第544話 第六章「巴の平文」後編
小麦は笑わない。
「冗談じゃないよ」
洗う水も、協定の水だ。
小麦は布を絞らず、乾いた布で汚れだけを取る。
「洗わない」
「不衛生」
「口へ当てる部分は別布にする。全部洗うより水が少ない」
「同じ布なのに」
「部分が違う」
紬は、何も言わなかった。
四つの卓へ置かれた相手文面は、読む順番でも揉めた。
上流代表は、最初に自分の損失欄を読んだ。
下流代表は、病院欄から読む。
商船は運航日。
病院は必要量。
「皆、自分に近いところから読む」
紬が言う。
「普通」
巴が答える。
「相手側文面を読ませる意味がない」
「順番を指定する?」
「同じ順番で」
「また同じ」
紬が口を閉じる。
巴は、読む順番を一つにしなかった。
代わりに、最後に必ず《自分が最初に読まなかった欄》を一つ説明することにした。
上流代表は、下流の共同厨房拒否欄を読む。
下流代表は、上流短期作業員の賃金欄。
商船代表は、患者情報非公開。
病院代表は、待機船員の食費。
「なぜ、ここを後にした」
巴が尋ねる。
上流代表は答える。
「水量と関係が薄いと思った」
「共同厨房を使えない家庭は、水使用が増える」
「では関係がある」
「賃金は」
下流代表が言う。
「水と関係ないと思った。だが水券を買えない」
「患者情報は」
商船代表が言う。
「こちらの運航枠を決めるなら、証拠として見せるべきだと思った」
「名前まで必要?」
「……必要量だけでいい」
「待機食費は」
病院代表が答える。
「医療より軽いと思った」
「食べられない船員が、翌日の医療部品を運べる?」
「運べない」
相手の文を読むことは、相手へ賛成することではない。
自分が最初に捨てた欄を知ることだった。
巴は用紙の末尾へ、一つの質問を加えた。
《最初に読まなかった欄は何か。その理由は何か》
「心理試験?」
紬が聞く。
「契約条件ではない。公開も選べる」
「書かない人は」
「書かない」
「意味ある?」
「私が、自分の用紙で何を後回しにしたか分かる」
巴自身は、《水上区固有語》を最初に後回しにしていたと書いた。
共通平文を先に作ろうとしたからだ。
相手側文面を読む時間は、読む能力を持つ者だけの時間になりかけた。
下流卓の端で、文字を読めない老船頭が、二時間ずっと腕を組んでいた。
「説明役を」
巴が言う。
「要らない」
「読めない部分を」
「読めないんじゃない。紙の言い方を信用してない」
「違いは」
「読めば分かると思ってる顔」
巴は椅子を一つ空けた。
「では、紙を読まずに、上流文を説明する」
「誰が」
「私が」
「陸の言葉で?」
「分からない語は止めて」
巴は一行ずつ声に出した。
《貯水設備の現在量を公開する》
「現在って、どの潮」
「測定時刻」
「水が動いてる時の一時刻で、現在と言うな」
「では」
「上げ潮、止まり潮、下げ潮。三つを出せ」
巴は書き換える。
《三つの潮時の測定値を出す》
《工業使用を削減する》
「使用って、取った量か、戻さなかった量か」
「取水量」
「循環して返した分を同じにするな」
書き換える。
《工業が水路から取り入れ、同じ系へ戻さなかった量を削減する》
「長い」
「短くすると」
「嘘になる」
「受領」
「その言葉、軽い」
「やめる?」
「やめなくていい。軽いまま置け」
老船頭は、紙へ署名しない。
代わりに、三つの潮を示す結び目を作った。
巴は、その結び目を文字へ変えず、用紙の端へ縫い付ける欄を追加した。
上流卓では、逆の問題が起きた。
上流の設備係は、下流文の《鍋底が見える》を感情的な比喩だと読み飛ばした。
「鍋底は、残量の印」
小麦が言う。
「量水器を使え」
「家船全部にない」
「目盛付き容器を配る」
「目盛が読めない人は」
「鍋底を見る」
「不正確」
「不正確だから、誤差幅を付ける」
「鍋に誤差幅?」
「鍋の大きさを登録する」
「手間」
「水より安い」
「その言い方、流行ってるのか」
「嫌い」
小麦は、三つの鍋を並べた。
同じ深さに見える。
底の径が違う。
同じ一センチでも、残る量が違う。
設備係は実際に水を注ぎ、量を測った。
「こんなことで」
「暮らしてる」
「計器を設置すれば」
「設置費、保守、読む人。三十日で全部は無理」
「暫定?」
「鍋は前からある」
「制度として暫定」
「生活は、制度より先にある」
設備係は、下流文の《鍋底》を消さなかった。
その横に、換算表を付ける。
巴の共通平文は、地元語を標準語へ置き換えるのではなく、地元語の横へ、他地域が誤解しないための説明を置く形へ変わった。
説明の方が長い。
元の言葉は短いままだ。
「巴の文が、添え物になった」
紬が言う。
「そう」
「悔しい?」
「料金は同じ」
「悔しいんだ」
「受領」
読み合わせの終わりに、誰も使わなかった欄が一つあった。
《全て理解した》
巴は、その欄を削除した。
代わりに三つを置く。
《自分が説明できる》
《説明できない箇所を示した》
《今は決めない》
理解を一つの扉にせず、扉の前で立ち止まる場所を増やした。
平文の《同意》という語も、水上区ではそのまま使えなかった。
「同意したら、ずっと?」
若い母親が尋ねる。
「この文書では三十日」
「途中で家船が移ったら」
「変更できる」
「なら同意じゃない」
「何と言う」
「今の潮では受ける」
巴は、その言い方を残した。
《今の潮では受ける》
上流代表が見て笑う。
「詩みたいだ」
「水上区では時刻と水位の条件」
「陸では使えない」
「陸へ持ち帰らない」
「共通平文なのに」
「共通に分かるため、地元語を消さない」
母親は、受領札へ潮時を書いた。
同意した、ではない。
今の条件で受ける。
条件が変われば、もう一度聞く。
巴は、署名欄の上へ《今の条件》を書く場所を増やした。
同意を強くするためではない。
同意が古くなる時を、見つけやすくするためだった。
閲覧の二時間が始まる。
上流卓では、下流文の《船浮力維持》へ赤い疑問符が付く。
下流卓では、上流文の《貯水努力保全》へ青い異議が付く。
商船卓では、病院文の《必要量百%》へ黒い線が引かれる。
病院卓では、商船文の《隔日運航》へ黄色い保留札が置かれる。
どの卓も、相手側の文章を読んで怒る。
秘密にした場合より、早く怒る。
紬が巴へ言う。
「ほら、騙されたと思ってる」
「読めたから怒ってる」
「怒らせるのが成功?」
「隠して署名させるより」
「比較が低い」
「比較は、低いところから始める」
「また名言」
「これは撮らないで」
「撮った」
七瀬が答えた。
巴はため息をつき、右手を左手で押さえた。
痛みが増している。
文字を自分だけで書き続ければ、文面は巴の身体の限界へ従う。
「交代する」
巴が言う。
「誰と」
「下流の記入係。上流の記入係。商船の帳場。病院の看護記録員」
「字が揃わない」
「揃えない」
「誤記が増える」
「相互照合を増やす」
「遅い」
「遅い」
巴は、自分の鉛筆を卓へ置く。
「一人で正しく書くより、四人で違いを見つける」
下流の記入係が、最初の行を写す。
上流の記入係が、換算値の桁を間違える。
商船の帳場が、それを見つける。
病院の看護記録員が、誤差幅の単位を書き足す。
四人の字は、そろわない。
同じ紙に、別々の筆圧が残る。
二時間後、署名できる文書は一枚もなかった。
質問は百二十六。
異議は五十四。
保留は三十一。
返送は九。
受領は百八。
合計は、同じ数にはならない。
一人が複数の札を出しているからだ。
紬はその数字を見て、目を閉じた。
「失敗」
「まだ」
「同意がゼロ」
「読まれた文は四つ」
「署名がない」
「秘密の非対称もない」
「水位は下がった」
「そう」
巴は否定しない。
「紙を読んでいる間にも、水は減る」
「紙を読まずに決めても、水は減る」
「どちらがまし」
「今は、まだ分からない」
紬は青緑布へ新しい結び目を作りかけた。
やめる。
「結ばないの」
「結び目が増えすぎる」
「忘れる?」
「忘れたくないことだけ、結んでた」
「今は」
「忘れても、紙にある」
巴は、三枚目の中央欄を指した。
上流文と下流文は、同じ文ではない。
商船文と病院文も、同じ文ではない。
中央欄だけが、それぞれの違いを隠さず参照する。
同じ屋根の下に置かれている。
同じ机ではない。
夕方、巴は、読み上げ確認を一度やめた。
読み上げる者の抑揚が、賛成へ聞こえるからだ。
代わりに、文を短い札へ分け、受取人へ順番を選ばせる。
《今の潮なら受ける》
《水位が変われば選び直す》
《受け取るが、公開しない》
《説明だけ受け、まだ決めない》
上流の工員が、最初の札を取った。
「受領?」
「今の潮では」
「明日も?」
「知らない」
「では、受領期限」
「次の測定まで」
下流の家船主は、二枚目と三枚目を重ねた。
「選び直す。今は公開しない」
記入係が一つの欄へ丸を付けようとする。
巴が止める。
「二つです」
「結果は一つだろ」
「受け取ることと、見せることは一つじゃない」
四つの卓に、同じ短文を配らない。上流には工程停止の言葉、下流には家船と洗浄の言葉、商船には運航日、病院には処置と貯蔵の言葉を使う。
同じ意味へ近づけるために、同じ単語を使わない。
その作業にも時間がかかった。
かかった時間を、誰かの理解が遅いせいにはしなかった。
夜、水位はさらに八ミリ下がった。
四つの卓では、まだ相手側の文を読む者がいた。
怒ったまま読む者もいる。
返送する文へ、理由を付ける者もいる。
巴の右手は、もう鉛筆を持っていなかった。
代わりに、四人の異なる字が、一つの中央欄を少しずつ埋めていた。