第166話 第九章「八つの乱戦」後編

 その一秒で、担架が通る。

 投票卓の後ろでは、中尾弦が透明仕切りの中へいる。

 顔を隠し、手だけを出す。

「俺が出れば、収まる」

 中尾が言う。

「出れば、あなたが答えになるだけです」

「俺が運んだ」

「指示した者ではない」

「でも、何もしてない女が殴られた」

「あなたが殴られれば、帳尻が合いますか」

「合わない」

「では、ここにいてください」

 真琴は、彼の前へ一枚の平文用紙を置く。

《今、公開してよいこと。》

《今、公開しないこと。》

《後で自分から話したいこと。》

 中尾は一行目へ書く。

《灰色の油布外套は、洗濯場で十六人が使う。》

 真琴はその文だけを、会場へ読み上げた。

 誰かが「先に言え」と怒鳴る。

「今、本人が選びました」

「遅い!」

「はい」

「遅くて人が殴られた!」

「はい」

 認める。

 正しい手順が、間に合わなかった。

 だからといって、次の人を急がせる理由にはしない。

 西市場の原票封印が終わったのは、午後三時五分。

 偽票の三枚も、別封印で残った。

 午後二時五十六分 東環門――伏見轟

 透明管を奪おうとしたのは、治安隊ではなかった。

 東門設備課の点検員だった。

「限定搬送許可は、三時までです」

 沼田千歳が言う。

「三時以後、猫道を封鎖します」

 轟は、八本の透明管が棚へ並ぶのを見る。

 六本は封印済み。

 七本目へ理由用紙を入れている。

 八本目は、まだ空だ。

「八本目、誰」

 タマキの受渡表を読む。

 東門で最後に参加を決めたのは、右手を吊った洗濯屋だった。

 口述を、二人の証者が平文へする。

「あと五分」

 住民。

「許可は四分です」

 沼田。

「一分、待て」

「待てば、私が規定違反です」

「何が危険になる」

「夜間凍結。猫道の排水路が閉じます」

「票じゃない」

「人です」

 沼田の理由は正しい。

 ここで点検員を敵にすれば、守る対象を間違える。

 別の設備課員が、封印済み管を回収箱へ移そうとする。

「中央管理へ預けます」

「猫道を通さない?」

「正門の管理車で」

「門は閉じてる」

「設備課車両は通せます」

「住民は通れん」

「記録物だけです」

 轟は、雪の中に置いていた失敗作を見る。

 三十三キロの鋼箱。

《安全だが、運べない。》

 白札が貼られたまま。

 彼は箱の下へ角材を入れる。

 左肩は使わない。

 右手でてこを押し、鋼箱を門前の管理車レールへ滑らせる。

 ご、と雪が鳴る。

 管理車の進路が塞がる。

「撤去してください」

 設備課員。

「重い」

「あなたが置いた」

「だから失敗って書いた」

「妨害です」

「撤去する。四人で」

 轟は住民を見る。

「手、貸すか」

 旧青灯の男が笑う。

「今度は聞くんだな」

「聞いた」

「貸す」

 菓子売りも手を上げる。

 自転車修理の姉が、滑り板を持ってくる。

 四人で動かす。

 すぐには動かさない。

 鋼箱の位置を一センチずつ変え、管理車が通れないまま、猫道の入口だけを空ける。

「八本目、できた!」

 洗濯屋が叫ぶ。

 透明管が棚へ入る。

 封印糸。

 受渡札。

 沼田が時計を見る。

 二時五十九分四十秒。

「猫道、閉鎖準備」

「通すのは誰だ」

「住民が選びました」

 自転車修理の姉が、七本目と八本目を抱える。

「私」

「危険を確認しましたか」

「昨日、三回通った」

「夜間条件は違います」

「まだ昼だ」

「戻りは」

「外側に残る」

 沼田は一秒考える。

「通行、許可。三時までに入口通過」

 姉が猫道へ入る。

 透明管は一度に二本。

 残り六本は、すでに外側へある。

 午後三時ちょうど、彼女の靴底が入口の線を越えた。

 東門会場の完了札へ、住民が時刻を書く。

 轟は書かない。

 彼は鋼箱を、今度こそレールからどかす。

 四人で。

 午後三時 中央時計塔――一文字巴

 八旗の代表が、閉会印を押そうとしていた。

 中央時計は三時を示している。

 届いた完了信号は、一つ。

 東門。

 残り七つは、会場で記入が続いているか、信号の確認中だった。

「規則上、三時で締切です」

 榛名が言う。

「未着は無効。中央記録を閉じます」

 事務局員が、赤い閉会帯を記録簿へ巻く。

 巴は帯の上へ、白い手袋を置いた。

「手を退けてください」

 榛名。

 巴は黒板へ書く。

《未着と未完了を分ける。》

「規則は区別しません」

《だから、記録は区別します。》

「閉会後に追記できます」

《追記は参考資料です。》

「はい」

《地方判断を参考へ落とすための閉会ですか。》

「締切を守るためです」

《誰を守る締切ですか。》

「先に判断した地区です」

 榛名は迷わない。

「後の地区が、先の結果を見て変更しない。三時の線が必要です」

 巴は、東門の受領札を見る。

 三時ちょうど。

 零番街は三時二分の予定報告。

 先に判断した地区を守るという論点は、本物だ。

 だから、閉会帯を破らない。

 手を置いたまま、別の紙を引く。

《異議記録。閉会時点で、六地区の状態を個別に記す。》

「閉会を認めますか」

《認めません。止める権限もありません。》

「では、手を」

《異議を書き終えるまで。》

「期限超過です」

《私の通訳時間は、閉会に含まれますか。》

 榛名の目が細くなる。

「含みます」

《料金も。》

「請求してください」

《なら、働きます。》

 巴は右人差し指を使えない。

 左手で書く。

《南環――湯路事故後、記入継続。》

《北塔――移動中参加者あり。初回受付時刻と完了時刻を分離。》

《西市場――私刑発生。撮影中断。本人意思確認継続。》

《北工――保守路使用拒否により迂回。》

《学塔――地域手話確認中。》

《王環――停止請願の変更確認中。》

 代表の一人が言う。

「全部、言い訳だ」

 巴は主語を大きく書く。

《誰の。》

「遅れた側の」

《事故、雪、拒否、質問、暴力。全部同じ遅れですか。》

「結果は同じだ」

《結果だけを同じにすると、原因を選ぶ人が得をします。》

 閉会帯が、巴の手の下で少し皺になる。

 事務局員が引く。

 巴は力で勝てない。

 短杖も、誓痕も使わない。

 自分の手を退け、代わりに異議紙を閉会帯の内側へ差し込む。

「何を」

《閉じるなら、一緒に閉じる。》

 赤い帯が、異議紙ごと記録簿を巻く。

 封印印が押される。

 閉会記録の中へ、未着六地区の状態が入る。

 勝っていない。

 閉会は止まらない。

 だが、六地区が何も言わなかったことにはならない。

 午後三時二分 臨時放送所――紅葉カナタ

 送信線は、半分切れていた。

 昨日直した学塔線ではない。

 主幹線。

 倉庫の外で、誰かが銅線を鋏で切った。

 犯人は見えない。

 意図も分からない。

 受信板の八画面が、順番に砂嵐へなる。

 次は、王環の変更確認。

 停止請願を出した老女が、昨日の発言を変えるかどうか話す。

「予備線」

 カナタが言う。

 技師が首を横へ振る。

「文字だけ」

「声は」

「手動接触なら、一回線」

「何分」

「持ってる間」

 切れた銅線の両端を、絶縁手袋で押し当てる。

 人の手が、線になる。

 電流は弱い。

 だが長く持てば、指が痺れる。

 カナタは右手で一端を持つ。

 左手にもう一端。

 肩幅より少し広い。

 舞台上なら、美しい姿勢だ。

 今は、猫背のまま肘を締める。

「接続」

 技師が叫ぶ。

 王環の画面が戻る。

 老女の口が動く。

「昨日、放送を止めてほしいと言いました」

 声が、雑音の中から出る。

「今日は、全部止めるとは言いません。結果を聞いた後に変えたことを隠さないなら、質問放送は続けていいと思います」

 カナタの指へ、微かな熱。

 銅線が滑る。

 押し直す。

「これは、私の変更です。王環全体の撤回ではありません。停止請願は、採決結果の生放送だけを止める形へ狭めたい」

 巴の文字線から、確認が来る。

《変更時刻を本人へ。》

 カナタはマイクへ言う。

「時刻」

「午後三時三分」

「理由」

「零番街の発言を聞いた。止めれば、来られない人の質問も消えると分かった」

「聞いた発言」

「一人を代表にして来なければ全員棄権、には反対という話」

「確認」

 カナタは、つなぎの台詞を入れない。

 老女の変更を、成長の物語へしない。

 昨日の自分を否定した美しい市民、とも言わない。

 彼女は、情報を得て変えた。

 それだけを残す。

 次の回線は、学塔。

 右手の指が痺れている。

「交代」

 技師へ言う。

 技師が線を持つ。

 カナタは、勝利ポーズを取らない。

 手を振って血を戻し、次の印札を上げる。

 開いた両手。

「学塔、どうぞ」

 学塔の発言は、午後三時六分まで続いた。

 カナタの仕事は、線を守ることではなく、次の人へ渡すことだった。

 午後三時六分 中央時計塔――一文字巴

 学塔の完了信号。

 三時七分、王環。

 閉会帯の外へ、到着札が積まれる。

 巴は一枚ずつ、閉会後記録へ付けた。

 午後三時十一分。

 北塔の最後の完了信号が、中央時計塔へ届いた。

 八地区から完了が報告された時刻は、揃わなかった。

 東門、十五時ちょうど。

 零番街、十五時二分。

 南環、十五時三分。

 北工、十五時四分。

 西市場、十五時五分。

 学塔、十五時六分。

 王環、十五時七分。

 北塔、十五時十一分。

 最大十一分。

 中央時計塔から、榛名の宣言が各会場へ送られた。

「現行規則により、同時成立を認めません」

 短い。

 誰かを嘲る言葉はない。

「八地区記録、無効。参考資料として封印します」

 午後三時十二分 北工区・旧排水高架――環玉樹

 切符道の第三区間が、塞がれていた。

 成人治安隊ではない。

 北工区の作業員十二人が、保守階段へ横断幕を張っている。

《他地区の票を工場へ通すな》

 理由は、工場をまた政治の通路へ使われたくないからだった。

 夏、赤錆大工場の停止と再稼働を巡り、外から多くの人間が入った。

 今も床には、破損した配管の跡がある。

「通行料を払います」

 タマキが言う。

「金の問題じゃない」

 作業員。

「じゃあ何の問題」

「工場を勝手に道へするな」

「保守路」

「工場の」

「誰から誰へ」

「北工の作業員から、北工の設備へ」

「目的」

「修理と避難」

「今、避難じゃない」

「だから通すな」

 高架脇の小型受信器が、中央の宣言を繰り返していた。

《八地区記録、無効。参考資料として封印。》

「無効なら、運ぶのをやめるか」

 横断幕の向こうから、作業員が訊く。

「参考資料って、どこへ置くの」

 タマキ。

「中央の封印庫だろ」

「じゃあ届ける」

「無効だぞ」

「無効と、捨てるは違う」

 タマキの背後には、南環から来た透明管が一本。

 運んでいるのは、浴場の洗濯番だった。

 横断幕の内側にも、同じ形の管が一本ある。

 北工会場の原票だ。夜勤明けの旋盤工が、胸へ抱えていた。

「そっちは通すの」

 タマキが訊く。

「通さない」

 旋盤工。

「自分たちの票も」

「自分のだけ通したら、拒否じゃなくて贔屓だ」

「ちゃんとしてる」

「褒められるために断ってない」

 タマキは自分で管を持っていない。

 道の確認と受渡札の監査だけをしている。

 予定路なら、南環の管はあと三分で次の受領点へ着く。

 北工の管は、工場内の近道を使えば二分だった。

 迂回路は、旧灰水路。

 南環は五分。北工は六分。

 どちらも予定した受渡時刻を越える。中央時計塔までは、そこからまだ三つの区間がある。

「急ぐ」

 洗濯番が言う。

「押し通る?」

「私に訊くの」

「持ってる人」

 洗濯番は横断幕を見る。

「通りたい。でも、ここを使う人が嫌だって言ってる」

「じゃあ迂回」

「遅れる」

「書く」

 作業員の一人が言う。

「本当に回るのか」

「嘘つく理由は」

「通るため」

「通らない」

 タマキは、二枚の受渡札へ同じ路線変更を書く。

《十五時十三分。北工保守路の使用拒否。理由、工場設備を政治搬送へ使わない。南環原票、旧灰水路へ迂回。》

《十五時十三分。北工会場も同じ経路を使用しない。北工原票、旧灰水路へ迂回。》

「拒否した人の名前は」

 洗濯番。

「出さない」

 作業員。

「受渡番号で」

 タマキが切符札を出す。

 作業員は、自分で番号を選ぶ。

《北工拒否三》

「三って何」

「今日、三番目に拒否した」

「前の二つは」

「夜勤延長と、無償修理」

「ちゃんと断ってる」

「仕事だからな」

 タマキはうなずく。

「受けました」

 洗濯番と旋盤工が、別々の管を抱えて迂回へ走る。

 タマキも続く。

 右膝は昨日の転倒で青い。

 速く走ると、階段で痛む。

 洗濯番は彼より遅い。

 旋盤工は、夜勤明けで息が浅い。

 タマキは先へ行かない。

「持つ?」

「私の地区の票」

 洗濯番。

「そっちは」

「北工の票だ」

 旋盤工。

「疲れたら」

「言う」

「何分ごと」

「五分」

「長い」

「三分」

「二分」

「面倒だね」

「会議だから」

 迅の言葉を、自分で使ってしまう。

 旧灰水路の途中で、鉄格子が凍っていた。

 タマキは留め具を確かめる。

 蹴れば外れる。

 蹴った時刻と、誰が壊したかを記録している間に、もっと遅れる。

 旋盤工が腰の工具袋から短い油差しを出した。

「工場の物は使わないんじゃ」

「工場の道を政治に貸さない。俺の油まで工場の物にするな」

「所有者」

「俺」

「目的」

「帰りに自転車へ差す予定だった。今は格子」

「変更、確認」

 油が凍った留め具へ落ちる。

 三人で押すと、鉄格子は鳴いて開いた。

 その先の足場は、一人分しかない。

 南環の洗濯番が、先へ出る。

 旋盤工は一歩譲った。

「北工が先じゃないの」

 洗濯番が振り返る。

「先にここへ来たのは、そっちだ」

「一分、遅くなる」

「自分の票を先へ押し込むために道を拒否したんじゃない」

 狭い足場を、二本の透明管が一列で進む。

 前から、旧灰水路区間の受取人が来た。

 擦れ違えない。

「戻る」

 受取人は言い、後ろ向きに次の広場まで下がる。

「受取人確認」

 広場へ着く前に、タマキが訊く。

 名。

 目的。

 担当区間。

 使っている時計。

 受取人は一つずつ答える。

 広場で、まず南環の管が渡された。

 時刻、十五時十五分。

 封印。異常なし。

 一分後、北工の管も渡る。

 時刻、十五時十六分。

 封印。異常なし。

「私が最後まで」

 洗濯番が言う。

「俺もだ」

 旋盤工。

 受取人が二人を見る。

「運搬者は一人ずつって決まりだ」

「決まりの目的」

 タマキ。

「奪取を防ぐ」

「二人が見える所を歩くのは」

「禁止じゃない」

「じゃあ、管は受取人。元の運搬者は視認距離。狭くなったら一列。見失ったら全員停止」

 タマキは条件を書く。

《封印管は区間受取人。南環運搬者、北工運搬者は視認距離を保つ。見失った場合、二本とも停止。》

 洗濯番がうなずく。

 旋盤工も、管から手を離す。

 離したことが、諦めたことにならないよう、受渡札へ自分の番号を書く。

 三人を先へ行かせる。

 タマキは最後尾。

 道を作った人が、最初に行く必要はない。

 南環会場の原票が第三受領点へ着いたのは、午後三時十七分。

 北工会場の原票は、その一分後だった。

 中央時計塔までは、まだ遠い。

 どちらも予定より遅い。

 拒否した人の番号も、二本の管と一緒に次の区間へ渡った。

 西高架の時計保管室で、七瀬は暗い映像板を見る。

 自分が切った一画面だけ、戻っていない。

 残り七画面には、疲れた人々が映る。

 湯に濡れた南環。

 雪の北塔。

 偽票の残る西。

 軽い透明管を持つ東。

 住所札の並ぶ零番街。

 拒否番号を残した北工。

 待った時間を記した学塔。

 停止請願を狭めた王環。

 中央時計が鐘を打つ。

 七瀬には、音より先に床の振動が来る。

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 八地区は、同じ答えへ届かなかったのではない。

 同じ秒へ届かなかった。

 規則の上では、その二つは同じことだった。

 七瀬は、撮影機を持ち上げない。

 暗い画面へ、自分の停止札を貼る。

《一時四十三分十二秒。撮影者判断で中断。》

 その横へ、女性の顔を出さない治療記録。

 さらに、中央の無効宣言時刻。

 三つの紙は、一本の映像へならない。

 一本にならないまま、同じ棚へ並んだ。