第602話 第十一章「王を殴れ」後編

 賛成でも反対でもない。

 受け取った。

 保留した。

 断った。

 範囲を限った。

 別の言葉で書いた。

 担当を交代した。

 退出した。

 休んだ。

 何も決めなかった。

 その全部に、本人確認、拒否窓口、期限、異議受領、再交渉日がある。

 最終決裁は、一つの答えを見つけられなかった。

 銀具の七枚が、支持台の上で激しく鳴った。

 《新王》の表示が裂ける。

 一文字目の《新》が消えた。

 次に《王》が縦に割れた。

 冬城の身体が反った。

 右腕の接触針から、光が逆流する。

 これまで外へ逃がしていた反証が、本人へ戻る。

 心拍表示が、二百を越えた。

 すぐに四十台へ落ちる。

 冬城の膝が崩れた。

 医療者が左右から支える。

「除細動準備!」

「腎保護液、流量確認!」

「決裁環から離して!」

 冬城は医療者の腕を掴んだ。

「まだ……終わっていない」

「能力は終了しています」

「都市機能が」

「九地点で継続確認」

「不一致だ」

「不一致のまま動いています」

「事故が起きる」

「起きます」

 医療者は冬城の手を外した。

「その時、治療します。今はあなたです」

 冬城は凱を見た。

 目の焦点が揺れている。

「君は……責任を捨てた」

 凱は胸を押さえながら立っていた。

「違う」

「王命を出さなかった」

「出さない責任を取る」

「誰が裁く」

「一人じゃない」

「逃げ道だ」

「異議窓口だ」

 冬城の口元が歪んだ。

 笑ったのか、痛んだのか分からない。

「それで……国が持つと思うか」

「国にしない」

「名前もない」

「仕事には名前がある」

「旗は」

「空白のままだ」

「空白は、いずれ誰かが埋める」

「埋めたら、また消す」

「永遠に?」

「期限まで」

「期限の後は」

「再交渉する」

 冬城は目を閉じた。

 失神ではない。

 医療者の問いに、指で一度だけ応答した。

 担架が決裁環へ入る。

 警備員たちは道を空けた。

 誰も逮捕を宣言しない。

 誰も赦免を宣言しない。

 冬城は、治療へ運ばれる。

 中央決裁官としてではなく、心臓と腎臓を傷めた一人の患者として。

 同時に、反証転嫁と強制決裁について審理を受け続ける一人として。

 担架が内環扉へ向かう途中、冬城は目を開いた。

「銀具を……壊すな」

 開閉責任者が答えた。

「保全します。再使用は停止します」

「技術資料を」

「あなたの所有物ではありません」

「分かっている」

「異議は書面で」

 冬城は小さく頷いた。

 担架が去る。

 決裁環に、中央席だけが残った。

 凱はその席を見た。

 座れば楽になる。

 少なくとも、今夜だけは。

 九地点の違う音を、一つの命令へまとめる必要がない。

 自分の声で「続けろ」と言えばいい。

 誰かが従う。

 従わない者を、危険として記録できる。

 王だった身体が、まだその手順を知っている。

「座る?」

 迅が聞いた。

「椅子だからな」

「座るためにある」

「でも、あれは決めるために置かれてる」

「じゃあ座らない方がいい」

「珍しく意見が合った」

「俺、ずっとそう言ってたぞ」

「殴った後だけ、言葉が短くなるな」

「右手が痛い」

「口は右手じゃない」

「全身で痛がってる」

 迅の顔から血の気が引いている。

 右手の腫れは、さっきより明らかに大きい。

 凱は左手を差し出した。

「今度は頼め」

「何を」

「支える」

「立てる」

「俺も言った」

「真似するな」

「友人だから」

「役割じゃない」

「だから頼める」

 迅は少し迷い、左手で凱の手首を掴んだ。

 体重を預ける。

 凱の胸が痛んだ。

 左膝も痛い。

 それでも二人で立っていた。

 真琴は中央席の前へ行き、何も置かなかった。

 原文箱も、王冠も、旗芯も。

 七瀬は撮影機の覆いを上げた。

「撮る?」

 凱が聞く。

「空席だけ」

「俺たちは」

「今は入れない」

「どうして」

「空いてることを、人の顔で飾りたくない」

 七瀬は画角を中央席へ合わせた。

 画面の端に、九つの受領灯が入る。

 北部路。

 厨房網。

 平文室。

 放送所。

 病院。

 記憶庫。

 剛嶺。

 水上区。

 決裁中継室。

 同じ速さでは点滅していない。

 一つが消える。

 厨房の保留灯だった。

 すぐに別の小さな灯が点く。

 乳児用在庫の確認が終わり、受領になった。

 その三秒後、病院の一灯が保留へ戻る。

 患者が選び直したのだ。

 決裁環はもう、揃えようとしなかった。

 ただ九つの違う明滅を、違うまま受けていた。

 塔のどこかで、一本の笛が鳴った。

 別の場所で、鍋蓋が鳴った。

 紙が折られた。

 無音が三秒続いた。

 呼吸器が一度、空気を送った。

 鍵が回った。

 索車の歯が進んだ。

 水位棒が叩かれた。

 杖が床へ触れた。

 どの音も、中央席へ敬礼しなかった。