第596話 第八章「剛嶺と水上」後編

 運転手が叫んだ。

 洗浄所の若い作業員が、反射的に荷台へ飛びつく。

 板がもう一枚割れた。

 左脚が膝まで水へ落ちる。

 潮位は低い。

 底まで一・二メートル。

 浅いから安全ではない。

 船体と岸壁の間へ挟まれれば、胸が潰れる。

 紬は能力を使わない。

 交換禁則なら、剛嶺と水上の両方へ同じ移動禁止を課せる。

 使えば荷車は止まる。

 既に止まっている荷車へ、必要なのは公平な禁止ではない。

「人を先に抜く。荷を支える人と、脚を抜く人を分けて」

「荷が落ちる!」

「膜は濡れても数えられる。胸は潰れたら数えられない」

 船頭が舟を岸壁へ横付けした。

 由良は回線の向こうから状況を聞く。

「赤索を送る」

「能力は使わないで」

 紬が言った。

「分かってる。普通の索として」

 通過荷車に積んでいた予備の赤索を、水上側の運転手が下ろす。

 濡れた索を若い作業員の脇へ回す。

 本人に聞く。

「右脚、動く?」

「動く」

「痛み」

「足首。挟まってない」

「引く方向、舟側と岸側。どっちが怖くない」

「岸」

「岸へ」

 二人が索を引く。

 一人が荷台を支える。

 紬は支えに入らない。

 長く息を止めれば、右胸が持たない。

 代わりに、引く拍を数える。

「一、止め。二、止め。今」

 作業員の脚が抜ける。

 足首の捻挫。

 骨折なし。

 荷台はさらに二度傾いた。

 乾燥膜の箱が滑る。

 運転手が手を伸ばす。

「手を離して!」

「十二枚!」

「指は十本!」

「数が減ってる!」

「指は増えない!」

 運転手が手を引く。

 箱は荷台の縁へ当たり、止まった。

 舟から板を二枚渡す。

 岸壁の割れた板は使わない。

 膜を一箱ずつ、人の手で舟へ移す。

 水上の洗浄所へ置く箱。

 剛嶺へ返す箱。

 まだ枚数は決まっていない。

 だから封を切らず、同じ舟の別の場所へ置く。

 午後九時三十一分。

 由良から返答。

「剛嶺の当事者十八人。十二枚受領希望、七。八枚で今夜十二人を優先し、六人を明朝の別処置へ、九。保留、二」

「多数で八枚?」

「多数だけじゃない。後回しになる六人へ確認した。五人同意。一人は拒否」

「拒否した一人」

「自分を今夜へ入れろと言ってる」

「誰と交代」

「今夜予定の一人が、自分は明朝でいいと言った」

「本人同士だけで決めない。技師の医療判断」

「確認済み。変更可」

「じゃあ八枚」

「水上の四枚は、緊急使用。返却義務じゃなく、代替費用と次便優先を別契約」

「通行条件へ混ぜない」

「混ぜない」

 紬は二枚の札を書いた。

 第一。

《生命維持物資の緊急通行は、未決料金・未署名・過去の貸借を理由に止めない》

 第二。

《水上が使用する乾燥膜四枚について、代替輸送費、次便優先、作業員待機賃金を水上三者が負担。期限七月十二日。未履行時も医療通行を停止しない。異議は別受領》

 助ける道と、払う金を同じ鎖へしない。

 鎖を切ったわけではない。

 別々に結んだ。

 午後九時四十六分。

 八枚を積んだ荷車が、水上区を出た。

 仮梁撤去まで七十四分。

 帰り道、中央封鎖杭はまだ立っている。

 由良は二度目の帰巣線を使わなかった。

 剛嶺側の受取は成立している。

 だからこそ、能力で最短路だけを示せば、途中の壊れた岸壁と、捻挫した作業員と、待機賃金を道の外へ落とす気がした。

 普通の地図。

 普通の見張り。

 普通の速度。

 二台は、午後十時五十八分に仮梁へ着いた。

 撤去担当は二分待った。

 その二分の賃金も、飯尾が帳簿へ書いた。

 乾燥膜は八枚。

 水上使用は四枚。

 作業員一名、左足首捻挫。

 破損した船着き板二枚。

 通過路の仮梁、予定より二分延長。

 緊急通行の成功だけを残さない。

 翌朝に持ち越す費用が、五つ増えた。

 中央の画面には、《不一致》と表示された。

 剛嶺の車輪は、午後九時に再び回り始めた。

 水上の病院弁は、四十五パーセントへ揃わなかった。

 二つの地域は、同じ答えを出さなかった。

 それでも、冷却箱は剛嶺を通り、水は病院船へ流れた。