第603話 第十二章「再交渉の日」前編
七月七日 午前零時〇四分
最初に発効したのは、協定ではなかった。
拒否窓口だった。
北部路の仮小屋で、ひとりの女が木札を返した。
「昨日は西へ行くと書いた。でも、今朝までここにいたい」
受領係の若い隊員は、眠気で目を赤くしていた。
「理由は」
「書かない」
「分かりました」
「聞かないの?」
「理由欄は任意です」
「それで困らない?」
「困ります」
隊員は正直に答えた。
「人数が変わる。食事が変わる。寝具が変わる。次の担当へ説明が要る」
「じゃあ、駄目?」
「駄目ではありません。困ることと、断ることは別です」
女は札を返した。
隊員は《西行き》を一本線で消し、《午前六時再確認》と書く。上から塗りつぶさない。昨日の選択も残す。
風祭澪は、少し離れた場所でその手元を見ていた。
右耳には薄い防音材。
左側へ、若い隊員たちが立っている。
澪は笛を持っていなかった。
中心笛は、昨日譲った隊員の胸にある。
「隊長」
女の札を処理した若者が呼んだ。
澪は左耳を向ける。
「もう一度」
「六時までの食事を追加します。厨房へ五人増と送っていいですか」
「五人の内訳」
「本人一、家族三、案内一」
「案内は食べる?」
「聞いてません」
「聞いて」
「はい」
若者は走ろうとした。
「走らない」
澪が止める。
「濡れてる」
地面には夜露。
若者は歩幅を落とした。
「隊長」
「何」
「笛、返しますか」
「返さない」
「今日だけ?」
「今日の終了時刻まで。次は今日決める」
「ずっと僕が吹くわけじゃない?」
「ずっと吹きたい?」
「分かりません」
「なら、分からないと書いて」
若者は少し笑った。
「何でも書くんですね」
「書かないと、知ってる人だけが強くなる」
「隊長の耳も?」
「もう書いた」
澪は右耳の診療予約札を見せた。
午前十時四十分。
帰路の確認と重なる時刻だった。
「行くんですか」
「行く」
「ここは」
「あなたたちがいる」
「失敗したら」
「戻って直す」
「診療中に?」
「診療を抜けない。診療が終わってから」
若者は笛を握った。
責任を渡された顔ではない。
重さを量っている顔だった。
澪はそれでよいと思った。
受け取った瞬間に誇らしげになる仕事は、たいてい仕事内容が軽く説明されすぎている。
午前零時十一分。
十二厨房のうち、第七厨房が休業札を出した。
中央停止の勝利を祝う休みではない。
調理者六人のうち三人が連続勤務の上限を越え、二人に発熱があり、一人が家族の介護へ戻るためだった。
休業札には、代替先が三つ書かれている。
第一厨房――温食、午前五時から。
第九厨房――乳児食、常時。
第十二厨房――乾食、在庫終了まで。
その下に、小さく書かれていた。
《代替先へ行かない選択も可。食券は失効しない》
土門小麦は札を貼り終えると、厨房の戸を閉めた。
「本当に閉めるのか」
隣の乾物屋が聞いた。
「閉める」
「今日は、みんな食うぞ」
「昨日も食べた」
「中央が止まった翌日だ」
「胃袋は政治日程を知らない」
「なら開けろ」
「調理者の足も政治日程を知らない」
小麦は踵の支持板を外した。
赤くなった足裏を、冷たい布へ乗せる。
「休んだら、善意が足りないって言われる」
乾物屋が言った。
「善意は在庫に数えない」
「どうして」
「腐ってても本人が気づかないから」
「うまいこと言った」
「豆が二袋足りない」
「急に現実だな」
「現実は、名言より先に腹を空かせる」
小麦は鍋帳を開いた。
十二厨房のページには、同じ献立が一つもない。
同じなのは、原価、休憩、受取人数、拒否理由、次の確認日だけだった。
第七厨房の欄へ、《休業》と書く。
その横へ、《賃金支払済み》と書く。
「勝ったのに休むのか」
乾物屋がまた言った。
「勝ったから休むんじゃない」
小麦は戸の鍵を回した。
「働いたから休む」
午前零時十九分。
平文室では、一文字巴が自分の名前を一枚の認証欄から外した。
若い通訳者が目を丸くする。
「巴さんの印がないと、中央が受けません」
「中央はもう、受ける側の一つ」
「でも地域も、巴さんの認証なら安心すると」
「それが危ない」
「信用されているのに?」
「信用は、鍵と同じ。開くから便利。でも一人が全部持つと、扉より先に人が閉じる」
巴は右人差し指の固定具を外し、腱の熱を確かめた。
まだ痛い。
左手で、新しい認証表を置く。
平文作成者。
当事者確認者。
異議受領者。
期限管理者。
四つの欄。
一人が二つ以上を兼ねる場合は、理由を書く。
「巴さんは、どれを」
「今日は異議受領」
「認証しない?」
「しない」
「間違った平文が出たら」
「異議を受ける」
「先に止めた方が安全です」
「私が全部止められる状態が、安全すぎる」
若い通訳者は納得していない。
だから署名した。
同意欄ではない。
《巴の認証除外に異議あり》の欄へ。
巴はその紙を一番上へ置いた。
「目立つところに置くんですね」
「私への異議だから」
「嫌じゃないですか」
「嫌」
「じゃあ、どうして」
「嫌なものを見えない所へ置くと、権力になる」
午前零時二十七分。
放送所で、紅葉カナタは最終文を読まなかった。
最終文がなかったからだ。
机の上に、九地点の受領状況がある。
行ごとに書式が違う。
北部は木札番号。
厨房は鍋帳頁。
平文室は相互参照番号。
病院は患者別受領。
記憶庫は鍵番号。
剛嶺は委任期限。
水上は水位時刻。
中継室は遮断系統。
カナタは順番を決めなかった。
「次」
紅城乱馬が技術卓から言う。
「どれ」
「届いた順」
「英雄のいない番組は、構成が難しいね」
「英雄がいる番組も、おまえが難しくした」
「反省してる」
「反省は技術表に載らない」
「じゃあ何を載せる」
「録音拍手、なし。観客数、表示なし。字幕の《完結》、削除済み。退出口、開放。機材賃金、未払い二人」
「最後だけ急に生々しい」
「最後じゃない」
乱馬は未払い欄を指で叩いた。
「これを片づけるまで、放送所は成功してない」
カナタは受信機を調整した。
声は少し掠れている。
歌わない。
予告の調子も使わない。
聞き取りやすい速度で、事実だけを読む。
「午前零時二十七分。中央塔の強制決裁は停止。各地域の文書は統合されていません。共通して確認されたのは、本人確認、拒否窓口、期限、異議受領、再交渉日です」
一拍置く。
「この放送は、各地域の合意を代表しません。聞かなかった人を反対に、聞いた人を賛成に数えません」
乱馬が指を一本上げる。
機材賃金の一人目、支払確認。
カナタは続けた。
「北部路の再確認は午前六時。第七厨房は休業。病院は患者別の接続確認を継続。剛嶺の期限付き委任は午後四時に一部失効。水上区は午前九時に水位再測定。平文室は認証担当を分割。記憶庫は一資料の不提出を継続しています」
英雄の名前を読まない。
中央塔で誰が誰を殴ったかも、まだ読まない。
事実確認と医療情報の公開範囲が決まっていないからだ。
放送の最中、視聴端末の数字が下がった。
三百六。
二百八十九。
二百五十七。
カナタは声を強めなかった。
乱馬も、数字を隠さなかった。
最後まで聞いた人数が正しさではない。
途中で離れられたことも、放送の成果だった。
「次の再確認時刻は、地域ごとに異なります」
カナタは言った。
「同じ日にしない理由は、同じ生活ではないからです」
そこで放送を終えた。
終幕音は鳴らさない。
乱馬が送信つまみを戻す。
「地味だな」
「失敗作?」
「俺の基準では」
「僕の基準でも」
「また作る?」
「作る。成功するとは言わない」
「それなら出演料を先に払え」
「未払い二人は?」
乱馬は指を二本上げた。
「今、両方終わった」
「じゃあ、今日はそこだけ成功」
「小さいな」
「小さい成功は、次の失敗を隠しにくい」
乱馬は笑わなかった。
技術表の未払い欄へ、二つの確認印を押した。
午前一時〇二分。
外環共同病院で、時雨ミソラは寝ていた。
十八時間ではない。
今回は九十分の予定休息。
ベッド脇には、中央停止後の患者一覧がある。
十六人のうち、接続継続六、地域手動五、判断保留三、説明拒否一、既存指示代行一。
数字は変わっていた。
判断保留の一人が地域手動へ移り、接続継続の一人が説明を受け直して保留へ戻った。
合計は同じ。
意味は違う。
当直医は一覧を書き直さなかった。
変更履歴を足した。
ミソラが目を覚ましたのは、休息終了の七分前だった。
時計を見る。
起きようとする。
椅子に座った看護師が言った。
「七分あります」
「患者が」
「生きています」
「変化は」
「あります」
「説明して」
「七分後に」
「今聞けば、七分後に動ける」
「今聞くと、今から働く」
ミソラは黙った。
慢性痛のある右手を布団の上へ置く。
「医療予算の会議、午前十一時」
「知っています」
「設備停止で浮いた金を、全部治療へ回す案が来る」
「良い案では」
「厨房と搬送の賃金を消して治療だけ増やすなら、病院が患者を作る」
「寝ながら議論しないでください」
「寝言」
「録音しますよ」
「撮影しない保護を申請する」
「音声です」
「じゃあ、ただの拒否」
看護師は時計を見た。
「あと五分」
ミソラは目を閉じた。
勝利の翌朝に、医療者が眠れることを、誰も祝わなかった。
眠れない患者がいるからではない。
眠ることを祝賀に変えると、次に眠れなかった時に敗北になるからだ。
午前一時十八分。
市民記憶庫で、石英綺理は一件の消去依頼を受け取った。
依頼者は、自分の黒雨当日の映像を消したいと書いている。
映像には、中央の救助が成功した場面と、家族を置いて逃げた本人の姿があるらしい。
綺理は内容を再生しなかった。
「歴史的価値が高い」
若い管理者が言った。
「高いかもしれない」
「中央決裁がなくても救助が機能した証拠になる」
「なるかもしれない」
「なら、保留を勧めませんか」
「勧める」
「消去は止める?」
「止めない」
綺理は依頼書へ、三つの日付を書いた。
本人確認日。
再確認日。
消去可能日。
「今すぐ消さないんですね」
「本人が、今日の自分だけで明日の自分を縛らないため」
「保存するんですね」
「消す準備をする」
「同じでは」
「違う」
綺理は鍵を二本、別々の封筒へ入れた。
一方は依頼者。
もう一方は、依頼者が選んだ受領者。
「消すにも、所有者の手が要る」
「歴史が失われます」
「失う責任を、歴史家だけが持つのも危ない」
棚の奥には、冬城に有利だったかもしれない一資料が残っている。
綺理は今日も開けなかった。
中央決裁が止まったからといって、拒否の期限が切れるわけではない。
午前二時三十六分。
剛嶺では、鷹取由良が治水溝へ入っていた。
英雄の帰還を祝う灯りはない。
泥水。
崩れた土嚢。
逆流した排水。
期限付き委任のうち、七件が午前二時に失効している。
由良は、その七地区へ命令できない。
「溝を開けろ!」
住民が怒鳴る。
「委任が切れてる」
「水は待たない!」
「だから、ここにいる人が決めて」
「おまえが一番知ってる」
「知ってることと、決める権利は違う」
「面倒な女だな!」
「知ってる」
由良は泥へ膝をついた。
図面を広げる。
《帰巣線》は使わない。
水の行先は、人の帰る場所ではない。
「こっちを開ければ、下の三軒へ水が行く。こっちを塞げば、上の畑が沈む」
「両方守れ」
「無理」
「英雄なら」
「英雄は再演区画で廃業した」
「じゃあ何だ」
「地図を持ってる人」
由良は図面を住民へ渡した。
「決めて。私は開け方をやる」
十五分後、住民は畑を沈める方を選んだ。
理由は、三軒に寝たきりの老人がいるから。
その判断で失われる苗の数を、由良は別欄へ書いた。
救った家と、失った畑を同じ成功へまとめない。
排水板を開く時、由良の赤索が泥へ沈んだ。
彼女は一人で引かなかった。
「手、貸して」
さっき怒鳴った住民へ言う。
「命令か」
「依頼」
「断れる?」
「断れる。断られたら、別の人を探す」
「水は待たないぞ」
「それはさっき聞いた」
二人で索を引いた。
水が畑へ流れた。
老人の家から遠ざかった。
午前三時〇八分。
水上区で、碧路紬は水位棒を読み直していた。
前夜の数字より、二センチ低い。
「協定が発効したのに」
商船組合の男が言った。
「協定は雨を降らせない」
「役に立ってない」
「今日止めなかった水を数える」
「止めた工場もある」
「数える」
「魚が死んだ」
「数える」
「何でも数えれば責任を取ったことになるのか」
「ならない」
紬は酸素管を鼻へ掛けた。
右肺の癒着が、夜明け前の冷気で痛む。
「数えないと、責任を取る相手も分からない」
「次の渇水も、また話し合う?」
「水がある時も話す」
「面倒だ」
「水位が違う場所で、簡単な約束はだいたい上の人に便利」
男は水位棒を睨んだ。
「次の再交渉日、早められないか」
「できる」
「協定違反?」
「再交渉日は、遅くともその日に開くという意味。早く開く窓口は閉じてない」
「知らなかった」
「説明不足」
「誰の」
「私たちの」
紬は記録板へ、自分の名前を書いた。
能力を使わなかった交渉人にも、説明不足の責任は残る。
午前三時四十五分。
決裁中継室で、水科イオは賃金表を貼り直していた。
中央手動系の労働者百十二人。
七日間の賃金保証は、今日で二日目。
八日目からは決まっていない。
「中央がなくなったなら、仕事もなくなる?」
若い整備員が聞いた。
「設備は残る」
「中央給は」
「残ってない」
「地域が雇う?」
「まだ」
「勝ったんだろ」
「誰が」
「そっち」
「私は能力を失って、給料も低いまま、回転床を止めた」
イオは左右で違う靴を見せた。
「これを勝ちって呼ぶなら、賞金を出して」
「ない」
「じゃあ仕事」
「それもないかもしれない」
「だから作る」
「どうやって」
「操作、保守、賃金、異議、医療連絡を分ける。雇い主も一つにしない」
「また面倒になる」
「面倒を、低い給料の人間だけへ押しつけない」
イオは賃金表の空欄を消さなかった。
《八日目以後――未決定》
その横へ、相談窓口の時刻を書いた。
未決定は、無給の別名になりやすい。
だから空欄へ窓口を付ける。
御厨朝は、部屋の端で黒い杖を磨いていた。
午前九時から、自分の審理がある。
中央決裁中継の設計、過半歩の使用、強制された異議の反証、文言の承認。
協力したから消える責任はない。
「寝ないんですか」
イオが聞く。
「寝る」
「今?」
「三十分」
「審理前に?」
「審理中に寝るよりいい」
「杖、磨く必要ある?」
「泥が付いている」
「審理官は杖を見ない」
「私は見る」
朝は布を置いた。
「歩けることを立派に見せるためではない。どこで汚れたか、忘れないため」
「名言?」
「手入れ」
朝は杖を壁へ立て、椅子で眠った。
午前五時十二分。
中央塔の医療室で、迅の右手に固定材が巻かれた。
「中手骨に亀裂」
医師が言う。
「一本?」
「数を聞いてどうする」
「少ない方が気分がいい」
「手術は不要。四週間固定。二週間は打撃禁止」
「四週間じゃなくて?」
「四週間は固定。打撃禁止は、固定が外れても延長する可能性がある」
「長くなった」
「殴った相手へ文句を言え」
「言いにくいな」
「なぜ」
「俺が殴った」
医師は迅の顔を見た。
「では自分へ」
「もっと言いにくい」
右手は手首から指の付け根まで白く固定された。
親指だけが動く。
小指と薬指の古い痺れは、腫れに紛れて分からない。
医師が、手首の誓痕を見た。
七つの黒い節。
最初の頃より薄い。
昨夜の反証後、最も外側の一節が皮膚の色へ戻り始めている。
「消える?」
迅が聞いた。
「分からない」
「便利な答え」
「医療は、分からないを請求書へ書く仕事でもある」
「高そう」
「固定材より安い」
医師は診療票へ、《誓痕退色、経過観察》と書いた。
迅は右手を持ち上げた。
重い。
拳を作れない。
作れないことに、安心はしなかった。
不安もしなかった。
手は、拳以外にも使う。
それを覚えるまでに費やした時間を、迅は数えなかった。
本人の生活は、覚える前と後できれいには分かれない。
「椅子、引ける?」
医師が聞いた。
「何で椅子」
「帰る前に十五分安静」
「立ってる」
「座る」
「命令?」
「医療上の勧告」
「拒否できる?」
「できる。拒否理由と転倒時の責任を書いて」
「座る」
「賢い」
「面倒なだけ」
迅は左手で椅子を引いた。
まだ右手ではない。
午前六時。
凱は中央塔の旧会議室で、十一枚の期限札をめくった。
七月一日に受け取った失効通知。
五枚は失効済み。
三枚は地域文へ移行。
二枚は受領保留。
一枚は中央設備の技術維持だけ、四十八時間延長。
王位復帰の通知は、効力なし。
凱はそれを破らなかった。
《受領せず》と書き、返却箱へ入れる。
机の上には、母から送られてきた小さな鍋があった。
誕生日の豆粥を入れていた鍋。
洗って返すつもりだったが、中央塔へ来る前に時間がなかった。
迅が医療室から戻ってきた。
右手は白い固定材。
「似合う」
凱が言った。
「褒められてる気がしない」
「白は清潔そうだ」
「おまえの冠も白かった」
「それは褒められてない」
「公平だ」
凱は鍋を持ち上げた。
「これ、返す」
「今?」
「中央塔を本部にしないなら、私物を置かない」
「鍋一個で本部になる?」
「一個目は、だいたい鍋か椅子だ」
「国って台所から始まるのか」
「終わるのも台所かもしれない」
「小麦に言うと怒られるぞ」
「なぜ」
「台所は国より先に腹を満たしてた、って」
凱は笑った。
扉の外から七瀬と真琴が入ってきた。七瀬は撮影機を廊下へ置き、真琴は返却箱の鍵を閉めている。
「鍋、まだ中身があります」
七瀬が言った。
底に、豆粥が椀一杯にも満たない量だけ残っていた。冷え、表面に薄い膜が張っている。
「返す前に食べるのは、返却物の減損です」
真琴。
「食べ物を入れたまま返す方が、母に怒られる」
凱は小さな椀を四つ探した。三つしかない。迅が固定された右手を上げる。
「俺、鍋からでいい」
「行儀が悪い」
「王の母の鍋だぞ。格式ある直食い」
「王は終わった」
「じゃあ普通に行儀が悪い」
七瀬が粥を三つの椀へ分け、鍋底を迅へ渡した。迅は左手で持とうとして、白い固定材を鍋縁へぶつける。豆が一粒、外套へ飛んだ。
凱が先に笑った。七瀬も笑い、真琴は口を押さえたが間に合わなかった。
「中央塔の最終決戦より、食事の方が下手ですね」
「最終決戦は床が動かなかった」
「床は動きました」
「じゃあ鍋が強い」
四人の笑い声は、中央回線へ流れなかった。誰の支持にも数えられず、翌朝の記録にも残らない。
迅は鍋底の豆を左手の匙で掬った。
「冷たい」
「誕生日から六日です」
「食べさせるなよ」
「先に口へ入れたのはおまえだ」
凱はまた笑い、胸を殴られた場所が痛んで、すぐに顔をしかめる。
「骨は」
「折れてない」
「膝は」
「腫れてる」
「座れ」
「おまえが言う?」
「医師に言われた」
「医療知識の横流しだな」
二人は旧会議室の椅子へ座った。
中央席ではない。
壁際の、脚が少し短い二脚。
迅は左手で、手首の赤い七結びを結び直した。長い間に色が薄れ、一つ目の結び目だけが毛羽立っている。右手は固定材の中で動かせない。
凱がその紐を見る。
「岳なら、何て言う」
「知らない」
「考えないのか」
「考える。でも、答えにはしない」
凱は少し黙った。
「俺は、おまえの兄を便利に使いかけた」
「今も使いかけた」
「悪い」
「聞くのはいい。代わりに喋らせるな」
「分かった」
「分かったで終わるな。次も聞け」
「面倒だな」
「死んだ人を正解にするより軽い」
迅は結び目を締めすぎず、指一本ぶんの緩みを残した。捨てもしない。誓痕が薄くなるから外すのでもない。
岳が何を答えるかは、空白のまま手首に残った。
午前八時三十分。
冬城征士郎の決裁権停止が正式に記録された。
停止対象は、全地域を一つの回答へ固定する権限。
中央設備の再使用承認。
統括者の自動指定。
異議を賛否へ変換する権限。
医療情報を閲覧する権限ではない。
病院の治療を指示する権限でもない。
技術資料へ意見を出す権利まで奪わない。
彼は病院にいた。
不整脈は薬剤で一度安定し、腎機能は急性増悪の管理下。右前腕には打撲と銀具圧迫痕。骨折はない。
迅の拳は冬城を倒した。
殺していない。
改心させてもいない。
病室の端末へ、権限停止通知が届いた。
冬城は左手で読んだ。
右手は固定されている。
「異議提出期限は」
同席する審理書記へ聞く。
「七月十四日。医療上の理由があれば延長申請可」
「再使用停止は技術的に早すぎる」
「書面で」
「中央塔の反証返却弁は、地域別運用だけでは同期誤差が出る」
「書面で」
「人が死ぬ」
「その可能性も書面で」
冬城は端末を置いた。
「君たちは、紙へ逃げる」
書記は答えた。
「あなたは決裁へ逃げたと認定されています」
「認定は真実ではない」
「異議欄があります」
「便利だな」
「不便だから残しています」
冬城は目を閉じた。
全面改心はしない。
自分が必要だったという考えも捨てない。
ただ、今は右手を使えず、決裁環へ触れられず、異議を一枚ずつ書くしかない。
その遅さを、彼は罰とは呼ばなかった。
午後一時二十二分。
中央塔の技術保全室へ、銀具が運び込まれた。
七枚の薄い板。
一本の接触針。
迅の拳で外れた右手側の固定環。
血は洗わない。
油も拭き取らない。
事故時の位置を示す白線だけを床へ引き、透明な箱へ入れる。
保全室には、三つの意見が届いていた。
《即時溶解》
《永久封印》
《技術資料として再利用》
即時溶解を求めたのは、反証転嫁を受けた若者たちの一部。
永久封印を求めたのは、審理の証拠保全担当。
再利用を求めたのは、上水と病院の同期設備を扱う技術者たちだった。
どれも理由がある。
どれも、ほかの二つを黙らせれば危険だった。
右腕へ包帯を巻いた開閉責任者が、箱の前へ三枚の札を置いた。
「保全と再使用停止は決まっています。保全期間後の扱いは未決定です」
「未決定のまま置けば、誰かが使う」
若い反証受領者が言った。
「決めて置けば、決めた人がいなくなった後も残ります」
「だから溶かす」
「溶かせば、構造を検証できません」
「構造なら図面がある」
「図面と現物が違ったから、ここまで来ました」
技術者が答える。
「この固定環には、設計図にない磨耗痕がある。転嫁量を増やす調整が現場で行われた可能性があります」
「また使う理由にするな」
「使いたいんじゃない。次を作る時に、同じ傷を見落としたくない」
「次を作るな」
「上水の同期弁も、病院の呼吸器連結も、同じ規格の一部を使っている」
「じゃあ全部壊せ」
「今日、患者が死ぬ」
言葉が止まった。
壊せば終わるものと、壊すことで始まる被害は、同じ箱へ入らない。
真琴が三枚の意見札を見た。
「この銀具について、今日決められる範囲を分けます」
「また分けるのか」
「一つにすると、誰かの理由が消えます」
真琴は白紙へ書いた。
《証拠保全――七月二十九日まで》
《再使用――停止》
《分解調査――所有者、被害当事者、技術担当の三鍵》
《溶解――未決定》
《技術転用――未決定》
《次回確認――七月二十九日 午前十時》
「七月二十九日に、また同じ話をする?」
反証受領者が聞いた。
「同じ人が来る保証はありません」
「逃げる人もいる」
「逃げた欄を残します」
「死ぬ人もいる」
「代理人を自動では置きません。本人が指定した範囲だけ」
「面倒だ」
「永久より短いです」
迅は固定された右手で、箱の角へ触れようとした。
医師が手首を叩いた。
「触るな」
「俺の血が付いてる」
「だから証拠」
「俺の物?」
「違う」
「冬城の物?」
「違う」
「じゃあ誰の」
真琴が答えた。
「今は、保全を引き受けた三者の管理物です。所有を決めたわけではありません」
「拳で外したのに、俺の物じゃない」
「殴って手に入るのは、たいてい治療費です」
開閉責任者が真顔で言った。
迅は笑いかけ、右手の痛みに顔をしかめた。
「高い戦利品だな」
「戦利品にしない」
反証受領者が言った。
声はまだ硬い。
「展示もしないで。迅の拳と一緒に並べたら、また誰かが殴れば終わると思う」
「同意する」
七瀬は撮影機を下げた。
「箱の外観だけ。中身の拡大は、被害当事者の確認後」
「撮らないの?」
「撮れることと、今出すことは別」
技術者が固定環を指した。
「磨耗痕の寸法だけは、今日測りたい」
「何に必要」
「今夜動かす地域弁の点検基準」
「銀具そのものを使う?」
「使わない」
「再現部品を作る?」
「作らない。危険な幅を避けるための上限値だけ」
「誰が受け取る」
「病院、上水、暖房の各技術責任者」
「中央へ一本にしない?」
「しない」
反証受領者は、少しだけ肩を下げた。
「なら、測るところを見る」
「止めたければ」
「止める」
三鍵のうち、一つが彼女へ渡された。
被害を受けたから、すべてを決める権利が生まれるわけではない。
技術を知るから、再使用を決めてよいわけでもない。
拳で外したから、勝者が所有するわけでもない。
透明箱の中で、銀具はただの部品に戻りかけていた。
ただの部品に戻すために、三人が鍵を持つ。
それは少し矛盾していた。
矛盾を消さず、箱へ書いておくことにした。
午後九時。
七瀬は、中央塔の記録室で最後の編集をやめた。
映像は分散したまま残す。
迅が冬城を殴った映像。
凱が撮影停止を求めた空白。
真琴の代替記録。
九地点の違う受領音。
冬城の搬送。
中央席の空画。
一つの順番へ並べれば、物語になる。
誰が正しく、誰が間違い、誰が勝ち、誰が敗れたか。
見やすくなる。
七瀬は見やすくしなかった。
閲覧者が、地域別の索引から選ぶ形式にした。
最初に表示されるのは、英雄の顔ではない。
《どの場所から見るか》
北部路。
厨房網。
平文室。
放送所。
病院。
記憶庫。
剛嶺。
水上区。
決裁中継室。
中央塔。
十番目に中央塔を置いた。
迅が横から画面を見る。
「中央、最後じゃないのか」
「索引だから、並べ替えられる」
「じゃあ十番目にした意味は」
「私がそうしたかった」
「正直だな」
「中立のふりをすると、編集が隠れる」
七瀬は左肩を揉んだ。