第595話 第八章「剛嶺と水上」前編
七月五日 午後四時十六分
剛嶺では、代表者を選ぶ時、椅子ではなく車輪を止める。
移動城塞の外周車輪。
直径十一メートル。
車輪が回っている間、住民は路上に散っている。
止まれば、同じ地面へ集まれる。
ただし、止めると水と仕事が減る。
会議の費用は、会議時間ではない。
止めた車輪が運べなかった物の量だ。
「二時間」
鷹取由良が言った。
「一時間だ」
石工組合の男が返した。
「百二十人から委任条件を取る。移動できない人へも聞く」
「中央塔の期限まで、あと三日もない」
「だから短くする理由にはなる。聞かない理由にはならない」
「おまえが行けばいい」
「行かない」
「天環と話せるのはおまえだ」
「話せることと、剛嶺の答えを持っていることは違う」
「前は持っていった」
空気が硬くなった。
青石台撤退の署名。
食料車列の受領。
境界開門。
由良は何度も、剛嶺側の区間へ署名した。
責任を逃れなかったことが、代表である証明へ使われるようになった。
「持っていった」
由良は否定しない。
「撤退の時、私の印が剛嶺全体の答えに見えた。塩路では全体の受取を断った。それでも、断った私が代表に見えた」
「じゃあ誰も署名するなって?」
「期限と範囲を付ける」
「また紙か」
「車輪へ刻んでもいい」
「消せない」
「だから紙」
由良は右膝の装具を確かめた。
前年六月の水害救助で傷めた内側側副靱帯は、日常歩行へ戻っている。
滑空着地と急な方向転換は避ける。
会議の円へ入る時も、石段を飛び降りない。
以前の由良なら、速度で権威を作った。
今は、遅い身体を隠さない。
「委任は何日」
飯尾夏が聞いた。
彼女は復興監査の帳簿を膝へ置いている。
「七月九日正午まで」
「中央期限は七日」
「決着後の訂正を二日残す」
「権限」
「天環と水上区に対し、剛嶺の通行、水、境界照会について説明する。生活、徴収、刑罰、永住、軍事は決めない」
「拒否されたら」
「持ち帰る」
「時間がない」
「拒否を消すよりはある」
車輪を止める鐘が鳴った。
会議開始。
集まったのは八十九人。
残りへは、斥候が条件票を運ぶ。
由良の前に、赤索が置かれた。
剛嶺で《赤索》と呼ばれる由来になった道具。
「これを持つ者が説明する」
年長者が言った。
「持つ。代表の印にはしない」
「何の印だ」
「私が戻る責任」
「戻れなかったら」
「戻れなかった理由を、別の人が持ち帰る」
「縁起が悪い」
「縁起で道は測れない」
条件票の最初の質問。
《中央の統一協定へ参加するか》
由良はその文を消した。
「なぜ」
「参加する、しないの二択になってる」
「二択だろ」
「中央の五条件だけ共有し、本文は別にする選択がある。通行だけ共有し、水は別。未回答もある」
「選択肢を増やすと決まらない」
「決まらないことを、参加に数えない」
新しい票。
《天環との通行を止めない最低条件へ同意するか》
《中央の統一本文を受け入れるか》
《剛嶺本文を別に作るか》
《回答を保留するか》
《由良へ説明・受領だけを委任するか》
回答は揃わなかった。
通行最低条件への同意、七十一。
統一本文受入れ、九。
剛嶺本文別作成、五十八。
保留、十七。
由良への限定委任、六十二。
合計は百を超える。
一人が複数を選べるからだ。
「数字が分かりにくい」
石工組合の男が言う。
「人が複数のことを考えると、合計は人の数にならない」
「中央へどう送る」
「全部」
「笑われるぞ」
「笑った人の名前も返してもらう」
午後六時二十分。
移動できない三十一人の票が戻った。
由良への限定委任は、最終的に八十六。
反対、十九。
保留、十五。
「過半数」
誰かが言った。
「過半数だから全部決められる、にはしない」
由良は委任票へ署名した。
右手ではない。
左手。
自分の利き手で、自分の名前を書く。
《説明、受領、通行最低条件の交渉》
期限、七月九日正午。
赤索の端へ、期限札を結ぶ。
その時、北側の見張りから警報が来た。
天環との旧通行路へ、中央の自動封鎖杭が上がった。
中央互換停止を前に、未署名地域を隔離する安全措置。
杭は道の中央へ三本。
その向こうに、天環から戻る剛嶺の荷車が二台いる。
医療用の冷却箱。
帰還許可は確認済み。
中央封鎖は、許可を無効と判定した。
「壊す?」
斥候が聞く。
「壊さない。動かす」
由良は赤索を腰へ結んだ。
「右膝」
飯尾が言う。
「走らない」
「滑空も」
「しない」
「じゃあ、どうやって」
「道を作るのは飛ぶことだけじゃない」
封鎖杭の間隔は一・四メートル。
荷車は一・六。
車輪を外せば通る。
しかし冷却箱を傾けられない。
由良は天環側へ合図を送った。
《受取先を確認》
荷車の運転手が、剛嶺側の受領所を指す。
受領所の三人が、白い石を掲げる。
帰還を許す家標。
確認済み。
由良は赤索を封鎖杭へ掛けた。
帰巣線〈ホームワイヤー〉。
誓痕は、帰還を許した家標への安全な最短路を、索の張りとして伝える。
この道全体を開く力ではない。
二台の荷車が、今、確認された受領所へ着く経路だけ。
赤索が左へ引かれた。
封鎖杭の脇。
古い排水溝の蓋が三枚、別の規格である。
「蓋を外す」
「溝へ落ちる」
「仮梁」
剛嶺側の石工が短い梁を出す。
天環側の運転手も車止めを外し、荷重を分ける。
中央杭は壊さない。
排水溝へ仮梁。
左車輪だけを十五センチ外へ逃がす。
荷車を一台ずつ通す。
由良は索の張りを読む。
右膝を曲げすぎない。
「三十センチ左」
運転手が動かす。
「止め」
「あと二センチ」
「止め」
「通れない」
「冷却箱の右留め具を内側へ」
「傾く」
「上だけ。荷重は変えない」
石工が留め具を外す。
一台目が通る。
二台目。
赤索の張りが、途中で弱くなった。
受領所の一人が、白い石を下げている。
「どうした」
由良が叫ぶ。
「冷却箱の中身を知らない!」
「医療部品」
「誰の」
「病院向け」
「剛嶺の受取じゃない!」
家標の許可が揺らぐ。
能力の線が消えかける。
由良は無理に引かなかった。
「止める!」
荷車を停止。
「受取先を訂正!」
箱は剛嶺を通過し、水上区の病院船へ行く中継荷だった。
剛嶺は、通過を許すだけ。
受取ではない。
由良は白い石を持つ三人へ聞いた。
「通過を許す?」
一人、許可。
一人、保留。
一人、拒否。
「多数で」
石工組合の男が言いかける。
「通行条件は三者確認。全員が役割別に必要」
物流担当は許可。
境界担当は保留。
地域在庫担当は拒否。
「理由」
「冷却箱が戻らないと、剛嶺の薬を運べない」
「帰り便」
「水上から何を積むか決まってない」
由良は荷車を通さなかった。
病院部品が急ぐ。
それでも、剛嶺の道を当然の中継路にしない。
水上区へ連絡。
碧路紬が出た。
「冷却箱の帰り、何を積む」
「病院洗浄水の試料と、空容器」
「剛嶺へ利益は」
「通過料」
「金額」
「未決定」
「地域在庫担当が拒否」
「分かった。乾燥膜を積む。剛嶺の透析所へ十二枚」
「誰の判断」
「病院船、船荷担当、私。剛嶺が受けるなら」
由良は三者へ伝えた。
地域在庫担当が許可へ変える。
境界担当も許可。
赤索が再び張った。
二台目が通る。
能力が示したのは、許可が成立した後の道だけだった。
通行の理由も、帰り荷も、能力は決めない。
「中央杭、どうする」
斥候が聞く。
「期限まで残す。横に通過路を表示。中央へ撤去要求」
「危ない」
「見張りを置く」
「誰が払う」
飯尾が言った。
由良は委任票へ追記した。
《封鎖杭監視賃金――中央へ請求。未払い時、剛嶺会計で仮払》
「中央が払わなかったら」
「未払いを残す」
「正義で飯は食えない」
「だから金額を書く」
同じ頃、水上区では、中央の均等削減弁が動き始めていた。
午後七時十一分。
上流水門、下流水門、商船閘門、病院取水。
四つの弁を、同じ四十五パーセントへ揃える自動操作。
五月末の協定は六月三十日に失効している。
再交渉は終わっていない。
中央は、空白期間を安全上の均等条件で埋めると通知した。
「止める」
紬が言った。
「能力で?」
船頭が聞く。
「使わない」
「同じ禁止を中央と水上へ返せば」
「同じ四十五になる」
「じゃあどうやって」
「手で」
紬は右肺の癒着がある。
長く走れない。
深く息を吸うと、胸郭の内側へ引かれる痛みがある。
水門へ向かう舟の舳先で、酸素瓶を足元へ固定した。
使うことを隠さない。
自動弁は、四つの水門へ同じ信号を送る。
しかし、弁の大きさは違う。
同じ四十五パーセントでも、流量は違う。
病院取水は細い。
上流工業弁は大きい。
割合の平等が、量の不平等を隠す。
「病院弁、手動へ」
紬が指示する。
「中央鍵が」
「外さない。横の機械連結を抜く」
「規約違反」
「誰の規約」
「中央」
「名前」
「またそれか」
「便利だから」
船頭二人が、病院取水の横へ舟を寄せる。
水面が低い。
普段なら手が届く連結軸が、頭上にある。
紬は立ち上がらない。
肺が持たない。
「私を上げる?」
「上げない」
長い鉤を使う。
届かない。
「舟を傾ける」
「転覆する」
「荷を右へ」
水袋三つを右舷へ移す。
舟が五度傾く。
鉤が連結軸へ届く。
引く。
硬い。
中央の自動機が回転を続けている。
「止め具」
船頭が木の楔を出す。
機械歯へ入れれば壊れる。
「歯じゃない。軸受け」
「滑る」
「濡れ布」
布を巻く。
摩擦を増やす。
紬が鉤を引く。
胸が痛む。
「交代」
自分で言った。
船頭へ鉤を渡す。
酸素を二吸入。
その間に、船頭が軸を一センチ抜く。
自動信号が病院弁から外れた。
病院取水は、百パーセントを維持する。
上流工業弁は四十五パーセント削減。
下流工業弁は二十パーセント削減。
商船閘門は隔日。
前協定の条件を、二十四時間だけ延長する。
「自動更新じゃない?」
船頭が聞く。
「違う。昨日の条件を、そのまま今日の新しい一日にする」
「言葉遊び」
「署名者が違う。水位も違う。終了時刻を書く」
「二十四時間後」
「また決める」
「毎日?」
「必要なら」
「眠れない」
「だから、交代と賃金を決める」
紬は水位札へ書いた。
《七月六日午後七時十一分まで》
《病院取水一〇〇》
《上流工業四五削減》
《下流工業二〇削減》
《商船隔日》
《再交渉、七月六日午前十時》
中央から音声が入る。
《均等条件への抵抗は、地域間対立を拡大する》
「拡大してる」
紬が答える。
《ならば同一条件を》
「病院を四十五パーセント止める?」
《生命優先の例外は中央で判断する》
「誰の生命」
《全地域》
「一人ずつ言って」
《不可能です》
「だから、ここで決める」
《獅堂凱が中央調整者へ復帰すれば、地域差を考慮した全域判断が可能です》
紬の手が止まった。
凱なら、違いを聞く。
少なくとも冬城よりは。
水上区には、凱の王位復帰を求める声もある。
一人と話せば済む。
一人へ怒れば済む。
一人が間違えれば、その人を代えれば済む。
簡単だ。
「凱へ伝える?」
船頭が聞く。
「中央が言ったことは伝える」
「賛成?」
「しない」
「凱なら公平に」
「公平にしようとする。でも、私の肺で呼吸できない」
紬は右胸を押さえた。
「上流の工員の賃金も、下流の家船の水も、病院の洗浄も、一人の身体に入らない」
「でも、一人が決めないと間に合わない時は」
「ある」
「じゃあ」
「その時だけの範囲と期限を渡す。王にはしない」
午後八時三十四分。
由良と紬の回線がつながった。
中央の提案を、二人とも受け取っている。
「剛嶺は?」
紬が聞く。
「統一本文は九。別本文五十八。保留十七。複数回答あり」
「合計が合わない」
「人が一つのことだけ考えてない」
「水上も同じ」
「共有できる最低条件」
「通行を止めない。医療水を止めない」
「異議を受け取る」
「期限」
「剛嶺は七月九日正午まで委任」
「水上は二十四時間」
「同じにしない」
「同じにしない」
二人は、同時に同じ言葉を言った。
同時だったから正しいわけではない。
由良は先に続けた。
「通行は、受取先確認が必要」
「医療水は、受取先が決まらなくても止めない」
「違う」
「違う」
「じゃあ、共通文は」
「《相手が未回答でも、緊急通行と医療水を制裁に使わない》」
「緊急の定義」
「地域本文」
「また別」
「別でいい」
巴の平文室へ、二つの文面を送る。
剛嶺文。
《帰還・医療・水部品の通行を、統一協定未署名への制裁として止めない。受取先確認を要する》
水上文。
《医療水を、統一協定未署名・運賃未決・身元未公開を理由に止めない。受取先が未定でも最低流量を維持する》
違う。
共通なのは、止めない対象と、制裁に使わないことだけ。
巴から返事。
《一つへ直さない。相互参照番号だけ付す》
由良は赤索へ、小さな四角い札を結んだ。
紬は水位板へ、丸い穴を一つ開けた。
形も場所も違う。
同じ相互参照番号が、別の物へ残った。
午後九時十七分。
剛嶺を通過した二台の荷車が、水上区の病院船へ着いた。
冷却箱は受領された。
代わりに積むと約束した乾燥膜十二枚も、船荷担当が用意した。
そこで問題が起きた。
下流の洗浄所が、乾燥膜四枚を残すよう求めた。
「うちの透析槽も明朝まで持たない」
洗浄所の女が、荷車の前へ立った。
「十二枚は剛嶺へ返す契約です」
船荷担当が言う。
「契約した時、うちの残量を知ってた?」
「知らなかった」
「知らない約束で、知った後も全部持っていく?」
荷車の運転手は口を挟まなかった。
運ぶ人間が、荷の所有者になるわけではない。
黙れば中立になるわけでもない。
出発時刻は午後九時三十分。
剛嶺側の仮梁は、午後十一時に撤去される。
遅れれば中央封鎖杭の横を通れない。
紬が病院船から戻った。
酸素瓶を肩へ掛けず、手押し車へ載せている。
「四枚を残したら、剛嶺は何回分減る」
「透析所二か所、一回ずつ」
船荷担当が答えた。
「残さなければ」
「洗浄所の一槽を停止。患者六人を病院船へ搬送」
「病院船の病床は」
「二床」
「残り四人」
「中央互換の別船を照会する」
「中央へ戻る」
「そうです」
洗浄所の女が言った。
「命を助ける荷なら、剛嶺も分けるでしょう」
紬はすぐに同意しなかった。
「剛嶺へ聞く」
「時間がない」
「時間がないから、相手が同意すると決める?」
「じゃあ六人を止めるの」
「止めない。今ある膜の再洗浄可能回数を確認。病院船の予備。上流水路の在庫。四人の代替処置。剛嶺への返却時刻。全部出す」
「会議してる間に朝になる」
「会議をしないために、数字を一人へ預ける?」
紬は右胸へ手を当てた。
呼吸を三回。
「私が決めるなら、四枚残す」
洗浄所の女が少し安心した顔をした。
「でも、私は決めない」
「結局、逃げるのね」
「逃げ道を一つへしない」
剛嶺へ連絡。
由良は、移動城塞の車輪音の中で応答した。
「十二枚のうち四枚を、水上が必要としてる」
「理由」
「洗浄所六人。病院船二床。残り四人の代替未確定」
「剛嶺は十二枚を前提に、明朝十八人を組んでる」
「八枚なら」
「十二人。六人は次回へ」
「次回は」
「未定」
「水上も六、剛嶺も六」
「同じ人数」
「同じだから分ける、にはしないで」
「しない」
由良の後ろで、石工組合の男が声を上げた。
《約束を変えるなら、通過を止めろ》
水上側の洗浄所からも声が飛ぶ。
《病院の水を通したのはこっちだ》
助けたことが、次の請求書になる。
請求書が悪いわけではない。
費用は誰かが払う。
ただし、命を助けた事実へ、相手の次の同意まで書き足すことはできない。
「緊急通行と医療水を制裁に使わない」
由良が言った。
「さっき決めた」
「決めたばかり」
紬が返す。
「だから、今試される」
「乾燥膜は医療物資」
「通す。枚数は別」
「剛嶺は十二を受ける条件で通した」
「条件を変えたい側が、費用を負う」
「誰が」
「水上の四枚使用者、病院船、運河会計。三者で仮払。剛嶺の六人分の代替輸送費と、次便の優先積載を負担」
「次便が来なかったら」
「不足として残る。命を助けたから帳消し、にはしない」
由良は車輪の向こうへ目をやった。
「剛嶺側へ聞く。五分」
「五分で全員?」
「今夜の透析対象十八人と、当直技師。地域全体じゃない」
「受領」
待っている間、荷車の一台が沈んだ。
船着き場の板が、左後輪の下で折れた。
乾燥膜を積んだ荷台が、水側へ九度傾く。
「動かすな!」