第545話 第七章「対称な不公平」前編
数字は平等だ。
平等なのは、数字だけである。
五月二十六日、午前六時。
御厨朝は、上流貯水塔の見張り台へ上らなかった。
黒い杖を使っても、百四十三段の鉄階段は無理だ。無理なものを、責任感で可能にすると、責任は身体の外へ逃げる。
朝は下の計器室へ座り、上にいるイオへ低音通話器で質問した。
「第一槽、実測」
『六千八百四十』
「単位」
『立方水量。昨日より百九十二減』
「沈下補正」
『プラス二十三。誤差幅、上下十八』
「第二槽」
『四千百十。昨日より八十六減。補正プラス十一、誤差幅十四』
「工業予約分を除く残り」
『予約という言葉が揉める』
「では、既に製造工程へ投入予定と登録された量」
『二千二百』
「そのうち、止めたら即時廃棄になる量」
『九百六十』
「残りは」
『延期できる。ただし賃金と納品に損失』
「数字を下ろして」
『紙が重い』
「一枚ずつ」
『人使いが荒い』
「階段を上らない分、口が余ってる」
『認めるんだ』
「身体を隠すより、役に立つ」
通話器の向こうで、イオが笑った。
能力を失った右腕で、普通の工具を使っている。以前なら一人で合わせた計器を、今は上流設備係二人と一緒に読む。誰かへ頼るたび、作業は遅くなる。
遅くなった分、三人の読み違いが一つずつ見つかる。
価は計器室の高い机で、数字を五つの列へ分けていた。
家庭。
医療。
工業。
輸送。
漏水。
腰椎の装具が机へ当たらないよう、椅子の背を前後逆にしている。
「合計欄を作らないって言ったのに」
朝が言う。
「これは交換額の合計じゃない。水の所在」
「同じように見える」
「同じに見えるものを、同じだと決めないために列へ分ける」
「巴みたいになった」
「治療費を請求する」
「誰へ」
「巴へ」
「言葉で影響を与えた罪?」
「重い」
価は鉛筆で上流工業欄へ九百六十と書いた。
「これ、止めると製品が固まって廃棄」
「再開に必要な水は」
「さらに二百四十」
「止めない場合は」
「毎日百八十使う」
「四十五パーセント削減なら」
「一日九十九。工程を三つ止めて、二つだけ交互運転」
「雇用」
「日雇い百八十七人が半日分を失う。固定雇用は三百二十一人、賃金七割保証の提案」
「誰が払う」
「上流工業組合。足りない分は、下流漏水修理の技術料と相殺しない」
「なぜ」
「相殺したら、下流が工場賃金を買ったことになる」
「では、別に払う」
「そう」
「原資」
「出荷済み在庫の共同買い取り。必要なら商船枠を優先」
「商船は隔日になる」
「だから、運航日を工業停止日へ合わせる」
「便利に組める」
「便利に組めるから、誰かの休みが勝手に決まる」
価は、運航日欄へ赤い線を引いた。
「船員と工員へ聞く。組合代表の印だけでは決めない」
「時間がない」
「時間がないと言う人ほど、他人の時間を使う」
「今のは名言?」
「請求する」
朝は黒い杖を膝へ置いた。
右足の装具が、湿気で皮膚へ張り付く。中央行政回廊の群衆事故で負った両脚の損傷は、歩けるようになったから消えたわけではない。右足背屈の低下は続き、黒い杖を置けば歩幅はすぐ崩れる。
だが、今の朝に必要なのは、歩幅ではなく前提条件だった。
同じ三十五パーセント削減案を、四つの条件で計算する。
一、上流の貯水努力を考慮しない。
二、下流の漏水率を固定する。
三、病院を家庭と同じ枠に入れる。
四、商船の代替輸送をゼロとする。
結果は、下流病院が四十八時間以内に洗浄能力を失う。
次に条件を変える。
上流貯水のうち工業予約分を除く。
下流漏水を修理班投入で段階低下させる。
病院を必要量優先へ分ける。
商船を隔日運航にする。
結果は、家庭最低量を三十日維持できる可能性が六十八パーセント。
「可能性」
朝は、数字の下へ太い線を引いた。
六十八パーセントは、保証ではない。
雨が降らない。
上流設備が故障しない。
下流修理が予定どおり進む。
病院の患者数が急増しない。
商船が別水路を使える。
それらの仮定が重なった数字だ。
仮定を隠すと、数字は命令になる。
仮定を見せると、数字は口論の材料になる。
口論の方が、命令より遅い。
朝は、遅い方を選んだ。
午前八時、船上交渉卓が開かれた。
交渉卓と言っても、四隻の小型船を板でつないだだけだ。上流代表の船、下流代表の船、商船組合の船、病院船の補助艇。中央に置かれた板は、誰の船体にも固定されていない。
波が来るたび、四方の板が別々に鳴る。
紬は中央へ立たず、下流側の板へ座った。
上流代表がすぐ言う。
「中立をやめたか」
「右肺が痛い。こっちの方が揺れが少ない」
「身体を理由に位置を決めるのか」
「身体以外で、どこに立つ」
「象徴として中央へ」
「中央は、一番揺れる」
「今まで立っていた」
「今までの私が、賢かったとは言ってない」
朝は椅子へ座ったまま資料を配った。
上流代表が最初の頁を見る。
「四十五パーセント」
声が低くなる。
「下流工業は二十パーセント。どう見ても優遇だ」
「そう見えるように書いた」
朝が答える。
「見えるように?」
「隠していないという意味」
「上流は貯めた。下流は漏らした。なぜ、貯めた側が四十五も減らす」
下流代表が机を叩く。
「漏らしたんじゃない。管が古いんだ」
「古いまま使った」
「替える金を、上流輸送の通行料へ払ってきた!」
「通行料は水路整備に使った」
「上流側の水路だ!」
「下流の船も通る!」
「水位があればな!」
凱が二人を見る。
「質問していいか」
「仲裁案は要らない」
上流代表が言う。
「出さない」
「では、何を」
「上流が貯めた努力を守る、とは具体的に何を守ることか」
「水だ」
「水量だけか」
「設備投資、住民の節水、工場の循環装置」
「それらが無駄にならないこと?」
「そうだ」
「下流へ水を出すと、無駄になる?」
「結果だけ見れば、貯めなかった側が得る」
「では、設備技術を有料で渡し、修理人員を下流が出し、次の貯水能力を双方で増やす案は、努力を奪う?」
「条件次第だ」
「その条件を書くために、今いる」
凱は下流代表へ向く。
「下流が優先される、と言われた時、何を否定したい」
「優先じゃない。死なないための量だ」
「二十パーセント削減で、何が止まる」
「染色場二つ、製氷場一つ、魚市場の洗浄時間」
「止めても死なない?」
「魚が腐れば食料が減る。染色場の百二十人は賃金を失う。製氷場が止まれば病院の薬も困る」
「病院必要量百パーセントの中へ、製氷場を入れる?」
「全部は違う。薬用の分だけ」
「分けられる?」
「今の配管では無理」
「いつまでに」
「分岐弁があれば三日」
轟が資料を見た。
「弁は作れる」
「どこで」
「上流工場」
上流代表が笑う。
「工場を四十五パーセント止めて、下流用の弁を作れと」
「止める工程と、弁を作る工程は別」
「電力は同じ」
「昼夜を分ける」
「作業員は」
「上流から出す。ただし下流修理班が補助する」
「技術を盗まれる」
「図面は持ち帰らせない。作業記録は双方保管」
「下流は無償で技術を得る」
「使用料を払う」
「水で?」
「金、修理労働、将来の通行枠。合計しない」
轟は左肩を動かさず、右手で図面を開いた。
「弁一つの話を、正義まで大きくするな。大きくすると、ねじ穴が見えなくなる」
「技術者は、政治が分からない」
上流代表が言う。
「政治家は、ねじがなくても水が流れると思う」
轟が返す。
小麦が、船の間へ椀を置いた。
「食べて」
「交渉中だ」
「空腹で決めた数字は、食後に変わる」
「変えてはいけないのか」
「変えていい。だから食べる前に署名しない」
上流代表は椀を見る。
「同じものか」
「同じ鍋。塩は別」
「また非対称」
「あなたは汗をかいてない。船員はかいてる。病院の人は塩分制限」
「私だけ少ない?」
「椀は同じ」
「そこは同じなんだ」
「洗いやすいから」
笑った者がいた。
笑わなかった者もいる。
小麦は、笑いを合意へ数えない。
船員へ椀を渡し、厨房の水使用量を卓へ置いた。
「共同厨房、今の使用量は一人一日四・六リットル。飲用、調理、器洗い込み」
「多い」
上流代表が言う。
「家で別々に作ると、一人六・一。共同で作る方が少ない」
「下流へ共同厨房を増やせば」
「水は減らせる。働く人も増える」
「賃金は」
「払う」
「誰が」
「今から決める。無料の善意にはしない」
「厨房を補償にできるか」
「水の代金にはしない。生活を維持する仕事」
「全部、代金じゃないと言う」
商船代表が口を挟む。
「なら、誰が損を埋める」
「損は、損として書く」
小麦が答える。
「埋まるものだけ、別に埋める。埋まらないものへ、釣り合った顔をしない」
「料理人が、交渉人みたいだ」
「交渉人が食べないから、料理人がしゃべる」
紬は、自分の半分の椀を持ち上げた。
「食べてる」
「遅い」
「呼吸が」
「分かってる。だから半分」
上流代表が資料へ戻る。
「四十五パーセントは変えないのか」
朝は答えを急がない。
「上流工業の現在使用量は一日二千百。四十五パーセント削減で九百四十五減る。下流工業は一日千三百。二十パーセントで二百六十減る」
「差は六百八十五」
「病院必要量は一日四百二十。家庭最低量を二十二リットルにすると、上流家庭八百七十、下流家庭千四百十」
「下流の方が多い」
「人口が多い」
「増やしたのは下流だ」
「病院と市場があるから、人が集まった」
「それも選択だ」
「上流が貯水設備を持ったのも選択」
「努力だ」
「選択と努力は両立する」
朝は紙の次の欄を示す。
「上流が四十五パーセント減らす代わりに、下流は漏水修理班百二十人を三十日出す。修理材料費の六割を下流、四割を上流が負担。上流は貯水技術者二十四人を派遣する。技術使用料は後払い、金額未決定。商船は隔日運航し、空荷便を部品輸送へ提供する。病院は必要量を百パーセント確保するが、非医療洗浄を共同洗浄所へ移す」
「下流工業二十パーセントは」
「魚市場洗浄は時間帯制。染色場は二十パーセント。製氷場は医療用と市場用を配管分離した後、市場用を四十パーセント削減」
「数字が増えた」
「違うものを一つにすると、数字は少なくなる」
「その方が分かりやすい」
「分かりやすく失業する人が出る」
朝は、上流工員の名簿を出した。
個人名は公開しない。
職種、勤務日、賃金保証の有無、停止可能時間だけを並べる。
下流修理班の名簿も同じ形式にしない。
住区、修理技能、潜水可否、夜間作業可否、家族介護時間を並べる。
「形式が違う」
紬が言う。
「仕事が違う」
「比較できない」
「比較するのは、負担の大きさだけじゃない。誰が、いつ、拒否できるか」
「国家の書式では」
上流代表が朝を見る。
「統一できるだろう」
「できる」
「なぜしない」
「統一したら、下流の家族介護時間が備考欄へ落ちる。上流の工程停止期限も備考欄へ落ちる。備考欄は、最初に読まれなくなる」
「国家の書式を否定するのか」
「私が作った書式もある」
「自分の仕事を」
「使う場所を選ぶ」
「責任逃れだ」
「そう見える」
朝は否定しない。
「だから、私の名で、今回は国家標準へ統一しないと書く。結果が悪ければ、その判断も審理対象にする」
「便利な逃げ道」
「逃げ道は、名前を置くと少し狭くなる」
「少し?」
「全部塞ぐと、次に間違いを直せない」
紬が、朝を見た。
「前なら、もっと強く言った」
「前なら?」
「国家標準は、誰にも同じだから公平だと」
「言った」
「今は」
「同じ書式を作る権力が、誰にあるかを先に見る」
「成長した?」
「怪我をした」
「同じ?」
「違う。成長と言うと、怪我に意味が付く」
朝は黒い杖を握った。
「意味は、後で他人が使う。身体は私が使う」
昼、水位予測が公開された。
一枚目には、同率三十五パーセント削減。
二枚目には、非対称案。
三枚目には、計算の前提。
四枚目には、前提が外れた場合の最悪値。
六十八パーセントという維持可能性の横へ、三十二パーセントの失敗可能性も同じ大きさで書く。
上流の掲示所で、紙へ泥が投げられた。
《貯めた側を罰するな》
下流の掲示所では、赤い線が引かれた。
《二十二リットルで足りると思うな》
商船掲示所には、別の紙が貼られた。
《隔日では船員の賃金が半分になる》
病院入口には、看護師が書き足した。
《必要量百パーセントは、患者数が増えれば増える》
数字は、公開した瞬間に完成しなかった。
異議によって、初めて使われ始めた。
午後、折部が四つの掲示所を回った。
泥を落とさない。
赤線を消さない。
書き足しを正式文へ勝手に入れない。
そのまま写し、差出地だけを記録する。
「匿名は」
朝が尋ねる。
「維持」
「同じ人が十枚書いても」
「十枚として届く。でも十人とは数えない」
「賛否集計に使えない」
「配達だから」
「便利な逃げ道」
「職業範囲」
「似てる」
「朝さんと?」
「嫌?」
「料金による」
折部は次の船へ移る。
義足が板へ当たり、一拍遅れて音が返る。
朝は、その音を数えなかった。
試験運用の夜、上流工場の停止灯が予定より一時間早く赤くなった。
下流側では、それを《協定案へ協力した》と掲示しかける。
上流工員が止めた。
「協力じゃない。冷却槽の故障」
「結果として水を減らした」
「故障を善意にするな」
「でも、助かった」
「助かったことと、故障したことを分けろ」
朝は二つの欄を作る。
《計画削減》
《故障による停止》
合計水量は同じでも、翌日の責任が違う。
計画削減なら賃金保証と再起動手順。
故障なら修理費と安全点検。
下流修理班でも、予定より漏水が多く減った箇所があった。
成功ではない。
古い堆積物が管の穴へ詰まり、一時的に流れを塞いだだけだ。
「成果へ数える?」
由良が尋ねる。
「数えれば、修理班の実績になる」
下流代表が言う。
「明日、詰まりが抜けたら」
「失敗になる」
「では、未判定」
朝が書く。
「未判定ばかり」
「明日があるから」
「明日を保証しない協定なのに」
「保証しないから、今日だけで決めない」
朝は、故障停止と堆積物の詰まりを同じ成果表へ入れなかった。
数字を大きく見せる誘惑は、善意側にもある。
上流の努力を証明したい者。
下流の修理能力を証明したい者。
どちらも、自分の共同体を守ろうとしている。
守ろうとする気持ちは、記録を正しくしない。
だから、朝は善意を信頼する代わりに、理由欄を増やした。
非対称案の試験初日、朝は上流工場へ行った。
百四十三段を上らない代わりに、低い連絡路を三倍の距離で回る。黒い杖、右足、間、左足。歩く速度は、工場の停止時刻へ合わせられない。
「車を出せた」
紬が言う。
「座って数字を見たくない」
「歩けば現場を分かったことになる?」
「ならない」
「偉い人の視察みたい」
「そう見える」
「やめる?」
「見られる不利益より、見ない不利益が大きい」
工場では、停止した工程の前で、短期作業員二十三人が待っていた。
七割賃金保証の対象外だった者たちだ。
「国家の人?」
一人が朝の杖を見る。
「元」
「今は」
「調停記録」
「誰に雇われてる」
「日当は四地域の共同負担」
「水を減らす側からも?」
「上流、下流、商船、病院」
「公平」
「同額ではない」
「またそれか」
作業員は笑わない。
「七割では、家賃が払えない」
「不足額」
「一日、三十七」
「二十三人全員?」
「違う。家族数で違う」
「個人名なしで、分布を出せる?」
「また表にする」
「嫌?」
「表にされると、人間が消える」
「では、名前を出す?」
「それも嫌」
「方法を選べる?」
「選ぶのも仕事みたいだ」
朝は、すぐ用紙を出さなかった。
相手は、選択肢を作ること自体に疲れている。
「今は、聞いたとだけ記録する」
「解決しない」
「しない」
「何しに来た」
「解決できない額を、解決済みにしないため」
「役に立たない」
「そう」
作業員は、朝の黒い杖を見た。
「それで歩ける?」
「長くは」
「七割?」
「数字にしないで」
「自分は嫌なんだ」
「嫌」
「受領」
作業員は、初めて少し笑った。
下流の修理現場では、別の穴が見つかった。
百二十人の修理義務は、人数だけをそろえると、経験者が上流技術者の指示へ従い、未経験者が危険な泥さらいへ回される。
同じ一人が、同じ負担ではない。
由良が作業札を三つへ分ける。
配管技能。
足場技能。
記録・運搬。
「人数が減る」
下流代表が言う。
「同じ百二十」
「修理する人が八十になる」
「残り四十も必要」
「水を止めない」
「材料を運ぶ。圧を読む。家船へ説明する。修理だけが仕事じゃない」
「見栄えが悪い」
「水漏れは見栄えを見ない」
由良は右膝へ装具を巻き直す。
自分は足場へ乗らない。
地図と作業順を渡す。
能力で帰路を示さず、住民が毎日使う板道を一本ずつ確認する。
朝は、上流工場と下流修理の二つの記録を並べた。
同じ人数欄は作らない。
上流は、失われる賃金と工程。
下流は、技能と危険度と介護時間。
比較できないまま、両方を協定の負担として置いた。
公平を証明する表ではない。
不公平の形を、後から見失わないための表だった。
夕方、非対称案の最初の試験が始まった。
上流工業は、三工程のうち一工程を四時間停止。
下流修理班は、漏水の大きい接合部二箇所へ仮帯を巻く。
商船は、偶数番号船だけを運航。
病院は、非医療洗浄を共同洗浄所へ移す。
四つの負担は、同時刻に始まらない。
上流工場は午後四時。
修理班は潮位が下がる午後五時二十分。
商船は翌朝。
病院は夜勤交代後。
紬が言う。
「始める時刻も違う」
「同じにする理由は」
朝が尋ねる。
「公平に見える」
「見せる相手は」
「両岸」
「実際に働く人は」
「別」
「なら、別でいい」
「簡単に言う」
「簡単じゃない。記録が四倍になる」
「嫌?」
「嫌」
「でもやる」
「仕事だから」
上流工場の停止で、百八十七人のうち二十三人が即日賃金を失うと判明した。
組合の保証対象から外れていた短期作業員だ。
下流修理班では、家族介護のある七人が夜間作業へ参加できない。
商船の偶数便には、病院部品を積めない船が二隻あった。
共同洗浄所は、病院の汚染区分を扱える設備が不足していた。
案は、開始から一時間で穴だらけになった。
「失敗」
紬が言う。
「試験」
朝が答える。
「言い換えれば、失敗が軽くなる?」
「軽くしない。試験中止の理由を残す」
価が短期作業員二十三人の賃金欄を追加する。
小麦が介護のある修理班七人を、昼の厨房作業と記録係へ振り替える。
轟が病院用洗浄槽を移設する図を描く。
イオが、部品を積める奇数便と偶数便を入れ替える。
誰か一人の能力で、穴を塞がない。
穴の数だけ、人が増える。
「人数が増えると、責任が薄まる」
紬が言う。
「名前を分ける」
朝が答える。
「責任者を一人にすれば早い」
「その一人が間違えたら、全員が同じ方向へ落ちる」
「一人を選ぶのが、交渉人」
「選ばないこともある」
「朝は、選ばない側になった」
「今は」
「ずるい」
「受領」
紬は笑わなかった。
補償案には、金額を決める前に《支払日》を入れた。
以前の朝なら、金額が決まらない文書へ日付だけ置くことを嫌った。
今は、金額が未定でも、いつまでに決めるかがなければ未払いが永遠になると知っている。
短期作業員の七割賃金は翌日正午。
商船の待機賃金は運航日の翌朝。
下流修理班の夜間加算は三日ごと。
技術使用料は三十日協定とは別に、十四日以内に仮額を決める。
「仮額?」
価が聞く。
「最終額を待つと、技術者が無給になる」
「高すぎたら」
「後で返す?」
「返せない人もいる」
「では最低保証だけ先に払う」
「それを誰が決める」
「技術者本人と、上流組合と、下流修理会」
「朝は」
「記録」
「楽な役」
「以前は全部決めたかった」
「今は責任を避ける」
「そう見える」
朝は、反論せず自分の欄を作る。
《補償方法を当事者へ返した判断――御厨朝》
正しい分散か、必要な決定を避けただけかは、支払いが終わるまで判定しない。
試験運用の結果を読む夜、小麦は上流工員と下流修理員を同じ卓へ座らせなかった。
「仲良く食べればいい」
紬が言う。
「勤務が違う。上流は今から夜勤、下流は夜勤明け」
「同じ食事会に」
「片方を起こして、片方を働く前に長居させる?」
「また別々」
「休息も負担」
上流工員には塩気を抑えた早い食事。
下流修理員には温かい粥と、食後すぐ眠れる暗い船室。
同じ卓で和解する映像は撮れない。
七瀬が言う。
「撮らない方が正確」
「絵にならない」
紬が返す。
「生活は、絵になる時間へそろわない」
朝は、食事時刻の違いも負担表へ入れた。
水量だけの協定が、睡眠と勤務へ影響する。
数字の外へ落ちるものを、後から拾う欄がまた増えた。
食事のあと、価が短期作業員の賃金表を持ってきた。
二十三人。
上流の工程停止で、働けなくなる者が十一人。
下流の修理増員で、予定外に働く者が十二人。
同じ水量調整が、片方には無給の待機を、片方には休息のない追加勤務を作る。
「相殺できる」
上流代表が言った。
「十一人分の減収と、十二人分の追加賃金を同じ額へ近づければ」
「働かなかった時間と、働きすぎた時間が同じになる?」
小麦が鍋の蓋を閉める。
「金額の話だ」
「身体は」
「別欄」
朝が答えた。
上流側には待機賃金。
下流側には追加勤務手当と、翌日の休息保障。
どちらにも食事。
ただし、同じ献立にはしない。
「また不公平と言われる」
紬が言う。
「言われる」
小麦は上流の塩分制限表と、下流の夜勤明け表を別々に貼った。
「同じ飯を出して、平等な顔をする方が安い」
「厨房としては?」
「二種類は面倒。だから料金へ書く」
善意の炊き出しにはしない。
上流代表は、待機賃金の財源を共同調整費へ入れることへ反対した。
「操業を止める工場が払うべきだ」
「停止を求める協定側にも責任がある」
朝が言う。
「工場だけへ払わせれば、短期工員を先に切る」
「協定側が払えば、経営者が損失を隠す」
「だから二分する。工場が基本分。共同調整費が、停止命令による差額」