第471話 第六章「三段階停止」前編

二月十九日 午前九時

 法律は、読めない人を守るために長くなる。

 長くなった法律は、読めない人を増やす。

 朽葉真琴は、その循環を職業上の事故だと思っていた。

 中央能力維持局から借りた会議室。

 壁は白い。

 窓は開かない。

 机は楕円。

 どこへ座っても、誰かの正面になる。

 真琴は机を三つへ分けた。

 長机を縦へ並べる。

 一番目。

《抽出停止》

 二番目。

《反証転嫁停止》

 三番目。

《生活系統移行》

 冬城が用意した二枚の用紙は、端へ置いた。

《停止案》

《継続案》

 使わない。

 捨てもしない。

 何を拒んだかを残すためだ。

「三段階」

 水科イオが言った。

「止まるのは二つ」

「処理は三つです」

「一段目、能力抽出を止める。二段目、銀具から四十八人への反証転嫁を止める。三段目、病院、上水、暖房を中央自動制御から地域手動へ移す」

「順番」

「一と二は、可能なら同時。三は地域ごと」

「可能なら、は時刻じゃない」

「技術確定前です」

「予定は」

「二月二十四日から二十六日」

「幅が長い」

「患者条件と手動試験次第」

「誰が延ばせる」

 真琴は答えようとして、止まった。

 誰が。

 この問いが、最終的に一人の決裁者を作る。

 しかし、誰も決めないと、現場へ無記名の責任が落ちる。

「該当する条件の責任者」

「例」

「透析水なら、患者本人、当直医療担当、上水手動担当の三者。誰か一人が危険を記録した場合、その区画は延期」

「中央は」

「延期理由を受領する。上書きしない」

「受領を拒んだら」

「中央へ送らず、病院、地域、本人の三か所で有効にする」

「中央の会議室で、中央を外す話」

「建物は便利です」

「持ち主は」

「後で請求書を出すでしょう」

「いくら」

 蔵前価が、椅子から口を挟んだ。

「会議室一時間、十二単位。暖房三。記録設備五。警備二。今九時七分だから、既に二十二」

「始まって七分です」

「一時間未満切り上げ」

「悪い制度です」

「中央の制度」

「交渉してください」

「交渉料四」

「高い」

「腰を運んでる」

 価は硬い装具の上へ毛布を掛けている。

 腰椎圧迫骨折から半年。

 立位制限はまだ残る。

 会議室の椅子は背が低いため、轟が木片で角度を変えた。

 その木片の使用料まで、価は自分の帳簿へ入れていた。

「停止費用の初期試算」

 価が紙をめくる。

「機械式隔離、地域手動設備、代替医療、患者搬送、四十八人の診察、回収炉二百七十九人の休業と再配置。最低で七万八千。上限は書けない」

「書けない理由」

 中央の若い実務者が訊いた。

「反証受領者の状態が不明。十一人の代替日数が未確定。暖房燃料価格が地域で違う。停止後に誰を雇うか決まってない」

「見積もりとして不完全です」

「不完全と書いて出す」

「中央予算は上限のない支出を承認できません」

「上限がないんじゃない。中央が隠してるせいで計算できない」

「名簿は保護情報です」

「年齢、症状、地域、必要医療。名前を出さなくても出せる」

「個人特定の危険があります」

「だから本人ごとに公開範囲を決める」

「時間が」

「時間を短くするために、本人を省くのは禁止」

 価の声が、数字の時より低くなった。

「無料で省かれた人が、後で一番高くつく」

 若い実務者は机の端を見る。

 腕章を付けている。

 勤務識別番号も。

 氏名は、まだ出さない。

「私は、四十八人の全資料へアクセスできません」

「誰ができる」

 真琴が訊く。

「中央決裁、医療統括、設備統括」

「三者のうち、一人でも出せる?」

「共同許可が必要です」

「一人が拒めば」

「出ません」

「では、保護ではなく封鎖です」

「漏洩防止です」

「漏洩しないことと、本人へ返さないことは違います」

「本人確認ができない例があります」

「だから、できる人から返す」

「一部だけ動かすと不整合が」

「不整合を理由に、全員を止める?」

「今、止める話をしているのはあなた方です」

 真琴は眼鏡を押し上げた。

 鼻当ての跡が赤い。

「主語を戻します。中央が、全員を一つの設備へまとめた。私たちは、まとめたまま壊さず、分けて止める」

「あなた方の責任で」

「はい」

「事故が起きれば」

「私が解釈した範囲は、私の名で記録します」

 真琴は右手で署名した。

 普段の利き手は左。

 公式文書だけ右で書く癖は、王政時代から残っている。

 一画目が少し震えた。

 能力は使わない。

 誓痕がなくても、署名は人を傷つける。

「あなたは、前にも収容範囲を広げる解釈へ署名した」

 実務者が言った。

「はい」

「今回も間違える可能性がある」

「あります」

「では、なぜ決める」

「決めないことにも、既存運用を続ける解釈があります。黙っていれば中立にはなりません」

「自分を正当化している」

「しています」

 真琴は答えた。

「正当化しないと、責任が取れるわけではない。だから、反対欄を私より大きくします」

 机の上へ、新しい用紙を置く。

 本文一行。

《抽出停止へ同意する》

 その下に、三倍の面積。

《同意しない》

《条件がある》

《説明を受けない》

《後で決める》

《この書式では答えない》

「最後は何です」

 実務者が訊く。

「用紙の外へ出る欄です」

「欄へ入っています」

「皮肉は法技術です」

 イオが紙を覗く。

「期限」

「各回答へ次回確認日。未記入なら、回答は七日で失効」

「保留も」

「保留は本人が日を決める。決めない場合、三日後に確認だけする。結論を迫らない」

「確認を拒否」

「次の確認を本人が指定」

「永遠に拒否」

「永遠、は日付じゃない」

「感染してる」

「あなたからです」

 イオの息だけが先に笑った。

 午前十時三十二分。

 鉞谷鉄志が、油の付いた図面を会議室へ持ち込んだ。

 机を汚すなと中央警備に言われ、図面の下へ白紙を敷いた。

 鉄志は白紙のほうへ眉をひそめる。

「下が汚れるだろ」

「机を守る紙です」

「机より図面を守れ」

「中央の備品です」

「街の設備より机が偉いのか」

「規則上は――」

 若い実務者が言いかける。

「言うな。咳が出る」

 鉄志が図面を広げた。

 五つの系統。

 黒と白へ、二重の切断記号。

 青、赤、黄へ、三角形の手動切替記号。

「一段目。回収炉の抽出弁を閉じる。物理弁は三か所。中央制御が開き直すから、連結軸を中立へ落とす」

「連結軸の停止は」

「機械室。轟と迅が見る」

「迅の能力を前提にする?」

 真琴が訊く。

「前提にしない。使えれば最後の固定を外す。使えなくても、六人と二時間で外す」

「二時間、反証が流れる」

「だから二段目を先に止めたい」

「順番が逆」

「機械は、紙の順番へ従わん」

「紙を変えます」

「早いな」

「規則は現物へ合わせます」

「昔のお前なら、現物を規則へ切った」

「今も切りたくなる」

「正直だな」

「正直は免責ではありません」

「免責ばっか言うと、腹が減る」

「それで、誰が食う」

 真琴が先に言った。

 鉄志が黙る。

「取るな」

「口癖を定義しました」

「定義料を取るぞ」

「価へ相談してください」

 価がそろばんを弾く。

「口癖使用料、一回〇・二」

「お前ら、俺の知らない間に仲良くなったな」

「料金が発生する関係です」

「最悪だ」

 鉄志は図面の銀色の線を指した。

「二段目。反証転嫁の分配輪。四十八本ある。中央の銀具と同期。普通に切ると、最後の負荷が四十八人へ一度に返る」

「切れない?」

「抜く順番が要る。負荷を機械抵抗へ戻す。抵抗器は足りない」

「何本」

「十六」

「必要」

「四十八を一度に受けるなら五十二。順番なら二十四」

「不足八」

「作る」

「どこで」

「赤錆大工場」

「旧兵団の権限で?」

「使わん。工場へ発注する」

「費用」

 価が顔を上げる。

「後で」

「今」

「材料見てない」

「概算」

「値切る気か」

「値切らないために聞く」

「銅、耐熱陶器、運搬、夜勤。八本で九百。失敗分を入れて千二百」

「工員賃金」

「別」

「休憩」

「別」

「肺の診察」

「俺のか」

「工員全員」

「別」

「全部足す」

「高くなるぞ」

「正しい」

「高いと止められん」

「安く見せて止めた後、誰かが払うほうが止められません」

 鉄志が価を見る。

 価は腰を庇いながら、数字を書いた。

 自分の低血糖対策の食事代も。

 鉄志の診察時間も。

 会議室の木片も。

 安全に止める金額は、格好が悪い。

 格好の悪い数字ほど、誰かの生活に近い。

「三段目」

 鉄志が青、赤、黄を指した。

「地域手動。病院補助は二系統へ分ける。上水は五区画。暖房は四区画。全部、同じ時刻に切り替えるな」

「なぜ」

「同期すると、回転数が一度に落ちる。中央の補償器が全停止と判断して、残った三系統も落とす」

「止めない系統を守るために、同時に止めない」

 真琴が言う。

「そうだ」

「決裁書は、一つの時刻を要求します」

「燃やせ」

「燃やしません。時刻欄を複数にする」

「できるのか」

「正式書式ではできません」

「じゃあ」

「正式書式を添付資料に降格します」

「そんなことが」

「規則には、添付資料の枚数制限がない」

 真琴は少しだけ得意そうに言った。

 その顔を見て、すぐ自分で口元を戻す。

「ただし、これは規則の穴を使う。後で塞がれる可能性があります」

「今は通す」

「今だけ通ることを、永続制度のように言わない」

「お前、本当に面倒だな」

「褒め言葉として受領します」

 正午。

 石英綺理が、三つの箱を持ってきた。

 木箱。

 陶器箱。

 金属箱。

「何を入れる」

 真琴が訊く。

「内容じゃなく、条件を先に」

「失礼しました」

「木箱は公開記録。陶器は限定閲覧。金属は本人返却」

「原本は」

「一つにしない」

「改竄の確認が難しい」

「同じ原本を一つ置くと、奪われたら全部終わる」

「三つの内容が違えば」

「違うと記録する」

「統一しない?」

「統一する人が、消す」

 綺理は小さな声で言った。

 価が眉を上げる。

「全部違うと、信用が下がる」

「信用って、誰が何を買うの」

「決裁」

「決裁のために、患者の拒否を揃える?」

「揃えない。でも、違う記録が三つあると、中央は偽物だと言う」

「三つとも、持ち主と作成時刻を残す」

「それで信用される?」

「信用されるために残すんじゃない。後から、誰が何を変えたか分かるため」

 真琴は木箱を開けた。

 空。

 内側に、閲覧者欄。

 閲覧理由。

 開始時刻。

 終了時刻。

 返却。

 陶器箱は、蓋へ五つの穴。

 穴の形で、公開条件を触って区別できる。

 金属箱は、外から鍵穴がない。

 内側へ折り返した封緘帯を、本人が切るまで開かない。

「能力は使う?」

「使わない」

「預かり物は」

「内容を読めなくする。今は、読めるべき人が読める道を分ける」

「能力があるのに」

「あるから、使わない条件が要る」

 綺理は、三つの箱を三つの机へ置かなかった。

 部屋の三方向へ分けた。

 抽出停止記録。

 反証転嫁停止記録。

 生活系統移行記録。

 一つの火事で焼けない距離。

 一人の監視員が全部見られない角度。

「中央へ原本を出さないなら、決裁できません」

 若い実務者が言う。

「中央用の写しは出す」

 真琴が答える。

「原本と同一である証明は」

「作成者、受領者、時刻、紙の繊維、封緘番号」

「それでも」

「決裁を絶対に成立させることが目的ではありません」

「では何のための書類です」

「異議が、決裁後も消えないため」

「決裁に従わない準備?」

「違います。従う範囲を明確にする準備です」

「同じです」

「同じではありません」

「言葉遊びです」

「言葉で人を収容した経験があります。遊びではありません」

 真琴の声が短くなった。

 恐怖の時の声。

 一文。

 一文。

 一文。

「私は、曖昧な文を広く読んだ。人を閉じ込めた。今回、狭く読みます。誰が広く読んだか残します」

 実務者は腕章へ触れた。

「私も、中央の概要欄を作りました」

「何を省いた」

「施設代表の反対理由。患者の条件。四十八人の個別値」

「なぜ」

「決裁書の欄に入らなかった」

「自分で削った?」

「はい」

「命令」

「書式」

「書式は命令じゃない」

「現場では、同じでした」

 真琴は反論を飲み込んだ。

 自分も、そう言ったことがある。

 規則がそう読めた。

 命令に従った。

 欄がなかった。

 人は、悪意より先に用紙へ隠れる。

「今、戻せますか」

 真琴が訊く。

「中央記録へ?」

「省いた項目を」

「権限がありません」

「外部写しへ、自分が省いたと書く」

「それはできます」

「名は」

「出せません」

「勤務番号で」

「はい」

 若い実務者は、初めて椅子へ座った。

 立ったまま役割を話すのをやめた。

 自分の手で、削除した欄を書き戻した。

 完全ではない。

 名前もない。

 それでも、空白が自然に生まれたのではないと記録された。

 午後一時十分。

 三段階停止の用紙は、まだ一枚も正式提出されていなかった。

 真琴は提出前に、読ませた。

 会議室の外、旧食堂。

 読む人は九人。

 病院患者の家族。

 反証受領者の一人。

 上水の地域担当。

 暖房を止めたくない共同浴場の番人。

 能力再起動を望む元運搬者。

 文字を読むのが苦手な工員。

 中央の書記。

 イオ。

 八番室の少年。

 少年は病院から音声だけ参加する。

 画面は使わない。

 本人が顔を出さないと選んだからだ。

「最初の文」

 真琴が読む。

《第一段階として、能力抽出機構を停止する》

「抽出って何」

 共同浴場の番人が訊いた。

「能力を安定させるため、身体反応を設備へ取り込む処理です」

「血を抜く?」

「血液ではありません」

「じゃあ何」

 真琴は答えようとして、止まった。

 設備の説明文を見ても、《生体反応値》《誓痕位相》《適応負荷》としかない。

「分からないものを止めるの」

 番人。

「分からないまま動かされていたものを、一部止めます」

「一部?」

「能力安定の処置も止まる可能性があります」

「そこ、先に書いて」

 真琴は本文を直した。

《能力を安定させる処置と、本人から設備へ反応を取り込む処理は、現在一つの系統で動いている。第一段階で、その取り込みを止める。処置効果が弱まる可能性がある》

「長い」

 工員が言う。

「短くします」

「短くすると、また消える」

 元運搬者が言う。

「二つにする」

 イオ。

 見出し。

《止まるもの》

 その下。

《起こる可能性》

 真琴は書き分ける。

「次」

《第二段階として、反証移送系統を停止する》

 反証受領者が手を上げた。

「移送って、俺らへ来るやつ?」

「はい」

「止めた瞬間、今までの分が戻る?」

「技術上、抵抗器へ移します。ただし完全な予測はできません」

「誰へ戻る」

「設備側。銀具側。残留分は不明」

「不明って、一番大事じゃない?」

「はい」

「小さく書いてる」

 用紙の脚注。

 真琴は、脚注を本文へ移した。

《停止時の最後の負荷が、誰へどれだけ戻るか完全には分からない》

 中央の書記が口を開く。

「その表現では、承認されません」

「分からないものを、分かると書けば承認される?」

 反証受領者。

「技術上の許容値を示す必要があります」

「俺の許容値、誰が決めた」

「医療統括です」

「会ったことない」

「個別診察の記録を基に」

「診察で、どこまで痛めるなら耐えられるって訊かれたことない」

 書記は黙った。

 真琴は新しい欄を足す。

《中央が安全と判断した値》

《本人が停止条件として選んだ値》

 二つを同じにしない。

「俺は、中央値より低い」

「書く?」

「名前なし。番号も公開しない。自分へ戻す写しには全部」

「受領」

 次。

《第三段階として、病院補助・上水・暖房を地域手動運用へ移行する》

 上水担当が笑った。

「移行って、誰がやる」

「地域担当」

「俺一人?」

「複数」

「何人」

「現在、上水第三は十二人の訓練」

「夜は三人」

「三人で足りる?」

「試験中です」

「失敗したら中央へ戻す?」

「回収炉停止後は、中央へ戻せない箇所があります」

「再起動不能ってこと」

「はい」

「それも大きく」

 真琴は書く。

《止めた後、同じ中央自動運用へ戻せない設備がある》

 共同浴場の番人が訊く。

「暖房が壊れたら、中央のせいにできない?」

「故障原因ごとに記録します」

「誰が直す」

「地域保守」

「金は」

 価が別室から声だけ出した。

『停止予算へ六か月分。七か月目は未確定』

「六か月で上手くなる?」

『上手くなっても、部品は減る』

「安心させる気ないね」

『安心は無料じゃない』

 真琴は費用欄を本文へ上げた。

《六か月分の保守費は確保。以後は未確定》

 中央の書記が頭を抱える。

「これでは、誰も署名しません」

「署名を増やすために、危険を下へ置かない」

「しかし、行政文書は行動を促すために」

「拒否も行動です」

 病院患者の家族が手を上げた。

「私は止めたくない。これに署名したら、全部へ反対したことになる?」

「どこへ反対」

「病院の設備を変えること。でも、反証を子どもへ送るのは止めてほしい」

「二枚に分けます」

「一枚で、二つ言いたい」

「なぜ」

「別々にされると、都合のいい方だけ使われそう」

 真琴は鉛筆を止めた。

 分けることも、切り取る道具になる。

「一枚へ二つの欄。切り離し禁止線」

 紙の中央へ、太い波線を書く。

《この二回答は、同じ本人の同時回答。片方だけの引用禁止》

「それで守れる?」

「絶対ではありません。切り離した人の責任は分かる」

「絶対じゃない」

「絶対と書かない」

 家族は少し考えた。

「それなら読む」

 署名はまだしない。

 読む。

 八番室の少年の音声が入る。

『戻す日、書いてない』

「戻せない箇所があります」

『じゃあ、代わりの修理日』

「保守開始日?」

『違う。壊れた時に、次に見に来る日』

 真琴は予定表へ、《故障時の初回確認期限》を足した。

「今まで、なかった?」

『なかったから、ずっと壊れてた』

 少年の紙橋。

 帰り側が必要な子どもは、機械にも帰りの日を求めた。