第167話 第十章「一分ずれた採決」前編
一月一日 午前五時五十分
新年最初の嘘は、たいてい希望の顔をしている。
今年こそ変わる。
今度こそ揃う。
今日からやり直せる。
獅堂凱は、中央時計塔の玄関で左膝の装具を締め直しながら、どれも嫌いではないと思った。
嫌いではないから、危険だった。
日付が変わっても、昨日の雪は階段に残る。
昨日の無効宣言も、古い年へ置いてはこられない。
塔の中には、もう百人近くがいた。
八地区の代表。
投票者。
記録員。
治安隊。
放送停止を求めた者。
放送を続けた者。
票の無効を支持する者。
無効宣言そのものを無効だと叫ぶ者。
誰も、新年の挨拶をしない。
入口脇の机に、餅だけがある。
乾いて硬くなり始めている。
「食うか」
竜胆迅が訊いた。
壁へ寄りかかり、右手を外套のポケットへ入れている。寒い朝は小指と薬指の痺れが強い。
「今はいい」
「詰まるぞ」
「食わなければ詰まらない」
「会議も同じだな」
「始めなければ揉めない」
「便利」
「便利なものは危険だ」
「新年最初の名言?」
「違う」
「じゃあ食え」
迅は餅を一つ、凱の手へ置いた。
何も付いていない。
「味がない」
「揉めない味」
「それは味ではない」
「会議前に贅沢言うな」
凱は半分だけ食べた。
硬い。
噛むほど、自分の口の音が大きい。
円形会議室の中央には、昨夜封印された記録簿がある。
赤い閉会帯。
その内側へ、巴の異議紙。
外側へ、午後三時以後に到着した六地区の受領札。
原票は地区ごとに透明管へ入れられ、時計のように八本並んでいる。
一本ずつ、違う時刻札。
白布の掛かっていた空席は、円卓から外されていた。
壁際へ置かれている。
誰も座っていない。
「凱」
北塔の青年が近づく。
以前なら、陛下と呼んだ。
呼び捨てにする時だけ、まだ肩へ力が入る。
「北塔の説明は、あなたが」
「お前がしろ」
「でも、遅れた原因は」
「俺だ」
「なら、本人が」
「原因を説明するのは俺。地区の判断を説明するのはお前たちだ」
「分けるのか」
「分けないと、また待つ」
青年は黙り、うなずいた。
凱は半分残った餅を、紙へ包む。
「食べ切らないの」
タマキが横から訊く。
「後で」
「送り主」
「迅」
「受取人」
「俺」
「目的」
「詰まらない」
「食べてないから、未達」
「あとで達する」
「時刻、書く?」
「餅にか」
「受領札」
「新年から仕事か」
「新年も住所はある」
「零番街には、まだないだろう」
「だから仕事」
タマキは餅の紙へ、午前五時五十二分と書いた。
「食べたら追記」
「監視が細かい」
「詰まったら会議止まる」
凱は、今度は全部食べた。
午前六時。
榛名柊吾が、中央へ立った。
灰色の外套。
右頬の傷。
革の手帳。
磨かれた靴。
昨日の騒ぎで泥が跳ねたはずなのに、朝には落ちている。
彼は円卓の前へ、三枚の板を置いた。
《現行規則》
《八地区記録》
《異議》
「公開確認を開始します」
低い声。
「目的、無効理由の確認。終了、正午予定」
広間から声が飛ぶ。
「結論は決まってる!」
「時間の無駄だ!」
「八地区を認めろ!」
「放送を止めろ!」
榛名は声の方向を見ない。
足元を見る。
出口までの幅。
人の靴の向き。
転びやすい紐。
「発言、番号順。異議は書面併用」
「また並べるのか!」
「押し合い防止です」
「議論まで管理する気か!」
「人を潰さない範囲で、はい」
反感を買う答えを、隠さない。
凱は榛名の正面へ座る。
高い壇上ではない。
同じ床。
「最初に、時計補正を説明します」
榛名が八枚の命令書を掲げた。
「補正は私の命令です。実行者名、時刻、差分を公開します」
ざわめきが大きくなる。
「工作だ!」
「認めたぞ!」
「票を遅らせた!」
榛名は右手を上げる。
「票面へ触れていません」
「時刻を触った!」
「法定時刻へ合わせました」
「地区ごとに違う日に!」
「機器状態が違います」
七瀬が壁際の記録卓から訊く。
「補正前の時刻を廃棄対象とした理由は」
「中央時刻以外は、正式記録ではないため」
「では、補正した事実は正式記録ですか」
「はい」
「差分も」
「業務簿にあります」
「公開されていませんでした」
「管理板へ公示しました」
「閲覧者確認は」
「不要です」
「なぜ」
「時刻は選択事項ではありません」
榛名は、一歩も引かない。
正確な時計は、住民投票で決めるものではない。
彼の論理は単純だ。
単純な論理は強い。
「補正は、試験でもありました」
榛名が続ける。
広間が静かになる。
「試験?」
凱が訊く。
「地方記録が、法定時刻への補正後も成立するか」
「誰の許可で」
「時刻管理責任者として」
「投票手続きを、告知せず試したのか」
「補正自体は告知しました」
「目的を告知していない」
「公表すれば、試験になりません」
「人の投票を、装備検査と同じにした」
「装備より重要です」
榛名は手帳を開く。
「結果を改竄する意思はありません。むしろ、改竄できないか確認した」
「結果が無効になった」
「規則に耐えなかった」
「規則を試すために、人を使った」
「人を守るための規則です」
凱は、すぐに反論しない。
榛名が守ろうとした人間を訊く。
「誰を」
「先に答える地区です」
「具体的に」
「人口が少ない地区。通信が早い地区。中央へ近い地区。発言力の弱い住民」
「なぜ同時なら守れる」
「後から強い地区が、先の答えを見て変えられない」
榛名は、二枚の模擬票を出した。
一枚目。
《小地区A 参加枠に賛成》
二枚目。
《大地区B 参加枠に反対》
「Aが先に賛成したとします。Bが結果を見て、反対では孤立すると知り、賛成へ変える。外見上は一致です」
「一致ならいいだろ」
広間の誰か。
榛名は首を横へ振る。
「Bが賛成へ変える代わりに、条件を自分に有利へする。Aは先に出したため、交渉できない」
別の板。
《代表者は人口最多地区が指名》
「後出しできる者が、条件を取ります。弱い先行者は、賛成を人質にされる」
会場の声が小さくなる。
榛名の懸念は、時計への執着だけではない。
最後に答える者が、全員の答えを材料にできる。
凱は、その力を知っている。
王はいつも最後に言う。
皆の不安を聞き、最後の一言で道を決める。
それは決断力と呼ばれた。
後出しの権力でもあった。
「一秒同期なら、Bは条件を変えられない」
榛名。
「Aも、質問できない」
凱。
「事前に質問期間を設けます」
「今回、南の言葉が学塔で違う意味になった。事前に全部分かったか」
「不足していました」
「なら、質問の後に変わる」
「変えるなら再採決です」
「全地区を、また同じ秒へ?」
「必要です」
「何度でも?」
「一致するまで」
「一致しなければ」
「成立しません」
榛名の答えは、冷たい。
だが嘘ではない。
全員が一致しないなら、制度を作らない。
勝手に一つへまとめるより、誠実にも見える。
「成立しない間、空白住民は参加できない」
「現行制度が続きます」
「それで得をするのは、現行制度を持つ側だ」
「だからといって、不完全な変更を急げません」
「不完全じゃない制度があるか」
「少なくとも、時刻は一つです」
榛名は中央時計を指す。
凱は見上げない。
床へ置かれた八本の透明管を見る。
「一つにしたんだろ」
「何を」
「中央を基準と決めた」
「現行規則です」
「誰かが決めた」
「過去の八旗です」
「決めた者を、一秒の外へ置くな」
「意味が分かりません」
「時計も政治だ」
広間で、誰かが息を吐く。
凱は続ける。
「どの時計を正しいと呼ぶか。誰が直すか。直す前を捨てるか。全部、人が決めている」
「だから責任者が必要です」
「お前が責任を負う?」
「はい」
「無効になった八地区へ」
「負います」
「どうやって」
榛名は一瞬、答えを止めた。
「処分を受けます」
「処分で、票は戻るか」
「戻りません」
「なら、処分はお前の話だ。地区の責任とは別だ」
榛名の右頬の傷が、照明で白くなる。
「責任を、結果回復だけで測るのですか」
「違う。負う相手を間違えるなと言っている」
「あなたは正しく負っていますか」
質問が返る。
凱は、待っていた。
「負っていない」
広間がざわめく。
「北塔の遅れを、昨日は雪と移動中参加者のせいにした」
「記録には、待機十一分と」
七瀬が言いかける。
「足りない」
凱は立つ。
左膝が伸び切らない。
壇上へ上がらず、その場で言う。
「十二月二十六日、俺が北塔へ十一分遅れた。三十四人は、俺を待って作業を始めなかった」
旧白冠の人々が俯く。
「昨日も、老女が階段を上る間、会場は閉じなかった。これは本人の希望を守った。だが、北塔の人間が締切を自分で決められなかった理由には、まだ俺を待つ習慣がある」
青年が口を開く。
「凱だけの責任じゃ」
「お前たちの責任もある」
凱は切る。
「俺だけへ返すな」
青年の顔が赤くなる。
「雪は、七分を作った。老女の記入は四分。だが、俺を待つ習慣は、その前から時刻を壊していた」
榛名が問う。
「だから、厳密な締切が必要では」
「締切があれば、俺を待たなくなるか」
「間に合わなければ無効です」
「俺が間に合わなければ、全員の票が無効になる。もっと待つ」
「代表者依存を禁じればいい」
「同意する」
榛名がわずかに目を開く。
「なら、一つ目だ」
凱は床の板へ書く。
《初回判断を、代表者の到着へ依存させない。》
「二つ目」
《最初に何を知っていたかを記録する。》
「三つ目」
《後で知った情報を分ける。》
「四つ目」
《変えたなら、前の票を消さない。》
「五つ目」
《変えた時刻と理由を残す。》
榛名は板を読む。
「後出しを認める制度です」
「後出しを隠せない制度だ」
「強者は、理由を作れます」
「作った理由も残る」
「弱者は、説明が下手です」
「平文と地域語を使う」
「通訳者が権力になります」
「一人にしない」
「記録者が編集します」
「元記録を分けて残す」
「無限に複雑になる」
「人が複雑だからだ」
「制度は単純でなければ守れない」
「単純にする場所を選べ」
「どこです」
「隠さない」
凱は板の五項目を指す。
「答えを一つにするんじゃない。何を知って、いつ変えたかを隠さない。それだけは単純にできる」
榛名は、すぐには返さない。
会議室の時計が、午前六時四十二分を示す。
午前七時十三分。
柏木秋枝が、二枚の紙を持って中央へ入った。
深い紫の外套。
腰に針入れ。
左の内ポケットには、母親の薬包。
南環から夜通し歩いたのではない。
切符道の一部と、早朝の共同車を使った。
それでも靴の縁へ泥が凍っている。
「南環の初回票です」
一枚目を掲げる。
《領土を持たない住民のため、中央へ常設の空席を一つ設けることに賛成。空席は誰でも一時利用できる。》
榛名が確認する。
「記入時刻」
「十二月三十一日、午後二時五十六分」
「情報範囲」
「南環の会議と、前日までの平文放送」
「北塔の最終発言は」
「聞いていない」
「王環の変更は」
「聞いていない」
「では、初回票として分離できます」
榛名は淡々と言う。
秋枝が二枚目を出す。
「変更票です」
広間がざわつく。
《常設の空席一つには反対。案件ごとに、参加する人、範囲、期限、撤回方法を地区で確認する枠に賛成。》
「記入時刻」
「今日、午前六時五十八分」
「理由」
「北塔の記録を聞いた」
「具体的に」
「人が凱を待った。老女が遅れて、閉めるか待つかを凱へ訊いた。常設の席を一つ作れば、その席へ座る人をまた待つ」
凱は口を挟まない。
秋枝は続ける。
「空席なら誰でも座れる、と思った。でも、誰でも座れる席は、いつも来られる人の席になる。母の薬を取りに行く私より、中央に住んでる奴が先に座る。声の大きい奴が、空白全体を名乗る」
榛名が訊く。
「北塔の結果を知って、変えたのですね」
「そうだ」
「これが後出しです」
「そうだね」
秋枝は否定しない。
「先に北塔の弱点を知り、自分の案を有利に修正した」
「有利になったかは知らない」
「少なくとも、批判されにくくした」
「批判されたから変えたんだよ」
「強い地区が同じことをすれば」
「記録しろ」
「理由を偽れば」
「反対尋問しろ」
「説明できない人は」
「説明できないと書け」
「それで制度になると思いますか」
「思わない」
秋枝は即答する。
広間が静かになる。
「じゃあ、なぜ」
「制度は、これからあんたらが作る。私は票を変えた。それを、最初から賢かったことにしないでくれって言いに来た」
秋枝は二枚の紙を、同じ透明板へ入れる。
初回票を下にしない。
左右へ並べる。
「どっちが本物ですか」
真琴が訊く。
試す声ではない。
「両方」
「最終意思は」
「今は二枚目」
「今後、変える可能性は」
「ある」
「変更期限は」
「決めてない」
「そこは決めてください」
「法務は面倒だね」
「会議ですから」
迅、タマキ、真琴。三人が同時に同じ顔をした。
秋枝が笑う。
「流行ってるのかい」
「不本意です」
真琴。
「俺は最初」
迅。
「誰が証者」
タマキ。
凱は、少しだけ口元を緩める。
榛名は笑わない。
「変更が公開されることは、危険を消しません」
「消さない」
凱が答える。
「では」
「隠れた変更は、誰かが答えをすり替える。見える変更は、誰が何を聞いて動いたかを争える」
「争いが増える」
「政治は、争いを消す技術じゃない」
「何です」
「殴る前に、何を争ってるか見えるようにする技術だ」
迅が小さく言う。
「殴る前提なんだな」
「お前が言うな」
「俺、今日は殴ってない」
「まだ朝だ」
「新年最初の脅し?」
「予測だ」
軽い笑いが広間へ落ちる。
拍手にはならない。
榛名は、秋枝の二枚の票を見たまま言う。
「変更を認めれば、集計時刻はいつです」
「案件ごとに決める」
凱。
「決める者は」
「参加者が先に決める」
「変更期限直前に、新情報が出たら」
「期限を延ばすか、情報を次回へ回すか、選ぶ」
「また採決です」
「そうだ」
「終わらない」
「終わる期限も、決める」
「期限内に一致しなければ」
「一致しないと決める」
「失敗を制度化するのですか」
「失敗しないふりを制度から外す」