第469話 第五章「医師の命令違反」前編

二月十八日 午前四時十二分

 命令違反には、命令を聞いた証拠が要る。

 時雨ミソラは、聞かなかったふりをしなかった。

 外環共同病院の夜勤詰所。

 中央から届いた命令書は、三枚だった。

 一枚目。

《中央設備停止準備に伴う保護対象者の予防搬送》

 二枚目。

《移送先――中央能力維持局第三安定棟》

 三枚目。

《対象――回収設備依存患者十一名、元抽出対象者四名、証言保全対象者三名》

 十一。

 四。

 三。

 重複を含む。

 人数は十五。

 命令書の下部に、施設責任者、医療責任者、警備責任者の署名欄がある。

 患者本人の欄はない。

 ミソラは三枚とも読んだ。

「受領時刻、四時十二分」

 看護記録係が書く。

「命令内容、読了」

「了解は」

「してない」

「受領印」

「押す」

「拒否するのに?」

「読んだ証拠」

 ミソラは朱肉へ指を付けない。

 病院の受領印を使う。

 押した。

 その横へ書く。

《受領。医療上、実施拒否。患者本人への説明、搬送先の治療内容、戻り先、拒否手続き、強制根拠が欠ける》

「先生」

「未資格」

「今それ言う?」

「今ほど要る」

 記録係は口を結んだ。

「病院長は」

「中央へ行ってる」

「代理署名者」

「私じゃない」

「でも、止めるのは」

「私」

「責任も」

「私の範囲は書く」

 ミソラは命令書の写しを三部作った。

 一部は病院。

 一部は患者ごとの限定箱。

 一部は中央へ返す。

 原本は、鍵の掛からない透明箱へ置いた。

 隠さない。

 ただし、患者名簿は別の箱。

 命令書の「対象」という言葉と、個人の病床を一枚の紙で結ばない。

 廊下の奥で、車輪の音がした。

 搬送台ではない。

 規則正しい。

 四台。

 中央の移送班が、予定より四十八分早く来た。

「早い」

 記録係が言う。

「命令より先に出た」

 ミソラは時計を見る。

 命令書発行、午前三時五十七分。

 移送班の中央出発、午前三時三十八分。

 十九分前。

「決まる前に、運んでる」

「止める?」

「入口を閉める」

「病院を?」

「搬送入口だけ」

「救急は」

「東へ。酸素は北。患者出入口は内側から開ける」

 ミソラは立つ。

 左脚へ痛みが走る。

 止まらない。

 止まらないことを、強さとは呼ばない。

 今は、止まれば入口が開く。

 午前四時二十一分。

 病院西搬入口。

 中央移送班は、白い防護服を着ていた。

 武器は見える。

 短棒。

 拘束帯。

 薬剤注入器。

 注入器には、薬剤名が書かれていない。

 先頭の班長が命令書を上げる。

「中央決裁です。対象者を移送します」

「拒否します」

 ミソラが答える。

「医療責任者は」

「不在」

「あなたの資格」

「現場担当。未資格。だから、私の署名で移送同意はできない」

「では、妨害権限もない」

「患者の現在の治療を中断しない責任はある」

「中央施設で継続します」

「治療内容」

「機密です」

「戻り先」

「状態によります」

「拒否手続き」

「対象者は保護命令下です」

「本人説明」

「搬送後」

「入れない」

 班長が息を吐く。

「あなた一人の判断で、設備停止を遅らせている」

「一人じゃない。患者十一人」

「患者は、設備の全体危険を理解していません」

「あなたは、患者の全体を理解してない」

「時間がありません」

「それは患者の同意じゃない」

「命令です」

「聞いた」

「従ってください」

「拒否した」

 班長が右手を上げた。

 後列の二人が前へ出る。

 病院側の警備員が構える。

 ミソラは手を横へ出した。

「病院側、殴らない」

「入られます」

「扉を閉める」

「壊されたら」

「修理する」

「患者を取られたら」

「取り返す、じゃない。本人へ戻す」

 班長が一歩進んだ。

 その前へ、白と黒の警告帯が落ちる。

 鷺沼廉。

「一回目」

 午前四時二十三分。

「西搬入口は、中央移送班へ閉鎖。代替は東面会口。ただし患者本人の受領確認が必要」

「中央命令へ民間の経路監査員が介入する権限はない」

「二回目。権限は病院の委託。期間は本日零時から正午。対象区間は西搬入口から二番廊下」

 廉は委託票を見せた。

 病院設備係、看護責任者、患者代表二名。

 患者代表の名前は公開されていない。

「無効です」

「三回目は使わない」

 廉が言った。

「何」

「能力で閉めると、正面突破の意図だけを止める。命令を持つ者は、突破じゃなく正式通行だと思って進む」

「では退いてください」

「退かない。普通の扉を閉める」

 廉は搬入口の手動輪を回した。

 中央班長が合図する。

 二人が走る。

 扉が閉まり切る前に、靴を差し込む。

 病院警備員が押す。

 鉄の扉が、三十センチで止まる。

「挟むな!」

 ミソラが叫ぶ。

 扉を押していた全員が、一瞬止まる。

 ミソラは隙間へ手を入れない。

 足を挟んだ移送員へ言う。

「靴を脱いで。足は抜ける」

「入る」

「足を折る?」

「任務です」

「任務は骨を治さない」

 移送員が迷う。

 班長が「続行」と言う。

 その声より早く、外側から別の手が移送員の肩を引いた。

 竜胆迅だった。

「何を――」

 移送員が短棒を振る。

 迅は左へ流す。

 右手は使わない。

 短棒が扉へ当たる前に、肘を押し上げる。

 班長の二撃目。

 迅は背を向けない。

 半歩下がり、肩で受ける。

 鈍い音。

 左肩。

 迅の顔が僅かに歪む。

「迅」

 ミソラが呼ぶ。

「骨じゃない」

「診断するな」

「動く」

「動くと壊れてないは違う」

「今は扉」

「分かってる」

 迅は移送員の靴紐を切った。

 刃物ではない。

 床に落ちていた金属札の角。

 靴が脱げる。

 足が抜ける。

 扉が閉まる。

 中央班は外。

 迅も外。

 ミソラは内。

 厚い扉を挟んで、二人の声が小さくなる。

「入れて」

「患者が拒否してる」

「俺は患者を運ばない」

「中央班と一緒に入る」

「俺だけ」

「区別できない」

「顔で」

「顔は役職じゃない」

「昨日から流行ってるな」

「入れない」

「了解」

 外で短棒の音がする。

 迅が扉を守る音。

 内側で、ミソラは鍵を掛けた。

 仲間を閉め出す。

 正しいとは思わない。

 必要だと思う。

 必要と正しいは、同じ病室へ入れてはいけない。

 午前五時十分。

 保護病床の奥で、シキは窓へ背を向けていた。

 遮光布。

 片目を覆う眼帯。

 短い黒髪。

 病院内では、本人が選んだ呼称だけを使う。

「中央が移送命令」

 ミソラが言った。

「聞いた」

「行く?」

「行かない」

「治療は」

「続ける」

「証言」

「する」

「中央で、は」

「しない」

「別々に記録する」

「最初から」

「今、確認した」

 シキはベッド脇の紙へ、三本の線を引いた。

 治療。

 証言。

 移送。

 治療へ丸。

 証言へ丸。

 移送へ斜線。

「戻り先を聞いてない」

 シキが言う。

「聞いても答えなかった」

「抽出する」

「何を」

「証言。身体。能力痕。全部、別の部屋で同じ番号にする」

「知ってる?」

「やった」

 シキの声は平らだった。

 被害者として語らない。

 加害に加担した者としても、一つへ固定しない。

「移送班に、昔の知り合いは」

「いるかもしれない」

「会いたい?」

「見たくない。会いたくないは、決めてない」

「顔を撮る?」

「撮らない」

「七瀬へ頼む?」

「七瀬が決めない」

「本人が」

「必要なら、声だけ。今はしない」

「分かった」

「記録した?」

「今から」

 ミソラは三本の線を、病院の正式票へ写した。

 同じ順番で。

「中央が、保護だと言ってる」

 ミソラが言う。

「保護は、出られる?」

「命令書にない」

「なら、檻」

「拘置所とは違うと書いてある」

「違う名前」

「そう」

「名前は大事」

「同じくらい、出られるかも大事」

 シキが顔を上げる。

「ミソラは、出られる?」

「何から」

「病院」

「今日は出ない」

「自分で?」

 ミソラは答えなかった。

 勤務を続けるのは自分の意思だ。

 痛みが増えている。

 代わりが足りない。

 患者がいる。

 止まれば誰かへ仕事が移る。

 自分で選んでいる。

 選ばされてもいる。

「今は、決めてない」

 シキが言う。

「同じ」

「違う」

「どこ」

「私は、出ても戻れる」

「戻れる?」

「たぶん」

「たぶんを使った」

「七瀬じゃない」

「だから言った」

 シキは少しだけ口元を緩めた。

 笑いではない。

 相手が完璧な医療者ではないと確認した顔だった。

 午前六時。

 中央は、病院の全通信を一度切った。

 七秒。

 たった七秒。

 だが、病院の警報は一斉に点いた。

 呼吸補助。

 薬剤ポンプ。

 冷蔵庫。

 循環装置。

 非常扉。

 全てが再接続を確認するまで、別々の音を鳴らす。

 ミソラの耳へ、音が刃のように入る。

 痛覚過敏。

 肩。

 背。

 指。

 昔、他人から返った痛みまで、同じ時刻に起きる。

「赤、呼吸。青、循環。黄、冷蔵」

 ミソラは色で呼ぶ。

「赤、今。青、二分。黄、温度確認」

 看護師が走る。

 設備係が手動確認。

 八番室の少年の濾過装置は、再接続に十一秒かかった。

 少年は紙橋を握る。

「止めた?」

「中央が通信を切った。設備は止めてない」

「違う?」

「違う。でも、起きたことは似てる」

「僕のせい?」

「違う」

「止めないって言ったから?」

「中央が、病院の判断を変えさせるため」

「それ、言っていい?」

「まだ目的は確認できてない」

「じゃあ何」

「通信切断。七秒。事前通知なし。十一秒で装置再接続。これだけ」

「怒ってる?」

「怒ってる」

「書かない?」

「感情欄へ書く」

 少年は紙橋を離した。

 帰り側の柱が潰れている。

 直そうとする。

 指が震える。

 ミソラが手を出す。

「触っていい?」

「だめ」

 ミソラは手を引いた。

 少年は自分で柱を起こした。

 上手くいかない。

 それでも、触らせない選択が先だった。

 午前六時九分。

 西搬入口の下から、白い紙が一枚差し込まれた。

 命令書ではない。

《移送班四号。薬剤注入器の中身を知らされていない。使用命令を受けた場合の拒否手続きがない。確認を求める》

 署名は勤務番号だけ。

 ミソラは紙を拾わない。

「誰が触った」

 病院警備員が訊く。

「外から来た。手袋で透明袋へ」

 看護記録係が袋へ入れる。

「返事」

「本人へ」

 扉の小窓を二センチ開ける。

 外には、靴を脱いだ若い移送員が立っていた。

 片足だけ靴下。

 手には薬剤注入器。

「薬剤名」

 ミソラが訊く。

「封印番号だけです」

「投与量」

「体重別の目盛り」

「禁忌」

「教育では、中央対象者用と」

「分からない、と記録する」

「任務拒否になりますか」

「私は移送班の規則を決めない」

「じゃあ、どうすれば」

「使用しない選択を、自分の名で言う」

「言ったら、班から外される」

「外されたくない?」

「仕事です」

「患者へ使いたい?」

「使いたくない。でも、暴れたら」

「暴れる前に説明。危険なら距離。即時の自傷他害なら、病院側へ応援要請。薬は薬剤名と禁忌が分からないから使わない」

「それで人が傷ついたら」

「あなたが全部負うとは言わない。班長、薬剤を詰めた部署、命令者、病院側、全員の判断を分ける」

「分けたら、誰も責任を取らない」

「一つにすると、最後に使った人だけへ全部落ちる」

 若い移送員は注入器を見た。

「返却したら、証拠がなくなる」

「封印を切らず、時刻と外観を記録。病院側は中身を検査しない。あなたの班へ返す。受領拒否なら、扉の外の透明箱へ」

「病院へ預けるのは」

「治療用と誤認される。預からない」

「冷たい」

「線を分けてる」

 若い移送員は、注入器を透明箱へ置いた。

 班長が遠くから叫ぶ。

「四号、持ち場へ戻れ!」

「使用命令を拒否します。薬剤名、禁忌、本人同意、医療監督がありません」

「命令違反だ!」

「受領」

 若い移送員は震えた。

 それでも、注入器を拾い直さなかった。

 ミソラは小窓を閉める前に言う。

「仕事を失う可能性」

「分かってます」

「分かった、で終わらせない。賃金停止、宿舎、医療保険。確認する人を立てる」

「あなたが?」

「私は患者側。真琴へ渡す」

「それ、助けてくれるって意味ですか」

「記録するって意味」

「足りない」

「そう」

 小窓を閉める。

 足りない返事しかできない時に、十分な約束をすると、後で誰かの借金になる。

 病棟内では、通信切断で冷蔵記録が七秒欠けていた。

 薬剤師が温度計を読む。

「上昇〇・一度。許容内」

「欠測は」

「七秒。復帰後の値で埋めない」

「薬剤は使える?」

「使える。でも、欠測ありと付ける」

 次の部屋。

 循環装置の再接続で、患者一人の脈が乱れた。

 止めないを選んだ四十代の患者だった。

「中央の移送なら、設備は安定する」

 看護師が言う。

 患者は首を振る。

「行かない」

「ここでまた切れたら」

「行かない」

「説明を」

「聞いた。行かない」

 ミソラは、三度目の説得を止めた。

「今の病床から、病院内の手動補助室へ移る?」

「中央じゃない?」

「同じ病院。廊下を二つ。窓なし。補助刺激器は試験中」

「戻れる?」

「戻り先は今の病室。手動室が危険なら戻す」

「誰が決める」

「あなた。緊急時は当直。後で理由を返す」

「じゃあ、病院の中だけ」

 移送は、中央へ行くかここへ残るかの二択ではなかった。

 患者は自分で毛布を選び、病院内の二廊下を移った。

 搬送台へ乗ることは拒み、車椅子を選んだ。

 廊下の角で、中央移送班の白い防護服が小窓越しに見えた。

 患者は顔を背けない。

 見せることへ同意したわけでもない。

 ただ、自分の行先を自分の側から見届けた。