白の旗は、すべての無所属住民〈ブランク〉の所有者ですか。》
代表は答えない。
巴は空席の名札を、机上から外した。
白布だけは残す。
布は、誰かの名を勝手に書かない。
「空席が一つでは困る」
青灯側の代表が言った。
「今日、暫定手続きを採決する。賛成、反対、棄権。席が空なら棄権になる」
巴は主語を大きく書いた。
《誰が、棄権するのですか。》
「空白住民が」
《来ていない人が、棄権を選んだ証拠は。》
「来ていないことだ」
《来られないことと、来ないことは違います。》
「なら、来る仕組みを作るための採決だ」
《作る前に、来られない人を棄権へ数えますか。》
円卓の上で、八本の鉛筆が止まった。
会議は、難しい言葉で止まるとは限らない。
簡単な質問ほど、手を止める。
午前九時十九分。
榛名柊吾は、秒針が十二を通る瞬間に入室した。
灰色の外套に雪はない。
右頬を斜めに走る傷。濃い黒髪に混じる白。左手に革の手帳。靴は、外の泥を踏んできたはずなのに、縁まで磨かれている。
後ろの隊員二人は靴紐の色が違う。
榛名は扉の横へ立ち、全員の足元を一度見る。
「会議、九時二十分開始。着席してください」
八語以内。
巴は彼の唇を読む前に、机を伝う振動で発声の終わりを知った。
席には座らない。
通訳卓へ立つ。
榛名は空席を見た。
「代表欠席。棄権として仮登録します」
巴は黒板を上げる。
《異議。欠席者が定義されていません。》
「異議者名」
《一文字巴。通訳者。》
「代表権」
《なし。手続き監査の依頼あり。》
「依頼者」
巴は八旗協議の事務局票を示す。
榛名は確認し、うなずいた。
「異議、記録。採決は継続します」
《異議が未処理です。》
「処理期限は採決後です」
《採決後に棄権が確定します。》
「仮登録です」
《仮登録を集計へ使いますか。》
「使います」
《なら、結果は仮ですか。》
「冬期配給へ使用します」
榛名の返答は速い。
巴を無視しているのではない。
質問を理解した上で、別の危険を優先している。
円卓へ、年末の配給表が広げられた。
灯油。
乾燥食。
透析用水。
暖房所の夜間人員。
参加手続きを決められなければ、空白住民の必要量をどの地区が申告するか決まらない。
「一月一日以降、旧配給枠は失効します」
榛名は言った。
「手続き未成立なら、各旗名簿のみ配給対象です」
赤錆側の代表が机を叩く。
「それを人質にする気か」
「期限は半年前から公示済みです」
「読めた奴が何人いる」
「公示方法は規則どおりです」
巴は、赤いチョークを取った。
《規則どおり、は理解の証拠ではありません。》
榛名が巴を見る。
「理解確認は必要です」
思いがけず、同意した。
「だから、同一文。同一時刻。同一条件」
巴は手を止める。
榛名の案は、彼女が作ろうとしてきたものに似ている。
同じ文を読む。
同じ条件で答える。
同じ時刻に締める。
通訳の違いで不利が出ない。
後から強い地区が、弱い地区の回答を見て変えない。
中央の人気者が、最後に空気を持っていかない。
正しさは、似た顔で近づいてくる。
「八地区の結果を待つべきだ」
白冠側の代表。
「待てば、今日の暫定配給決定に間に合いません」
榛名。
「明日へ延ばせ」
「凍結予報。輸送計画は本日中です」
「では、地方判断は何のためだ」
「本決定のためです。今日は暫定」
「暫定で、誰かが三日食う」
「暫定がなければ、誰かが食えません」
榛名は数字を返す。
道徳へ人数を返す人間だった。
巴は黒板へ二つの欄を引いた。
《今日決めない損害》
《今日、中央だけで決める損害》
灯油不足。
配給漏れ。
地方判断の無効化。
空席を棄権へ変える。
誤った通訳の固定。
片方を消せば、もう片方が残る。
「十時、暫定採決」
榛名が言う。
「対象、三日分配給。期限、一月二日」
短い。
対象、理由、期限。
命令としては、よくできている。
巴は、だからこそ止められなかった。
午前九時四十一分。
巴の平文は、学塔区で通じなかった。
正確には、読めた。
読めて、別の意味になった。
臨時放送所から届いた映像板の中で、学塔の若い確認者が、地域手話で質問文を再現している。
《所属を持たない住民へ、同じ確認権を渡しますか。》
巴が作った正式平文だった。
確認者の手は、意味を一つずつ明瞭に示した。
所属がない。
住民。
同じ。
確認する。
権利を渡す。
会場の老人が、眉をひそめる。
隣の女性が質問する。
確認者が巴の文をもう一度訳す。
老人が立ち上がり、画面外へ去った。
巴は受信板へ近づいた。
《理由を。》
画面の確認者が、地域手話で返す。
《ここで「権利を渡す」は、保護者が判断権を子へ許す形に見える。対等な参加でなく、上からの許可。》
巴は、自分の手を見る。
標準手話では、問題ない。
契約法でも、権利付与は一般的な表現だ。
一般的な言葉は、誰にとって一般なのか。
南環からも、紙が届いた。
迅の字ではない。
柏木秋枝の大きな字。
《「同じ湯の番へ入れる」は、浴場仕事を同じだけ負担させる意味に取られた。働けない人は参加できない、と誤解されている。》
巴は黒板へ書いた八地区版のうち、南環の一行を見た。
生活語にした。
生活そのものの不公平を、言葉へ入れてしまった。
「同じ意味ではなかった?」
円卓の代表が訊く。
巴は答えない。
全員の視線が手元へ来るまで待つ。
それから書く。
《私には同じでした。地区では違いました。》
「直せばいい」
《誰が。》
「あなたが」
《また間違えます。》
代表の顔に、苛立ちと不安が同時に出た。
「通訳者がそれを言うのか」
《通訳者だから言います。》
「では、正しい文は誰が作る」
巴は、空席を見る。
そこへ座れば、答えられる。
自分が作る、と。
八地区の言葉を集め、最も誤解が少ない一文へする。時間はかかる。けれど、その仕事ならできる。
できることと、やってよいことは違う。
《各地区が、自分の問いを作る。》
「文が違えば、同じ採決にならない」
《意味を相互確認します。》
「誰が確認する」
《一人ではない人。》
「制度の答えになっていない」
《今、作ります。》
榛名が手帳を閉じる。
「残り十九分です」
巴は右人差し指を曲げた。
腱が、途中で引っかかる。
冷えだけではない。
秋の市場契約事件で自分が省いた一条が、今も指の中へ残っている。
正確な文を急ぐほど、手が遅くなる。
「十時の採決文を配布します」
事務局員が、八枚の紙を円卓へ置き始めた。
巴はその中央へ、赤いチョークを立てた。
円卓の床へ、細い円を引く。
右人差し指を庇い、中指と親指でチョークを持つ。
白い線が、八つの椅子と空席を囲んだ。
事務局員が文書を読み上げる。
《領土および旗籍を有しない居住者について、中央協議への暫定的な参加資格を一席認める。代表者は八旗協議が指名し、当該席の不在は棄権として扱う。期限は一月二日までとする。》
巴は一枚の黒板を上げた。
《自分の言葉で説明してください。》
誓痕が、チョーク円の内側へ白い文字を浮かべる。
読めた者だけ〈リード・イン〉。
紙を読めるかどうかではない。
理解した内容を、自分の言葉か手話で言い直せるか。
一人目の代表が答える。
「空白住民へ、二日まで一票を与える」
巴は首を振る。
《一票とは書いていません。参加資格です。》
二人目。
「空席なら賛成でも反対でもない」
《誰の棄権ですか。》
「代表者の」
《代表者は誰が選びますか。》
「八旗だ」
《その代表者が来なければ、空白住民全体が棄権ですか。》
「文では、そうなる」
三人目が、紙を見直す。
「暫定参加者を、八旗が選ぶ」
《選ばれない人は。》
「参加しない」
《拒否した人は。》
「書いてない」
四人目。
「一席だから、意見は一つへまとめる」
《まとめられない場合は。》
「書いていない」
五人目が沈黙する。
六人目は、言い直そうとして途中で止まる。
七人目は、南環の説明を聞いて首を傾げる。
八人目だけが言った。
「八旗が選んだ一人を、空白住民の代表として二日間使う。来なければ、空白住民は意見なしと見なす」
正確だった。
正確であるほど、文の危険が見えた。
過半数が、自分の言葉で説明できない。
白い円から、文字が一行立ち上がる。
《空席の不在を棄権とする条項――停止》
円卓の紙から、その一文だけが淡く抜け落ちた。
効力が消える。
紙の印字は残る。
読める。
だが、採決へ使えない。
巴の右人差し指が、第二関節で固まった。
息が一度、喉当てへ強く当たる。
能力の反証〈リコイル〉は、誤訳をした時だけではない。
全員へ理解を求め、条項を止めれば、使った指に負担が返る。
彼女は手を背へ隠さない。
卓上へ置く。
榛名が時計を見る。
「九時五十七分。採決文を修正してください」
「止めないのか」
赤錆代表が訊く。
「一条停止。残りは有効です」
巴は黒板へ書く。
《残りも、代表者を八旗が指名します。》
「条項停止は一つまででしょう」
榛名。
《そうです。》
「なら、止められない」
《止められないことと、正しいことは違います。》
「正しさを待てば、灯油が遅れます」
《急げば、違う人へ届きます。》
榛名の目が、ほんの少し細くなる。
「配給は荷物です」
《人も宛先です。》
タマキなら、そう言う。
巴は自分の言葉として書いた。
借りた言葉は、借りたまま使ってよい。
出所を隠さなければ。
「代案を、十時までに」
榛名が言う。
残り二分。
巴は空席の名札を取った。
中央に一席を作る考えを、紙ごと破る。
破片を、八つの椅子へ一枚ずつ置く。
《一席を作らない。》
「参加枠をなくすのか」
《案件ごとに、地区から接続する。》
「八地区の結果が届いていない」
《結果ではなく、質問を先に接続する。》
榛名が時計を見る。
十時。