第425話 第七章「台本にない避難」前編

正午十八分

 伏見轟は、壁が壊れる音と、壁が壊される音を聞き分ける。

 壊れる音は、最初に小さい。

 金属が迷う。

 木が耐える。

 ボルトが一本だけ仕事をやめる。

 壊される音は、最初から大きい。

 人間は、自分が力を使ったことを知りたがる。

 西階段を塞いだ住宅模型は、壊れている。

 だが、轟が拳を入れれば、壊される壁になる。

「ここ、抜く」

 訓練生の一人が展示壁を叩いた。

「発泡材です。裏へ出られる」

「裏、人」

「図面では空間」

「図面、昨日も外れた」

「時間がありません」

 壁の向こうから、三回叩く音。

 間を置いて、一回。

 人がいる。

 轟は壁へ右耳を当てる。

「何人」

 向こうから、叩く数。

 三。

 二。

 もう一度、三。

「八?」

 タマキが訊く。

「分からん。返事、ずれた」

 百舌が、壁へ指を当てる。

 音のない鈴の柄で、一定の間隔を作る。

 とん。

 とん。

 とん。

 向こう側が真似る。

 百舌は左手で示す。

《一人ずつ》

 一回。

 一回。

 一回。

 一回。

 一回。

 一回。

 間。

 一回。

「七」

 轟。

「壁、壊したら」

 タマキが移動予定図を見る。

「向こうは訓練生待機帯。七人」

「発泡の裏、補強骨」

 轟が壁を叩く。

「拳入れると、骨が向こうへ飛ぶ」

「上から切る?」

「左肩、上がらん」

「僕が」

「届かん」

「台」

「水で滑る」

 方法が一つずつ消える。

 英雄なら壁を破る。

 轟は英雄役ではない。

 前は門番だった。

 いまは構造担当。

 壊せない壁には、壊さない理由がある。

「迂回」

 轟は図面を床へ広げた。

 水が端から染みる。

 現在の住宅模型。

 西階段、閉塞。

 北市場、浸水。

 東の地下通路、放水配管が横切る。

 南は流速が強い。

 模型の下に、可動用の保守床がある。

「ここ」

 タマキ。

「点検溝。高さ九十センチ」

「幅」

「八十」

「水」

「図面では排水」

「今」

「分からない」

「見に行く」

「轟は入れない」

「知ってる」

 肩幅が八十センチに近い。

 高さ九十では、左肩を守れない。

「僕」

 タマキが言う。

「耳」

「右から音取る」

「一人で行くな」

「百舌」

 百舌は頷いた。

 右手二本の感覚が薄い。

 左手で鈴。

 狭所潜水の経験。

 水底から戻ったばかりの身体。

「二人とも、無理なら戻る」

 轟。

 タマキが訊く。

「終了条件」

「五十歩。水が胸。通路が曲がって戻れない。どれか一つで引く」

「受領」

「索」

「結ぶ」

 封緘便は使えない。

 送り先を選んでも、道は光らない。

 タマキは、自分の腰と百舌の腰へ別の索をつけた。

「一本じゃないの」

 訓練生。

「一本だと、片方が止まった時、二人とも引かれる」

「離れたら」

「声と打鍵」

 百舌が鈴を二回叩く。

《止まる》

 三回。

《戻る》

 一回。

《進む》

 轟は索の端を自分の腰へ回さない。

 床の固定輪へ結ぶ。

 自分一人の体重を支点にしない。

「行け」

 二人が保守床へ入る。

 水は最初、手首。

 次に肘。

 狭い。

 轟には見えない。

 索の震えだけが届く。

 一回。

 進む。

 一回。

 進む。

 三回。

 戻る。

 轟は索を引かない。

 戻る二人の歩幅へ合わせて、たるみだけ取る。

 百舌が先に出た。

 次にタマキ。

「何」

 轟。

 タマキが息を整える。

「二十八歩先、配管落下。下をくぐれる。でも四十二歩で水が胸。出口まで見えない」

「使わん」

「二十八歩まで、物を運べる」

「何を」

「滑車」

 轟は図面を見直す。

 壁を破らない。

 保守床を人の避難路にしない。

 しかし、道具だけを向こうへ運べる。

 向こう側の七人にも、手がある。

「壁の下、展示用の排煙窓」

 タマキが言う。

「高さ二十センチ。滑車だけ通る」

「索は」

「保守床から回せる」

「向こうへ、結べる奴いるか」

 壁を叩く。

 百舌が手順を送る。

 短く。

 一つずつ。

《結索経験》

《いるなら二回》

 向こうから二回。

《固定点》

《床輪》

《荷重確認》

《一人ずつ》

 返事。

 轟は市場模型から外した二つ目の滑車を、保守床へ送った。

 タマキが途中まで運ぶ。

 百舌が索の変化を読む。

 向こう側の七人が排煙窓から引く。

 壁の下で、滑車が一度止まる。

「引くな!」

 轟。

 向こうには声が届かない。

 百舌が索を強く二回打つ。

 停止。

 タマキが腹ばいになり、排煙窓へ腕を入れる。

 左耳が床へ近い。

 世界が傾く。

「指、挟む」

 迅が来た。

「見える?」

「半分」

「俺が」

「右手」

「左でやる」

 迅も腹ばいになる。

 タマキの腕を抜かせ、自分の左手を入れる。

 滑車輪の縁。

 発泡片。

 配線。

「三センチ戻す」

「向こうへ伝える」

 タマキが索を一回、短く引く。

 二回。

 止める。

 向こう側が、三センチ戻す。

 迅が発泡片を外す。

 滑車が抜ける。

「届いた」

 壁向こうから、拳で二回。

 轟は自分の側の固定点を作る。

 倒壊壁そのものへ荷重をかけない。

 可動街区の基礎枠。

 水に浸かったボルトを確認。

 一本は緩い。

 使わない。

 二本目。

 錆。

 三本目。

 生きている。

「固定一。予備二」

「英雄なら一個で持つのに」

 鐘巻十夜が言った。

 胸部を守る硬いベスト。

 脈拍札を手にしている。

「英雄、壊れたら予備ない」

 轟。

「選手、心臓は予備ついてる」

「除細動器、心臓の予備じゃない」

 医療係が即座に返す。

「ほら、道具へ正しい期待を」

 十夜は笑い、倒れている訓練生の脈を取る。

「百十二。会話可。胸痛なし。怖い?」

「はい」

「何が」

「壁が動く」

「正しい。選手も怖い。機械が胸へ勝手に蹴り入れるかもしれない」

「それ、安心になりません」

「嘘の安心より長持ち」

 訓練生は笑わなかった。

 しかし、呼吸は十夜の指へ合わせて少し遅くなった。

 滑車二つ。

 索四本。

 固定点三つ。

 壁の向こうの七人。

 こちらの九人。

「引くのは誰」

 轟。

 役札が邪魔をする。

 英雄役は前へ。

 避難者役は待つ。

 生活技能役は支える。

「役、裏返せ」

 凱が来た。

「今できることだけ言え」

 一人目。

「索を引けます。長くは無理」

 二人目。

「結び目を確認できます」

 三人目。

「荷重は分からない。声は大きい」

 四人目。

「腰を痛めています。座って時刻を数える」

 五人目。

「何も」

「立って待てるか」

 イオが訊く。

「はい」

「待つのも仕事。ただし疲れたら言う」

「仕事なんですか」

「誰かが勝手に使わないよう、工具箱を見ていて」

「できます」

 六人目。

「引けます」

「何秒」

「分かりません」

「試すな。十秒」

 イオは時間を切る。

 最初の十秒。

 凱の号令。

 索が張る。

 滑車が回る。

 壁ではなく、壁を支える外装枠だけが五センチ浮く。

「止め」

 索を二回叩く。

 全員が止まる。

 外装枠の下に、三角支えを入れる。

 次の十秒。

 別の人が引く。

 英雄はいない。

 交代する。

 交代のたび、動きは少し遅くなる。

 名前を言う。

 手を変える。

 結び目を見る。

 痛みを訊く。

 遅い。

 水は増える。

「続けます」

 訓練生の一人が言った。

 肩が震えている。

 技能札には《索/十五秒》とある。

「休む」

 イオ。

「まだ十五秒です」

「八秒で震えた」

「できます」

「休みたい?」

「……続けたい」

「理由」

「止めたら、英雄役の人が代わるから」

「英雄役、誰」

 相手が凱を見る。

「俺は、声と担架だ」

 凱。

「でも」

「おまえの代わりを奪うために立っていない」

「私が休むと、遅れます」

「遅れる」

 イオ。

「水が来ます」

「来る」

「じゃあ」

「遅れた責任を、休んだ一人へ置かない。人員配置した側、休憩を計画しなかった側、交代を足りなくした側。全部ある」

「でも、私も」

「自分の八秒は、自分で言える」

 訓練生は索を離した。

「休みます」

「受領」

 役札の表には《最後まで索を離さない娘》

 本人は裏返す。

《索八秒》

《右肩震え》

《休憩》

 榊槙司が、境界外からその札を見ていた。

 左手の触覚が一部鈍い。

 手袋の指先を、もう片方の手で押す癖。

 彼が作った役割定義は、事故後も場内端末へ残っている。

《英雄――退場しない》

《避難者――英雄の指示へ従う》

《成功――予定された全員が、予定された経路で、予定時刻までに移動する》

「榊」

 轟が呼ぶ。

「入れ」

「私は現場要員ではありません」

「定義、現場で重い」

 榊は黒い境界へ近づく。

「停止区画へ入れば、私の《定義域》も働きません」

「能力の話してない」

 榊は止まる。

「あなたが定義を作った?」

 休憩した訓練生が訊いた。

「はい」

「最後まで索を離さない娘、も?」

「脚本担当との共同です」

「私が休むと、失敗?」

「定義上は」

「じゃあ、休んだら訓練を壊した人になる」

「そう運用する意図は――」

「意図、肩に乗らない」

 轟。

 榊は境界を越えた。

 能力が消える。

 言葉は消えない。

 端末を開く。

 定義文を削除しようとする。

「消すな」

 七瀬の声が、固定放送から入る。

「誰が作ったか残す」

「現在の運用を停止するため削除します」

「停止と記録、分ける」

「画面へ残れば、現場が読みます」

「取消線」

 タマキ。

「何」

「上から消さない。赤で線。横に、使用停止。理由。時刻。誰が止めた」

「長い」

「一行ずつ」

 榊は赤い油筆を取る。

 左手で押さえた紙がずれる。

 感覚が薄い。

 右手で書く。

《英雄――退場しない》

 赤線。

《使用停止。交代・休憩を妨げた。作成責任者・榊槙司。十一月三十日、十二時三十八分》

 次。

《避難者――英雄の指示へ従う》

 赤線。

《使用停止。本人の拒否と現場技能を消した》

 次。

《成功――予定された全員が、予定された経路で、予定時刻までに移動する》――旧定義。

 榊の手が止まる。

「何」

 イオ。

「これを消せば、評価基準がなくなります」

「今ある?」

「あります」

「現実に合う?」

「合っていません」

「じゃあ、なくなる前から無い」

「制度上はあります」

「制度は水に浮く?」

「比喩でなく、紙は浮きます」

 タマキが言った。

「防水じゃないから、文字は消える」

 榊は笑わなかった。

 真剣に考えた。

 赤線。

《使用停止。現在の事故を予定へ偽装する》

 横へ書く。

《新しい終了条件は現場ごとに申告し、全員の現在位置と身体状態を確認する》

「それは、定義?」

 七瀬。

「暫定です」

「誰が変えられる」

「現場参加者」

「運営は」

「変更理由を説明して提案。強制しない」

「あなたは」

「作成責任を消しません」

 榊は端末へ自分の氏名を入れる。

「定義を削除しても、昨日と今日の運用責任は残ります」

「罰してほしい?」

 イオ。

「いいえ」

「赦してほしい?」

「それも、今は」

「じゃあ仕事」

「はい」

「技能札」

 榊は少し迷って、書いた。

《文言整理》

《責任主体の明記》

《左手触覚低下》

《現場判断は他者へ》

《旧定義作成者》

 最後の行を、消さない。

 滑車作業が再開する。

 休憩した訓練生の代わりに、榊が索へ入ろうとする。

「違う」

 轟。

「責任を」

「腕で払うな。結び目読め」

 榊は索から離れた。

 結び目を一つずつ確認する。

 タマキが読み上げる。

 百舌が手話へする。

 向こうの七人が同じ結び目を確かめる。

 午後一時二分。

 外装枠が十二センチ上がる。

 一人ずつ、壁の下をくぐる。

 向こう側から七人。

 一人目。

 二人目。

 三人目。

 四人目が途中で止まる。

「怖い!」

 役札は《勇敢な衛生兵》

「戻る?」

 凱。

「進みたい。でも怖い」

「両方、受領」

「どうすれば」

「目を閉じる?」

「嫌」

「前を見る?」

「壁が近い」

 タマキが床へ腹ばいになり、向こう側から手を出す。

「僕の帽子見る?」

 緑のニット帽。

「変な色」

「見やすい」

「それだけ?」

「住所に目印いる」

「私は荷物じゃない」

「送り主。自分」

「受取人」

「こっちの自分」

「変なの」

「料金は後」

 四人目が笑い、帽子を見る。

 くぐる。

 五人目。

 六人目。

 七人目。

 最後に、壁向こうで索を管理していた男が出た。

 出た直後、座り込む。

 豪の教えどおり、呼吸。

 指。

 足。

 次の救助者。

「全員?」

 轟。

「七人」

 七瀬の声。

「名簿照合、七。現在位置、中央広場北。負傷、擦過傷二。歩行可。外装枠、仮支持中」

 救助は終わっていない。

 轟は壁を下ろす。

 滑車の荷重を抜く。

 結び目を解く。

 外した看板を戻すため、部品をまとめる。

「今、戻すの?」

 訓練生。

「仮止め。事故後、正式」

「逃げる方が」

「倒れたら、後ろを潰す」

 助けた後の壁も、現場だ。

 午後一時十九分。

 水位は下がらない。

 西階段は閉じたまま。

 放水設備は動いている。

 しかし、七人が出た経路は、脚本にない。

 壁を壊さず。

 能力を使わず。

 休憩を挟み。

 定義を取り消し。

 滑車を二つ使った。

 英雄の場面には、向かない。

 技能札には、書ける。

《狭所を怖がりながら通過》

《索八秒》

《帽子を目印にする》

《旧定義を取消》

《壁を壊さない》

《救助後、仮支持》

 轟は自分の札へ一行足した。

《他人の遅さを荷重に入れる》

 タマキが読む。

「何キロ」

「測れん」

「じゃあ危ない」

「だから書く」

「比喩?」

「構造」

「分からない」

「今度、図にする」

「料金」

「飯と現金」

「覚えてる」

 水の音の中で、滑車がゆっくり止まった。

 英雄の名前は、どこにも鳴らなかった。

 滑車作業の後、轟は中央広場を四つに分けた。

 赤。

 黄。

 青。

 白。

 赤は、いま止めなければ人が傷む仕事。

 黄は、十分以内に手をつける仕事。

 青は、事故が収まった後に戻す仕事。

 白は、誰が決めるか決まっていない仕事。

 英雄物語に、白い区画はない。