第470話 第五章「医師の命令違反」後編

 手動補助室へ着く。

 受領者は、病院設備係と当直看護師。

 中央班ではない。

 患者が自分で言う。

「ここまで。次は、また訊いて」

 記録係が時刻を書いた。

 午前六時二十二分。

 強制移送命令が続く病院の中で、一件の移動だけが、本人の選択で完了した。

 午前六時二十五分。

 通信が戻る。

 冬城征士郎の声が、院内放送へ直接入った。

「中央決裁から、外環共同病院へ。設備全体の安全確保のため、保護対象者の移送を実施してください。現場の不服は、移送後に審査します」

 ミソラは放送室へ行かない。

 病棟の廊下で聞く。

 患者と同じ場所で。

「本命令に従わない場合、中央設備の停止案は医療上の危険を解消できないものとして棄却します」

 停止案か、継続案か。

 移送へ従うか、作戦を失うか。

 二つへ狭める声。

 まだ能力の発動ではない。

 それでも、冬城の言葉は先に能力の形をしている。

 ミソラは病棟放送の送話器を取った。

「外環共同病院、現場担当の時雨ミソラ」

 自分の名を言う。

「命令を受領しました。患者本人への説明前の強制移送を拒否します。治療継続、証言、移送は別の同意です。停止案の棄却は、中央決裁者の判断として記録してください」

 冬城の声が返る。

「あなたには、全体を決める資格がありません」

「ない」

「では、従ってください」

「私には、今ここで治療を止めない責任がある」

「四十八人への反証転嫁を継続させます」

「あなたの設備が」

「あなたの拒否が」

「違う」

 ミソラの声が低くなる。

「責任を移さないで。反証を送っているのは設備。止め方を一つにしたのは中央。患者を運ぶ命令を出したのは冬城征士郎。私は、その移送を拒否している」

「結果として、四十八人の負荷は続きます」

「それも記録する」

「記録で痛みは減りません」

「命令でも減ってない」

 一秒。

 放送の向こうで、金属音がした。

 銀具。

「本日正午までに、停止案と継続案を提出してください」

「二案にはしない」

「二案でなければ決裁しません」

「しなくていい」

 病棟が静かになる。

 看護師がミソラを見る。

 患者も。

 ミソラは、自分が言った言葉の大きさを感じた。

 決裁しなくていい。

 中央が決めなければ、現場が決める。

 美しい言葉だ。

 現場へ、失敗も死も残す言葉でもある。

「訂正」

 ミソラは送話器へ言った。

「中央決裁を不要とは言わない。二案だけの決裁を拒否する。病院補助、上水、暖房、回収炉、抑制網を分ける。患者ごとの条件を残す。正午では間に合わない」

「期限は」

「代替が揃った区画から」

「期限ではありません」

「患者の状態は時刻表どおりじゃない」

「街は判断を待てません」

「街の中に患者がいる」

 冬城は返事を切った。

 院内放送が無音になる。

 午前六時四十三分。

 東救急口から、低い警笛が三度鳴った。

 救急搬送。

 西搬入口を閉じたままでも、病院は閉じていない。

 閉じてはいけない。

 中央移送班の班長が、救急口へ向けて二人を走らせた。

「保護対象者の搬出路として確保する」

 迅は西扉から離れた。

 離れれば、ここを破られる。

 離れなければ、東で救急を妨げられる。

「廉」

「西は見る」

「能力は」

「使わない。今、中央班は正面突破の意図じゃない。救急口を正式路に変えるつもりだ」

「止められる?」

「権限を確認する。時間は稼げる」

「何分」

「数字を聞くな」

「イオに感染してない」

「俺は標識に感染してる」

 迅は東へ走った。

 左肩が一歩ごとに痛む。

 腕を振らない。

 身体の回転を腰へ逃がす。

 救急口には、小型搬送車が一台。

 荷台から運ばれてきたのは、暖房配管の蒸気を吸った男性だった。

 意識はある。

 喉を押さえている。

 中央移送員二人は、救急扉の左右へ立っていた。

「搬入後、この入口を中央移送へ使用します」

「病院の許可」

「中央命令」

「救急患者の受領が先」

「妨害しません」

「立ってる」

「通れます」

 担架の幅は通る。

 看護師の肩が、防護服へ触れる。

 患者が咳き込む。

「離れろ」

 迅が言う。

「命令権は」

「患者の息」

「答えになっていない」

「息が答える前に離れろ」

 移送員の一人が短棒へ手を掛けた。

 迅は構えない。

 担架の進路へ立つ者を殴れば、患者の路をさらに狭くする。

「三十秒だけ、壁へ」

 迅は言った。

「その後、話す」

「約束できますか」

「三十秒後にここにいる」

「入口を渡すとは」

「言ってない」

「なら」

 担架の患者が、掠れた声で言った。

「どけ」

 全員が見る。

「俺の病院だろ。今だけ」

 病院の所有者ではない。

 利用者だ。

 移送員が壁へ寄った。

 担架が入る。

 看護師。

 酸素。

 記録係。

 最後に、患者の泥の付いた靴。

 扉が閉まらず、救急位置で固定される。

 三十秒。

 迅は入口へ戻った。

「話す」

「中央移送を通してください」

「患者本人の受領確認は」

「搬送後に」

「通さない」

「約束が違う」

「話す約束。渡す約束じゃない」

「言葉遊びだ」

「真琴に感染した」

 移送員が短棒を抜く。

 迅は一歩退く。

 七歩を数えない。

 暴力の源は、目の前の二人だけではない。

 扉を正式路へ変える命令。

 病院の救急機能。

 中で待つ患者。

 短棒が右肩へ来る。

 迅は左肩を庇い、右前腕で受ける。

 古い痺れが走る。

 増悪ではない。

 冷たい金属へ触れた時の、いつもの痛み。

 棒を掴まない。

 前腕で滑らせ、相手の手首を扉の外へ押す。

 二人目が脇を抜けようとする。

 迅は足を掛けない。

 救急扉の黄色い停止板を踏む。

 扉が十五センチだけ狭くなる。

 人は挟まない。

 搬送台も通らない。

「設備を勝手に操作した」

「救急受領後の安全幅」

「中央班は通れる」

「患者台は通れない」

「患者を乗せる前に入る」

「入ってから乗せるのが、強制移送だ」

 移送員の顔が固まる。

 言葉で認めた。

 班長が西から到着する。

「全員、東口を確保!」

 そこへ、院内から看護責任者が出てきた。

「東救急口は、現在の患者受領が完了するまで救急専用。中央移送の使用を拒否します」

「中央命令です」

「病院側の拒否記録を、あなたの勤務番号で受領してください」

「受領しません」

「拒否時刻、六時四十八分。目撃、救急搬送員二名、患者本人、病院職員三名」

 班長は黙る。

 救急搬送の男性が、処置室の小窓から手を上げた。

 声は出ない。

 自分が目撃者になることへ同意したわけではない。

 看護責任者はすぐ訂正する。

「患者本人は、目撃者へ数えない。公開同意未確認」

 迅が小さく息を吐いた。

「感染したな」

「誰に」

「全員」

 東救急口は閉めない。

 中央移送へも渡さない。

 救急車が来るたび、病院側が一件ずつ受領する。

 中央班は、その外で待つ。

 待つことは、彼らにとって命令不履行だった。

 それでも、救急口を奪うために患者を盾へ使わなかった記録も残った。

 班長は午前七時十二分、東口確保命令を一時停止した。

 理由欄には、こう書いた。

《救急機能との衝突。患者搬入を妨げる危険》

 病院側の正しさへ同意したとは書かなかった。

 それで充分だった。

 午前七時四十分。

 西搬入口の外では、中央移送班がまだ待機していた。

 迅は扉の横へ座っている。

 左肩へ冷却布。

 短棒で打たれた箇所は腫れている。

 右手の古い痺れは増えていない。

 ミソラは内側の小窓を開けた。

「腕、上げて」

「入れてくれる?」

「診察だけ」

「外から?」

「できる」

 迅が左腕を上げる。

 水平の少し手前で止まる。

「痛み」

「三」

「数字を使うんだ」

「七瀬とイオに感染した」

「押す」

「どこ」

「肩峰の前」

「痛い」

「後ろ」

「少し」

「しびれ」

「ない」

「握る」

 迅が左手を握る。

「骨折所見は薄い。打撲。今日は頭上動作を避ける」

「戦うな、じゃない」

「守るものがあるなら、戦う。動かし方を変える」

「自分にも言え」

「だめ」

「二回目」

「数えるな」

「外へ出る?」

「出ない」

「いつまで」

「患者の搬送路が決まるまで」

「何時間」

「分からない」

「十八時間を超えたら」

「誰が決めた」

「俺」

「資格」

「友人」

「権限なし」

「異議は出す」

「受領」

 迅は小窓へ額を寄せた。

「俺たちの作戦を止めたこと、謝らないで」

「謝らない」

「少しは迷え」

「迷ってる」

「見えない」

「見せる仕事じゃない」

「記録は」

「してる」

 ミソラは小窓を閉めた。

 扉の内側には、患者十一人の条件。

 外側には、四十八人へ流れ続ける反証。

 どちら側にも、迅たちがいる。

 扉は、敵と味方を分けていなかった。

 ただ、今は通してよいものと、通してはいけないものを分けていた。

 午前七時五十二分。

 透明箱の薬剤注入器は、まだ扉の外にあった。

 班長は回収しない。

 若い移送員も触らない。

「放置は危険」

 迅が言う。

「病院が預かれば」

 若い移送員。

「治療薬に見える」

 小窓の内側からミソラが答える。

「班が持てば、使用可能装備へ戻る」

「じゃあ、どうする」

「送り元へ未開封返却。受取人を薬剤管理部署へ指定。目的は成分照合と使用命令の検証」

「タマキみたい」

「感染」

 班長が口を開く。

「返却すれば、我々は任務装備を失います」

「中身を知らずに使う装備」

 迅。

「命令上、必要だ」

「今、使わなかった」

「四号が拒否した」

「班長は」

「命令があれば使わせる」

 若い移送員の肩が固くなる。

「今の言葉、記録していいですか」

 本人が班長へ訊いた。

「勤務中だ」

「だから、命令者として」

「記録しろ」

 若い移送員は紙へ書いた。

《班長は、薬剤名・禁忌未確認でも中央命令があれば使用させる方針。四号は使用拒否》

「これで、班長だけ悪くなる?」

「薬剤を詰めた部署も、命令文を作った人も別」

 ミソラ。

「私も、患者へ使わせなかった判断を残す」

「あなたが正しいから?」

「違う。使わないことで、暴れた人を別の方法で止める負担が増える」

「誰へ」

「病院警備、患者、迅。全部」

 迅が冷却布を押さえる。

「俺の肩まで薬の責任?」

「強制移送を止めた打撲。薬とは別」

「細かい」

「混ぜると誰かが得する」

 班長は、透明箱を自分で封じた。

「送り元へ返す。成分照合を要求する。任務装備の不足は私が報告する」

「使用方針は」

 若い移送員。

「照合まで使用停止」

「命令が来たら」

「その時、私の名で再判断する」

 正しい側へ移ったわけではない。

 それでも、名前のない薬は一度、任務から外れた。

 若い移送員は靴を履き直さず、片足だけ靴下のまま座った。

「足」

 ミソラが訊く。

「痛くない」

「見せる?」

「扉は開けないで」

「小窓から足は無理」

「後で」

「再確認時刻」

「九時」

「受領」

 拒否する側も、拒否された側も、次の時刻を持った。

 午前八時。

 病院の朝食が運ばれた。

 中央移送班にも、同じ厨房から温かい茶が出た。

 班長は受け取らなかった。

 靴を脱いだ若い移送員だけが、扉の外で両手に椀を持った。

 命令は続いている。

 治療も続いている。

 拒否も続いていた。