第543話 第六章「巴の平文」前編

分かりやすい文章には、分かりやすく消える人がいる。

 巴は、紙を二枚に分けた。

 一枚目には、《上流》と書く。

 二枚目には、《下流》と書く。

 中央へ、細い三枚目を置く。

 紬は、その配置を見て眉を寄せた。

「三枚」

「そう」

「増えた」

「減らせる?」

「同じ文にすれば、一枚」

「同じ被害になる?」

「ならない」

「じゃあ三枚」

 巴は右手を使わない。

 前の契約事件から残る右人差し指の硬直と腱痛は、水気で悪化していた。左手で鉛筆を持ち、右手は掌を下にして布の上へ置く。

 水上難民区の共同食堂を借りた臨時卓には、濡れた紙、干した紙、まだ読めない紙が重なっていた。

 壁はない。

 屋根はある。

 床は浮いている。

 誰かが歩くたび、鉛筆の先が文字から外れる。

「机を固定できない?」

 巴が尋ねる。

 小麦が鍋をかき混ぜながら答えた。

「できるよ。岸へ打ちつければ」

「問題は」

「潮が変わると床が割れる」

「固定しない方が安全」

「この街ではね」

「文章も?」

「文章は、食べたことないから知らない」

「紙は食べないで」

「紙代を払えば考える」

 小麦は豆と海藻の粥を椀へ注いだ。

 上流代表用と、下流代表用と、商船用と、病院用で、塩分が違う。

 同じ鍋から取っている。

 だが、病院用には塩を加えず、上流作業員用には汗の量を見て少し足す。商船の若い船員には、空腹で一気に飲まないよう固い豆を増やす。

「同じ粥じゃない」

 紬が言った。

「同じ鍋」

 小麦が答える。

「味が違う」

「身体が違う」

「それを、最初から言ってくれれば」

「聞かなかったでしょ」

 小麦は紬の椀だけ半分にした。

「なぜ少ない」

「呼吸が戻ってから食べる。今、満腹にすると息が苦しい」

「私だけ少ない」

「不公平?」

「……合理的」

「便利な言葉だね」

 巴は鉛筆を止めた。

 合理的。

 公平。

 安全。

 どれも、短くて使いやすい。

 短い言葉は、誰かの事情をよく畳む。

 畳まれた事情は、紙の端から落ちる。

「中央欄は何を書く」

 紬が尋ねる。

「共通することだけ」

「何が共通する」

「期間。測定時刻。公開項目。拒否窓口。撤回方法。相手側の文を読める場所」

「水量は」

「別」

「削減率は」

「別」

「違反時の処置」

「別」

「それでは、同じ協定に見えない」

「同じ協定でなくていい」

「同じ水を使うのに」

「同じ水だから、別の場所で減る」

 紬は青緑布の端を二つ結んだ。

 一つ目は、相手の条件を自分へ返さない。

 二つ目は、呼吸が苦しくなったら意地を張らず酸素を使う。

 昨日増えた結び目だ。

「違う文面なら、上流は下流だけ得をしたと思う」

「読めるようにする」

「読んでも、同じ言葉じゃない」

「同じ言葉で違うことをさせる方が、騙してる」

「言い切るね」

「昨日、失敗したから」

「失敗すると強くなる?」

「失敗した場所だけ、弱さが見える」

「名言みたい」

「書かないで」

 七瀬が固定台から撮影機を外しかけ、止めた。

「もう撮った」

「ずるい」

「撮る前に言って」

「撮らないでと言う前に撮るのは、もっとずるい」

 七瀬は撮影機を下ろす。

「じゃあ、今の会話は非公開」

「名言じゃない部分も?」

「全部」

「惜しい」

 巴は三枚目の中央欄へ、最初の一文を書いた。

《この文書は、上流文、下流文、商船付属文、病院付属文を同じ内容へ統一しない》

 紬が読み、顔をしかめる。

「協定の一行目で、統一しないと宣言するの」

「隠して後で見つかるよりいい」

「読む人が不安になる」

「不安になる内容だから」

「安心させるのも交渉の仕事」

「安心できないものを安心に見せるのは、広告の仕事」

「カナタが怒る」

「今はいない」

「いない人へ強い」

「いる人には、もっと弱い」

 巴は次の一文を書く。

《相手側文面は、署名前に全文閲覧できる》

《相手側文面への異議は、自分側文面と別紙で保存する》

《異議を撤回しなくても署名できる》

「最後」

 紬が指す。

「異議があるまま署名させる?」

「署名は、賛成の拍手じゃない」

「何」

「自分が引き受ける条件を確認した記録」

「相手の条件へ反対でも」

「反対できる。その反対を隠さず、今の期間だけ自分の義務を引き受ける」

「合意が弱くなる」

「弱くていい」

「水門は弱い合意で動かない」

「強い合意で壊れたこともある」

 紬は答えない。

 屋根の外で、水位柱を叩く音がした。

 上流水位、前時刻から一・二センチ低下。

 下流水位、〇・四センチ上昇。

 座礁船を外すための段階放流が、まだ下流へ残っている。

 一時的に水位が上がった。

 下流の人間が、それを《水が来た》と呼ぶ。

 上流の人間が、それを《水を失った》と呼ぶ。

 同じ一・二センチに、逆向きの名前が付いている。

 巴は上流文の一行目を書く。

《上流は、貯水槽の現在量と、減少させる量を示す》

 下流文には、こう書く。

《下流は、届いた水量と、漏れた水量と、生活へ残った水量を分けて示す》

 紬が両方を見る。

「現在量と、残った量。同じ語へできない?」

「できる」

「しない?」

「上流は、貯めた努力を失う話。下流は、届いても残らない話。『残量』にすれば、同じ数字へ見える」

「数字は同じじゃない」

「言葉が同じだと、人は同じ種類だと思う」

「違う言葉だと、比較できない」

「中央欄へ換算表を置く」

「また紙が増える」

「紙は、水より安い」

 小麦が言った。

「濡れるけどね」

「油紙にする」

「高くなった」

「水よりは」

「病院の水より?」

 巴は黙る。

 小麦が笑う。

「値段って、比べた瞬間に喧嘩になるね」

「価に聞く」

 蔵前価は、食堂の端で腰を立てて座っていた。

 硬性装具はまだ外していない。

 記憶競売で負った第一腰椎の圧迫骨折から、重い物は持たず、長く前屈しない。机の高さを上げ、紙を目へ近づける。

「水と紙の値段?」

 価が言う。

「違う。比較できないものを、どう書く」

「比較しない」

「交渉にならない」

「交換するから、全部同じ尺度にしようとする。交換しない補償を置けばいい」

「例えば」

「上流が水を減らす。その代わりに下流が金を払う、だけだと、水と金を同じ線へ置く。下流が漏水修理班を出す。上流が貯水技術を渡す。商船が空荷便を提供する。病院が船員診療枠を出す。全部、同じ値段にしない」

「価が値札を使わない」

「腰が痛いからね」

「能力の話」

「使わなくても値段は付く。使うと、付いた値段が見えすぎる」

「便利なのに」

「便利なものは、いつも使うと仕事を食べる」

 価は、紙を一枚指で押した。

「補償欄を、金銭、労働、技術、輸送、医療へ分ける。合計欄は作らない」

「合計がないと、釣り合いを確認できない」

 紬が言う。

「何と何が釣り合えばいいの」

「双方の負担」

「水がなくなって死ぬ負担と、工場を止めて賃金を失う負担を、同じ数字にできる?」

「できない」

「なら、できないと書く」

「交渉人が、釣り合いを諦めるの」

「釣り合っているふりを諦める」

 価は腰を浮かせかけ、顔をしかめた。

 イオが椅子を引く。

「立たない」

「命令?」

「観察」

「元能力者は、他人の身体へ詳しいね」

「自分の身体を見誤った回数が多い」

「それは医師より信用できる?」

「できない。だから、医師の指示書も読む」

 価は座り直した。

 イオは量水器の補正表を卓へ置く。

「上流の計器と下流の計器、基準面が違う」

「どれくらい」

「一番大きいので十四センチ」

 紬が顔を上げる。

「十四」

「同じ水位でも、表示が違う。下流は船底基準、上流は堤頂基準。中央の古い表が、両方を同じ零点へ換算していた」

「間違い?」

「換算式は合ってる。でも、下流では船が傾くと船底基準が変わる。上流では堤が沈下してる。固定値で直すと、両方ずれる」

「では、水位の共通表示は」

「三つにする。現地表示、換算値、誤差幅」

「また増える」

 紬が呟く。

 巴は中央欄へ書く。

《水位は、現地表示、換算値、誤差幅を併記する》

「今のを、全部の文へ」

「中央欄だけ」

「上流と下流が同じ数字を見られる」

「同じ数字と、違う測り方を見られる」

 巴は、ようやく少し笑った。

「それなら、同じにしていい」

 紬が不満そうに言う。

「私の案が全部悪いみたい」

「全部悪い人は、文章が短くて済む」

「どう書く」

《悪い》

「一文字」

「二文字」

「そういうところ」

「どこ」

「軽く見える」

「重い話を重く言うと、持てない人が出る」

「軽く言うと、傷つく人もいる」

「だから、相手に直してもらう」

 巴は、下流代表へ草案を渡した。

 上流代表にも、別の草案を渡す。

 商船組合へ付属文。

 病院船へ付属文。

 配布するだけではない。

 それぞれの卓へ、相手側文面も置く。

 上流卓には下流文がある。

 下流卓には上流文がある。

 商船卓には病院文。

 病院卓には商船文。

 閲覧時間は二時間。

 返答時間ではない。

 異議を書き、質問を出し、分からない語へ印を付ける時間だ。

「二時間で足りるか」

 朝が黒い杖を椅子へ立てかけた。

「足りない」

 巴が答える。

「なら四時間」

「水位が持たない」

「二時間で分かったことだけを決める?」

「分からないことを、分からないまま残す」

「行政は、それを嫌う」

「人間は好き?」

「もっと嫌う」

「朝は」

「以前は、空欄を見ると埋めたかった」

「今は」

「誰が埋める権利を持つか、先に書きたい」

「長くなった」

「怪我をすると、歩くのも文章も長くなる」

 朝は杖を取り、立ち上がる。

 水門階段へ行こうとはしない。

「私は上流卓へ行く。階段は使わない。船を出して」

「中央から来た人が、上流へ」

 紬が言う。

「下流へ行くと、下流を標準にしたと思われる」

「上流ならいい?」

「どちらでも言われる。だから、今は上流の質問を受ける」

「下流は」

「紬」

「私?」

「両岸へ同じ説明をするのをやめたんでしょ」

「やめたとは言ってない」

「まだ?」

「同じ説明が必要な時もある」

「今は」

 紬は下流文を見る。

 上流文を見る。

「違う質問を受ける」

「それで」

「巴は」

「ここに残る」

「安全な中央?」

「一番怒鳴られる中央」

「好きなの」

「料金に入ってる」

 折部翼が、入口へ立っていた。

 義足の足音が、浮床へ一拍遅れて響く。

 彼は三色の札を持っている。

 受取。

 保留。

 返送。

「質問札、七十三枚」

「早い」

「急いで運んだ」

「同意?」

「配達」

「成功?」

「到着は五十二。受取拒否九。保留八。返送四」

「合計七十三」

「到着だけを成功と呼ぶなら、五十二。拒否と保留と返送を、正しい宛先へ届けた仕事として数えるなら、七十三」

「料金は」

「同じ」

「返送にも」

「返される方が、往復だから高くしたい」

「してない?」

「今は実験中」

「何の」

「拒否を安く扱わない実験」

 折部は、四枚の返送札を巴へ渡す。

 一枚は、上流から下流へ。

《病院優先枠の理由が不明。説明なき優先は受け取らない》

 一枚は、下流から上流へ。

《貯水努力の公開範囲が広すぎる。住戸別数量を拒否》

 一枚は、商船から病院へ。

《船員診療枠を補償として数えることに異議》

 一枚は、病院から商船へ。

《医療を対価へ置く表現を拒否》

 巴は四枚を並べた。

「全部、正しい」

 紬が言う。

「全部、相手から見れば困る」

「正しいことは、困らない?」

「正しいことほど、誰かの予定を壊す」

「名言?」

「今のは、撮っていい」

 七瀬が言う。

「もう撮ってる」

「ずるい」

「二度目」

 巴は、病院付属文から《提供する診療枠》を消した。

 代わりに書く。

《商船が失う診療時間を、病院は別枠で確保する。これは水の代金ではない》

 商船付属文から《診療を受け取る》を消す。

《商船は医療船の部品を優先輸送する。これは診療の購入ではない》

「別々に書くと、交換が見えなくなる」

 紬が指摘する。

「交換じゃないから」

「同時に約束する」

「同時に約束しても、片方が対価とは限らない」

「片方が破られたら」

「もう片方を自動停止しない。別々に審理する」

「強制力が弱い」

「医療を人質にしない」

「商船は、守る理由を失う」

「理由を相手の身体へ置かない」

 病院付属文では、《必要》という語が最後まで揉めた。

 病院側は、必要を医療者が決めると言う。

 商船側は、必要と書けば上限がなくなると言う。

 巴は二人へ、同じ質問をした。

「水が一杯しかない時、何へ使う」

 病院代表は答える。

「透析の洗浄」

 商船代表は答える。

「航行中の脱水者」

「どちらが必要?」

「両方」

「一杯しかない」

「患者の重症度」

「船員の状態」

「知らない」

「なら決められない」

 巴は用紙へ、《必要量を先に固定しない》と書きかけた。

 病院代表が止める。

「固定しなければ、毎回交渉で患者が待つ」

「では、通常必要量と、緊急追加量を分ける」

「通常は」

「過去七日の患者数と処置量。緊急は、医療者二人の確認で先に使い、後から水量確認」

「後から否定されたら」

「使った水は戻らない。判断責任だけ残る」

「罰せられるなら、誰も使わない」

「罰を自動にしない」

「曖昧」

「命を待たせないための曖昧」

 商船代表は、すぐには同意しない。

 だが、自分の船でも、火災時に許可を待たず水を使うことを思い出した。

「緊急追加は認める。船も同じ」

「同じ?」

 紬が反応する。

「条件は別に書く」

 商船代表が先に言った。

 巴は少し笑い、病院文と商船文へ、別々の緊急使用欄を作った。

 紬は、長く黙った。

「私の能力は」

 巴は待つ。

「片方が禁じられたら、もう片方も禁じる」

「知ってる」

「破った時も、同じ処置」

「便利」

「今、悪口に聞こえる」

「便利は、悪口じゃない」

「いつも使うと仕事を食べる?」

「価の言葉」

「借りた」

「料金を払って」

「言葉にも」

「特に言葉へ」

 巴は右手を布の上から持ち上げた。

 人差し指は、完全には伸びない。

 誓痕を使えば、同意されていない文章を一度だけ止められる。

 だが、今止めるべき一枚はない。

 上流文も下流文も、まだ草案だ。

 読めない者を置き去りにして発効しようとしているわけではない。

 むしろ、読まれている途中だ。

 能力で止めるより、返送札を受け取る方が仕事になる。

「使わないの」

 紬が尋ねる。

「今は」

「私と同じ」

「違う」

「なぜ」

「私は、使う必要が来たら使う」

「私は、使いたくても使わない?」

「それは紬が決める」

「冷たい」

「他人の決断を代わりに言わないだけ」

「それを冷たいと言う」

「受領」

 紬が青緑布を巴へ投げた。

 巴は受け損ねた。

 布が粥の鍋へ入りかけ、小麦が柄杓で止める。

「食べ物へ交渉を投げない」

「ごめん」

「布を洗う水、誰が払う?」

 紬と巴が、同時に黙る。