第168話 第十章「一分ずれた採決」後編
午前八時二分。
最初に倒れたのは、票ではなく長椅子だった。
公開傍聴の列が、秋枝の変更票を見ようと前へ寄る。
後ろから「汚染票だ」と叫ぶ声。
前から「初回票を捨てろ」と返す声。
誰かが透明板へ手を伸ばす。
別の誰かが、その手を掴む。
長椅子の脚が石床を滑る。
ぎ、と木が鳴る。
凱は音の方向へ身体を向ける。
人が一斉に後ろを見る。
後ろを見ると、足は前へ残る。
一人が躓く。
その肩へ次の人が乗る。
群衆は、怒りより早く重くなる。
「押すな!」
叫びが、押している人間を増やす。
榛名が動いた。
「左通路、開放。盾、外向き。前進禁止」
八語以内。
治安隊員が透明盾を持ち上げる。
人を押し戻す壁ではない。
斜めに置き、左右へ流す導線にする。
だが、中央の長卓が傾いた。
八本の透明管が転がる。
秋枝の二枚票を入れた板が、卓の端へ滑る。
下は、時計機構の吹き抜け。
柵まで三メートル。
凱は卓へ手を伸ばす。
左膝が、長椅子の脚へ当たる。
装具がずれ、関節へ鋭い痛み。
倒れる方向へ踏み出せない。
右足を軸に、身体を回す。
卓の縁を両手で掴む。
重い。
卓そのものより、群衆の腕が乗っている。
「手を離せ!」
榛名が叫ぶ。
誰へか分からない。
人々は、さらに掴む。
命令は短くても、対象が見えなければ届かない。
凱は卓を支えながら言う。
「俺を見るな!」
旧白冠の者が、反射的に凱を見る。
「足元を見ろ! 自分の前の一人だけ、立たせろ!」
王路不退は呼ばない。
王の道を空けさせない。
自分の前の一人。
それなら、誰も全員を救おうとしなくていい。
倒れた人の隣が、腕を入れる。
その隣が、長椅子を蹴り出す。
後ろの者が、前ではなく横へ半歩ずれる。
榛名の盾列が、左通路へ隙間を作る。
「走らない。横向き。荷物は床へ」
命令が具体的になる。
誰かの靴が脱げた。
小さな黒い靴。
榛名の顔から、色が引く。
一秒。
彼の左耳へ、過去の音が戻ったように見えた。
だが、止まらない。
盾を床へ伏せる。
「子ども一名、靴なし。位置、中央左」
靴の持ち主は、長椅子の下へいる。
タマキが低い隙間へ潜る。
「名前」
「言えない!」
「じゃあ、靴の色」
「黒!」
「片方?」
「片方!」
「足、痛い?」
「分からない!」
「動かさない」
タマキは子どもの足首へ触れず、長椅子の位置を確認する。
轟が反対側へ来る。
左肩は使わない。
長椅子の背へ右手を掛け、腰で持ち上げる。
「床、泣くぞ」
低い声。
周囲が一歩退く。
轟の比喩を知る者だけでなく、床が本当に壊れると思った者も退く。
一秒の空間。
タマキが子どもを引き出す。
榛名は拾った靴を左手で持つ。
紐が切れている。
その場で結ばない。
まず持ち主へ見せる。
「あなたの靴ですか」
子どもがうなずく。
「触れてよいですか」
もう一度、うなずく。
榛名は切れた紐を短く結び直す。
一方、卓はまだ傾いている。
凱の左膝が震える。
透明板が、端から落ちる。
迅が七歩を取る余地はない。
彼は前へ入り、右手ではなく左前腕で板を受ける。
秋枝の二枚票が、透明板の中でずれる。
重ならない。
「持った」
迅。
「どこへ」
凱。
「誰へ渡す」
タマキが長椅子の下から出ながら訊く。
凱は、空席を見る。
壁際。
白布の畳まれた椅子。
「そこへ置け」
「誰の席」
「今は、紙の置き場」
「受取人は」
「八地区記録卓」
「目的」
「初回と変更を、両方残す」
タマキがうなずく。
迅は透明板を、空席の座面へ置く。
誰も座らない椅子が、初めて一人分の意見ではなく、二枚の変化を支える。
凱は卓を戻す。
周囲の住民が、脚へ角材を入れる。
一人ではない。
八本の透明管も、手から手へ棚へ戻る。
どの地区の管かを、受渡札で読み上げる。
南。
北。
西。
東。
零番街。
北工。
学塔。
王環。
揃ったのは、位置だけだった。
午前八時十九分。
圧迫された人は七人。
骨折なし。
捻挫二人。
過呼吸三人。
頬を切った者一人。
靴紐が切れた子ども一人。
会議は中断した。
治療路を確保し、人数を確認する。
榛名は、部下の点呼より先に傍聴者の靴を数えた。
一足ずつ。
凱は壁へ座り、左膝の装具を外す。
膝頭が腫れている。
迅が隣へ来る。
「折れた?」
「違う」
「分かるのか」
「折れた時は、もっと腹が立つ」
「便利な診断」
「お前の右手は」
「痺れた」
「使ったな」
「板だけ」
「板は殴り返さない」
「椅子より弱い」
凱は笑いかけ、膝の痛みで息を止める。
「王は?」
迅が訊く。
「何が」
「さっき、命令した」
「避難指示だ」
「名前で呼ばせるの、忘れてた」
凱は、広間を見る。
誰も陛下とは呼ばなかった。
指示を聞いたのは、王だからではない。
倒れた人がいたからだ。
「忘れていない」
「ならいい」
「お前は、三歩も退かなかったな」
「場所がない」
「場所があれば」
「分からない」
「新年らしい」
「何が」
「正直」
「年と関係ない」
榛名が近づく。
左手に、結び直した黒い靴。
持ち主へ返した後なのに、同じ形を確認するよう手帳へ寸法を書いている。
「先ほどの指示」
彼は凱へ言う。
「有効でした」
「礼か」
「評価です」
「いらない」
「私も、あなたの評価は求めません」
「気が合うな」
「合いません」
榛名は、空席に置かれた二枚票を見る。
「群衆事故は、情報を増やすほど悪化することがあります」
「さっきは、命令を減らした」
「対象を絞りました」
「一人ずつ、前だけ見させた」
「全体指揮を捨てたのですか」
「全体を、一人で持てないと認めた」
「認めるだけでは、群衆は動きません」
「お前の盾が動かした」
「盾だけでも」
「潰れた」
二人とも、続きを言わない。
榛名の右頬の傷。
凱の左膝。
身体に残るものは、正しい結論を教えない。
ただ、同じ失敗を簡単には忘れさせない。
「議論を再開します」
榛名が言う。
「負傷者の退出確認後」
「俺の提案は」
「検討対象に入れます」
「認めるのか」
「異議があります」
「なら入れろ」
「入れます」
彼は、凱の五項目の横へ自分の条件を書く。
《初回票を封印する。》
《初回時点の受領情報を一覧化する。》
《変更は上書きでなく追加する。》
《変更期限を事前に決める。》
《変更理由へ異議申立て〈バック・コール〉を認める。》
《記録者と通訳者を複数にする。》
凱の案より細かい。
「同意したように見えるぞ」
「監査条件です」
「言葉は便利だな」
「王という言葉よりは」
「それは認める」
午前九時四十八分。
会議は再開した。
秋枝の初回票と変更票は、空席の上に並ぶ。
透明板の左右。
初回。
変更。
矢印はない。
上も下もない。
秋枝が自分で、二枚の間へ細い紙を置いた。
《聞いたこと――北塔で、代表を待った。移動中参加者を待った。》
さらに時刻。
初回票、十二月三十一日十四時五十六分。
北塔発言を聞いた時刻、一月一日六時四十八分。
変更票、六時五十八分。
十分钟。
榛名が言う。
「十分あれば、条件は作れます」
「一分でも作れる」
秋枝。
「だから危険です」
「だから書いた」
「一分後に変えた票も、同じ重さで認めますか」
凱が答える。
「同じではない」
「なら」
「初回と、一分後。違う重さのまま残す」
「集計できません」
「集計の前に、何を決める票か分ける」
真琴が板へ新しい欄を作る。
《制度の原則》
《運用条件》
《個別案件》
「秋枝さんの初回票は、参加場所が必要という原則へ賛成。変更票は、常設一席という運用へ反対し、案件別枠へ賛成」
「一票を分解するのか」
「もともと、三つの問いが一枚に入っていました」
巴が手話で加える。
《同じ「賛成」に、違う対象が入っていた。》
榛名が問う。
「それを今、分けるのは後出しでは」
《分けた時刻を記録します。》
「また変更です」
《はい。》
巴も否定しない。
「全員が、後から意味を足せる」
榛名。
「足せる」
凱。
「なら、最初の票は何のためです」
「最初に、自分が何を分かっていなかったか残すためだ」
広間が静かになる。
投票は、正しさを証明する紙ではない。
その時の自分を、後から消さない紙になる。
「一分ずれれば、別の答えです」
榛名が言う。
「そうだ」
「同時採決ではありません」
「そうだ」
「では、一つの決定と呼べない」
凱は、八本の透明管を見る。
「一つの決定は、一つの秒にあるんじゃない」
「どこに」
「変えていい範囲を、全員が先に認めた時にある」
「今回は、先に認めていません」
「だから、昨日の票だけで制度成立とは言わない」
凱ははっきり言った。
会場の一部から、不満の声。
「八地区は決めた!」
「またやり直すのか!」
「無効を認めるのか!」
凱は声の方を見る。
「昨日の判断は、無かったことにしない。だが、昨日決めていない変更の規則を、後から決めたふりもしない」
「じゃあ負けだ!」
「誰に」
「中央に!」
「中央を倒す話にするな」
凱の声が低くなる。
「昨日の八地区は、参加枠の必要、常設一席への疑問、撤回の必要を出した。今日、それをどう連結するか決める。勝ったことにして急げば、榛名と同じだ」
榛名が眉を動かす。
「私と同じ、とは」
「正しい形を先に決め、人を入れる」
「あなたも、五項目を先に出しました」
「だから、お前の条件を入れた」
「私の条件だけで十分では」
「お前一人に監査させない」
「信用がない」
「ある」
榛名が初めて、返答を失う。
「信用があるから、一人にしない」
「矛盾しています」
「信用は、仕事を減らすためにある」
西市場の老人が以前言った言葉を、凱は知らない。
同じ街では、似た言葉が別の場所から出る。
「一人へ全部預けるのは、信用じゃない。祈りだ」
旧白冠の人々が、痛そうな顔をする。
凱自身も同じだった。
午前十一時五十六分。
正午予定の公開確認は、終わらなかった。
榛名は時計を見る。
「延長の判断が必要です」
以前なら、彼自身が期限を決めただろう。
今は、参加者へ問う。
「対象、公開確認。延長案、十四時まで」
反対が出る。
負傷者の治療。
配給作業。
夜勤。
子どもの迎え。
巴が、延長の不参加を認める欄を作る。
真琴が、今日決める項目を三つへ絞る。
一、昨日の初回判断を保存する。
二、変更を上書きせず追加する。
三、八地区が共有できる最小条件を、明日までに相互確認する。
制度の細部は、今日決めない。
榛名が訊く。
「明日の基準時刻は」
誰もすぐ答えない。
凱も答えない。
北塔の青年が手を上げる。
「各地区が確認を終えた時刻を全部出す。中央は、最後の時刻を閉会時刻として記録する。でも、前の地区の判断を最後へ合わせて書き換えない」
「後の結果を見られます」
榛名。
「見たら、見たと書く」
「理由を偽る危険」
「異議を出せるようにする」
「誰が裁定する」
「一人じゃない人」
巴の言葉を、青年が使う。
榛名は、苦い顔をした。
「制度文として不十分です」
「だから、巴に払う」
巴が即座に料金板を出す。
《地域確認者八名を含む。追加料金。》
会場の何人かが笑う。
榛名は笑わない。
だが、料金板を記録対象へ入れた。
専門家の労働費が見えなければ、最後に無料で働ける一人へ権力が集まる。
正午を一分過ぎた。
中央時計が十二時一分を示す。
誰も、その一分だけで会議を無効とは言わなかった。
代わりに、延長決定時刻として記録した。
空席の上では、秋枝の二枚の票が、左右へ並んだまま乾いていた。