第542話 第五章「船上の乱闘」後編
引くだけでは、最上流船を水門壁へ寄せる。
船頭は小船の舳先を下流へ向け、斜めの力を作った。
「迅、持つな!」
「引けと言っただろ!」
「引いて、放せ!」
「矛盾してる!」
「船は矛盾で曲がる!」
迅は一度引き、すぐ放す。
凱も腰帯から索を外す。
新しい索が水面へ落ちる。
最上流船は自由になる。
自由になった船は、下流へ流れた。
水門壁を避ける。
しかし、船首が干上がった砂州へ乗り上げた。
船体が右へ傾く。
積荷が一斉に動く。
「座礁!」
「船底、裂けるぞ!」
「全員、荷を下流側へ!」
「違う、上流側へ戻せ!」
命令が交差する。
迅は船頭を見る。
船頭は、座礁船の喫水線を一度見た。
「人を左舷へ。荷は動かすな。今動かせば底を擦る」
「聞こえた!」
迅が叫ぶ。
「人だけ左舷! 荷は触るな!」
「おまえに命令される筋合いは――」
「船頭の命令だ!」
「なら船頭が言え!」
「声が小さい!」
「おまえが大きすぎる!」
それでも、人は動いた。
商船側も、小船側も、病院船の作業員も、同じ座礁船へ寄る。
敵味方という言葉は、水へ落ちた人間の口から先に消える。
一人が船尾から滑った。
由良の赤索が飛ぶ。
右膝を深く曲げず、甲板へ低く座ったまま投げている。長く滑空しない。索の輪だけが水面を走る。
「腕を入れろ!」
落水者が輪をつかむ。
由良は引かない。
「そっちの三人、引いて!」
商船の船員三人が、自分たちの仲間を引き上げる。
由良は索を渡し、膝を押さえた。
「自分で助けないのか」
迅が言う。
「助けた。引く仕事は渡した」
「格好よくない」
「格好は、膝を治さない」
座礁船の甲板で、木箱が一つ割れた。
銅軸ではない。
紙束だった。
水門ごとの運航記録。
船底修理の請求書。
漏水報告。
上流放流の時刻。
濡れた紙が、豆と一緒に水面へ流れる。
「拾え!」
迅が手を伸ばす。
商船の男が、その腕をつかんだ。
「荷札より人が先だろ!」
「今、人は数えた!」
「数えたから終わりか!」
「終わってない。だから、そっちが人、俺が紙!」
「紙を証拠にする気か!」
「水を止めた理由にする」
「同じだ!」
「違う。証拠なら、返せる」
男は腕を離さない。
迅も引かない。
その間に、凱が小船から長い網を差し出した。
「二人とも、口論は後にしろ。紙が先に逃げている」
「王みたいに言うな!」
商船の男が怒鳴る。
「もう王ではない」
「余計むかつく!」
「それは、肩書が原因ではなさそうだ」
網が水面をすくう。
濡れた紙束が入る。
迅と男は同時に手を伸ばした。
「半分ずつ持つ」
凱が言う。
「紙を破る気か」
「所有ではなく、乾かす責任を半分ずつ」
「言い方が役所だ!」
「最近、役所にいた」
商船の男は舌打ちした。
それでも網の片側を持った。
座礁船の浸水はなかった。
船底は砂州へ乗り上げただけで、裂けていない。
落水者二人。
打撲四人。
裂傷一人。
行方不明なし。
破損した荷は、乾燥豆八箱のうち二箱。
石灰袋六袋。
紙記録十一束。
濾過膜と銅軸は無事だった。
数字を数える間にも、商船六隻の占拠は続いている。
だが、一隻は座礁した。
壁は五隻になった。
商船側は、座礁船を救うために水門を少し開けたい。
下流側は、急流で設備が壊れるため開けたくない。
病院船は、濾過膜が届かなければ今夜の洗浄能力が落ちる。
正しい理由が、同時に三つあった。
「水門を七寸」
占拠船の船員が言う。
「三寸」
下流の船頭が返す。
「七でなければ座礁船が動かない」
「七なら下の継ぎ目が割れる」
「証拠は」
「水音を聞け」
「数字で言え!」
「水は数字だけで漏れない!」
紬が酸素袋を外した。
「紙を」
迅と商船の男が、濡れた記録を運ぶ。
巴が、船上の簡易机へ一枚ずつ広げた。
価は腰の装具を締め直し、しゃがまずに紙の番号だけを読む。重量物は持たない。濡れた紙一枚でも、何度も屈めば腰は同じ場所を削る。
イオは量水器の横で、手動ポンプを回した。
「これ、下流側の漏水報告」
「何年分」
「三年。月別」
「放流時刻は」
「別束」
「重ねられる?」
「乾けば」
「今」
「透かす」
七瀬が撮影機を固定台へ置いた。
左肩を上げず、透過板の下から紙を照らす。
濡れた頁が重なる。
上流の放流時刻。
下流の漏水量。
商船の船底修理請求。
三つの線が、同じ日に跳ねていた。
「これ」
イオが指す。
「放流の翌日に、下流漏水が増えてる」
「下流が弁を閉め忘れた日だ」
上流の設備係が言う。
「毎回?」
「……毎回ではない」
「何回」
「九回のうち、六回」
「残り三回は」
「下流の継ぎ目不良」
「六回は」
「放流衝撃の可能性」
言葉が、甲板の上へ落ちた。
下流の怠慢だけではない。
上流の悪意だけでもない。
上流設備は、貯水槽を守るため短時間に放流していた。
その急な圧力変化が、下流の古い接合部を傷める。
傷んだ接合部を、下流は修理し切れていない。
商船は、急な水位変化で船底を擦り、修理費を上乗せしていた。
一つの漏水に、三つの仕事が絡んでいる。
「七寸開ければ」
イオが量水器を見る。
「座礁船は動く。でも、今の下流管へ衝撃が行く」
「三寸なら」
「船は動かない」
「五寸」
「開け方次第」
商船の男が笑った。
「結局、間を取るのか」
紬は首を振る。
「同じ時間、五寸ではない」
「何だ」
「最初二寸。水位柱が一本上がるまで待つ。次に一寸。下流の継ぎ目圧を読む。上げられるなら、もう二寸」
「遅い」
「遅い」
紬は認めた。
「だが、遅いことを一つの負担として書く」
「誰の」
「商船の」
「下流は得をする」
「下流は、修理班を今出す」
「上流は」
「放流を段階化する」
「病院は」
「濾過膜を先に受け取る。その代わり、空荷で帰る船へ洗浄済み容器を積む」
「全部、別じゃないか」
「別だから」
紬は、青緑布の端を握った。
「同じにしない」
商船の男は、すぐには同意しない。
上流設備係も、下流船頭も、病院作業員も黙っている。
凱が尋ねた。
「拒否する者は」
「いる」
紬が答える。
「保留は」
「いる」
「今、動かす船は」
座礁船の船頭が手を上げた。
「俺は動かしたい。荷を守るためじゃない。船底が砂へ食い込む前に」
「下流修理班は」
古い継ぎ目の持ち主が手を上げる。
「二寸なら、読む。三寸目は、こっちが止めると言ったら止めろ」
「上流設備は」
「段階放流を試す。成功したら恒久手順にするとは言ってない」
「病院は」
「膜だけ先に受け取る。船を通せないなら、索で渡せ」
合意ではない。
同じ場で、異なる条件が一度だけ重なった。
濡れた記録を乾かす場所にも、争いが起きた。
上流側は貯水塔の乾燥室を使える。
下流側には、日陰の船室しかない。
「同じ数の紙を、同じ時間乾かす」
商船の帳場係が提案する。
「下流の方が乾かない」
七瀬が言う。
「また非対称か」
「設備が違う」
「上流へ全部持っていけば」
「原本を相手側へ預けることになる」
「信用しない?」
「信用と保管は別」
最終的に、上流乾燥室は温風だけを送る。
紙そのものは中立船の網棚へ置く。
下流側は、船室の除湿布を提供する。
商船側は、頁を一枚ずつ返す番号係を出す。
三者がいなければ乾燥作業を始めない。
「紙一束に、三人」
迅が呆れる。
「拳一つに七歩より少ない」
七瀬が返す。
「比較がおかしい」
「迅が言う?」
乾燥中、溶けた一束の間から、赤い糸だけが残った。
頁を綴じていた糸だ。
内容は読めない。
だが、何頁あったかは糸の結び目から推定できる。
紬が結び目を数え、帳場係が保管冊数と照合する。
「十一頁」
「目録は十二」
「一頁、以前から欠けてた」
「誰が抜いた」
「分からない」
「占拠前?」
「それも分からない」
欠けた一頁は、今回の乱闘で失われたことにされなかった。
《欠落時期不明》という欄が新しく作られる。
迅は、読めない紙より、分からないと書く作業の方が長いことを知った。
座礁船を外した後、商船側は負傷者を自分たちの船室へ戻そうとした。
病院船の作業員が止める。
「頭を打った二人は診る」
「診療を交渉材料にするな」
商船の男が返す。
「材料にしてない。眼振がある」
「無料か」
「診察は必要。支払い方法は後で決める」
「後で高く請求する」
「料金表を先に出す」
小麦が、濡れた甲板へ板を置いた。
「治療を受けるか、断るか、今は保留するか。食べるか、食べないか。別々に聞く」
「食事まで混ぜるな」
「混ぜないから聞いてる」
頭を打った船員は、診察を受け、食事は断った。
前腕を切った船員は、止血だけ受け、病院船への移動を拒否した。
落水した一人は、温かい粥を二杯受け取り、名前の公開を拒んだ。
受けたものが違う。
拒んだものも違う。
商船側は、負傷者全員を《病院へ保護された》とは数えない。
病院側も、《治療拒否》の一行でまとめない。
迅は、頬を殴った船員の向かいへ座った。
「まだ殴りたい?」
「おまえは」
「今は、座りたい」
「質問に答えろ」
「殴られた理由は分かった」
「納得した?」
「違う。分かった」
「同じだ」
「納得したら、次も受けることになる」
「受けないのか」
「次は避ける」
船員は少し笑い、すぐ顔をしかめた。
「占拠をやめろと言いに来たんだろ」
「水門を壊さず、病院の荷を通し、船員の賃金が消えない方法を作る」
「多い」
「一つにすると、どれかが消える」
「おまえらは、いつも紙を増やす」
「俺は紙を書かない」
「だから余計むかつく」
「受領」
「それは紬のだ」
「借りた」
負傷者の確認が終わると、濡れた荷の目録が作られた。
乾燥豆二箱は食用不可。
ただし飼料への転用可否を後日検査。
石灰六袋のうち二袋は水を吸って発熱しているため、甲板上で隔離。
紙記録十一束は、七束が判読可、三束が部分判読、一束が溶解。
溶けた一束を《失われた》だけで終わらせない。束番号、頁数、保管者、濡れた時刻を記す。
「失った紙へ、そこまで書く?」
商船の帳場係が言う。
「無かったことにすると、都合のいい頁だけ失ったと思われる」
七瀬が答える。
「本当に都合の悪い頁だったら」
「それも分からないと書く」
「役に立たない」
「分からないものを分かることにしない役」
帳場係は、溶けた束の番号を自分で書いた。
その横に、占拠開始から賃金が支払われていない船員二十六人の人数も書く。
「これも漏水目録へ?」
「水の漏れじゃない」
価が言う。
「賃金の漏れ」
「冗談?」
「半分」
「残り半分は」
「運航を止める案に、待機賃金がなければ、占拠はまた起きる」
商船側の正当な事情は、乱闘の免責にならない。
乱闘の責任も、賃金を消す理由にはならない。
二つの欄が、同じ紙の上下へ置かれた。
水門は二寸開いた。
水が流れる。
座礁船は動かない。
下流の量水器が一段上がる。
五分待つ。
三寸目。
継ぎ目の圧が上がる。
「止めろ!」
下流修理班が叫ぶ。
上流側が手動鎖を止めた。
止まった。
命令ではなく、相手側の拒否で。
十分後、修理班が仮帯を巻く。
四寸目。
座礁船の船尾が浮く。
五寸目は、開けなかった。
商船の船員たちが棹で押し、由良の赤索を使い、凱が小船を重りにして角度を変えた。
座礁船が砂州から外れる。
誰も勝鬨を上げない。
濾過膜は索で病院側へ渡された。
乾燥豆の一部は水へ沈んだ。
商船の占拠は終わっていない。
水門も全面開放されていない。
破損した乾燥豆二箱の代金を、誰が負うかでも揉めた。
「水門を勝手に開けた側」
下流代表が言う。
「迅が船員を引いた時、箱が動いた」
商船の帳場係が返す。
「短棒が荷締め帯へ引っかかった」
「最初に攻撃したのは船員」
「小船が接舷した」
原因は一つではない。
価は箱ごとに、荷締め不良、乱闘、急流、接舷の割合を試算しようとして止めた。
「細かく分けても、証拠が足りない」
「では半分ずつ」
紬が言う。
「対称だから?」
「言ってみただけ」
「自覚的に悪い」
最終的に、商船組合が荷締め不良分、占拠参加者が乱闘分、交渉側が無許可接舷分、水門管理側が急流分を負う。割合は確定せず、仮払いを四分割する。
誰か一人へ請求を集めて終わらせない。
迅も、自分の名を支払者欄へ書いた。
「殴ってないのに」
凱が言う。
「乗り込んだ」
「善意だった」
「箱は善意を知らない」
迅は、次の戦いで荷締め帯を見る癖を一つ増やした。
迅は、帰りの小船で船頭に棹を持たされた。
「罰?」
「教育」
「高い?」
「落ちたら命」
「料金の話」
「命より安い」
船頭は、舳先ではなく水面の泡を見るよう教えた。
泡が右へ流れていても、船体は左へ滑ることがある。風と流れと係留索が、別の方向へ引くからだ。
「相手だけ見て殴るな」
「船の話?」
「喧嘩も」
「船頭が格闘を語る」
「おまえが船で格闘をした」
迅が棹を突く。
力を入れすぎ、小船が回る。
凱が椅子ごと船尾へ滑った。
「迅」
「何だ」
「王を退いた後、初めておまえに殺されるかと思った」
「まだ生きてる」
「評価基準が低い」
船頭が迅の手から棹を取る。
「七歩より先に、一回止まれ」
「船では」
「陸でも」
迅は反論しなかった。
操舵輪を奪わないと決めることは、相手を信用したという意味ではない。
自分が操れないものへ、勝手に責任者のふりをしないという意味だった。
迅は、濡れた甲板へ座った。
「七歩、使わなかったね」
七瀬が言う。
「使えなかった」
「同じ?」
「違う。使わなかったと言うと、格好いい」
「本当は」
「船に負けた」
船頭が横から言う。
「やっと分かったか」
「次は勝つ」
「海に?」
「船頭に」
「乗せない」
迅は濡れた紙束を見る。
漏水目録は、まだ半分しか読めない。
だが、破れた頁の間から、同じ日付が六つ見えていた。
上流の放流。
下流の漏水。
商船の修理。
三つの記録は、同じ紙へは書かれていなかった。
それでも、水に濡れたことで、初めて同じ机へ並んだ。