第426話 第七章「台本にない避難」後編
物語では、英雄が決める。
現場では、決める人が不明な仕事ほど危ない。
「赤、放水」
「黄、西の仮支持」
「青、看板と滑車の返却」
「白、観覧席への事故告知。再演の中止。認証。役札」
轟は白区画へ、カナタとレムの名を書かなかった。
「誰の仕事」
進行係。
「分からん」
「責任者は」
「決める仕事が白」
「あなたが決めてください」
「俺は構造」
「全体を見ている」
「見えることと、決めていいことは別」
轟がそう言うと、周囲の何人かが驚いた。
大きい人は、決める人に見える。
入口へ立つ人は、入れる人を選ぶように見える。
轟自身も、長くそう思っていた。
「赤の放水、俺だけじゃ止められん。技師。地図。伝令。弁へ行く足。水位。全部いる」
「統括は」
凱。
「お前、声」
「統括ではない?」
「全体の復唱。決定は作業ごと」
「遅くなる」
「壊すよりは」
凱は白区画を見た。
「俺は、白へ口を出したい」
「技能」
「制度と期限。役を外す手続き。観覧席への説明」
「カナタと」
「本人に確認する」
「よし」
凱が白へ行く。
自分の札へ書き足す。
《制度・期限》
《決定権は作業ごと確認》
誰も彼を元王と書かない。
赤区画では、放水を止めるための人員が集まる。
迅。
タマキ。
設備技師。
水位記録。
索。
救護。
「私は」
十夜が来る。
「胸部衝撃不可。重量物不可。脈拍、休憩、搬送先確認」
「赤」
轟。
「危険へ入れる?」
「入らない。赤の外で受ける」
「それも赤」
十夜は少しだけ目を丸くした。
「戦わなくても赤?」
「倒れたら、時間が止まる」
「選手、引退後に評価される種類」
「引退を美談にするな」
「はい」
十夜は胸部の植込み機器へ触れず、医療受付を作る。
椅子。
乾いた布。
脈拍札。
水。
本人が選ぶ呼称。
競技へ戻る場所ではない。
人を戦場へ返す場所でもない。
「休んだ人、戻す基準」
訓練生が訊く。
「本人の希望。医療。作業条件」
「英雄役が必要と言えば」
「関係ない」
「前は、英雄が呼べば」
「前の契約が悪い」
「そんなに簡単に」
「簡単じゃない。だからここで言う」
十夜は、自分の技能札の裏へ書いた。
《競技復帰なし》
《救助補助》
《本人を役へ戻さない》
黄区画では、仮支持の確認。
壁向こうから出た七人のうち、索経験者二人が残る。
救助された側が、すぐ救助する側へ変わらないよう、轟は休憩を入れた。
「大丈夫です」
一人が言う。
「何が」
「作業できます」
「訊いてない。休憩、十分」
「でも私たちが結んだので」
「結んだから、見る権利はある。直す手は別」
「失敗していたら」
「一緒に見る。直す奴は交代」
「責任を取れない」
「責任は、同じ姿勢で働き続けることじゃない」
轟は自分にも言っている。
左肩が壊れた後、右手で全部を代わろうとした。
力が足りないと、腰と壁を使った。
それでも、仕事を手放すことは遅かった。
「休め」
相手は座る。
仮支持を確認するのは、観客席から入った索具検査員。
「結び、悪くない」
タマキが遠くから聞く。
「悪くないって何点」
「点はつけない。荷重方向には合う。解く時、泥で固い」
「直す?」
「今は触らない。荷重抜いてから」
「受領」
評価より、次の作業。
青区画には、事故後の返却物が増え続ける。
市場の滑車。
舞台幕の索。
旗。
椅子。
役札。
撮影機の予備線。
観客席から持ち込まれた工具。
事故が終わる前に返せない。
返却期限と保管者を置く。
タマキは、能力なしで一つずつ住所を書く。
《市場吊り看板》
《一時保管 中央広場青区画》
《返却先 西市場模型》
《返却条件 荷重検査後》
《担当 設備班二名》
《所有者確認 未了》
「未了が多い」
七瀬。
「分からないから」
「不安にならない?」
「なる。嘘を書くより」
「私は、空欄を撮る」
「中身ない?」
「まだない」
「なくしたわけじゃない?」
「違う」
八月の記憶競売で、空の容器と未再生の容器を別棚へ置いた。
ここでも、空欄と喪失を分ける。
白区画では、凱とカナタが言い争っている。
「全演目中止を、全員へ一括で告げる」
カナタ。
「中止は必要だ。だが、役を外した後の仕事を先に示す」
凱。
「昨日、私はそれで失敗した」
「だから同じ順番で失敗するな」
「役を続ければ、もっと危険」
「外す。技能へ替える。二つを同じ放送で」
「情報量が多い」
「復唱へ分ける」
「観客へは」
「現在の事故。座席待機、退出、技能申告」
「退出を促すと北通路が」
「促さない。選択」
「選択肢が多いと、人は止まる」
「期限を置く」
「王みたい」
「知っている」
凱は自分で言う。
「だから、期限を俺一人で決めない。観覧席の通路容量、医療、警備、設備。四者」
「時間が」
「かかる」
「あなた、遅くなった」
「おまえも短くなれ」
「それは人格改造」
白区画の紙へ、二人で書く。
《中止放送》
《役札を外す》
《同時に技能札へ》
《観覧者は三選択》
《期限は通路容量確認後》
《決定者を放送で名乗る》
白が、少しずつ色を持つ。
決める人がいない仕事ではなく、決めるために必要な人が分かった仕事になる。
午後一時三十五分。
赤区画の壁を支える仕事が止まったのは、工具が足りなかったからではない。
訓練生の一人が、座ったからだった。
十九歳。
英雄役の補助。
右手に木楔。
左手に槌。
「休みます」
声は小さい。
周囲は、聞こえないふりができる大きさだった。
進行係が言う。
「楔交換まで三分です」
「手が震えます」
「交換後に」
「今」
イオが間へ入る。
「槌を置いて」
「私が抜けたら」
「別の人」
「技能札に、楔って書いた」
「できる時にできること。できなくなった時刻も技能情報」
「失格になります」
榊槙司が、白い定義表を持って来た。
《英雄は、担当区域が安全になるまで退場しない》
《避難者は、英雄の指示に従う》
《成功は、全指定動作の完了をもって判定する》
彼自身が作った三文。
「この文が原因です」
榊は言った。
「消して」
訓練生。
「消します」
「なら休める?」
「今後の運用上は。しかし、あなたが休めなかった時間と、私が作った責任は消えません」
「面倒ですね」
「契約文は、簡単な顔で面倒を後ろへ送るものです」
榊は赤鉛筆で三文へ線を引いた。
その横へ書く。
《英雄役・避難者役の運用停止》
《担当継続は、本人の身体申告と交代可能性を条件とする》
《成功は一括判定しない》
「誰が決めた」
轟。
「私が提案しました」
「現場は」
「本人、構造、医療、交代者の確認が必要です」
「なら、まだ決まってない」
「はい」
榊は紙の上へ《案》と書き足した。
「定義屋が、定義を保留?」
イオ。
「言葉を確定しすぎた結果が、今です」
「反省は後。交代」
楔担当へ、二人が手を上げる。
一人は工具経験がある。
もう一人は経験がないが、震えている本人の作業を最初から見ていた。
「どちら」
轟。
「経験者」
進行係。
「見ていた人も残す」
イオ。
「二人は多い」
「交代した人が、どこで止めたかを知っている」
轟は頷く。
「経験者が槌。見てた奴が楔位置。休む奴は、声だけ出せるか」
本人は手を開く。
震え。
「位置なら言えます」
「座ったまま」
「はい」
木楔を抜く。
古い楔は、水を吸い、厚さが一ミリ減っている。
「次、上へ二」
座った本人が言う。
「二ミリ?」
「穴二つ」
「受領」
新しい楔。
槌、一打。
「止めて」
二打目の前に、本人。
「なぜ」
「音が違う」
轟が壁へ耳を当てる。
補強骨の一つが、荷重を受けていない。
「正しい。二打目なし。下へ薄板」
休んだ人の耳が、作業を止めた。
榊は定義表へ新しい行を書く。
《休憩中の者も、確認と停止を担える》
「それ、また定義する?」
イオ。
「事実の記録です」
「未来の人が、休憩中も働けって読む」
榊の筆が止まる。
書いた一行へ、さらに付け足す。
《本人が望む場合のみ》
《拒否しても休憩の正当性は変わらない》
「長い」
訓練生。
「短くして害を出したので」
「全部読む時間ないです」
「では、現場札は《休む/呼ばない》。詳細は別紙」
「それなら」
札を二層へ分ける。
現場で一目で分かる短い言葉。
後で責任を確認できる長い言葉。
短さと正確さを、同じ紙へ押し込まない。
赤区画の壁は、薄板を入れるまで四分遅れた。
その四分で、水位は二センチ上がった。
遅れには代償がある。
しかし、二打目を入れていれば、補強骨は外れ、壁向こうの七人へ倒れた可能性がある。
止めたことで助かった、とも断定しない。
壊れなかった結果しか確認できない。
七瀬が時刻を残す。
《十三時二十八分、楔担当が休憩を申告》
《交代二名》
《休憩者の音差申告で二打目停止》
《構造破損なし》
《遅延四分》
榊は、自分の名を最後へ書いた。
《旧定義作成者として、休憩拒否運用へ関与》
「謝罪は」
本人が訊く。
「します」
「今?」
「聞けますか」
「無理」
「では後。日時をあなたが選ぶ。選ばなくてもよい」
「それ、謝罪から逃げてない?」
「逃げる可能性があります。だから連絡先と期限だけ置きます」
「面倒」
「私の仕事です」
本人は椅子へ深く座り直した。
「今日は、呼ばないで」
「受領」
現場札へ、二文字。
《休む》
それだけが、濡れた壁の前で一番よく読めた。
場内の四区画は、英雄の配置図より複雑だった。
しかし、誰がどこにいて、何をし、何をしないかは、前より見えた。
轟は広場中央へ立たない。
赤と黄の境目。
構造と救助が重なる場所。
「伏見さん」
訓練生。
「あなたの役は」
「ない」
「立場は」
「壁が鳴ったら止める」
「それだけ?」
「十分、うるさい」
壁が小さく鳴った。
轟は手を上げる。
全員が止まる。
音を聞く。
仮支持の木楔が、水を吸って縮んだ。
「黄、楔交換。赤は継続。白と青、動かすな」
仕事ごとに、違う判断。
同じ号令で全てを止めない。
轟は壁へ耳を当てる。
英雄の鼓動ではない。
濡れた木と金属の音。
その音だけを、今は信じた。