第604話 第十二章「再交渉の日」後編
朝から固定台を押し、記録箱を運び、閲覧範囲を確認したため、鈍い痛みが肩甲骨まで広がっている。
「終わる?」
迅が聞いた。
「作業?」
「話」
「何の」
「俺たちの」
七瀬は少し考えた。
「終わったものはある」
「王とか」
「王位制度は終わった。冬城の強制決裁も止まった。今回の招集も失効する」
「じゃあ終わり?」
「肩は痛い。小麦は豆が足りない。澪は診療。巴は自分への異議を受けてる。ミソラは予算で揉める。イオは八日目の給料がない。由良の畑は沈んだ。紬の水位は二センチ下がった。綺理は記憶を消す準備をしてる。朝は審理」
「終わってないな」
「事件は終わる。生活は、終わったら困る」
「名言?」
「左肩の愚痴」
「似てるな」
「名言は、愚痴から責任を抜くとできるのかも」
「じゃあ抜くな」
「うん」
七瀬は画面を閉じた。
中央塔の記録室に、何も上映されなくなる。
机の端には、市民記憶庫から照会だけを受けた未再生断片があった。蔵座の競売後も開けなかった、火群灯里の編集室記録。
七瀬は再生鍵へ触れない。
保管先変更票を開き、《中央塔・個人記録棚》の欄へ斜線を引いた。次に、《市民記憶庫・二鍵共同棚》と書く。もう一本の鍵を持つ者は、七瀬一人では決めない。
「見ないの?」
迅が聞く。
「今は」
「いつ」
「決めていません」
「母親の続きを、他人に預ける?」
七瀬は変更票へ署名した。
「母の続きを、私一人の順番にしない」
「許した?」
「それも、まだ」
未再生断片は、中央塔の物語へ入らなかった。内容を開かれず、二鍵共同棚へ戻る便に載せられた。
午後十一時四十七分。
七月七日の残りは、十三分だった。
九つの場所で、再交渉日の紙がめくられた。
北部路では、木札の七月十四日。
十二厨房では、厨房ごとに違う日。
第七厨房は七月九日。
第九厨房は七月八日。
第一厨房は七月十一日。
平文室では、認証担当の見直し日が七月十日。
放送所では、次の運用確認が七月十二日。放送予定ではない。送信機、退出口、賃金、字幕の確認日。
病院では患者ごとの日付。
明日。
三日後。
一週間後。
状態変化時。
本人希望時。
記憶庫では、消去依頼の再確認日が七月二十一日。
剛嶺では治水判断の再委任が夜明け。
水上区では水位が基準を二センチ下回ったため、予定より早い七月八日午前九時。
決裁中継室では、賃金保証の再交渉が七月九日。
同じ日ではない。
同じ紙でもない。
中央塔の旧決裁室には、何もめくる紙がなかった。
中央が次を決めないからだ。
真琴は、中央席の前へ五枚の小さな札だけを置いた。
本人確認。
拒否窓口。
期限。
異議受領。
再交渉日。
札は固定しない。
糊も使わない。
明日、誰かが順番を変えられる。
「憲法みたいだな」
迅が言った。
「違う」
真琴が即答する。
「憲法にしたら、誰が変えるかを決めなければならない。これは最低条件の確認札。地域本文を支配しない」
「じゃあ何て呼ぶ」
「呼ばなくていい」
「名前がないと困らない?」
「困る」
「最近、そればっかりだな」
「困ることを、中央を作る理由へ自動変換しないって決めたから」
凱は中央席から三歩離れた場所に立っていた。
左膝の装具。
胸の打撲。
二十一歳。
冠はない。
「空白の旗は?」
七瀬が聞く。
「何が」
「これから」
凱は迅を見た。
迅は白い固定材の右手を見た。
「国にする?」
七瀬が続ける。
「しない」
二人が同時に答えた。
「そこは揃うんだ」
「揃ってもいい答えはある」
凱が言う。
「揃えることを条件にしなければ」
真琴は空白の旗の活動票を開いた。
仕事名。
担当。
範囲。
証者。
終了条件。
国家名の欄はない。
「空白の旗は、必要な仕事ごとに作る」
「ずっと続く?」
「終了条件まで」
「終わったら」
「返す。解く。別の名前にする。何もしない」
「迅は」
七瀬が聞く。
「何だよ」
「王にならない?」
「右手がこれだぞ」
「治ったら」
「ならない」
「理由は」
「王を殴るのと、王になるのは別の仕事だから」
「誰かに求められても」
「断る」
「断ったせいで困る人がいても」
迅はすぐには答えなかった。
格好をつけるなら、ここで迷わず言うべきなのかもしれない。
だが迅は、迷わないふりをする気がなかった。
「困る」
やがて言った。
「俺も困る。そいつも困る。別のやり方を探す。見つからないかもしれない」
「それでも?」
「王にはならない」
「格好よくないね」
「格好よく言うと、後で字幕にされる」
「乱馬が消すよ」
「毎回頼むのも悪い」
七瀬は笑った。
午前零時まで、あと四分。
中央席は空いている。
その周りに、作業用の折り畳み椅子が六脚あった。
誰も座っていない。
迅は立っているのに飽きた。
「椅子、使っていい?」
真琴が聞く。
「誰に許可を取る」
「開閉責任者?」
「設備台帳では、旧決裁室備品」
開閉責任者は入口にいた。
「使用後、壁へ戻せば構いません」
「期限は」
「今夜の退出まで」
「拒否窓口は」
「私」
「異議は」
「床を傷つけたら受けます」
「再交渉日」
「椅子に必要ですか」
「五つ揃えないと中央が怒る」
「中央は、もう怒りません」
職員は少し考えた。
「明朝、備品確認。そこを再交渉日に」
「椅子一脚に大げさだな」
「大げさな手続きは、たまに冗談になります」
迅は壁際へ行った。
左手なら簡単に引ける。
だが右手の固定材へ、椅子の背を引っ掛けた。
「何してるの」
七瀬が聞く。
「使えるか試してる」
「医師に許可された?」
「椅子を引くなとは言われてない」
「打撃禁止って、椅子も含むと思う」
「殴らない」
迅は固定した右手で、ゆっくり椅子を引いた。
白い固定材が木の背へ擦れる。
右手には力が入らない。
椅子の脚が床の継ぎ目へ引っ掛かった。
動かない。
迅は強く引かなかった。
左足で椅子の脚を少し浮かせ、右手は方向だけを保つ。
椅子が動いた。
中央席へは運ばない。
空席から三歩離れた、壁際の机へ置く。
座る。
凱が隣の椅子を左手で引いた。
真琴は五枚の札を箱へ戻す。
七瀬は撮影機を中央席へ向けたまま、自分は画角の外へ座った。
午前零時。
どこか一か所で鐘が鳴ることはなかった。
北部では笛。
厨房では鍋。
平文室では紙。
放送所では送信機の冷却音。
病院では呼吸器。
記憶庫では鍵。
剛嶺では水。
水上では係留索。
中継室では杖。
それぞれ別の時刻に、別の仕事を続けている。
中央席は空いたままだった。
迅の椅子の脚が、床を一度だけ擦った。
誰の号令でもない音で、その日の仕事が始まった。