第165話 第九章「八つの乱戦」前編
十二月三十一日。
八つの場所で、一つずつ違う物が壊れかけた。
午後一時四十一分 西高架・時計保管室――火群七瀬
未編集は、正直さの別名ではない。
火群七瀬は、それを知っていた。
それでも、撮影機の側面へ白い札を差し込む。
《無編集〈ワン・テイク〉 開始》
誓痕が、手回し撮影機の歯車へ薄い白光を走らせた。
クランクを回し始めた後、映像の一部だけを消すことはできない。
切り貼りも、前後の入替えも、音だけの差替えもできない。
止めれば、止めた時刻と操作者の意思が記録へ焼き付く。
魚棚市場の上階にある時計保管室には、八会場の映像板が並んでいた。
南環の木時計。
北塔の白鐘時計。
西市場の魚形分針。
東門の赤円盤。
零番街の油時計。
北工の打刻時計。
学塔の青ベル時計。
王環の黒い秒時計。
正午までに、すべて補正を受けている。
補正前のずれは、別札へ書いた。
七瀬は八つの映像を一枚へまとめず、一台ずつ撮る。
同時に映せば、画面の大きさで順位が生まれる。
別々に撮れば、同じ瞬間を保証できない。
どちらも不完全だ。
不完全な方法を選んだことまで、冒頭で読み上げた。
「西会場、固定機三番。公開範囲、手元と受渡札」
隣の記録員が復唱する。
「顔、声、私物名札は非公開」
「確認」
映像板に、灰色の油布外套が入った。
両手で透明管を持つ。
袖口に赤い糸。
西市場へ重複票を運んだ中尾弦が、撮影許可で見せた袖と同じだった。
顔は映らない。
本人かどうかも分からない。
七瀬は言葉を選ぶ。
「西会場へ、受渡番号四一七関連の外套と同型の人物が接近。本人確認なし」
記録員が手元の字幕板へ入力する。
《同型。本人確認なし。》
生の画面は、魚棚市場の下階にも送られている。
投票者が、自分の票管の到着を見られるようにするためだ。
画面の向こうで、誰かが叫んだ。
「四一七だ!」
七瀬はクランクを回し続ける。
「本人確認なしです」
字幕を大きくする。
叫びは増えた。
「偽票の運び屋!」
「逃がすな!」
灰外套の人物が、画面から走って消える。
市場の一階で、卓が倒れる音。
記録室の床へ振動が来る。
七瀬は撮影機を三脚ごと回す。
左肩が熱を持つ。
腰高三脚の一本が、床の溝へ引っかかる。
「固定機三番、追跡を」
記録員が言う。
「追いません」
「受渡者が逃走しました」
「本人確認なしです」
「なら確認を」
七瀬は窓へ行く。
市場一階。
灰色の油布外套を着た小柄な人物が、魚籠の列で転ぶ。
四人が追いつく。
一人が外套の襟を掴む。
帽子が落ちる。
中尾ではない。
髪の白い女性だった。
西高架の洗濯場で、油布を繕う職人。
画面へ顔が入る。
許可はない。
拳が一つ、女性の頬へ入る。
未編集は、暴力を正直に残す。
残すことで、暴力を続けさせる。
七瀬はクランクから手を離した。
「《無編集》終了。午後一時四十三分十二秒。理由、撮影が私刑と個人特定を促進」
白光が切れる。
映像板の一枚が暗くなる。
記録員が息を呑む。
「連続記録が切れます」
「切りました」
「証拠が」
「人が先です」
「後で改竄と言われる」
「私が言います」
七瀬は撮影機を置く。
置き方が荒く、三脚の脚が一本外れた。
左肩を押さえず、階段へ走る。
右目に、暗い残像が浮く。
十三段。
踊り場。
市場の喧騒。
女性は床へ丸くなり、外套の中へ頭を隠している。
「退いてください」
七瀬は群衆の間へ入った。
「火群だ」
「撮ってた奴だ!」
「こいつが四一七を映した!」
「本人確認なしと表示しました」
「同じ服だった!」
「服は人ではありません」
「逃げたから怪しい!」
「殴られれば、逃げます」
一人が女性へ足を伸ばす。
七瀬は外れた三脚の二本を横に広げる。
武器ではない。
女性へ触れさせない距離を作る。
男の足が三脚へ当たる。
衝撃が、七瀬の左肩へ上がる。
炎症の奥で、熱い線が走った。
「撮れよ!」
別の男が叫ぶ。
「正義なら撮れ!」
「撮りません」
「都合が悪いからか」
「都合が悪い人を作ったからです」
七瀬は女性の前へ膝をつく。
「顔を上げなくていいです。名前も言わなくていい」
「でも、私じゃ」
「説明は後です」
「票を」
「あなたは持っていません」
女性の手は空だ。
灰色の外套だけが同じだった。
群衆の後ろで、誰かが生映像の停止を知る。
「画面が消えた!」
「証拠を隠した!」
言葉が、さらに人を押す。
七瀬は、自分の判断が正しいとは思わない。
撮り続ければ、暴力を煽る。
止めれば、隠蔽に見える。
どちらも、起きたことを変える。
「止めたのは私です」
大きく言う。
「理由も、時刻も、記録します。女性の顔は出しません」
「勝手に決めるな!」
「はい。私が決めました」
謝罪ではない。
責任者名を置く。
真琴の声が、市場の奥から飛んだ。
「通路を二本、空けてください! 治療路と退出路です!」
群衆の視線が、一瞬そちらへ動く。
七瀬は女性の肩へ触れない。
「歩けますか」
「分からない」
「では、ここで待ちます」
「票が」
「票は別の人が守ります」
自分は記録者だ。
今日は、記録を置いて、人の前へ座った。
午後二時四十七分 南環六番共同浴場――竜胆迅
湯路が破裂した時、投票用紙は机の上にあった。
床下から、短い破裂音。
次に、熱い水が板の隙間から噴く。
迅は、音の出所へ走らなかった。
先に机を見る。
原票箱。
理由用紙。
退出路。
座っている老人二人。
「紙を上へ。人は右」
短く言う。
柏木秋枝が原票箱を持ち上げる。
若い配管工が理由用紙を棚へ移す。
老人の一人は立てない。
湯が床を走る。
温度は、火傷するほどではない。
だが濡れた板は滑る。
成人治安隊の時刻係が、壁時計を守ろうと中央へ入る。
「時計へ触れないでください!」
彼の靴が湯へ滑る。
腕が、原票箱へ伸びる。
迅は一歩退く。
源は、隊員の敵意ではない。
転倒。
二歩目。
秋枝が箱を抱えている。
三歩目。
隊員の身体と、ストーブの脚が一直線になる。
迅の背の誓いが、熱を持ちかける。
七歩まで退けば、戻す力になる。
だが、何を戻す。
隊員を。
時計を。
湯を。
源が一つではない。
迅は蓄積を切った。
前へ出ず、左足でストーブの脚を蹴る。
倒れる向きを変える。
右手で隊員の外套を掴む。
冷えた小指と薬指が、布を十分に握れない。
掌ではなく、前腕を外套へ巻く。
隊員を壁へ押し当てる。
「時計」
隊員が言う。
「人」
迅が返す。
「補正記録が濡れます」
「持て」
「原票箱を」
「違う」
迅は隊員の手へ、時計の補正札を渡す。
「自分の仕事」
隊員は札を受け取る。
秋枝が怒鳴る。
「迅、老人!」
迅は振り返る。
椅子ごと運ぼうとした青年が、片側だけ持ち上げている。
老人の身体が傾く。
「下ろせ」
「濡れる!」
「人を荷物にするな」
迅は椅子の前へしゃがむ。
「立てる?」
「膝が駄目だ」
「抱える?」
「嫌だ」
「何なら」
「座布団ごと引け」
老人が自分で方法を言う。
秋枝が椅子の後ろへ布を通す。
二人で座布団ごと、乾いた脱衣所へ滑らせる。
配管工は床下の元栓へ向かう。
「閉める!」
「何分」
「四分!」
「票締切は」
「予定、三時!」
あと十三分。
「止めるか」
秋枝が訊く。
迅は答えない。
南環の判断ではない。
会場の人々が見る。
浴場番の老女が言う。
「投票は続ける。床は半分使える。書けない人は、先に乾いた場所へ」
別の女性が反対する。
「事故の後で決めたら、怖さに引っ張られる」
「怖くない時なんてないよ」
「でも、今は湯が出てる」
「なら、事故を見た後の票だと書く」
秋枝が時刻札へ記す。
《十四時四十七分、湯路破裂。以後の回答は事故認知後。》
迅は紙を守るのをやめ、濡れた床へ雑巾を投げる。
紙は棚へある。
次に守るのは、歩く場所だ。
湯路が止まったのは、午後二時五十四分。
会場の投票は、三時三分まで続いた。
迅は最後の人へ、急げと言わなかった。
午後二時五十三分 旧白冠・北塔外階段――獅堂凱
締切七分前、北塔の階段を上ってくる者がいた。
子どもではない。
老女だった。
右脚へ木製装具。
一段ごとに、杖を置く。
その上で、雪を払う。
上の会議室から、青年が叫ぶ。
「三時で閉めます!」
老女は顔を上げない。
「聞こえた!」
凱は踊り場にいる。
左膝の装具へ雪が詰まり、屈曲するたび布が擦れる。
降りて迎えに行けば早い。
背負えば、もっと早い。
「手を貸すか」
凱が訊く。
「いらん」
「杖だけ持つか」
「杖が私を持ってる」
「では、雪を払う」
「先を払え」
凱は一段上へ戻り、老女の進路だけを木べらで削る。
全段をきれいにはしない。
足を置く幅。
杖の先が滑らない穴。
上から、二人の青年が降りてくる。
「陛下、代わります」
「凱だ」
「今はそんなことを」
「今だからだ」
青年は歯を食いしばる。
「締切が」
「誰が締める」
「中央規則です」
「手は誰が動かす」
青年が黙る。
会議室の時計係が、窓から叫ぶ。
「中央信号、あと五分!」
老女は、まだ十七段下だ。
別の青年が言う。
「票を下へ持っていきましょう」
「会場外です」
「本人確認だけ下で」
「今から手順を変えれば、ほかの人と条件が違う」
「じゃあ間に合わない!」
老女が杖を一段上へ突く。
「私を理由に喧嘩するな!」
全員が止まる。
「私は、間に合わなければ間に合わないと書け。王が待ってたから遅れた奴も、雪で遅れた奴も、私の脚で遅れた私も、同じ遅れにするな」
凱は、木べらを置く。
「聞いたな」
青年たちへ言う。
「命令ではない。本人の希望だ」
「でも、会場を閉めたら」
「誰が閉める」
「俺たちです」
「選べ」
凱は答えを与えない。
青年たちは互いを見る。
一人が会議室へ戻る。
もう一人は階段へ残る。
上で、鐘を打つ準備が止まる。
閉会時刻を延ばすと、中央規則では無効になる。
延ばさなければ、老女の参加は消える。
青年が窓から叫んだ。
「北塔会場は、三時で初回受付を締める! 階段上の移動中参加者一名は、十四時五十三分に到着意思を確認! 投票完了まで会場を閉じない!」
老女が鼻を鳴らす。
「声だけは王みたいだ」
「彼の声だ」
凱は答える。
上部の雪庇が、風で割れた。
白い塊が、階段へ落ちる。
「伏せろ!」
凱の声が、塔壁へ響く。
誓痕は呼ばない。
王の唱和もない。
青年が老女の前へ入る。
凱は階段の手すりへ結んでいた除雪綱を引く。
雪庇の落下方向を、外側へずらす。
左膝が沈む。
装具の金具が、石段へ当たる。
痛みが太腿まで走る。
綱を腕で引かず、背へ回し、身体全体を柱へ預ける。
雪塊が手すりへ当たり、半分は外へ崩れる。
残りが凱の肩へ乗る。
息が一度止まる。
「陛下!」
「凱だ!」
怒鳴る余裕はある。
青年が雪を掻く。
老女は自分の杖で、凱の外套から雪を落とした。
「王様は、雪にも名前を直させるのか」
「雪は呼ばない」
「利口だ」
老女が会議室へ入ったのは、午後三時七分。
投票を終えたのは、三時十一分。
北塔の記録員は、締切を一行で書かなかった。
《初回受付終了、十五時。移動中意思確認、十四時五十三分。最後の記入完了、十五時十一分。》
三つの時刻を残した。
午後二時五十五分 西高架・魚棚市場――朽葉真琴
群衆は、名前を求めていた。
「さっきの女は誰だ」
「中尾はどこだ」
「偽票を配った店を出せ」
真琴は、投票卓の前へ紙を三枚立てた。
《ここで確認すること》
《ここでは確認しないこと》
《後で確認すること》
「今、確認するのは、票の本人意思と受渡番号です」
声を張る。
「確認しないのは、洗濯職人の氏名、中尾の妹の職場、指示者の私生活です」
「犯人を守るのか!」
「誰を犯人と決めましたか」
「同じ外套だ!」
「外套は犯罪をしません」
「逃げた!」
「殴られそうなら逃げます」
「証拠を消した!」
「七瀬が撮影を止めました。停止時刻と理由は公開します」
「仲間だから庇う!」
真琴の右手が、紙の端へ力を入れる。
彼は左利きだ。
署名だけ右手へ矯正された。
怒ると、右手で規則を書きたくなる。
権力の手だ。
「今から全員、質問へ一つずつ答えてください」
言いかける。
止める。
また理解確認を試験へするところだった。
「違います」
自分で訂正する。
「答えられる人だけ、ではない。質問したい人も、答えたくない人も、右の通路へ。投票する人は左。治療は中央。三本を混ぜないでください」
「犯人は」
「後です」
「後で逃げる!」
「逃げる可能性と、今殴る権利は別です」
市場の馬瀬鈴が、魚箱を床へ置く。
「三本、空けろ!」
彼女の声で、群衆がわずかに割れる。
真琴は、空いた中央へ担架を通す。
七瀬に庇われた女性が運ばれる。
顔へ布。
撮影はない。
群衆の一人が布へ手を伸ばす。
真琴は手首を掴まない。
自分の眼鏡を外し、相手の顔へ近づける。
裸眼では、十センチ先もぼやける。
「私は、あなたの顔を今記録できません」
「何だよ」
「だから、あなたも相手の顔を確認しないでください」
「意味が分からない」
「分からなくていい。手を下げて」
男は戸惑い、手を下げる。
説得ではない。
相手の勢いを、意味の分からなさで一秒止めただけだ。