第541話 第五章「船上の乱闘」前編

船の上では、地面が先に嘘をつく。

 右へ傾いたと思った瞬間には、もう左へ戻ろうとしている。

 戻る力を信用すると、次の波がそれを裏切る。

 迅は、そういう場所が嫌いだった。

 嫌いというのは、殴れないという意味ではない。

 殴る前に、自分の足がどこへいるのか分からないという意味だ。

 第二水門へ向かう小船は、貨物船六隻が作った壁の手前で、斜めに揺れていた。

 迅は船首に立ち、右足を半歩引く。

 船頭が棹で彼の脛を叩いた。

「数えるな」

「まだ一歩」

「それを数えるなと言った」

「歩数を数えないと、俺はただの殴る人になる」

「今は、ただの荷物だ」

「評価が低い」

「荷物は落とせば済む。おまえは落としたら拾う手間が要る」

 凱が、船尾の低い椅子へ座ったまま笑う。

「迅。船上では王より荷物の方が上らしい」

「おまえは何扱いだ」

「膝の悪い重り」

「用途があるだけ、俺より上だな」

 船頭は二人を振り返らない。

「しゃべるなら、揺れを読む声にしろ」

「どう読む」

「私が短く言う。『来る』で膝を抜け。『返る』で立て。『沈む』で何かへつかまれ」

「何かって」

「私以外」

「明確だ」

 迅は欄干へ左手を添える。

 右掌の傷は閉じていた。

 それでも環指と小指には、細い痺れが残っている。乾いた陸なら無視できる程度のものだが、濡れた木では、指一本分の弱さが手全体の嘘になる。

 貨物船の側面から、鉤付きの棹が伸びた。

「止まれ!」

 船員が叫ぶ。

「交渉船以外は入れるな!」

「交渉人を運んでいる」

 船頭が答える。

「どこに!」

「酸素を吸ってる」

 後ろの別船で、紬が青緑布を口元から外した。まだ顔色は白い。右肺の癒着が引き起こす呼吸苦は、敵を選ばない。正しい船にも、間違った船にも、同じように来る。

「私はいる」

 紬が声を出す。

「迅と凱は、交渉人じゃない!」

「知ってる」

 迅が返す。

「俺も驚いてる」

「帰れ!」

「船頭が帰らない」

「客のせいにするな」

 船頭が言った。

 水門塔の上で、鎖が軋む。

 六隻の貨物船は、横並びのまま完全には止まっていない。一番上流側の船が押され、二番目が受け、三番目へ力を渡す。鎖でつないだ同じ壁でも、船体の重さも積荷も喫水も違う。

 一番軽い船が、一番強く振られている。

 迅は、その揺れを見た。

「船頭」

「何だ」

「右から三隻目、船尾の索が短い」

「見れば分かる」

「切ればほどける」

「切るな」

「なぜ」

「短い索だけ切れば、四隻目へ横腹が当たる。あっちの荷は硝子瓶だ」

「じゃあ、どうする」

「切り替える」

「同じだろ」

「陸の人間は、外すことと替えることを同じにするから困る」

 船頭は小船を横へ流した。

「迅。操舵輪を見るな。船尾の係留索を見る」

「輪を取った方が早い」

「取れば、おまえが六隻を操る責任を持つ」

「無理だ」

「だから取るな」

 言葉は短い。

 短いが、逃げ道がない。

 敵の手から武器を奪うことと、敵の仕事を奪うことは、似ている。どちらも相手の手を空にする。

 空になった手へ、誰が次の責任を置くかが違う。

「来る!」

 船頭が叫んだ。

 迅は膝を抜く。

 上流から流木が来た。

 貨物船の間へ挟まり、六隻の壁を一度だけ持ち上げる。

「返る!」

 迅が立つ。

 小船は貨物船の舷側へ近づいた。

 鉤付きの棹が顔を狙う。

 迅は左前腕で棹を受けた。

 受けると言っても、止めない。

 棹の先を船尾へ流し、船員の身体を前へ引く。船員が踏ん張る。甲板が右へ傾く。迅の足下も同時に左へ落ちる。

 地面なら、相手の重心だけを見ればよい。

 船では、相手の重心と、自分の重心と、両方が乗る板の重心が別々に動く。

 迅は一歩を踏まなかった。

 棹へ腕を巻き、相手の手首だけを欄干の外へ出す。

「離せ!」

「そっちが」

「おまえがつかんだ!」

「順番は、たぶんそっち」

「たぶんで戦うな!」

「船だから」

 船頭が小船をぶつけた。

 乾いた音がした。

 迅は舷側へ飛び移るのではなく、膝を着いて這い上がった。

 格好は悪い。

 落ちない。

 凱も続こうとしたが、船頭が胸へ棹を当てた。

「おまえは残れ」

「理由を聞いても」

「左膝」

「短い」

「理由は長ければ正しいのか」

「耳が痛い」

「膝を使え」

 凱は椅子へ戻った。

「迅。一人で格好悪く行け」

「応援の言葉に聞こえない」

「落ちたら笑う」

「救えよ」

「順番はその後だ」

 貨物船の甲板には、濡れた木箱が四列に積まれていた。

 水門用の銅軸。

 病院船の濾過膜。

 乾燥豆。

 石灰。

 商船組合が水門を占拠している。

 同時に、占拠した船が運んでいるものが止まれば、水門も病院も止まる。

 正しさは、荷札ごとに違った。

「輪へ近づくな!」

 船員三人が、迅を囲む。

 一人は短棒。

 一人は荷鉤。

 一人は素手だ。

 素手の者が一番厄介だった。

 船に慣れている。

 足裏を板へ貼りつけるのではなく、板の戻りへ身体を預けている。迅の肩の動きを見ず、船体の傾きから次の位置を読む。

「俺は輪を取らない」

「信用すると思うか」

「思わない。だから、言うだけ」

「何をしに来た」

「短い索を長い索へ替える」

「勝手に触るな!」

「沈む!」

 遠くから船頭の声がした。

 甲板が落ちる。

 三人が同時に膝を曲げる。

 迅は遅れた。

 右足が浮く。

 素手の船員が胸を押す。

 迅の背中が木箱へ当たった。

 濾過膜の箱が一つ、二センチずれる。

 迅は反撃せず、箱を両腕で受けた。

「荷を先に守るのか」

「おまえらの理由だから」

「だから奪う気か!」

「理由は奪えない」

 短棒が来る。

 迅は箱を抱えたまま身を低くし、棒を肩の上へ通す。棒の先が荷締め帯へ引っかかった。

 帯が鳴る。

 箱列が一斉に左へ寄る。

「返る!」

 船頭の声。

 甲板が戻る。

 迅は箱を押し返す。

 船員三人も同じ箱を押した。

 四人の力で、荷は元の位置へ戻った。

 一秒後、また殴り合う。

 迅は素手の船員の手首を取った。

 船員は肘を抜く。

 迅は追わず、相手の腰帯へ結ばれた短索を引いた。船員の身体が止まる。倒さない。甲板中央から二歩だけ外す。

 短棒が迅の右肩へ当たる。

 痛みが骨へ抜けた。

 右手の痺れが増す。

 七歩を取れば、殴れる。

 一歩目の暴力は、短棒だ。

 二歩目は、荷鉤だ。

 三歩目は、素手の押しだ。

 だが船は動く。

 自分が退いた距離なのか、甲板が進んだ距離なのか、境界がない。

 七退一還の条件は、敵の暴力を七度受けて退くことだ。

 揺れる船体まで敵に数えれば、海を殴ることになる。

「数えるな!」

 船頭の声が届く。

 迅は、四歩目を捨てた。

 代わりに短棒を右脇で挟み、船員の手から抜かないまま、棒の向きを甲板と平行へ変える。

「何を――」

「船頭に従ってる」

「うちの船頭じゃない!」

「俺のでもない」

 荷鉤が足首へ来る。

 迅は跳ばず、甲板へ座り込んだ。

 鉤が脛の上を通る。

 そのまま腰を回し、荷鉤の柄を短い索の下へ差し込む。

「今だ!」

 迅が叫ぶ。

「何が!」

 誰も分からない。

 船頭だけが分かった。

 小船から新しい係留索が投げられた。

 凱が座ったまま受け取り、輪を作る。

「これは俺の仕事か」

「膝を使わない重りの仕事!」

「昇格した」

 凱は新しい索を水面へ滑らせた。

 迅は荷鉤を梃子にして、短い索の張力を一瞬だけ抜く。

 切らない。

 外さない。

 新しい索を先に掛け、荷重を移してから、古い索をほどく。

 素手の船員が迅の襟をつかんだ。

「勝手に替えるな!」

「替えなければ、次の波で四隻目へ当たる」

「分かってる!」

「じゃあ、なぜ」

「替える人手がいない!」

 言葉が、拳より先に当たった。

 占拠に参加している船員は、運航していない。

 荷役もできない。

 交代要員は少ない。

 水門を止めるために船を並べた結果、船を安全に並べ続ける人手が足りない。

「手伝え」

 迅が言う。

「命令するな」

「頼む」

「今さら」

「今だから」

 素手の船員は、迅の襟を離した。

 次の波で甲板が沈む。

 四人は同時に新しい索を引く。

 古い索がほどける。

 六隻の壁が、少しだけ呼吸した。

 その瞬間、水門塔で金属音がした。

 誰かが手動鎖を引いた。

「開けるぞ!」

 上流側の船から声が飛ぶ。

「止めろ!」

 占拠船の船員も叫ぶ。

 商船組合は一枚岩ではなかった。

 水を通したい者。

 占拠を続けたい者。

 病院の荷を先に渡したい者。

 このままでは賃金が消える者。

 一つの組合旗の下で、別々の期限が迫っている。

 水門が、六センチ開いた。

 水が噴いた。

 細い流れではない。

 貯められていた上流水位が、狭い隙間へ一度に押し寄せた。

 最上流側の一隻が横へ振られる。

 新しい索へ荷重が集中する。

「切れ!」

 誰かが叫ぶ。

「切るな!」

 船頭が叫ぶ。

 両方が正しい。

 切らなければ、小船まで引き込まれる。

 切れば、最上流船が水門壁へ横腹を打つ。

「荷を捨てろ!」

「銅軸だぞ!」

「人が先だ!」

「銅軸がなければ、来週、人が死ぬ!」

 迅は舷側へ走ろうとした。

 船頭が叫ぶ。

「走るな! 来る!」

 迅は足を止め、膝を抜く。

 波が来る。

 甲板の上を、箱が一つ滑った。

 乾燥豆の木箱だ。

 船員が箱を追う。

 迅は船員を追う。

 箱ではなく、人の腰帯をつかむ。

 右手の環指と小指が開く。

 左手だけで引いた。

 船員の身体は戻る。

 木箱は欄干へ当たり、蓋が割れた。

 豆が水面へ散る。

「荷が!」

「人はいる」

「両方守れ!」

「今、片方だった」

 船員は迅を殴った。

 拳が頬へ入る。

 迅は殴り返さない。

「それは、今いるか」

「いる!」

「なら受けた」

「むかつく受け方をするな!」

 最上流船の船尾が持ち上がった。

 係留索が悲鳴を上げる。

 新しい索の輪が、凱の手元から滑る。

 凱は左膝を立てない。座ったまま身体を後ろへ倒し、索を腰帯へ回した。

「迅!」

「分かってる!」

 迅は貨物船の甲板から小船へ飛ばない。

 水面へ落ちた古い防舷材を踏み、次に小船の舷へ手を掛ける。

 船頭が棹で背中を押した。

「右へ!」

「どっちの右!」

「水門を見て右!」

「最初に言え!」

「今言った!」

 三人で索を引く。